流星雨
今夜は流星群が観測できる――そんな噂を耳にした。
レンジにとって、それは久しく目にしていない現象だった。どうしても見たくなった彼は、タツヤを誘ってみたものの、友人はまるで興味を示さない。結局レンジは、一人で病院の屋上へと足を運ぶことになった。
今夜は新月。月明かりのない空に、無数の星々が煌めきを放っている。
レンジの手には、コウマからもらったリンゴが一つ。流星群を眺めながら静かにそれをかじろうと思っていた。
屋上には古びた鉄製のベンチが一つあるだけ。
彼はそこに腰を下ろし、流星群が現れるという方角をじっと見つめた。やがて小さな小惑星の欠片が大気を裂き、銀色の尾を引いて漆黒の空を横切る。その光は、まるで宝石をばらまいたかのように美しい。
「……こんな空を見るのは、いったいどれくらいぶりだろう」
最後に夜空を見上げたのがいつだったか、思い出せない。
早朝からの通学、アルバイト、家事――ただそれだけで日々は過ぎ去り、疲れ果てて眠るばかり。空の出来事に目を向ける余裕など、とうになくしていた。
ただひとつ、強く覚えている夜がある。
父に連れられて行った、海辺での流星群。まだ幼く、どこへ連れて行かれるのかも分からぬまま眠ってしまったが、目を覚ますと、満天の星と――世界で一番大好きな父の姿が隣にあった。
「……会いたいな。あの頃に戻れたら」
思わずこぼれた独り言。
「会いたい、と申すか……ふむ。されば其は誰のことを指しておるのだ?」
「えっ!!?」
レンジは飛び上がるほどに驚き、隣を振り返った。
たしかに自分は一人で座っていたはず――だが、その場には声の主がいた。
白く透き通るような肌、後ろで高く結わえた銀色の長髪。
漆黒に染まった爪、十本の指には黒と金の指輪が交互に光り、
白一色の長袖と長ズボンを纏う姿。
腰には金色の球体のガラスのキーホルダーが揺れていた。
レンジはついに、その男の顔をはっきりと目にした――そして瞬時に悟った。
“彼”が誰なのかを……。
「こ、この声……まさか……あなた! あなたはノワールさんなんですか!」
「おお、覚えておったか」
ノワールは薄く笑みを浮かべ、軽く手を打ち鳴らした。
「てっきり忘れられたと思っておったのだがな。久方ぶりである……どうだ、健やかに過ごしておるか?」
「ぼ、僕は元気です! い、いえ……お久しぶりです、ノワールさんもお元気ですよね?」
レンジは気まずそうに挨拶を返し、片手で後頭部をかきながら照れ笑いを浮かべた。
「ふ……我は病むことなど無い」
ノワールは低く笑みを漏らし、レンジの隣に腰を下ろす。
「さて……一人で流星を見に来たのか」
レンジは小さく頷いた。視線はなおも夜空に釘づけのまま、その眼差しには淡い寂しさが漂っていた。
「しかし……どうやってここに? さっきまで誰もいなかったはずなのに」
レンジが不思議そうに問いかける。
しばし考え込んだ後、はっとしたように目を見開いた。
「まさか……ノワールさんも僕みたいに体調が悪いんですか! 怪我とかしてないですか?」
「怪我、だと……ふふ、久しく耳にせぬ言葉よ」
ノワールは目を細め、微笑を浮かべた。「誰かが我を案じるなど……初めてのことだ」
彼は夜空を仰ぎ、低く穏やかな声を響かせる。
「我は望めば、いつでも、どこへでも行ける存在……縛られるものは何もない。そして今宵ここに現れたのは、ただ……汝に会いたかったからに他ならぬ、レンジくん」
「……僕に、ですか?」
レンジは自分を指差し、困惑の色を浮かべた。
「案ずるな」ノワールは薄笑いを浮かべる。
「我は“友”として、汝を気にかけておるにすぎぬ」
そして真っ直ぐに少年を見据え、言葉を続けた。
「さて……このところ、奇妙な夢を見ることは無かったか?」
「奇妙な……夢?」
レンジは反芻するように呟き、直近の夢を思い出した――そこに映っていたのは、自分とは似ても似つかぬ“異形の姿”だった。
「……多少は、ありますけど……」
ノワールの目が細められ、鋭い光を宿した。
まるでレンジの言葉の続きを、すでに知っているかのように――。
「我は汝に、ひとつ戒めを与えよう……」
ノワールが唐突に口を開いた。
「えっ!」
レンジは思わず肩を震わせる。
「真に迫る夢には気をつけよ……それは強き願望を呼び起こし、また深き闇の災厄をも招く。だが、何が生じるかは――すべて汝自身の在り方に起因するのだ」
「強い願望……そして、闇の災厄……」
レンジは呟くように繰り返し、考え込む。「まるでコウマさんの言葉みたいだな……」
ノワールは小さく笑い、口元に妖しい笑みを浮かべた。
「されど我にとっては、いずれの道を選ぼうとも何ら変わりはせぬ……ふふふ。むしろ、その結果が我に利することもあろうな」
レンジは目の前の男を見つめ続ける。恐怖が胸を締めつける一方で、何故か信じたくなる衝動にも駆られる。この男は――人間という枠には収まらない存在だ。
「ノワールさん……ひとつ、聞きたいことがあるんです」
