三つ首の鬼
ガシャッ!
本能的に、レンジは身をかがめて素早く回転しながら避けた。だが、いかに速く動こうと、それでも遅かった。割れた蛍光灯の破片が腕を切り裂き、コートの袖から鮮血が溢れ出す。
「ぐっ!」
少年は痛みに顔をしかめながらも、なんとか意識を保つ。血まみれの腕を押さえ、ミッドナイト隊の隊員の背後へと下がった。
三つの頭を持つ悪魔がじっとこちらを見据える。
「オオカミってのはな」
かすれた声がマスク越しに響く。獣と対峙する男は必死にその巨体を押しとどめていた。
「一度、獲物が逃げるのを見たら……追うのをやめねぇ……殺すまで、決してな……っ!」
その言葉の途中で、悪魔の力がさらに強まり、男の声が途切れる。
「す、すみません」
レンジは震える声で言った。
「すみません……僕のせいで!」
「聞け! こいつは長くは持たねぇ!」
隊員は息を荒げながら続ける。
「隠れるんだ! 絶対にあいつに見つかるな。あれは “狩り”が好きなんだ。あの茂みが見えるか? 俺の左手側だ、そこに潜め!」
必死の説明に、レンジは大きくうなずいた。
「その中に隠れろ……もし逃げられそうなら、静かに離れろ……ここは俺が食い止める!」
「はいっ!」
言われるが早いか、レンジは闇の中へと身を滑り込ませた。
グルルルル……ッ!!
三つの頭を持つ怪物の低いうなり声が、呪詛のように空気を震わせた。
それは言葉など必要としない ただ存在そのものが“恐怖”を撒き散らす咆哮だった。
レンジの心臓が激しく脈打つ。
爆発しそうなほどに胸が痛い。呼吸が乱れ、まるで周囲の空気が奪われていくようだ。
彼は闇の中を静かに這うように進む。手足は冷たく、震えが止まらない。
だが、巨獣が“獲物”を見失った瞬間――その怒りが爆ぜた。
グルァァァァ!!
三つの喉が同時に唸り、空気が震動する。
隠れていたレンジは思わず耳を塞ぎ、歯を食いしばった。
その直後。
怪物が巨大な腕を振り上げ、狂ったようにミッドナイト隊員へ爪を振り下ろす!
常識を超えた速度だった。
訓練で磨かれた反射神経で、男は何度も攻撃をかわす。
だが 限界は、すぐそこにあった。
ズバァッ!!
爪が脚と背中を同時に切り裂く。
装甲が裂ける鈍い音、そして鮮血が宙を舞った。
それでも彼は、空中で身体をひねり、地面に着地して距離を取る。
「チッ……第四段階、オレンジか。
こりゃ、増援を呼ぶしかねぇな……」
男は低く呟き、手首のデジタルウォッチに指を伸ばす。
通信を送ろうとした、その瞬間
ブンッ!
怪物が爆風のような勢いで突っ込んできた。
彼は反射的に腕を引き、身を横に跳ねる。爪が髪の先をかすめ、地面が抉れる。
「ったく……休ませる気もねぇってか……!」
息を荒げ、マスクの奥で歯を食いしばる。
「特別なのはお前だけじゃねぇ……! こっちにもあるんだよ!」
次の瞬間、彼の背中から“腕”が二本――いや、“巨腕”が生えた。
鋼鉄のように硬く、皮膚は黒光りしている。
血管が浮かび、筋肉が脈打つ。生き物そのもののように。
彼は地を蹴り、一直線に突進した。
低く構え、右拳を天へと突き上げる。
ドガァッ!!
拳が怪物の一つの顎をとらえた。
「グオオッ!!」
その頭がのけ反る。しかし、倒れない。
もう二つの頭がすぐに反応し、鋭い牙をむき出しにした。
互いに後退する余地などない。
人間離れした“筋肉”と“力”がぶつかり合う。
ほんの一瞬でもリズムを崩せば――次に裂かれるのは、自分だ。
拳がぶつかる音。爪が骨を削る音。
轟く咆哮が森中に反響する。
レンジが身を潜める茂みは、十メートルも離れていないのに揺れ続けていた。
血の匂いと砂塵が空気に混じり、
一息吸うたびに刃を飲み込むような痛みが喉を刺す。
レンジは歯を食いしばり、両手で耳を塞いだ。
それでも音は止まらない。震動も消えない。
分かっている。今は“見ている時”じゃない。
彼は静かに前方の地面へ手を伸ばした。
怪物と隊員がぶつかり合う隙を狙い、
茂みから少しずつ這うように後退する。
闇が姿を隠し、咆哮が足音を覆い隠してくれる。
(もう少し……あと少しだけ……)
その瞬間、空気を裂くような鋭い音がした。
まるで爪が髪をかすめるような音。
ヒュッ!!
