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隣の少女

しばらくすると、白い防護服を着た職員たちが田中の部屋に入り、彼らの遺体を運び出していった。

数名の職員が残り、衣類やシーツなどを回収した後、自動清掃システムが作動を始めた。

部屋の隙間から静かに噴出される霧状の水が、床や壁にこびりついた新鮮な血痕をゆっくりと洗い流していく。

殺菌剤の強い匂いが部屋中に充満し、それは隣室である蓮司の部屋にまで届いていた。

蓮司のベッドの下には引き出しがあり、中には〈クロモノ病〉のガイドブック、短編小説集、この施設での生活マニュアルなどが収められていた。

その隣の引き出しには、個人の身の回り品がきちんと区分けされて入っている。すべて白一色で、徹底的に殺菌処理されたものばかりだ。

使用済みの衣類は部屋の隅に置かれたランドリーバスケットに入れておけば、指定された時間に洗濯用として回収される。

食事は毎日決まった時間に配られるセットメニューで、追加は原則不可。ただし、希望がある場合は、ドア付近の〈伝言箱〉に申し出を書いておけばよい。

伝言箱の隣には、食事が差し込まれる小さな配膳口がある。すべてが徹底管理され、外界との接触はほとんど不可能に近かった。

蓮司がいる部屋は、四方をガラスで囲まれている。ガラスの壁、ガラスの扉。ユニットごとに分けられたその構造により、他の部屋の様子を見渡すことができた。

たとえば、彼の正面にいるのは、赤と青のメッシュを入れた長髪の青年。首元から手首まで続くタトゥーが印象的で、彼の存在を避けている住人は多いようだった。

この施設のすべての部屋には、感染者を24時間監視するための監視カメラが設置されている。

中央制御室のモニターには、誰がどんな症状を示し、誰が変異の兆しを見せているかが一目で分かるようになっていた。

夜が深まると、蓮司は部屋の前を通過していく亡骸を見つめていた。

それは小柄な者もいれば、大柄な者もいた。男女問わず。

大柄すぎて職員が担げない場合には、床を引きずられて運ばれていく。

そのたびに、血の痕が長く伸び、濃厚な鉄の匂いがこの階全体に漂っていた。

「クロモノ病の患者って、こんなに多いのか……」

蓮司はぽつりと呟きながら、鼻を手で覆った。

血の匂いに胃が反応し、思わず吐き気を感じてしまう。

「免疫を持ってない人も……けっこう多いみたいだな」

目の前の光景に、蓮司はふと自分のことを想像してしまった。

もし、いつか自分もああなったらどうする?

もし、自分の体が人間ではない何かに変わってしまったら?

