黒物
──ここは……どこなんだ?
蓮司は真っ白な世界の中に、ぽつんと立っていた。
その身体もまた、真っ白だった。肌も、髪も、瞳も——まるで色という概念から切り離された存在のように。
彼が身に着けているのは白い患者服。そのままゆっくりと体を回して、周囲を見渡す。
足元には透明な浅い水が広がっており、水位は足首まで届くほど。
その水面は遥か彼方まで途切れることなく、どこまでも続いている。
見上げる空は、これまで彼が見たこともないようなものだった。紫とオレンジが混じり合う銀河、
ミルキーウェイが視界を横切り、流星や彗星が時折その間を通り過ぎる。
彼の周囲は無数の星々で埋め尽くされていた。
そして背後には、巨大な星がひとつ——まるで月のように近くに浮かんでいた。
だがそれは蓮司の知る月ではなかった。色はくすんだブラウンで、まるで死んだ天体のようだった。
(……俺、死んだのか? ここはどこなんだ? 俺は……誰なんだ?)
蓮司の心は混乱していた。記憶が曖昧になっていく。
まるでこの世界そのものが、彼の存在を少しずつ消し去ろうとしているかのように。
何をすればいいのか、どこに向かえばいいのかも分からない。
奇妙な風景の中にあっても、彼の心は微動だにしなかった。
彼はただ、水の中をあてもなく歩き続ける。
思考は空白。疑問さえも浮かばない。
——自分が「誰か」であることすら、霧の中に溶けていく。
(俺は……どこに行けばいい? 俺はどこに向かってるんだ……?)
その問いに、彼自身も答えることはできなかった。
恐怖すら、薄れていく。
その時——
チャポン。
足元から、小さな水音が聞こえた。
蓮司はハッとして下を覗き込む。
水面に映る“自分”——
しかし、その影は自分とはまるで違っていた。
黒い患者服。真っ白な肌。真っ黒な髪。
そして何より、全く白目のない、真っ黒な両目がそこにあった。
(なんで……影が、俺と違うんだ……?)
蓮司はその場に膝をついた。片膝は水に浸かり、もう片方はかろうじて浮いている。
彼は手を伸ばして、水面に触れる。
透明で冷たいはずの水は、不思議なほどに温かかった。
そして硬そうに見える地面も、実際には柔らかく、まるで粘土のようだった。
——まるで、現実世界の理が全て崩壊しているかのように。
(なぜ水がこんなに温かいんだ……? それに、影はどうして……)
思考がそこまで辿り着いたその瞬間だった。
バシャッ!!
先ほどまで静かだった水面から、突然“黒い影”の手が飛び出した。
そのまま蓮司の襟元をガシリと掴む。
蓮司が息を呑んだその刹那——
その“影”が、耳元に冷たい声で囁いた。
「知りたいのなら……自分の目で確かめてみろ」
「……っ!」
驚愕と恐怖に目を見開いた蓮司。
だが、逃げる間もなく、強烈な力で水の中へと引きずり込まれていく。
ザバァッ!!
