コウマ
「……うっ、ん……!」
レンジは悪夢からゆっくりと目を覚ました。全身にまとわりつくような重苦しさが残り、周囲には点滴のチューブや医療機器がずらりと並んでいた。
「……あっ! 目を覚ましました! すぐにマイケル先生を呼ばないと!」
点滴を交換していた看護師が驚きの声を上げ、そのまま慌てて病室を飛び出していった。
間もなく、白衣を着た大柄な人物が入ってくる。
マイケル――レンジの主治医である彼は、足早に近づくと少年の容体をすぐに確認した。
「気分はどうですか? 何日も眠り続けていたんですよ、レンジ君。私のことを覚えていますか? ここに来たときからずっと担当している医者です」
レンジは無精ひげを生やし、目の下に濃い隈を浮かべた男を凝視した。すぐに思い出す。
「……あぁ、覚えています」 かすれた声で答える。
「それで……僕は何日眠っていたんですか?」
「丸五日ですよ」マイケルは深くため息をついた。
「もう二度と会えないんじゃないかと思いました……あなたの友人も重体で、私も本当に心配しました。でも幸い、彼は昨日になって意識を取り戻しました」
「友人……タツヤのことですか?」
マイケルは静かに頷く。
「あなた方が受けた毒は非常に危険なものです。普通の人間ならショック死していたでしょう。しかも解毒薬は存在しない……。ただ、幸運なことにあなた方には耐性があった。そのおかげで、解剖室へ送ることにならずに済みました」
レンジは視線を落とす。
「ご心配をおかけして……本当にありがとうございます」
「気にする必要はありませんよ」マイケルは薄く笑った。
「これからは一般病棟に移して経過を観察します。三日から四日ほど様子を見て、問題がなければ寮に戻ってもらう予定です」
「……はい。これからもよろしくお願いします」レンジは小さく答えた。
マイケルはレンジの身体の状態を説明し、看護師に指示を出して再び頭部の傷を確認させた。こうしてレンジは集中治療室から一般病棟へ移される準備を進められていくのだった。
レンジが移された部屋には、すでにタツヤが入院していた。背の高い青年は、隣に寝かされたレンジを見て声をかけずにはいられなかった。
「死んだかと思ったぞ……なかなか丈夫じゃないか」
タツヤは首を傾げながら横目で彼を見る。
「ただ……運が良かっただけですよ」レンジはかすかに笑みを浮かべる。
「少なくともタツヤさんが無事でよかった。安心しました」
「他人のことばかり気にして……少しは自分のことを心配しろ」
タツヤは半ば叱るように言う。
「ヒーローぶって、自分を見失うな」
「はい」レンジは素直に答え、そして言葉を継ぐ。
「でも、タツヤさんも同じですよ」
「俺が……?」タツヤが聞き返す。
「ええ」レンジは頷いた。
「今の俺たちは同じチームであり、同じ家族です。もう一人じゃない……忘れないでください。俺たちはいつだってあなたを気にかけてます」
タツヤは無言のまま、ただレンジを見返すだけだった。何を思っているのかは分からない。けれど、レンジにとってはそれだけで十分だった。彼が少しでも耳を傾けてくれたことが嬉しかったのだ。
レンジにはわかっていた。タツヤが背負ってきたものはあまりにも重く、簡単に癒えるものではない。だからこそ――ただ時間が必要なのだろう。そしていつの日か、彼自身を受け入れ、このチームも受け入れてくれることを願わずにはいられなかった。
日が経つにつれ、二人の体調は徐々に回復していった。退院まで、残り一日。
「コーラが飲みたいなぁ……」
ベッドに寝転び、額に手を当てながらレンジがぼやいた。
「ここにいるだけじゃ退屈で仕方ない」
上体を起こすと、彼は隣で漫画を読んでいるタツヤへ視線を向ける。
「タツヤさん、何か飲みたいものは? 下の自販機で買ってきますよ」
「いや、いらん」タツヤはページをめくりながら退屈そうに答える。
「じゃあ、俺だけ買ってきます。もし看護師さんが来て俺がいなかったら、飲み物を買いに行ったって伝えてください」
「……あぁ」
レンジはベッドを降り、病棟の一階へと向かった。
消毒液の匂いが充満し、重症患者たちの姿があちこちに見える。腕や脚を失った者、全身をガーゼで覆われた火傷患者――その多くは討伐隊や“ミッドナイト部隊”の兵士たちだった。
惨状に思わず唾を飲み込むレンジ。ロビーに近づくと、そこもまた負傷者であふれていた。だが彼の視線はただ一つ、自動販売機に注がれていた。
カシャンッ!
