半月の夜
「ぐっ……」
鋼鉄の棒が体を貫いた。
だが——致命傷には至っていなかった。
蓮司はまだ意識を保っている。
だが、指一本すら動かす力が残っていない。
息が詰まる。
胸の奥が何かに締め付けられているような感覚。
それでも、彼の手は——
ゆっくりと前へと伸ばされた。
わずかでも進もうと、這う。
遅くてもいい。
止まるよりは、マシだ。
「……に、げ……なきゃ……」
かすれた声。
もはや言葉として成立していない。
だが、脳裏にあるのは一言だけ。
——生きる。
……
背後。
さっき崩れ落ちた瓦礫の山が、微かに揺れた。
死んだはずの化け物が、
そこから、まるで何事もなかったかのように立ち上がる。
まるで「ただ転んだだけ」のように。
三つの首が一斉に持ち上がる。
六つの赤い眼が、月明かりを反射して光っていた。
その目は——
まだ死にきれていない“獲物”を、確実に捕らえている。
ゆっくりと、だが確実に近づいてくる。
逃げ場は、もうない。
それを分かっているから、急ぐ必要もない。
……
蓮司は、背後に“何か”の気配を感じた。
ゆっくりと首を回し、振り返る。
「や……やだ……来るな……!」
声が震え、
腕で体を支えながら、地面を這うように後退する。
だが——
三つ首の怪物が近づいてきたその瞬間、
やすやすと、蓮司の背中に刺さっていた鋼鉄を引き抜いた。
ズバッ——
胸と背中から、血が噴き出す。
「うぐっ……!」
悲鳴にならない声が、喉の奥で途切れた。
怪物は鋼鉄をポイと捨て、
代わりに、蓮司の左足首を掴む。
そして——引きずった。
古びたコンクリートの床を、音もなく。
蓮司の体は、
再び、あの暗い廃工場の中へと引きずられていった。
「うっ……や……だめ……放して……しにたく……ない……」
それは、もはや声ではなく、
かすれた、ただの呼吸だった。
……
出口は、目の前にある。
——はずだった。
だが、歩くたびに遠ざかっていく。
見るたびに、霞んでいく。
蓮司の目に、それは確かに映っていた。
なのに、すぐに視界の端から消えていく。
気がつけば——
涙が、頬をつたっていた。
止めようとしても止まらない。
気づかぬうちに、こぼれていた。
恐怖。
痛み。
——死にたくない。
……
怪物の足が、止まる。
そして、その巨体が動いた。
蓮司の体を持ち上げる。
首を掴み、宙に持ち上げた。
目線が、怪物と“同じ高さ”に並ぶ。
三つの顔、六つの目が
全て、蓮司を見下ろしていた。
その瞳は、冷たくも熱く——
獲物を、確実に“自分のもの”と認識している。
喉が震える。
何かを言おうとしても、声にならない。
月明かりが、
崩れた工場の屋根から差し込んでいた。
その光の下で——
蓮司は、化け物の“顔”を、はっきりと見た。
……
それは、形を持った“死”だった。
手を伸ばすこともできない。
抵抗する力も残っていない。
ただ、頭の中で言葉を繰り返すしかなかった。
——死にたくない
——死にたくない
——死にたくない
……
バンッ!