想像の中で、彼の体が裂け、頭部が爆ぜて、巨大なイカのような怪物が現れる。

触手がうごめき、十数個の眼球が頭部のあちこちに開く。

そのうち何本かの触手は鋭利な刃物を握り、狂ったように振り回していた。

鮮血が部屋中に飛び散る。

その瞬間、天井から小型のガトリングガンが突き出てきた。

銃声が響き渡り、息をつく暇もなく彼の体に銃弾が降り注ぐ——。

「やだ……やだ……ゲームのやりすぎかよ……」

蓮司は目を開き、自分を現実へと引き戻した。

「ホタルの家に通いすぎだな……ほんとダメだわ」

寂しげに呟いた後、彼は深くため息をついた。

「俺、あと何日この部屋にいなきゃいけないんだろう……」

蓮司は今の状況に不安を感じずにはいられなかった。

家には帰れないし、ここにいつまで閉じ込められるのかもわからない。

隣の住人も、どうやら友達になりたい様子ではない。

ただ、彼が知っていることが一つあった。

明日、雄平が第一次選抜に出る予定だということ。

彼は蓮司よりも前からこの施設にいたし、どうやらある程度の免疫を持っているらしい。

ガラスの壁越しに見える雄平の様子を見る限りでは、深刻な症状はなさそうだった。

彼の体には軽い発疹がある程度で、少し熱があるように見えるだけだった。

蓮司がぼんやりと考えごとをしていると、足音がだんだんと近づいてきた。

部屋の前で足音が止まると、防護服を着た職員二人が、新たな感染者を連れて建物に入ってきた。

彼らが向かうのは、隣の部屋——以前、田中がいた部屋だ。

そこに連れて来られたのは、肩までの長さの髪を持つ少女だった。

目元には黒いアイマスクが巻かれ、彼女自身、どこに連れてこられているか分かっていないようだった。

両頬を伝う涙の跡が、蓮司の目にもはっきりと映った。

職員たちが彼女をベッドに座らせ、ゆっくりとアイマスクを外すと——

少女は周囲の光景を目にし、声をあげて泣き始めた。

彼女はベッドの上で膝を抱え、まるでこの世界から逃げ隠れようとするかのように縮こまった。

蓮司は立ち上がり、少女との間を隔てるガラス壁のそばに座り込んだ。

彼には、彼女が何を経験してきたのか分からない。だが、その外見からして、中学生くらいの年齢に見える。

そして——その年齢で受け止めるには、あまりにも残酷な何かがあったことだけは分かった。

「大丈夫……?」

蓮司はガラス越しに小さな声で問いかけた。

だが、彼女は何の反応も見せない。

「君がどんな経験をしてきたのかは分からない。でもきっと、とても辛いことだったと思う」

「ここのみんなも、きっと君の気持ちが少しは分かると思うよ」

蓮司は一呼吸おいてから、静かに言葉を続けた。

「蓮司です。よろしくね」

すぐには返事がなかったが、少女の肩がわずかに揺れた。

そしてゆっくりと顔を上げ、蓮司の方を見た。

蓮司は彼女の顔を見ないよう、背を壁に預けている——泣き顔を見せたくない気持ちに気づいていたから。

「美姫……です。よろしく」

彼女は震える声で名乗り、すすり泣きを必死に抑えながら言った。

「——あなたたちも、そうなんでしょう? 最後には、結局……ああなってしまうんだよね」

「えっ……い、いや、違うよ! まだ……そうじゃない、はず……!」

蓮司は思わず振り向き、焦った様子で答えた。

「どうして違うなんて言えるの? 私、父が変わっていくのを目の前で見たんだよ……

 母は、私を守るために父を殺した。……そして母も殺された」