レンジは反射的に身を丸め、転がる。
小さな岩の斜面を二度、三度と転がり、木の根元で止まった。
全身が痛む。だが、骨は折れていない。
「はぁ……はぁっ……!」
胸の奥で息が荒く鳴る。
その場所から見えたのは、押され続けるミッドナイト隊員の姿だった。
背中から伸びた巨腕にはひびが入り、“ミシッ”と嫌な音を立てる。
それでも男は戦っていた。
“逃がす”と口にした言葉を、守るために。
――命を賭けて。
レンジは歯を噛みしめ、すぐに背を向ける。
闇に包まれた木立の奥へと走り出した。
だが、その刹那。
どうしても振り返らずにはいられなかった。
「な、なんだ……あれは……」
レンジが呟いた。冷たい汗がこめかみを伝う。
視線はミッドナイト隊員の背中から離せなかった。
(……どうして、あの人は……?)
胸の中に疑問が渦巻く。それでも、レンジは闇の中へと身を滑らせた。
木々の影に溶け込みながら、息を潜めて後退していく。
だが、視線だけは何度も後ろへ向いていた。
ミッドナイト隊員は、なおも立ち向かっていた。
しかし、三つ首の怪物の力はあまりにも巨大だ。
拳と爪が空を切る音が絶え間なく響く。
男は何度も避けたが――ほんの一歩、遅れた。
ドガッ!!
怪物の右拳が胴を直撃する。
隊員の身体が宙を舞い、建物の壁に叩きつけられた。
ガンッ!!
その音が、レンジの胸を打つ。まるで心臓を殴られたようだった。
彼の足が止まる。振り向く。
隊員は動かない。
マスクの半分が割れ、“ただの人間”の顔が露わになっていた。
額が割れ、血が頬を伝う。呼吸は、ほとんど止まりかけている。
レンジが一歩、踏み出そうとしたその時。
隊員がこちらを見た。
痛みに歪む顔に、わずかな笑みを浮かべ、首を横に振った。
「来るな…」
それはまるで――お前は生き延びろと言っているかのようだった。
「いや…やめて!!!」
レンジは声を張り上げた。だが、間に合わなかった。
すべてがスローモーションのように見えた。
三つ首の怪物は、隊員を軽々と地面から持ち上げた。まるで布の人形を持ち上げるかのように。そして 、その鋭い爪で、彼を三つに引き裂いた。
ビリッ!
肉が裂け、骨が砕ける音がレンジの頭の中で鳴り響く。身体はあらぬ方向へと弾かれた。
隊員の頭部が宙を舞い、レンジの目の前で転がった。
ドサッ
レンジは膝をついた。両手が震える。
涙が止めどなく頬を伝う。
「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ……! ぼ、僕は……ごめんなさい……! 本当にごめんなさい……っ!」
彼はそのバラバラになった残骸に飛びつき、抱きしめた。
心は空洞のように穴があき、届かない謝罪だけが満ちていく。
(…あの人は死ぬんだ…俺を助けようとして)
彼はヒーローだった。
だが今、彼のヒーローに残っているのは、もう何の反応もない瞳だけだった。
グルルルルッ!!
獣の喉の奥から再び咆哮がほとばしった。血の臭いが濃く、鉄の匂いが空気に満ちる。
レンジは唾を飲み込み、全身がこわばる。まるで見えない杭で地面に打ちつけられたようだ。
三対の眼が彼を射抜く。
――次の“獲物”は自分だ。
「や、やめて……! 来ないでっ……! た、助けて! 誰か……助けてぇぇっ!!」
レンジはよろめきながら立ち上がり、腕の傷を押さえた。
血はまだ止まらない。
それでも彼は、叫びと同時に走り出す。
咆哮から逃げるために。死から逃げるために。
もう誰も頼れない。
彼を守ったミッドナイト隊員は
いまや冷たい肉塊になってしまった。
生き残るのは自分しかいない。
だが、相手は速く、そして巨大だった。
まるで狼が獲物を追い詰めるように、確実に距離を詰めてくる。
(だから……隠れなきゃ。あいつが“見つけられない”場所に……)
頭の奥で記憶を掘り返す。
村の外れ、草原の先に――使われなくなった鉄のリサイクル工場があった。
子どもの頃、何度か通りかかったことがある。
そこなら……隠れられるかもしれない。
レンジは乾いた茶色の草原を駆け抜けた。
膝より高い枯れ草が視界を覆い、呼吸は途切れ途切れになる。
血と汗が目に流れ込み、世界が霞んだ。
「ここから……入るしかない、か」
レンジは狭い土の通路を抜け、廃工場の前に立った。
入口には「危険 立入禁止」と書かれた古びた看板が、今にも外れそうな状態で風に揺れている。
彼の手にあるのはスマートフォンだけ。
その小さな光が、錆びた鉄骨と崩れた壁、そして鼻を突く鉄の匂いを照らし出す。
レンジは慎重に足を運び、朽ちかけた木の床を踏みしめながら二階の中二階へと上がった。
頭の中は真っ白。
一歩一歩が、まるで地雷の上を歩くような緊張だった。
奥の隅に、巨大な鉄筋保管用ロッカーがあった。
中は半分ほど空いていて、人ひとりなら入り込めそうな隙間がある。
レンジは体を押し込み、音を立てないように呼吸を殺した。
心臓の鼓動が耳の奥で鳴る。
だが彼は、ひとつ大事なことを忘れていた。
ロッカーの上部には、大きな穴が空いていた。
――そして、それ以上に致命的なのは。
狼は、目よりも鼻が利くということだ。
腕から滴り落ちた血が、ここまで続く“道標”になっていた。
それを辿るかのように、三つ首の悪魔は静かに、ゆっくりと近づいてくる。
グルルルル……。
低く、湿った唸り声が風に乗って響いた。
重い足音が中二階の床を踏みしめるたび、鉄骨が“ギシッ”と悲鳴を上げる。
――まるで、次の一歩で崩れ落ちそうに。
レンジは錆びた穴から外をのぞいた。
心臓が爆発しそうなほど鳴り響き、指先まで冷たく震えている。
足音が――近づいてくる。
一歩……
また一歩……
三つ首の怪物が、ロッカーの前をゆっくりと通り過ぎていった。
レンジは息を殺し、目を閉じる。
(……行った、のか?)