怪物は、蓮司の体を地面に叩きつけた。
背中から激しく打ちつけられた衝撃で、息が止まりそうになる。
声も出ない。
体も動かない。
次の瞬間、化け物が覆いかぶさってきた。
その巨体が、夜の中で影を落とす。
両手で、蓮司の両手首をがっちりと押さえつける。
逃げ場はない。
足も、手も、心さえも。
目に映るのは——
半分しか残っていない月。
銀色の光が、
三つ首の影を切り裂くように差し込んでいた。
その光の中、
蓮司は“死”そのものを、はっきりと見た。
「お願い……死にたくない……
死にたくない、死にたくない……」
かすれた声が、空気に溶ける。
化け物は、舌を出して唇を舐めた。
まるで、
今まさに“新鮮な肉”を味わおうとしている美食家のように。
そして——
顔を上げた。
「オォォォォォォォォォォォ……!!」
三つの喉から発せられた咆哮が、
誰もいない夜に、こだました。
それはまるで、
月に向けた“勝利の宣言”のようだった。
そして——
怪物が、蓮司の体に覆いかぶさった。
次の瞬間——
その牙が、腹部へと食い込む。
「アアアアアアアッ!!」
工場の奥に、蓮司の絶叫が響いた。
だが、誰も聞いていなかった。
聞く者など、どこにもいない。
一つの頭が、服を引き裂き——
もう一つの頭が、腹の肉に牙を突き立てる。
鋭い歯が、肉を引き裂き、
筋肉を食いちぎり、
臓器を——一つずつ、“ゆっくり”と。
まるで、
“苦痛”を感じさせるためだけに、わざと時間をかけているかのように。
血が四方に飛び散る。
痛い——
苦しい——
もう、限界だ——
「やめて……やめてくれ……」
頭の中で、誰かが叫んでいた。
身体が、心が、“やめて”と泣き叫んでいた。
だが——
声にならない。
……
(……最初から……死んでおくべきだったのかもしれない……)
死の淵で——
蓮司の意識に、最後の“光”がよみがえる。
……
彼の脳裏に浮かんだのは——
「家」だった。
かつて、自分にあった“家族”。
母。父。温もり。
そして——あの誕生日。
「蓮司、今日は誕生日だろ? 何が食べたい?」
父の声が、記憶の中から響いた。
「近くのラーメンでいいよ!」
「はは……悪いな。金がないんだよ。
金さえあれば……ワギュウでも食わせてやるのに」
汗臭い白いタンクトップ。
でも、笑顔は世界一、温かかった。
——彼は、蓮司の“もう一人のヒーロー”だった。
小さな蓮司が、父の背中に乗る。
「いこう! いこう〜!」
笑い声が、遠い記憶の中で響く。
そのとき、母はすでにいなかった。
父と二人きりの、小さな家。
派手さはない。
父はただの消防士。
「この家は、お前のもんだよ、蓮司」
「元は爺さんの家さ。
家賃もかからないし、ここがあれば安心だろ?」
そう笑っていた。
でも——
子供の蓮司は、その時まだ知らなかった。
この先の世界が、どれほど“冷たい”ものになるかを。
母は戻ってこなかった。
新しい家族にとって、蓮司はただの“残り物”。
実の父の家でさえ、
——「誰にも必要とされていない」と思うようになった。
(……オレがいなくなったら……きっとみんな、ホッとするんだろうな……)
……
古くて小さな家。
それが、蓮司にとって唯一の“宝物”だった。
ボロい。狭い。雨漏りもした。
けれど、父は死にものぐるいで働いた。
「一人ぼっちの少年」に、“世界にいる居場所”を与えるために。
他の人が賃貸で済むところを、
母もいないその家を、
自分たちで修理しながら——それでも笑って過ごした。
「……もし、パパがいなくなってもな、蓮司」
「お前には、帰る場所があるんだぞ」
……
「パパ、行ってくるな」
「ヒーローの任務があるんだ。テレビで見てただろ?」
記憶の中の父が、
消防士の服を着て、しゃがみこんで、蓮司の肩を握る。
ザラついた手。汗の匂い。
でも、何よりも温かい笑顔。
「すぐ戻るからな……家、ちゃんと守ってろよ」
「パパ……行かないで……」
九歳の蓮司が、震える声でそう言った。
「ダメだよ」
父は、もっと大きく笑った。
それは安心の笑みではなかった。
——“泣かせないための”笑顔だった。
「約束する。戻るから」
「それからな……帰ったら、神社の前のチョコクレープ、買ってきてやる」
「パパはお前のヒーローだからな——」
幼い頃の蓮司は、
あの時——ただ、立ち尽くしていた。
何もできず。
ただ、父の背中を見送ることしかできなかった。
そして、あの言葉が——
父から聞いた、“最後の言葉”になった。
……
それ以降——
父の声を、彼は二度と聞くことはなかった。
……
(ヒーロー……か)
(……オレも、なりたかったな)
(……父さんみたいな、ヒーローに……)
(……でも、今のオレは——死にかけてる)
血が止まらない。
息は浅く、苦しい。
目の前には、まだ“それ”が立っている。
痛みは、少しずつ薄れていく。
——回復しているからではない。
ただ、体が“終わり”に近づいているだけ。
(死ぬのか……?)
