三つ首の鬼
ガシャッ!
反射的に蓮司は身を屈め、その場で素早く回避した。
だが、どれほど素早く動こうとも――それは“奴”の速度には及ばなかった。
破裂した蛍光灯の破片が彼の腕に突き刺さり、コートの袖口から血が大量に溢れ出した。
「……くっ!」
蓮司はうめき声を押し殺しながら、痛みに耐えた。
血に濡れた腕を押さえ、彼は一歩、また一歩と後退し、ミッドナイトの隊員の背後へと回り込む。
三つの頭を持つ悪魔が、じっとこちらを睨み据えていた。
その目には明らかに――「獲物が罠にかかった」という、冷たい確信が宿っていた。
「――オオカミってのはな……」
喉を焼き切られたような、かすれた声がマスクの奥から漏れる。
男は獣の猛攻に必死に耐えながらも、なお話す力を振り絞った。
「逃げる獲物ほど、ヤツらは興奮する……
一度逃がして、また捕まえて……喰うまで弄んで楽しむんだよ……ははっ……ゲホッ!」
その声は、ついに力尽きたかのように途切れた。
「……す、すみません……」
蓮司の声が震えた。
男はゆっくりと振り返り、血の滲んだマスク越しに鋭く彼を見据えた。
「隠れろ……絶対にヤツに見られるな……あいつは“狩り”が好きなんだ……」
「俺の左手側……茂みがあるだろ? そこに潜め。もしチャンスがあれば……静かに逃げろ。ここは俺が引き受ける」
「……はい!」
「急げ……見つかる前に……!」
二度目を待たず、蓮司はすぐに身を翻し、暗闇の中へと潜り込んだ。
静寂の中、一歩一歩が地雷のように重く、
鼓動は耳の奥で爆音のように鳴り響いていた。
冷気が骨まで染み込み、
まるで誰かの目が、三対の目が、闇を透かして彼を捕えているような錯覚に襲われた。
――グルルルルッ!!
その時、三つの咽喉から絞り出された重低音が、森の中に響き渡った。
言葉ではない。
それは呪いにも似た「怒り」の振動。
人間には理解不能な、しかし本能が“死”を悟るような咆哮だった。
蓮司の心臓は爆発寸前のように脈打ち、
息は途切れ途切れに喉を震わせ、手足は冷たく震えた。
彼はただ、ただ祈りながら、闇の中を進むしかなかった――
逃げ切れるか、それとも、次に喰われるのが自分か。
――グルルルルッ!!
三つの喉が同時に響かせた咆哮は、空気そのものを震わせた。
その怒りの波動に、蓮司は思わず両耳を塞ぎ、膝をつきそうになる。
あれは単なる音ではない。“狩人”の憎悪が凝縮された、音の殺意だった。
次の瞬間、悪魔が巨大な腕を振り上げた。
異常な速度で、鋭い爪をミッドナイトの隊員へと振り下ろす。
男は訓練された反射神経で何度も回避を重ねた。
しかし――限界はあった。
――ズバッ!
爪が彼の脚と背中を切り裂いた。
防弾ジャケットが破け、深々とした傷口から血が吹き出す。
普通の人間なら、その一撃で即死だっただろう。
だが彼は違った。
空中で体をひねり、見事に着地して距離を取る。
「ちっ……ステージ4、オレンジクラスか……」
彼は苦々しげに呟きながら、腕時計のデジタルパネルに指を伸ばす。
だがその動きも、次の一撃によって遮られる。
――ヒュン!
悪魔が再び突進してきた。凄まじい勢いで。
男は即座に反応し、腕を引っ込めて横へ跳んだ。
ギリギリでその爪を回避する。
「おいおい……回復の時間もくれねぇのかよ……!」
息を荒くしながら、彼はマスク越しに笑みを漏らす。
「なあ……お前だけが“異常”だと思うなよ……こっちだって持ってんだよ、秘蔵の一手をなァ!」
彼の背中から、ゴリッという音とともに、さらに二本の巨大な腕が生えてきた。
筋肉は鋼のように硬く、サイズは彼の体と同じくらいある。
血管が脈打ち、腕はすでに“戦う準備”を整えていた。
男は咆哮とともに悪魔へ突進。
上体を低く構え、右腕の拳を勢いよく振り上げ――
ゴンッ!!