「こんなふうにして、どうして私が……変わらずにいられると思うの?」

その声は震えていた。

恐怖ではない。話すことで胸の奥の痛みを押し出そうとしている、そんな声だった。

「……分かりますよ」

蓮司は目を伏せ、長く息を吐いた。

「そんな酷い出来事……簡単に乗り越えられるものじゃありませんから」

一拍置いて、静かに、でも真っ直ぐに言葉を続ける。

「泣きたいなら、泣けばいいんです。

悲しみが消えるなんて、誰にも言えませんけど……

時間が経てば、少しずつ共に生きていけるようになります。

完全に消えるわけじゃない。痛みが和らいでいくだけ。

……そのうち、慣れていくかもしれませんよ」

「でも……あなたは私みたいに失ってないじゃない」

美姫の声には怒り、哀しみ、そして孤独が滲んでいた。

「いえ、分かりますよ」

蓮司は静かだが力強く答えた。

「ここにいるみんな……誰だって、何かを失ってる。

黒物なんて、誰だってなりたくないし、

毎日死体が運ばれるのを見るなんて、耐えられるものじゃありません」

「僕も見てきました。

部屋の前を通っていく遺体を、何人も何人も……

大切な人が、何の前触れもなく突然いなくなる。

……あれが、どれだけ辛いことか、僕にも分かるつもりです」

「でも、僕たちにはまだ一つだけ残されたものがある。

——それは、自分の命です」

「僕たちは、彼らの最後の希望なんです。

だから……お願いです、生きてください」

蓮司の目が、ほんの少しだけ悲しげに揺れた。

彼は心の奥で、ある人物を思い出していた。

前触れもなく消えたその人は、別れの言葉すら残さなかった。

ただ、一通の短いメッセージだけを彼に遺して——

その一言が、今も彼を生かし続けていた。

「……どうして、ここに来たの?」

美姫の声が蓮司を現実に引き戻した。

少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。

「正直に言えば……僕も分かりません」

蓮司は苦笑しながら答えた。

「突然、記憶喪失になっていて……

覚えてることといえば、残酷な記憶ばかりで」

少し間を置いてから、彼は柔らかく言葉を紡ぐ。

「僕は、色んな人に助けてもらいました。

だからこそ、生きて……その人たちに報いたいんです」

美姫は視線を逸らし、ぽつりと呟いた。

「私は……誰かのために生きるってこと、できるのかな……」

「だって、いつまで人間でいられるかさえ、分からないんだよ……?」

その言葉に、蓮司は一瞬だけ言葉を失った。

しかし、次に彼が顔を上げたとき、

その瞳には確かな光が宿っていた。

「何日だろうと、関係ありません」

彼は穏やかに微笑んだ。

「どれだけ時間が残されてるかなんて、気にしてません。

だって、それは僕たちが決められることじゃない。

でも、息をしている限り……

僕は、その一息で誰かのために何かをしたいと思ってます」

蓮司はまっすぐ美姫の目を見て、微笑む。

「たとえば今みたいに。

あなたとここで話すことで、ほんの少しでも気持ちが楽になれば……

それだけで、十分なんです」

美姫はしばらく黙っていたが、

その唇の端がかすかに上がるのが見えた。

「なんだか……すごく人生経験豊富な人みたいだね」

彼女は小首を傾げて笑う。

「ねえ、あなた……何歳なの?」

「十五歳です」

「えっ、一つ上だけ?