取り出し口から炭酸飲料が落ちてくる。レンジが手を伸ばしたその時、赤いリンゴが一つ、足元へ転がってきた。
「えっ……リンゴ? どうしてこんなところに……」
飲み物を片手に拾い上げ、周囲を見回して声をかける。
「どなたかリンゴを落としましたか?」
「……あ、それ、俺のです。すみません」
低い声と共に現れたのは、白いスーツを着た青年だった。黒い短髪、黒い瞳、紙のように白い肌。指先の爪は黒く縁取られ、額には菱形の黒い紋様が連なり鎖のように刻まれている。鍛えられた長身の体を持ち、手には紙袋いっぱいのリンゴ――数が多すぎて一つ落ちてしまったのだろう。
レンジが差し出すと、青年はにこやかに受け取った。
「水で洗えば大丈夫ですよ。少し傷はついてますが食べられます」
「ええ、そうですね」青年は苦笑する。
「こんなに持ってくるんじゃなかった。……ところで、あなたはリンゴを食べますか? お名前は?」
「フジワラ・レンジです。よろしくお願いします」
「俺はコウマです。よろしく」
コウマは軽く頭を下げ、レンジも慌てて礼を返す。
そしてコウマが小首をかしげ、問いかけた。
「その病衣……あなたもここの患者ですか?」
「えっと……はい」レンジは後頭部をかきながら答える。
「ただ、飲み物を買いに来ただけです」
「そうですか」コウマはやわらかく微笑んだ。
二人はロビーのソファに腰を下ろし、目の前のテレビには今夜北の空に流星群が見られるというニュースが流れていた。
「流星群……美しい現象ですね」
コウマはふと口にする。
「願いを運ぶと同時に、災厄も呼び込む――そう言われているんです」
「えっ、災厄まで? そんなの初めて聞きましたよ」レンジが目を丸くする。
「ただの言い伝えにすぎませんけどね」コウマは笑い、そして問いかける。
「ところでレンジさん、どうして入院することになったんですか?」
「それは……」
レンジは自分の身に起こった出来事を語り始めた。コウマは静かに耳を傾け、理解を示すように頷いていた。
「なるほど……あなたでしたか」コウマは少し眉を上げ、口元に笑みを浮かべた。
「先日、“クロモノ”患者からムカデの毒を受けた人物がいると報告を受けましたが……やはり、あなたのことだったんですね」
「えっ……報告?」レンジが聞き返す。
「ええ」コウマは落ち着いた声で続ける。
「私がここへ来たのはその件のためです。あなたの血液を受け取り、研究に使うことで、即効性のある治療薬を開発する……そのために」
「研、研究……ですか?」
「そうです」彼は頷いた。
「あなたは毒の突然変異によって昏睡状態に陥っていた。治療が遅れたのもそのせいです。だからこそ、“ミッドナイト”部隊の病院から直接依頼を受けて、あなた方の血液を研究に使うことになったんです――未来のために」
「未来のために……」レンジはつぶやき、さらに問いかける。
「コウマさんは、どこで働いているんですか?」
「俺ですか?」コウマは小さく笑い、自分を指差した。
「“クロモノ”抗ウイルス薬の研究を行う会社に勤めています」
その時、バタバタと足音が響き、数人のボディーガードが駆け込んできた。緊張した空気に、レンジはごくりと唾を飲む。
「コウマ会長! ルーサー様がお車でお待ちです。至急――」
「見てわからないんですか? 私は今、お客様と話しているんですよ」
短い一言で、護衛たちは動きを止めた。畏怖の色が浮かぶ中、コウマは振り返り、再びレンジに微笑む。
「怖がらせてしまってすみません」
彼はポケットから名刺を取り出し、丁寧に差し出した。
「これ、私の名刺です。もし助けが必要なときは遠慮なく連絡してください」
レンジは受け取り、コウマの顔を見つめた。
「ありがとうございます。でも……僕なんかが――」
「いいえ」コウマは静かに言葉を重ねる。
「むしろ感謝すべきは私の方です。私はあなたの血液を研究に使わせてもらった。法律上、“クロモノ”患者の血液を研究材料にすることは許されています。ですが……私はあなたに直接お礼を言うべきだと思ったんです」
そう言って、彼はリンゴを一つ取り出し、レンジに手渡した。
「一日も早く回復しますように」
それだけ告げると、コウマは立ち上がり、護衛と共に立ち去っていった。
残されたレンジはリンゴを脇に置き、名刺をまじまじと見つめる。
『アマバ・コウマ コウマ・コーポレーション代表取締役』
「……えっ」
名を見た瞬間、レンジの目が大きく見開かれる。
ほんの少し前まで普通に会話していた相手が、世界にただ一人の“クロモノ”抗ウイルス薬の専門家――大企業の会長、アマバ・コウマその人だったのだ。