夢
「任務は学校にあるはずだろ? お前たちがここに来る許可は出ていないはずだ」
ハヤトの声が響き渡り、その圧に場の空気が一瞬で沈み込む。
「こんな行動……規則違反だって分かってるよな」
ゆっくりとタツヤが目を開ける。視界はぼやけ、意識はまだ夢うつつだ。ミキが糸を放ち、向かいの建物に突き刺すと、そのまま身体を揺らして飛び降りてきた。彼女は慌てた様子でタツヤの傷口を確かめる。
タツヤの体は傷だらけだった。それはクロモノ感染者との激闘の証であり、精神集中だけでは癒せるものではなかった。
「……傷、見せて」
ミキはそっと声をかけ、彼の腕や足を確かめる。巨大なムカデに切り裂かれた跡が生々しく残っていた。タツヤは苦痛と毒の広がりを表情の奥に隠し、黙って耐えるしかなかった。
「応急処置をするね」
彼女は糸を編んで小さな網を作り、それを包帯代わりにして仲間たちの傷を一人ひとり手当てしていく。
その頃、レンジは身体を支えながらフラフラと歩み出て、ハヤトの前に立った。顔には深い後悔の色が浮かんでいる。
「あの……この件について、僕から説明を――」
「全部、俺の責任だ!」
レンジが言葉を継ぐ前に、タツヤの声が鋭く割り込んだ。チームリーダーであるヒロキでさえも口を開けずにいる。
「俺が原因だ」
タツヤは真っ直ぐな眼差しで告げる。
「みんなを危険に巻き込んだのは俺だ。だから罰を受けるなら……俺ひとりでいい」
「違う! そうじゃない!」
レンジが強い声で反論する。
「僕たちだって、彼について行くと決めたんだ」
「そうよ!」
すかさずミキが声を上げる。
「彼は止めてくれたのに、私たちが勝手について行ったの!」
「俺もだ」
ヒロキが重く言葉を添える。
「私も」
リンも短く頷いた。
オイダイラは少し口ごもりながらも口を開いた。
「いや……俺は帰ろうとしたんだけど、レンジが――ぐふっ!」
次の瞬間、リンの肘が彼の脇腹に突き刺さった。
「……い、いや。俺も自分の意思で来たんだ」
オイダイラは慌てて言葉を訂正した。
ハヤトは自分の部隊のコクメたちを順に見渡し、重苦しい眼差しを落とすと、大きくため息をついた。
「はぁ……どうせこの件は司令官の耳に入る。罰を受けるのは君たちだけじゃない。俺だって同じだ」
低く響く声に、皆が黙り込んで俯く。しかし彼は言葉を続けた。
「だが……生きて帰ってきたのは何よりだ。そして――」
一瞬、間が空く。静まり返った空気の中、誰もが息を止めて次の言葉を待った。
「……よくやったな。チームとして動けるようになった。それに、オレンジ級のクロモノ感染者から生き延びたんだからな」
「今だけだ」
タツヤはそっぽを向き、不貞腐れたように吐き捨てる。
「こんな連中と組む気なんてさらさらねぇよ……」
「命を救ってもらったんだから、感謝くらいしなさいよ、タツヤ!」
ミキが鋭く叱りつける。
「『ありがとう』って言うだけで、あなたの価値が下がるわけじゃないんだから!」
「そうよ、ミキの言うとおり」
リンは腕を組んで顎を上げる。
「私たちがあんたを助け出したんだからね! 分かってる? 私なんてあのムカデの唾液、浴びまくったんだから。あとちょっとで飲み込まれるところだったんだよ! そしたらあんたなんて、ただのゲロ怪物になってたんだから!」
「このっ……クソ縮れ毛!」
タツヤが烈火のごとく怒鳴る。
リンはビクッと肩を震わせてヒロキの背後に隠れたが、それでも負けじと叫んだ。
「縮れ毛じゃありません! 天然パーマって言うんです!」
その小さな口喧嘩が、張り詰めた空気を少し和らげた。皆の視線はタツヤに集中する。まるで、彼の一言を待っているかのように。
タツヤはうつむき、悔恨の色を宿した目で呟いた。
「……悪かった。それから……ありがとう」
その瞬間、皆の顔に笑みが広がった。ようやくタツヤが仲間を受け入れたのだ。
レンジが一歩前に出て、真っ直ぐに彼を見つめる。
「僕も……ありがとう。これからも、一緒にやっていこう」
タツヤは口元を歪め、滲む涙を隠すように笑った。
「お前ら……バカだな」
「そうだよ。俺たちは狂犬さ」
――狂犬。その言葉は、彼にとって久しく聞くことのなかった響きだった。胸に重く沈むのに、不思議と雨上がりの陽だまりのように温かかった。
「よし……誤解も解けたことだし、そろそろ戻ろうか。もう皆、疲れてるだろう」
ハヤトが自分の部隊のコクメたちに声をかける。
「はいっ!」
「それにしても……ハヤト先生ってすごいな。ミッドナイト部隊の第四階級なんだって? かっこいいじゃん」
オイダイラがハヤトの胸元にあるマントの紋章――蛇と階級を示す刻印に視線を送る。