たった一年しか変わらないのに、話し方がまるで定年間近のおじさんだよ、ふふっ」

美姫の笑い声は小さかったが、

その声だけで、部屋の空気がふわっと和らいだ気がした。

悲しみはまだ彼女を離してはいない。

けれど、その心は確実に少しだけ、開かれていた。

そして蓮司は、そんな彼女の隣に——

たとえ話さずとも、泣いている間ずっと、

黙って寄り添っていられるような、そんな「隣人」であろうとしていた。

それから間もなくのことだった。

蓮司の部屋のガラス扉が、静かに開いた。

防護服を着た二人の職員が、音もなく中に入ってくる。

「ご同行願えますか」

それ以上の説明もなく、彼らは蓮司を四方を透明なガラスで囲まれたあの部屋から連れ出した。

どうやら今日は定期健診の日らしい。担当医に会うことになっている。

廊下を歩きながら、蓮司は周囲の部屋に目を向けた。

そこには小さな子どもから、若者、そして高齢者まで、さまざまな年齢の人たちがいた。

「……あの子たちも、抗体があったらミッドナイト兵になるんですか?」

そう問いかけた蓮司に対し、職員の一人が淡々と答える。

「いえ、小さすぎる子どもたちは、まず基礎教育を受けます。

その後、適齢に達してから訓練を経て……

将来的にはミッドナイト兵として配属されることになります」

蓮司は静かに頷いた。

それからは、何も言わずに歩き続けた。

無菌処理が行き届いた診察室の一室で――

コンコン。

「蓮司さんがお見えです。入室よろしいでしょうか?」

扉の外から、控えめな職員の声が聞こえる。

「どうぞ、入ってください。ちょうど待っていたところです」

中から返ってきたのは、どこか優しげな声だった。

蓮司は扉を押して中へ入る。

室内は清潔で簡素な作り。

その奥には、一人の男性医師がパソコンのモニター越しにX線写真を真剣な表情で見つめていた。

彼はすらりと背が高く、淡い茶色の長髪と整えられた薄い髭をたくわえていた。

目元は青みがかった緑で、目の下には寝不足によるくまがある。

白衣を着たその姿は、どこか疲れを隠しながらも親しみやすい雰囲気をまとっていた。

蓮司が入ってきたのを見て、彼はようやくモニターから目を離し、穏やかな笑みを浮かべる。

「今日はどうだった? 体調は? 何か異常は感じた?」

蓮司は目を合わせることなく、黙って小さく首を振った。

「そんなに緊張しないで。リラックス、リラックス」

医師はやわらかく笑う。

「僕はマイケルです。これから君の主治医になるから、よろしくね」

「蓮司です。よろしくお願いします」

「君が目を覚ましてくれて、本当に嬉しいよ。

正直、遺体回収班は驚いて腰を抜かしてたからね」

「……え? 驚いた? どういう意味ですか?」

マイケルは少し眉を上げ、説明を始めた。

「第四段階の感染者が第23区で暴れたという通報が入ってね。

現場では、我々の隊員の遺体が発見された。

それだけじゃない――

そのすぐ近くに、君が倒れていたんだ。呼吸も心拍もなく、完全に“死亡”と判定された状態でね」

「……呼吸、なかったんですか?」

「そう。医学的には、あの時点で君は“死んでいた”」

蓮司は言葉を失った。まるで誰かに喉元を締められたかのように。

「なぜあそこにいた? あの夜、何があったのか教えてくれないか?」

「……よく、わかりません」

声がかすれ、遠くなる。

「ただ……逃げたんです。あの化け物から。職員に助けられて、工場の中へ……それからは……」

記憶が霞む。

断片的な映像が脳裏をよぎる――

鋭い鉄棒が腹部を貫いた。

激痛と、心臓の鼓動。

――ッ!

蓮司は思わずお腹を押さえた。あの痛みが蘇った気がして。

「違う……思い出せません!」

突然叫んだ蓮司の声が診察室に響く。

肩で息をし、瞳を見開く。恐怖が再び襲いかかっていた。

「ごめんね、蓮司くん。あんなことを聞くべきじゃなかった」

マイケルは優しく声をかけた。

「落ち着いて。今、お茶を持ってくるからね」

そう言って席を立ち、すぐに戻ってきた彼の手にはティーカップと小さな茶菓子が。

「実はね、僕たちは君が完全に死んだと思ってたんだ。

脈も心拍も酸素濃度も、すべてゼロ。

火葬の手配までしてた」

「……」

「でも、火葬する直前に――君の体がぴくりと動いた。

そして……生命反応が戻った」

彼は穏やかな目で蓮司を見つめながら続ける。

「医師として、もう一度君の身体と心、そして記憶を調べ直すことになった。

それが、君が“再びここにいる理由”なんだ」

「ありがとうございます……そして、すみません。ご迷惑をおかけして……」

蓮司は深く頭を下げた。

「いやいや、気にしないで。

誰だって、こんなことになるなんて思ってない。仕方ないさ」

マイケルは苦笑しながら言った。

「でもね、これから君の“立場”は変わる。

蓮司くん、君はもう、前の生活には戻れない」

「……」

「家にも、家族の元にも戻れない。

今までの人生は、ここで終わったと思った方がいい」

マイケルの言葉はやさしく、それでいて残酷だった。

「つまり……君は“完全感染者”なんだ。

そして、ここにいる誰もが――もう帰る場所を持たない」

「……わかりました」

蓮司の返事は静かだった。

「もし困ったことがあったら、どんなことでもいい。

僕や、ここのスタッフに相談してね。

直接でも、メッセージボックスでも構わない」

マイケルはにっこりと笑って続けた。

「君にとって、僕が“身内”みたいな存在になれたら嬉しいよ」

「ありがとうございます、マイケル先生……

もし何かあったら、すぐにご相談します」

その声は静かで、少し寂しげだった。

――だが、その瞳の奥には微かな決意が宿り始めていた。



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