血の理論
通常のコクメよりも厳しい訓練を課されているせいで、レンジは毎日の授業に出るだけでも精一杯だった。
他の者たちが朝五時に起きて地獄のような運動をこなしている間、レンジとチームの仲間たちは午前三時に起床し、さらに過酷な鍛錬に耐えねばならない。二十キロ以上の距離を足首に重りをつけて走らされることもあれば、腕立て伏せをしながらハヤト教官を背中に乗せることもある。どちらも体力を根こそぎ奪っていった。
(これでもまだ軽い方なんですよ。君たちには友達と重さを分け合ってもらってるんですから。ずいぶん温情をかけているつもりです)
ハヤトの声がレンジの頭の中に響き、わずかに意識を引き戻した。視界の中では、自分とオイダイラが背中にハヤトを乗せたまま腕立て伏せをしている。互いに重さを均等に分け合うだけでなく、バランスを保たなければならない。少しでも崩れれば、一から数え直しだ。
唯一条件が違うのはミキとりんだった。二人は手首と足首に錘をぶら下げてから腕立て伏せをする。体格の違いによる訓練方法の差ではあるが、苦しさに変わりはなかった。
「今年も優勝するのはイーグル隊だろうな」
机に突っ伏して休んでいたレンジの耳に、隣のマサトの声が入ってきた。まだ訓練の疲れが抜けきらず、少しでも休もうとしていた時だ。
「この隊は勢いがすごいからね。メンバーも優秀揃いだし、勝って当然って感じ」
マサトの隣に座っていたアイリが口を挟んだ。レンジは顔を上げ、二人が何を見ているのか覗き込む。彼らはスマホの画面に映る映像に釘付けだった。
「二人とも、何を見てるんだ?」レンジが寝ぼけた声で問いかける。
「決まってるだろ。今年の《最強討伐隊決定戦》の映像だよ!」
「えっ……最強討伐隊決定戦?」少年は怪訝そうに言葉を繰り返した。
「お前なにしてたんだよ!そんなことも知らないのか、レンジ!」
マサトが呆れたように言い放つ。
「しょうがないだろ。このところゴタゴタ続きでさ。休む暇もほとんどないんだよ」レンジは肩をすくめて返した。
「はぁ……」
ため息をついた友人は、知っていることを説明し始めた。
「毎年、《最強討伐隊決定戦》っていう大会が開かれるんだ。出場できるのは二年生限定で、一つの隊につき十二人。参加者は森に入って、他の人間を殺してポイントを稼ぎ、生き残るんだ」
「はっ――人を殺すのかよ!」
レンジは思わず顔を引きつらせた。
「いや、本当に殺すわけじゃないよ」マサトが慌てて訂正する。「胸に水の入ったボールを装着してるんだ。そのボールが割れたらゲームオーバーってわけ」
「なるほど……そういうことか」
レンジは胸を撫で下ろし、安堵の息を漏らした。
「でもな、その森には《天空の瞳》っていうものが存在するんだ」
マサトが声を低めて続けた。「どの隊でもいい、それを見つけた瞬間、得点が最下位でも優勝が決まる」
「へぇ――そんな勝ち方されたら、ずっとポイント稼いできた隊はやる気失せるんじゃないのか?」
レンジは半ば呆れたように友を見た。
「そうでもないさ」マサトは答える。「《天空の瞳》なんて噂ばかりで、実際に見つけた者はいない。伝説みたいに語られてるだけなんだ」
「へぇ――そんな話があるんだな」
「ああ」マサトはうなずいた。「競技場も半分は遺跡みたいな古い場所でさ、娯楽の要素もあるんだ。でも、もし本当にそれを見つけたら……一気に伝説入りだ。金も名誉も手に入る」
レンジは机に突っ伏したまま、話を聞きながら半分眠気に落ちていく。
「暇があったら、俺も見に行くかな……マサトくん」
「おうおう、好きにすればいいさ」
マサトは軽く友の肩を叩き、再びスマホの画面に視線を戻した。
やがて、トントンとヒールの音を響かせながら一人の女性が教室に入ってきた。
長袖のシャツにショートスカート、腰まで伸びたポニーテール。高いヒールの音が床を打つたび、レンジの目は大きく見開かれた。
「皆さん、こんにちは」
透き通るような声が響き、教室の空気が一気に引き締まる。
「私のことを覚えているかしら。基礎看護学の担当教官です」
レンジの脳裏に、あの日の記憶がよみがえる――ミッドナイト選抜試験のとき、銃声、悲鳴に近い痛み。クラスメイトたちもまた、彼女の姿に息を呑んでいた。
「先日のことは本当に申し訳ありませんでした」
彼女は柔らかな声で言いながらも、目の奥は力強い。「あのときの行動は任務でした。皆さんを苦しませてしまったかもしれませんが、すべてはあなたたちのためです」
視線が教室をゆっくりと巡る。誰も口を挟まず、静まり返った。
「改めて自己紹介しますね。カナエと申します。よろしくお願いします」
彼女は穏やかな笑みを浮かべると、「それでは授業を始めましょう。質問があれば手を挙げてください」と告げた。
「はい!」
生徒たちは一斉に声を揃え、敬意を示した。
カナエは教室全体を見渡し、問いかけた。
「皆さん、私たちが初めて会ったときのことを覚えていますか?」
その質問が空気を一気に張り詰めさせ、教室の隅々から小さなざわめきが漏れた。
「では、記憶を呼び戻しましょう」
カナエは続けた。「あの日、あなたたちは《クロモノ》の菌を含まない、通常の武器で攻撃されましたね? 当時の理解はまだ限定的でしたので、ここで改めて説明しておきます」
彼女は落ち着いた声で、しかしはっきりと語り始めた。