拳は三つの頭のうち一つの顎を直撃し、
その頭は一瞬のけぞった。
「グォッ!」
しかし、それだけだった。
彼の一撃は決して軽くない。だが、重さが足りなかった。
残りの二つの頭が即座に反応し、
ギラついた牙を剥き出しにして襲いかかる。
二体の“巨獣”は、もはや俊敏さを捨てた純粋な怪力の塊。
巨体同士のぶつかり合いに、空間が狭すぎるほどだった。
誰かが一瞬でも隙を見せれば、その瞬間に身体が引き裂かれる。
――拳と爪がぶつかり合う音
――骨と鋼が軋む音
――咆哮と絶叫が森を震わせる
この戦いは、もはや人の領域ではなかった。
蓮司が隠れていた茂みが、大地の震えに合わせて揺れた。
わずか十メートルも離れていない場所で、巨体のぶつかり合いが起きている。
血の匂い。
熱を帯びた怪物の体温。
そして宙を舞う埃と煙――そのすべてが、呼吸するたびに喉を刃で裂かれるような感覚を与えた。
彼は奥歯を食いしばり、両手で耳を塞ぎ続ける。
咆哮は止まず、地鳴りのような揺れも収まらない。
心の奥では、もう理解していた。
――これは、見ているだけの時間じゃない。
選ばなければならない。
(……逃げるか)
(……それとも、ここで死ぬか)
蓮司は、地面に手を伸ばし、そっと身体を前に滑らせた。
腕の傷はまだ痛む。
呼吸も整っていない。
だが――
足は、まだ動く。
怪物と隊員がぶつかり合っている今こそ、唯一のチャンス。
蓮司は、茂みの陰から這い出し、音を立てぬよう静かに後退していく。
闇が彼を隠してくれる。
咆哮が、彼の足音をかき消してくれる。
(あと少し……あと、ほんの少しだけ……)
だが、その一歩を踏み出した瞬間だった。
――シュッ!
鋭い音が空を裂き、蓮司のすぐ横を通り抜けた。
まるで爪が、髪の先をかすめたかのように。
「っ……!」
蓮司は反射的に体を丸め、転がるように別方向へ逃れた。
小さな斜面を転がり落ち、二度三度と地面を跳ねた後、木の根元で止まった。
全身が痛む。
だが、奇跡的に骨は折れていなかった。
「はぁっ……はっ……!」
喉の奥で息を殺す。
声に出すのが怖かった。
その場所から、彼は“戦場”を再び目にした。
ミッドナイトの隊員は、依然として戦っていた。
だが、彼の背中から伸びた巨大な腕には、ヒビが入り始めていた。
「ミシ……ッ」
骨のような音が響く。
崩れかけたその姿に、それでも彼はまだ――立っていた。
そうだ。
この人は、自分が逃げられるように戦っている。
命を賭けて。
蓮司は一度も振り返らず、背を向けて走り出した。
木々の陰へと飛び込み、暗闇に体を溶け込ませていく。
ありがとう。
そう言いたかった。
でも、それを言う一秒すら、命を落とすには十分すぎる時間だった。
「な、なんだよ……あれは……」
蓮司は呟いた。
冷や汗がこめかみを伝い、背筋に沿って流れていく。
その視線は、ミッドナイトの隊員の背中から一瞬たりとも離れなかった。
(……どうして、あの人が……?)
疑問が胸を満たす中、彼の足はそっと戦場から後退していた。
闇の中、木々の陰に身を溶かすように忍びながらも、
彼の目だけは戦いの場を離さなかった。
少しでも逃げられる“隙”が生まれないかと、必死に探していた。
――だが、希望は薄い。
ミッドナイトの隊員は必死に戦い続けていたが、
三つ首の怪物の圧倒的な力に、一人の人間では限界があった。
拳が振るわれ、爪が空気を裂く音が絶え間なく続く。
その中――
ドガッ!!
右の拳が直撃した。
怪物の一撃が、隊員の身体を空中に弾き飛ばす。
そして――壁に叩きつけられた。
ガンッ!