少年は大きく息を吸い込み、恐怖を押し殺して口を開いた。
「申してみよ、我が友よ」
「あなたは……人間じゃないんですよね」
「ホォ……そのように見えるか、レンジくん」
ノワールは喉の奥で笑う。「だが我は気にせぬ。汝がそう見なすなら、それもまた真実であろう。もし我が姿が汝の目に不快であるなら、肌の色も貌も、人に似せて変えてみせようか」
「い、いえっ! そんな必要はありません!」
レンジは慌てて首を横に振る。「僕、あなたに似た人を見たことありますから……。だから、自分の姿を誇ってください。……変なこと聞いてすみませんでした」
「案ずるな。我はそのようなことで気を害することはない……レンジくん」
ノワールは淡く微笑んだ。
レンジは唇を噛みしめた。問いただしたいことは山ほどある。――ミッドナイトに入る前の、あの夜のこと。思い出そうとするたびに頭痛に苛まれ、記憶の断片にノワールの姿はない。だが直感が告げていた。この男こそが、自分をここに導いた存在かもしれないと。
「……実は、少し困ってることがあるんです」
レンジは慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「ほう、何ゆえだ?」
ノワールは僅かに眉を上げる。
「その……記憶のことで。僕、ところどころ思い出せないんです」
ノワールは黙って少年を見やる。
「それに……本当は、あなたとこうして話すのもミッドナイトの規則違反なんです」レンジは声を落とし、打ち明ける。「でも、僕は……あなたに会えて嬉しいです。僕がまだ感染していなかった頃、あなたに出会いました。それが理由で、外の人と関わるのは本当は禁じられているんです。でも、誰にも知られなければ……罰せられることもないと思います」
「そうであったか……それは済まぬことをしたな」
ノワールは静かに答えた。
「いえ、そういうことじゃないんです」
レンジは首を振り、真剣な眼差しで続ける。「僕が知りたいのは……ここへ来る前、短い間ですが記憶を失ったことなんです。その時、自分は死んだと思った。でもなぜなのか、分からなくて……」
ノワールの瞳が怪しく光り、唇に薄い笑みが浮かぶ。
「ふむ……記憶の喪失。それはおそらく、汝自身の無意識が作り出した楯であろう。あまりに酷き真実を思い出さぬように――守るためのな」
レンジは真剣に耳を傾けた。確かにそうかもしれない、と胸に落ちる。だが、それでも知りたい――記憶の空白に潜む真実を。
「……それでも、僕は知りたいんです」
「分かるぞ」ノワールは妖しく笑みを浮かべる。「人の好奇心は大いなる発明を生み、疑念は進化をもたらす……だが」
そこで言葉を区切り、レンジをからかうような視線を向けた――。
「或る事柄は……未だ汝が知るべき時にあらず。ただそれだけのことよ、我が友よ」
ノワールの言葉に、レンジは肩を落とした。失望の色がはっきりと瞳に浮かぶ。
「じゃあ……やっぱりノワールさんは何か知ってるんですね」
「ふむ……真に知るべき者は他ならぬ汝自身よ、レンジくん」
名を呼ぶ声には、妙な響きが込められていた。
「僕……自身……ですか」
ノワールは喉の奥で笑い、ゆるやかに立ち上がると手足を軽く振った。
「さて……我はそろそろ立ち去らねばならぬ。片付けるべき事柄が山のごとく残っておるゆえにな。誰ぞ手を貸してくれる者でもあればよいのだが……怠け癖がついて仕方ないわ、ふはは」
レンジは流星の光を背に佇むその姿を見上げた。善か悪かも測れぬ、謎に包まれた存在――それは運命に導かれた邂逅そのものだった。
立ち去ろうとするノワールに、レンジは慌ててコウマからもらったリンゴを差し出す。
「ノワールさん、リンゴが好きでしたよね。よければ……どうぞ」
ノワールは一瞥し、やわらかく首を振った。
「心遣いは嬉しいがな……今宵の我は既に満腹であってな。さながら“食べ放題の宴”のごとき夜であったゆえ。しかもそのリンゴは汝のものだ。食すがよい。気持ちだけ、受け取っておこう」
「そうですか……じゃあ、ノワールさんはどこへ? 僕が送りますよ」
「必要はない」
ノワールは指を天へと向ける。
「まもなく北西の空に、今宵最大の流星が落ちるであろう。よく目に焼きつけよ……見逃せば必ずや後悔するぞ」
「えっ、本当ですか!」
レンジが慌てて振り向いたその瞬間、夜空を切り裂くようにひときわ大きな流星が光を放った。
「……すごい! 本当に綺麗です、ノワールさん!」
感嘆の声を上げ、振り返る――しかし。
「……え? ノワールさん?」
そこには、もう誰の姿もなかった。先ほどまで隣にいたはずのノワールは、流星の輝きとともに掻き消えていたのだ。
「……行っちゃったのか」
レンジは小さく呟き、落胆の影を落とす。
「僕……また会えるのかな、ノワールさん」
大きくため息をつき、再びひとりでベンチに腰を下ろす。
手に残ったリンゴをかじりながら、彼は降り注ぐ流星群を見上げ続けた――まるで運命の答えが、まだ夜の闇に隠されているかのように。