(……やだ……まだ、死にたくない)
(……いやだ……いやだ、いやだ……)
最後の意識が薄れていく中——
心の奥底から、声が響いた。
(……オレも、ヒーローになりたかった)
(……でも、今のオレは——死ぬだけだ)
……
寒い。
痛い。
血が止まらない。
耳元では、まだ怪物の唸り声が響いていた。
そして——その瞬間。
ひとつの名前が、頭に浮かんだ。
ある男の名。
あの時、誰も手を差し伸べてくれなかった日に——
彼だけが、“現れた”。
蓮司は、それが現実か夢か分からなかった。
声が届くかどうかも、分からなかった。
でも——
今、彼の中に“残っている名前”は、それしかなかった。
血で濡れた唇から、
かすれた声が漏れた。
「……ノ、ノウ……」
……
そして——
蓮司の世界は、
静かに、音もなく——
闇に沈んだ。
だが、その時——
予想もできない“何か”が、現れた。
三つ首の獣の上空に、
そして、血に染まった蓮司の亡骸の真上に——
空間が、裂けた。
黒く、深く、そして“ありえないほど美しい”裂け目。
それは、ただの闇ではない。
銀河のように、星々のように——
キラキラと輝きながら、ゆっくりと広がっていく。
回転する星雲のように、
黒いカーテンのように、世界を切り裂いていた。
——この世界のものではない。
そう断言できるほど、“異質”だった。
そして——
「どけやぁあああああああッ!!」
前触れもなく、怒声がその空間から響いた。
ズバァァァァァッ!!
何かが、空間から飛び出してきた。
凄まじい速度で——
三つ首の化け物に、直撃。
ドゴォォォォォォン!!
巨体の魔獣は、吹き飛ばされ、
さっき崩れた廃工場の鉄骨に激突。
錆の煙が舞い上がる。
床が一瞬、揺れた。
そして——
辺りが静まり返る。
……
「クソッ……やっぱ最悪だ」
崩れた鉄骨の山から、声が響く。
「この星の重力、ほんとにクソだな……
何度来ても、慣れねえ……ブレーキかけても毎回これかよ」
一人の男が、がらくたを払いながら立ち上がった。
白い長袖・長ズボンの服。
長い銀髪を一つに束ね、無表情の顔に黒い瞳。
足は裸足。
肌は紙のように白い。
爪は黒く、どこか鋭さを感じさせる。
腰には、二つのガラス玉のキーホルダーがぶら下がっている。
透明な球体の中には、金色と黒の二つの異様な物体が封じられており——
それらはまるで“生きているかのように”うごめいていた。
首には、細い鎖。
その先には、黒曜石のような宝石が、
ねじれた金の蔦に囲まれていた。
そして——
彼の額。
そこには、“∞”の記号が刻まれていた。
淡く光り、まるで“生きているように”皮膚に浮かんでいる。
その男の名は——
ノワール
この世界に“属していない男”だった。
……
ノワールは、静かに足を運んだ。
そこには——
蓮司が、目を見開いたまま、月の光の下に横たわっていた。
その姿を見た瞬間、
冷えきった表情が、僅かに変わった。
「……やあ、蓮司くん?」
彼はすっと腰を落とし、
死体のようなその少年の横にしゃがみ込む。
そして——
まるで欠席者の出席をとる先生のように、
ぺちぺちと頬を叩いた。
「ねぇ、蓮司くん、聞こえる〜?
おーい、友よ。呼んでおいて何で返事しないの?
困った時は、もっと早く呼んでくれなきゃさ〜」
彼はしばし黙り、
血に染まり、肉が裂けた蓮司の体をじっと見つめた。
「……この状態で呼ばれても、なぁ……
アート作品にでも応募してほしいのか?」
くすりと笑ったその声には、
不機嫌さが滲んでいた。
感情が見えにくい彼の瞳に、
「苛立ち」の光が灯っていた。
……
その時、
背後で“何か”が静かに動いた。
三つ首の魔獣は——まだ生きていた。
闇の中から、忍び寄る。
巨大な爪を振り上げ、
全力で、ノワールの背中を——
バッ!!