鈍く、重い音が蓮司の胸を直撃した。
彼は思わずその場で足を止め、振り返る。
隊員は地面に倒れていた。
マスクの半分が砕け、顔の一部が露出している。
それは――
ただの“人間”の顔だった。
額から血が流れ落ち、口元からかすかに息を漏らす姿に、
蓮司は思わず駆け寄ろうとした。
だが――その男は微かに微笑み、首を横に振った。
「……来るな」
その目は、まるでこう語っていた。
“お前は、生きろ。”
「いや……いやだ……来るなよ……!」
蓮司は叫んだ。
けれど、それは――間に合わなかった。
まるで世界がスローモーションになったように、
怪物は倒れた隊員の身体を、まるでぬいぐるみのように軽々と持ち上げた。
そして――
裂いた。
三つの顎が同時に開き、
その身体を、三方向から引き裂いた。
ベキッ――グシャッ!
骨が砕け、肉が裂ける音が、蓮司の脳内で何度も反響する。
体の一部が飛び散り、
その中の一つ――“頭部”が、彼の足元まで転がってきた。
コトン……
蓮司はその場に崩れ落ちた。
両手が震え、目からは涙が止まらない。
「いやだ……いやだいやだいやだ……
俺……ごめんなさい……本当に……っ!」
彼はその“残骸”を抱きしめた。
温もりの抜けた肉体にすがりながら、届かない謝罪を繰り返す。
(あの人は……俺を助けるために死んだんだ)
彼は――
俺のヒーローだった。
だが今、
そのヒーローの目からは、何の光も感じられなかった。
――グルルルッ……
怪物が、再び喉の奥から咆哮を漏らした。
それは狩りの合図ではなかった。
それは勝者の咆哮だった。
血の匂いが満ちる中、
鉄と肉の臭いが混じった空気が、全身を包む。
蓮司は喉を鳴らし、
硬直した身体で、ゆっくりと顔を上げた。
――三つの目が、彼だけを見つめていた。
今度の“獲物”は――
彼だった。
「や、やめろ……来るな……っ! だ、誰か……助けて……!」
蓮司はふらつきながら立ち上がり、傷だらけの腕を押さえて歯を食いしばった。
血は止まらず、腕から垂れ続けている。
彼は全力で駆け出した。
あの咆哮から逃れるために――“死”から逃れるために。
もう、誰も助けてくれない。
ミッドナイトの隊員――命を懸けて守ってくれた人は、
いまや、冷たい肉塊となってそこに横たわっている。
生き延びるしかない。自分の力で。
……だが、“走る”だけでは、勝てない。
相手のほうが速い。
大きく、力強く、まるで獲物を弱らせてから仕留める野獣のように――
だからこそ、隠れるしかない。
奴の目にも鼻にも届かない、“どこか”に。
蓮司の脳裏に、幼い頃の記憶がかすかによみがえった。
村のはずれ。
枯れた草原の先に、廃棄された鉄のリサイクル工場があったはずだ。
彼は何度かその場所を通りかかったことがある。
――今、そこしかない。
荒れた茶色の草をかき分けながら、蓮司は草原を突き進む。
草の高さは彼の肩を越え、空気は乾いていて、息が詰まりそうだった。
呼吸は乱れ、目は血と汗で霞む。
それでも、彼は走った。
工場の入り口には、「立入禁止」と書かれた古びた看板が風に揺れていた。
だが、蓮司の目には入らない。
手にしたスマートフォンのライトだけを頼りに、
彼は朽ちた鉄骨と、崩れかけた壁の間をすり抜けていく。
鼻を突く鉄とサビの匂いが漂っていた。
工場内の階段をのぼり、脆くなった木製の床を注意深く踏みしめながら、
彼は上階へとたどり着く。
最奥の隅に、大型の鉄筋保管用ロッカーがあった。
中は半分ほど空になっており、身体一つがなんとか入るスペースがある。
蓮司はすぐに這い込んだ。
傷ついた体に鞭を打ち、呼吸を殺し、できるだけ静かに。
心臓の音だけが、頭の中に響いていた。
――だが彼は知らなかった。
そのロッカーの上部には、大きな穴が空いていたことを。
そして、彼が致命的に忘れていたことが一つあった。
犬は、目よりも“鼻”がいい。
彼の傷口から流れる血は、草原を通ってここまで、ずっと垂れ続けていた。
つまりそれは――
明確な“痕跡”だった。
三つ首の悪魔は、それを逃すはずがなかった。
蓮司の居場所を、完全に把握している。