「本来、あなたたちのような特殊免疫保持者に危害を与える武器には、通常の菌が組み込まれています。ですが実は――状況によっては《普通の武器》でも危険になり得るのです」
「ええっ!!!」
教室中に驚きの声が響いた。
アイリが小さく震える声で手を挙げる。
「どうしてそんなことが起こるんですか?」
「通常、あなたたちの傷の治癒は“集中力”に大きく依存しています。どんな武器であっても、傷を癒やすには集中力が必要です。ただ……普通の武器は大抵軽度で、ほとんど集中する必要がありません。一方、毒を持つ武器や《クロモノ》菌を含む武器は、深刻な傷を与え、あなたたちの身体により強い集中を強いるのです」
教室は静まり返った。ついさっきまで競技のルールに安堵していた心が、再び揺さぶられていく。自分たちの身体が思ったほど安全ではないかもしれない、という現実に。
カナエはうなずき、冷静に答えを続けた。
「では、なぜ《普通の武器》でも私たちを殺せるとおっしゃるのですか?」
ユウマが手を挙げて質問した。
「普通の銃弾なら――たとえ百発撃ち込まれても、あなたたちの身体は徐々に傷を塞ぎ、回復します」カナエははっきりと説明する。「けれども、もし剣で首を一閃された場合、どれだけ集中しても生存の可能性はほとんどありません」
ざわっ、と教室内に驚きの声が重なった。レンジは思わず自分の首に手を当て、怯えた仕草を見せる。
カナエは軽く手を上げ、視線を集めると、さらに続けた。
「ですが例外もあります」
彼女は静かに告げた。「もし即座に治療が行われれば――二秒以内なら助かることもあります。すべてが絶対ではありません。そして、傷に慣れ耐性を持つ身体なら、他の人ほど集中力を使わずに治癒できる場合もあるのです」
マサトが手を挙げ、疑わしげに質問した。
「じゃあつまり、《クロモノ》で変異した普通の人間――いわゆる一般人でも、感染者を殺せるってことですか?」
「そんなに簡単な話ではありません」
カナエはきっぱりと言った。
「理由はいくつもあります。まず、普通の人間が変異した場合、その血液が周囲に感染を拡げる恐れがある。そして変化した肉体は殺しにくく、皮膚は厚く強靭で、さらに善悪の判断が曖昧になっていることも多い。これらすべてが“普通の人間”との遭遇を極めて危険なものにしているのです」
ユウマはまだ納得できない様子で続ける。
「じゃあ、《クロモノ》を混ぜた武器で感染者を殺せるなら――わざわざミッドナイト隊が必要なんですか? 討伐隊だけじゃダメなんでしょうか?」
カナエは小さく笑みを浮かべ、穏やかに答えた。
「いい質問ですね。《クロモノ》を混ぜた武器の効力は、あなたたち自身が《クロモノ》から生み出す力と比べるとせいぜい二割程度にすぎません。つまり、現在の討伐隊が持つ武器は、低レベルの感染者を抑えたり処分したりすることはできても、高レベルの感染者を直接制圧することはできないのです」
その説明を聞きながら、レンジの脳裏には、最近の戦闘の光景が鮮明によみがえった。
――巨大なムカデ型の《クロモノ》感染者。
どこにも致命的な弱点がなく、血で作り出した武器さえ通りにくかった。いくら自分の力を使っても、あの敵を倒すことは想像以上に困難だったのだ。
「感染しないのが一番だよな」
マサトがレンジの耳元でそっと囁いた。
「誰だって感染なんてしたくないさ。君だってそうだろ」
レンジは淡々と答える。「でも仕方ない、俺たちはもうやってしまったんだ。せめてこうして息をしていられるだけでも運がいい方さ」
「その通りだな」
マサトは小さく笑った。「でもさ……実は俺、この状態をそんなに後悔してないんだ」
「えっ?」
レンジは眉を上げ、友人を見た。
「心の奥底で、ずっと願ってたんだ。特別な力が欲しいって」
マサトはきらめく目で語った。「レンジも知ってるだろ? 他人にできないことを自分だけができるって、どれだけカッコいいか」
「でもこれは命懸けだぞ」
レンジがたしなめる。
「だから何だよ」
マサトはまっすぐに見返した。「普通の世界じゃ、俺は何の特別さもなかった。つまらない毎日だった。誰にも注目されず、空気みたいに過ごして、学校に行って家に帰って本を読んで寝るだけ――そんな日々に意味なんてなかったんだ」
「でも分かってるだろ? 今君が直面しているものは、いつ君を殺すか分からないって」
レンジが静かに言う。
「俺? まだだよ。せいぜいイエロー程度しか見たことがない。標準クラスだ。俺たちみたいな凡人がオレンジクラスと遭遇するなんて、まだ先の話さ。討伐隊だってオレンジクラスを相手にするには、何年も経験を積んだチームが必要なんだぜ」
「そうか……」
レンジはゴクリと唾を飲み込んだ。「それならいいけど」
「まさか、オレンジクラスにもう遭遇したとか言わないよな」
マサトが目を丸くする。レンジは小さくうなずいた。
「うわ……マジで? すげぇな」
「目の前の敵が一瞬で自分を殺せるかもしれないってとき、君はそれでもミッドナイト隊であることを誇れるのか?」
「もちろんさ」
マサトは笑顔で答えた。「他人のために命を懸けるほうが、何も残さずに生きて死ぬよりずっとカッコいいだろ?」
レンジは友人を見つめ、薄く笑みを浮かべた。
「君は本当にカッコいいよ、マサトくん」