空を裂く一撃。
だが——
掴んだのは、何もなかった。
……
そこに、ノワールの姿はない。
そして——
「おい、バカ犬。上を見てみろよ」
その声は——
魔獣の“頭の上”から響いた。
化け物が見上げると、
そこには、ノワールが——
まるで芸術品の台座にでも立っているかのように、
足を組みながら、のんびりと立っていた。
「マナーがなってないな」
冷ややかに、彼は言った。
「会話中に割り込むなって、習わなかったのか?」
そして、目を細めて言った。
「それに……背後からの不意打ち。
そういうの、オレはイラッとくるんだよ」
魔獣は吠えた。
怒りの咆哮と共に、頭を振り、爪を振り上げた。
だが、ノワールは——
ただポケットに手を入れたまま、前方へとふわりと宙返り。
「こっちだってば〜」
地面に降り立った彼は、
そのまま、三つある頭の一つの額を、
“軽く”足の先で触れただけだった。
そして——
ドンッ!!
その頭が——爆ぜた。
肉片が飛び散り、
凄まじい衝撃が、化け物の巨体を吹き飛ばした。
そのまま——工場の壁を突き破り、
魔獣は外へと投げ出された。
ゴォォン!!
ノワールは、ふわりと地に降り立ち、
ふぅっと一息。
「……落ち着け、落ち着け……」
自分に言い聞かせるように呟く。
そして、暗闇の奥をじっと見つめた。
「一つ、チャンスをやろう」
「正直、オレはこの世界の輪廻とかに関わりたくない。
だから……今逃げれば、生き延びる可能性はある」
「だが——」
「まだ食いたりねぇなら、今ここで、死んでくれ」
だが魔獣は、聞く耳を持たなかった。
怒りの咆哮をあげ、
信じられない速度でノワールに突進してきた。
ノワールは——微動だにしない。
ポケットに手を入れたまま。
「勝てると思ってんのか、犬コロが」
彼は、肩をほんの少し傾けて、
軽やかにその一撃を躱した。
まるで、枕を避ける程度の動き。
「忠告はしたぞ」
そう言いながら、
ノワールは右手を掲げ、
人差し指と親指を銃の形にして構えた。
獣の胸へと、まっすぐ狙いを定める。
首を少し傾けて、微笑む。
「……パァン」
小さな音が響いた。
——だが、次の瞬間。
指先から放たれた衝撃は、
世界と世界をぶつけたかのような爆風だった。
重力すら歪むような圧が、
魔獣の胸を吹き飛ばす。
喉から腹まで、何もない。
残ったのは、頭と四肢だけ。
六つの瞳が震え、
魔獣は跪き、崩れ落ちた。
何が起こったのかも、
理解できぬまま——死んでいた。
……
「恨むなよ」
ノワールは、感情のない顔で言った。
「選択肢は、ちゃんと与えた。
それを選んだのは——お前だ」
「……そして、復讐なんてのはな、
このオレには、届かない」
……
そう言って、ノワールは蓮司の元へと歩いていく。
……
「やれやれ、蓮司くん〜……
呼ぶの、遅すぎだろ?」
彼はまたしゃがみ込み、
腕を組みながら、死にかけた少年をじっと見つめた。
「まだほんの数回しか話してないのに……
もういなくなる気かよ?」
「このオレに、こんな面倒なことさせて……
さっき、死にたくないって言ってただろ?」
ノワールは顔を近づけ、
鼻をクンクン鳴らしながら、蓮司の瞳を覗き込む。
「……ん? おやおや?」
「アイツら、まだ魂を回収に来てないじゃないか」
「——ってことは」
にやりと、口元を歪めた。
「……まだ、間に合うな」
……
ゆっくりと立ち上がると、
左腕の袖をまくる。
そこには、“∞”の刻印が、静かに光っていた。
そして、鋭い爪で、
自分の手首をスッと切る。
黒く濃い血が、静かに流れ出す。
金属のような匂いと、名前のない何かの匂いが、
空気に広がっていく。
……
「さあ——蓮司くん」
「帰ってくる準備はできたかい?」
「……ちょっと痛いけど、我慢してね。
うふふふふふふふ〜〜〜〜」