だが、すぐには襲わない。
ゆっくりと、歩く。
まるで“お楽しみ”は後に取っておく、そう言わんばかりに――
――グルルルッ……
喉の奥から漏れる低い唸り声が、風に乗って届いてくる。
巨体の足音が、一歩一歩、
古びた上階の床を軋ませながら近づいてくる。
ギシ……ギシ……
鉄骨が今にも崩れそうな音を立てるたび、蓮司の体が強張っていく。
彼は穴の隙間から、じっと奴の姿を見つめた。
すぐそこに、“死”があった。
蓮司は、錆びついたロッカーの隙間からじっと覗いていた。
心臓が、今にも破裂しそうなほど打ち鳴らされる。
手は冷たく、震えが止まらない。
足音が近づいてくる。
一歩……
また一歩……。
怪物が、ロッカーの前をゆっくりと通り過ぎていく。
蓮司は息を止めた。
「……行った……よな……?」
その声は、闇に向けて囁かれたものだった。
「やっと……逃げ切れたんだ……」
まるで千トンの石が胸から降ろされたような安堵感。
呼吸が、やっと楽になった……その瞬間――
ポタッ
何かが肩に落ちた。
ぬるい感触。思わず手で拭う。
赤い――
濃い――
温かい――
雨じゃない。
蓮司の身体が凍りつく。
ゆっくりと、上を見上げた。
ロッカーの上――
そこに、“それ”はいた。
三つの首のうちの一つが、血を滴らせながら彼を見下ろしている。
目が合った。
その瞳は、まさに“勝者”のそれだった。
「いやあああああああああッ!!」
蓮司は絶叫した。
必死にロッカーの扉を開けようとする。だが――開かない!
重い――固い――動かない!
内側から力いっぱい蹴りを入れるが、それでも開かない。
足音が近づく。
息遣いが耳元に迫る。
鉄がきしむ音が、死を告げる鐘のように響く。
ここで逃げなければ――
死ぬ。
「開けっ……開けろ、クソッ……!!」
蓮司はロッカーの扉を押し、蹴り、ありったけの力を込めて必死にもがいた。
だが、扉はビクともしない。
すぐ頭上で、三つの瞳が冷たく煌めいていた。
それは、全ての希望を食い尽くす“死”そのものだった。
だが、その瞬間――
ギギ……ン!!
鉄の軋む音。
続いて、重力がすべてを引きずり込んだ。
ロッカーが傾き、上に乗っていた三つ首の悪魔ごと――崩れ落ちた。
錆びた鉄骨の床。
その老朽化した上階が、まとめて音を立てて崩れていく。
ドォンッ!!
地面が揺れ、
鉄筋やロッカー、上階の残骸がすべて下に落ちた。
土埃と錆の粉が宙を舞い、視界を覆う。
……
数十秒の沈黙のあと、
ロッカーの扉が、内側からガタンッと音を立てた。
蓮司が、ゆっくりと這い出てくる。
服は破れ、腕は血に染まり、
片足は不自然に曲がっており、立ち上がるのもやっとだ。
額からは血が滴り、目もかすんでいた。
だが――
彼はまだ、生きていた。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をしながら、彼は鉄くずの山を乗り越えて外へ出る。
振り返ると、そこにはロッカーと上階の残骸が
“あいつ”を完全に覆い隠すように崩れ積もっていた。
「……もう……俺を放してくれよ……」
蓮司は、祈るように呟いた。
そのまま、工場の出口――
差し込む月明かりに向かって、足を引きずりながら歩き始める。
ポケットを探るが、スマホはなかった。
おそらく、崩れた瓦礫の下に埋まっているのだろう。
もう探す気力もない。
もう、振り返るつもりもなかった。
“もう、見たくない。”
彼は腕と足を引きずりながら、一歩ずつ進んだ。
……
だが――その静寂の中。
何かが、動いた。
瓦礫の下から……
黒く染まった手が、そっと持ち上がった。
血に濡れたその手は、
しっかりと鉄筋の一本を握る。
サイズも、長さも、まるで“それ”専用の武器のように完璧だった。
そのまま――
振りかぶった。
……
ズブッ!!
「ッ……はっ!?」
出口に手を伸ばしかけた蓮司の背中に、
鋭い鉄筋が突き刺さった。
その先端は、胸を貫通し、赤い血を撒き散らす。
バシャッ……
彼の身体は、音もなく前へと崩れ落ちた。
そして――動かなくなった。
……