(やっと……逃げ切れた……)
胸の奥から力が抜けていく。
千トンの岩がどこかへ消えたような、そんな安堵が広がった。
だが、その瞬間――
ポタリ。
何かが肩に落ちた。
ぬるりとした感触。レンジは反射的に手で拭う。
赤い。
粘り気があり、温かい。
雨ではない。
レンジは顔を上げた。
――そして、見た。
ロッカーの上の穴から覗き込む、怪物の顔を。
血と唾液を滴らせ、口角を吊り上げている。
その三対の眼が、狩りを終えた獣のように光った。
「う、うわあああああああ!!」
レンジは絶叫し、扉を押し開けようとした。
だが、開かない。
錆びついて固まっている。
蹴っても、叩いても、動かない。
金属の軋む音が近づく。
怪物の呼吸が、すぐ頭上で鳴る。
(――ここで死ぬ。出なきゃ、殺される!)
「開けっ……開けろよッ!!」
レンジは叫びながら、全身の力で押し、蹴りつけた。
それでも、ロッカーはびくともしない。
怪物の瞳が、まるで嘲笑うように光った。
その光は、希望をすべて喰らい尽くす闇のようだった。
――その瞬間。
ガランッ!
鉄骨が低くうなり、重力に従って軋んだ。
ロッカーが傾く。
巨大な鉄の塊が、上にいた三つ首の怪物を押し潰すように倒れ込んだ。
朽ちかけていた中二階の床も、その重みに耐えきれず。
ドオオオン!!
轟音が響き、地面が震える。
無数の鉄筋が崩れ落ち、下の階へ突き刺さった。
赤茶けた粉塵と錆の匂いが一気に広がり、あたりは白い煙のように包まれる。
……
しばらくの沈黙のあと。
ロッカーの内側から“ゴンッ”という小さな音がした。
レンジが、ゆっくりと這い出してきた。
服は裂け、腕には深い傷が走っている。
片脚は変な角度に曲がり、立つこともままならない。
額から血が流れ、こめかみを伝って滴り落ちた。
彼は荒い息を吐きながら、崩れた鉄の山を見上げる。
そこには、倒れたロッカーと、中二階ごと押し潰された“それ”の姿。
「……頼むから……もう、終わってくれ……」
かすれた声が静寂の中に消える。
それは祈りのようでもあり、懇願のようでもあった。
レンジはふらつきながら振り返る。
崩れた工場の入口から、月の光が差し込んでいる。
――それが、彼にとっての“出口”だった。
ポケットを探るが、スマートフォンは見つからない。
たぶん、瓦礫の中に落ちたのだろう。
もう取りに戻る気はなかった。
(もう……いい……)
(もう、あんなもの……見たくない……)
彼は自分の身体を支えながら、一歩、また一歩と月明かりの方へ進む。
力の抜けた足を引きずりながら、それでも前へ。
倒れそうになりながらも、彼は生きるために歩き続けた。
静寂の中――
何かが、動いた。
崩れた瓦礫の山の下から、血にまみれた“手”がゆっくりと這い出してくる。
指がぴくりと動き、確かな意志を宿したように一本の鉄筋をつかんだ。
それを持ち上げる。
頭上高く――。
……
ズブッ!!
「は、は……っ!?」
出口へと足を踏み出したレンジの背中を、鋭い鉄筋が貫いた。
先端は胸を突き破り、前へと突き抜ける。
鮮血が飛び散り、床を真っ赤に染めた。
レンジの身体が崩れ落ちる。
力なく横たわり、自らの血の海に沈んでいく。
月明かりだけが、その惨状を静かに照らしていた。
リライト中です。