水飛沫が大きく跳ね上がり、
彼の身体は、音もなく白の世界から消えていった。
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「はっ……!」
蓮司は突然、全身を震わせて飛び起きた。
まるで地獄の底から這い上がってきたばかりのように、息を荒げ、胸を押さえる。
その胸には、ナイフで何度も刺されたかのような鋭い痛みが走り、思わず体を丸めた。
呼吸するのも苦しいほどだった。
「痛っ……なんだこの夢……なんでこんなにリアルなんだよ……」
彼は呟きながら、自分の胸元を見下ろし、そして周囲を見渡した。
そこは真っ白な四角い部屋だった。
床も、壁も、天井も、すべてが清潔な白で覆われていた。
鼻を突くような強烈な消毒液の匂いが充満していて、息をするのも窮屈に感じられる。
「……あ、起きたみたいだな」
左側から男の声が聞こえ、蓮司は反射的にそちらを振り返った。
透明なガラスの向こう側には、白い長袖の患者服を着た中年の男が立っていた。
その姿は確かに患者そのものの格好だが、立ち振る舞いはまるで病人には見えなかった。
ガラスに手をかけ、興味深げにこちらを覗き込むその様子は、まるで世慣れたサラリーマンのようだった。
そのガラスは声だけを通す仕組みで、距離は近くても触れ合うことはできない。
「二日も寝てたんだぜ、知ってたか? お前、何してたらそんなに眠れるんだ?」
「あなたは……誰ですか?」
蓮司は震える声で問い返し、そっと自分の首元を軽く叩いた。
「それに、なんで僕はここにいるんですか?」
「俺は田中っていうんだ」男は淡々と答えた。
「ここは“黒物感染者隔離施設”。お前がここにいるってことは……つまり、感染したってことだ」
「感染……?」蓮司は眉をひそめた。
「僕が? 本当に? いつ、どこで……」
「思い出してみろよ。お前、何してた? どうやって感染したんだ?」
田中の声は冷静だったが、どこか刺すような鋭さを帯びていた。
蓮司は目を閉じ、必死に思い出そうとした。
思い出せるのは、廃工場で何かから逃げていた記憶だけ——
誰か……いや、“感染者”から逃げていた?
その後の記憶は、真っ白だった。
「うっ……痛っ、頭が……!」
激しい頭痛に襲われ、蓮司は両手でこめかみを押さえてうずくまった。
「こりゃ相当やられてるな」田中がぼやいた。
「ここに運ばれてきた時、スタッフが抱えてたんだぞ。ほとんど死人同然だったらしいな。なぁ、雄平?」
田中は部屋の右側を振り返って話しかけた。
蓮司もそちらを見た。
ガラス越しの向こうに、ベッドに寝そべって携帯ゲームに没頭している太った男がいた。
その男は蓮司の存在など気にも留めず、ずっとゲームの画面に夢中だった。
「さあな」
オイダラは画面から目を離さずに答えた。
「俺はもうすぐ変異するような奴とは話さねえよ」
「おいおい、自分が変異しないとでも思ってるのか?」田中は眉をひそめる。
「同じガラスの牢屋に閉じ込められてるくせに、何様のつもりだよ」
だが、雄平は無視を貫いた。
「その新人がいつ“弾ける”か分かったもんじゃねえ。
俺は化け物と話す趣味はねぇんだよ」
蓮司は何も言えずに黙り込んだ。
頭の中は疑問と混乱でいっぱいだった。
その時、ふと目についた。
田中の首元と手首には、赤い発疹が無数に浮き出ていた——
「僕、蓮司といいます。よろしくお願いします」
蓮司は軽く頭を下げながら挨拶した。
「それで……田中さん、僕たちはあとどれくらいここにいなきゃならないか、ご存知ですか?」
「さあな」田中は肩をすくめた。
「俺はここに来てもう三日経つけどな。聞いた話じゃ、一週間隔離されるだけらしい」
「その後は……僕たち、外に出られるんでしょうか?」
蓮司の問いに、別の方向からか細いが鋭い声が割って入った。
右側の部屋からだった。
「出られる? ハッ……俺たちみたいな病気持ちが、撃ち殺されずに済んだだけでも運がいいってもんだろ」
雄平はベッドに寝転んだまま、携帯ゲームの操作を続けていた。
彼は蓮司を一瞥すらせずに言葉を続ける。
「そいつはな……数時間以内に“弾ける”だろ。無駄に話しかけてんじゃねえよ、時間の無駄だ」
蓮司は一瞬黙り込んだ後、ぽつりと呟いた。
「じゃあ……僕はどうすればいいんでしょう。自分がどうしてここに来たのかも分からないし、
これから何に変わるのかも、まったく想像できない……」
彼は雄平の方を振り返ったが、その視線を受けることはなかった。
ただ、淡々とゲームの音だけが部屋に響いている。
「おお、まるで異世界転生の主人公みたいなセリフだな……」
雄平はクスリと笑って言った。
「死んでレベル0からスタートして、モンスター狩って、魔王になるってか?