「一般兵なら第二階級でも生き残るのは大変なんだぞ。でも、オレンジ級の感染者を単独で討伐できるなら……第五階級でもおかしくないんじゃないか」
「何ぶつぶつ言ってるの、オイダイラ」
リンが小声で問いかける。
「べ、別に。独り言だよ。文句あるか?」
彼は慌てて取り繕う。
「先生の胸元の階級章、こっそり見てたでしょ」
リンがからかうように目を細める。
「み、見てない!」
オイダイラは即座に否定した。
「何の話?」
ミキが興味津々で会話に割り込む。
「ハヤト先生の兵階のことだよ」
リンが答える。
「えっ? そんなのあるの? 詳しく教えてよ」
「胸の紋章で立場と実力が分かるの。等級は一から六まであって、六が最高。六は高位司令官クラス。それ以下は実績と能力によって順に分けられるのよ」
リンは誇らしげに説明する。
「なるほどねぇ」
ミキが納得したように頷く。
「つまり、オイダイラくんはハヤト先生の階級に嫉妬してるってわけね」
「し、嫉妬なんてしてねぇよ! このライオン頭!」
オイダイラが声を荒げる。
「何の話してるんだ?」
まだ体調が戻らないレンジが身体を引きずるように近づき、首をかしげる。
「ミッドナイト部隊の階級の話だよ」
ミキが答えた。
「へぇ……面白そうだな……」
レンジがそう言いかけた瞬間、膝から崩れ落ちて地面に倒れ込んだ。
「きゃっ! レンジ!」
ミキが慌てて彼を抱き起こす。
「はっ……チッ。情けねぇやつ……」
タツヤが毒づくが、その数秒後には自分もムカデの毒に倒れ込み、レンジと同じように地面に横たわった。
ハヤトは二人を見やり、やれやれと首を振る。
「自分もまともに動けないくせに……人をからかう余裕はあるんだからな」
若き教官は歩み寄り、二人を軽々と抱え上げる。右肩と左肩にそれぞれ担ぎながら。
「さぁ、これからは俺に続け。まずは病院で検査を受けてから寮に戻る。いいな、俺の指示には必ず従え」
「……ほら、また俺の前に姿を現したな」
男の声が闇の中で反響し、その響きがレンジの意識を呼び戻していく。
まぶたは重く、押し付けられているかのように動かない。彼はわずかに目を細め、目の前の世界を覗き込んだ。
自分は白い患者服を着て、白一面の湖に仰向けに横たわっていた。水は足首ほどの深さしかないのに、虚無の広がりは不思議なほど冷たく、孤独を際立たせる。
その前には、同じく患者服をまとった黒衣の青年が立っていた。顔立ちはレンジと寸分違わぬもの。しかし肌は死人のように白く、爪も瞳も漆黒に染まっていて、ぞっとするほど不気味だった。
男の背後には、空いっぱいを覆うほど巨大な古時計がそびえ立っていた。漆黒の夜空に浮かび、針はゆっくりと逆回転を刻んでいる。その傍らには、巨大な月が蒼白な光を放ち、水面に影を落としていた。
「あ……」
レンジは声を出そうとしたが、何も発せられなかった。
「莫大な力を持ちながら、それを使いこなせぬ……哀れなものだ」
男は宙に腰掛け、足を組み、顎に手を当てながら愚かなものを見るような優しい目を向ける。
「俺は本当は好きなんだ……お前を見るのがな。叶わぬ夢、掴めぬ理想、それでも守ろうと必死にもがく姿」
冷笑を浮かべ、囁くように続けた。
「見れば見るほど惹かれる。そして知りたくてたまらない……いつかその夢も願いも、守りたいものすらも、自らの手で壊してしまった時――お前はどうなるのか。クク……愉快だ」
(そんなこと、絶対にさせない!)
レンジは叫びたかった。だが声は届かず、目に見えぬ鎖が全身を絡め取り、抗うことさえ許さない。
「抗おうとしているのか」
男は小さく笑い、組んでいた足を解いてレンジの傍らに降り立つと、左足のつま先で彼の顔をなぶるように押した。
「なぜあの男がお前の中に俺を封じ込めたのかは分からん。だが、そこには確かな理由があるのだろう……俺はその時を待つだけだ」
レンジがもがけばもがくほど、男の目は妖しく輝き、愉悦に染まっていく。
「今はまだ抗うな。時も場所も、ここはお前にふさわしくない」
薄ら笑いを浮かべ、男は宣告する。
「だが安心しろ。いずれ必ず……再び相まみえる時が来る」
そう言うと、彼は左足をレンジの胸の上に掲げた。
次の瞬間、レンジは束縛から解放されたように相手の姿を鮮明に捉えた。だが動くより早く――黒衣の男の踵が胸を踏み砕いた。
轟音と共に衝撃が水面を波立たせ、白い水飛沫が大きな円を描いて飛び散る。
レンジの身体は一気に沈み込んだ。足首ほどの浅瀬だったはずが、その下は底なしの闇。視界を覆うのは、どこまでも続く漆黒だけだった。