残念だったな。ここは“異世界”なんかじゃねえ、“地獄”だよ」
「地獄……ですか?」
蓮司は言葉を繰り返した。
「それって……どういう意味なんですか、雄平さん?」
「先輩として忠告しとく。あの男からは距離を取っとけ」
雄平は顎で田中の方を指した。
「……ま、好きにしろよ。どうせあいつ、お前を食うことはできねぇしな。
“ガラス”で仕切られてんだからよ」
「雄平さんの言うことなんて、真に受けちゃダメだよ、蓮司くん」
田中がすかさず口を挟んだ。声は少し焦っているようだった。
「もう彼、ちょっとおかしくなってきてるんだ。毎日ゲームばっかりしてるせいで、頭が変になってんだよ」
そう言いながら、田中は腕を抱えるようにし、かすかに震えながら掻き始めた。
顔色は明らかに青白くなりつつあった。
「実はね……この病気、全員が死ぬわけじゃないんだ」
「えっ? それって、どういうことですか?」
「つまり、人間ってのは皆が皆、同じじゃないってことさ」
田中はそう答えながら、手首を掻いた。そこにはすでに赤い発疹が浮かび始めていた。
「免疫がある奴もいる……そういう場合はな、たとえ体の一部が“変わって”しまっても、心までは化け物にならないんだよ」
「でも、そうじゃなきゃ……」
雄平が、こちらが何も聞かずともすぐに言葉を続けた。
「“黒物”の第四段階になるってわけだ」
彼はゲーム機のボタンを派手に押しながら、気だるそうに続けた。
「お前のベッドの下の引き出しに、この病気についてのマニュアルが入ってるはずだ。
症状から、感染後の注意点まで一通り書いてあるから、読んでおけよ」
「……ま、もしゲーム機が欲しいなら、主治医にでも頼んでみな。
もしかしたら、気まぐれでくれるかもしれないぜ?」
その言葉を聞いた蓮司は、すぐさま身を乗り出し、ベッドの下の引き出しを開けた。
中にはくすんだ灰色の表紙の冊子が一冊入っていた。
彼はそれを丁寧に取り出し、ページをめくり始める。
その手引きには、“黒物”という病に関する詳細が書かれていた。
初期症状から、最終段階——“完全な変異”に至るまで。
蓮司はページを読み進めながら、驚かされた。
症状の出方は人によって大きく異なり、一定のパターンがあるわけではなかった。
鼻血が止まらなくなる者。
嘔吐を繰り返す者。
幻覚を見る者——
誰がどうなるかは誰にも分からない。
そして、確実な予防法も存在しなかった。
変異といっても、必ずしも“怪物”の姿になるとは限らない。
植物のような生き物になる者もいれば、元素のような存在に変わる者もいる。
まるで——
変異を引き起こす原因は、ウイルスだけではないかのようだった。
それはもしかすると――
「ストレス、恐怖、憎しみ、あるいは……欲望」
変異体の危険度分類(※すでに変異した者に対してのみ適用)
この分類は、「病状の進行度」ではなく、「制御および排除の難易度」を示すために設けられている。
•[緑] ― 変異しているが、大きな危険性は確認されていない。
•[黄] ― 攻撃能力が現れ始めている。
•[橙] ― 高い危険性を有し、対応には少なくとも5人以上の戦力を要する。
•[赤] ― 多人数による集中攻撃が必要なレベル。
•[黒] ― 戦闘パターンが一切予測できず、排除が極めて困難とされる最高危険等級。
蓮司はごくりと唾を飲み込み、ページをめくった。
ふと、ある疑問が胸をよぎる。
「……もし、自分が免疫を持ってたら? その場合、どの分類になるんだろう……」
彼は胸の鼓動を感じながら、ページをさらに読み進めた。
黒物病に対する“免疫保持者”について
この病に感染しても、すぐに変異しない特殊な体質を持つ者たちが存在する。
彼らは体内で一定のレベルまで病原体を「制御」することができ、
適切な訓練を受ければ、人間離れした能力を開花させることも可能とされている。
現在確認されている免疫保持者の能力タイプは、以下の三系統に分類されている:
1. 身体強化系
身体の一部を動物的な特徴へと変化させることができる。
筋力の強化や器官の増殖、自己再生などが主な能力。
2. 血液変質系
自身の血液を刃や棘、特殊な物質など、様々な武器や固体に変化させる能力を持つ。
近接戦闘において高い殺傷力を発揮する。
3. 精神干渉系
最も危険かつ希少とされる系統。
火・水・風・土などの“属性”を操る能力、あるいは周囲の物質に干渉し変化させる力を持つ。
その力の強さは、本人の才能と精神状態に大きく左右される。
注意事項:
どれほど強固な免疫を持っていたとしても、
**「黒物抑制薬」**を定期的に投与されなければ、病原体は少しずつ体内を蝕んでいく。
そしてある閾値を超えた時——
免疫保持者であっても、“変異”から逃れることはできない。
そのページをめくった瞬間──
蓮司の目が、ある一文に釘付けになった。
「感染者が免疫を持ち、人間としての記憶を保持していたとしても、完全な治療薬が完成するまでは、家族や愛する者との再会は一切許されない。」
感染拡大を徹底的に防止するため、政府は能力を持つ者たちを選別・徴用し、
特殊部隊『ミッドナイト』へと編入する政策を取っている。
それは“選択”ではなく、“命令”だった。
蓮司は歯を食いしばる。
「……ふざけんなよ……これって、ただの強制じゃねぇか……」
思わず吐き捨て、顔を上げると──
ふとした拍子に、ある人物の姿が目に入った。
田中──
ガラス壁の向こう側で、壁に寄りかかって座っていた。
鼻からは止まらない鼻血、顔は血にまみれ、
かつて好奇心に満ちていたその目は、今や空虚に沈んでいた。
「……あのとき殺しておけばよかった……あのとき……あいつを殺していれば……あのとき、殺してさえいれば……」
まるで壊れたレコードのように、田中は同じ言葉を繰り返していた。
自分が何を口にしているのかも、もう理解していないようだった。
「田中さん……あの、顔……血が……」
蓮司がやや低い声で注意しようとした、そのときだった。
田中はゆっくりと立ち上がり、目を見開いて蓮司を睨みつけた。
その目は赤く充血し、狂気と混乱に揺れている。
「顔……俺の顔がどうしたってんだ……?」
声が震え、次第に甲高く、耳をつんざくような叫びへと変わっていく。
「俺の顔がどうなってるってんだよォオオ!!」
悲鳴はガラス越しにも関わらず、部屋中に響き渡った。
蓮司も、**雄平**も、隣室の女性までもが、思わず耳をふさいだ。
──そして、始まった。
田中の目が黄色く変わり、
顔が歪み、背中の皮膚が裂けた。
透明な羽が背中から生え、
両腕が節のある昆虫の脚のように変異していく。
蓮司は、ただその場に立ち尽くす。
心臓は鼓動を早め、体は恐怖で硬直していた。
そのとき、部屋の四隅から機械音が鳴り響いた。
「カチャ……」
天井の四隅から、四挺の自動機関銃が姿を現し──
異形となった田中に照準を合わせた。
しかし、田中はまだ“完全な化け物”ではなかった。
黄色く輝くその目には、
まだ“人間らしい何か”が微かに残っていた。
恐怖。
懇願。
彼は、まっすぐに蓮司を見つめていた。
「や……だ……蓮司くん……たすけ……て……」
その声はもはや人間のものとは思えないほどに掠れていた。
喉を引き裂かれたかのように、苦しげで──
頬には涙が伝っていた。
蓮司の足はすくみ、心は揺れた。
これは“恐怖”なのか、それとも“哀れみ”なのか──
自分でも分からなかった。
「おれ……なりたく……ない……」
パン!
パン! パン! パン!
銃声が立て続けに鳴り響き、
田中の体は何も反応できぬまま蜂の巣にされた。
真っ赤な血が室内に飛び散り、
鉄臭い匂いが部屋中に充満する。
蓮司は呆然と立ち尽くす。
床に崩れ落ちた田中の目は、まだ開いたままだった。
その目に残されていた最後の光は──
紛れもなく、“人間のまなざし”だった。
「ふっ……また一人、爆発か」
雄平はゲームから目を離さずに、そう呟いた。