負けたりなんかしない
その頃、タツヤが苦境に立たされていたまさにその時。
四階の現場へと辿り着いたレンジは、目の前の光景に息を呑む。驚愕と共にショットガンを構え、特殊な時計と連動させた引き金を引いた。
轟音と共に放たれた弾丸がムカデの怪物の背中を撃ち抜く。痛みにのたうった怪物は、タツヤを掴んでいた手を思わず離し、彼の身体は再び床に叩きつけられた。
その一瞬を見逃さず、ヒロキがワープして現れ、タツヤの体を戦闘の只中から引きずり出す。
「お前ら……なんで来た! これはオレの問題だ!」
タツヤが荒い息のまま、怒声を張り上げる。
その間にも、レンジは必死に逃げ回る。しかし背後では、怪物が執拗に追いすがり、一噛みで彼を食い尽くそうと迫っていた。
「いい加減にしろよ!」
ヒロキはタツヤの頑なさに堪えきれず、拳を握りしめ――
ドガッ!
真正面からタツヤの頬に叩き込んだ。
「心配だから来たに決まってんだろうが! 止めなきゃって思ったからだ!」
ヒロキは怒りを込めて睨みつけ、レンジを指差す。
「見ろよ! レンジは今、命懸けでお前を助けてんだぞ! それなのにお前は何してんだ!? 彼は自分の命を懸けてお前を守ってんだ! 少しは考えろ!」
「守る……? 守るだと……?」
タツヤは絶望を滲ませながら歯を食いしばる。
「もういい! オレはそんな“守られる”なんてものは二度といらない! 誰からもだ!」
再びヒロキを突き飛ばし、肩で荒く息をしながら叫ぶ。
「守るから……だから失うんだ! オレなんか死んだって構わねぇだろ! 無力で、バカで、弱いオレが一人死ねば、誰かが死なずに済んだかもしれねぇだろ!」
「何言ってんだ! オレたちは今、お前を助けようとしてるんだぞ!」
「知るかよッ!!」
タツヤの絶叫が響き渡る。
充血した瞳は揺れ、声は震えていた。
「オレの母さんも……オレを守って死んだ。オレは何もできなかった……。友達も……あの馬鹿も、くだらねぇことでオレを守って死んだ……。もうたくさんなんだよ! これ以上、誰にもそんな真似させたくねぇんだッ!」
ドガァン!
タツヤの言葉が続くよりも早く、ムカデの怪物が再び動いた。レンジを追っていたその尾が、凄まじい勢いで中空の床を薙ぎ払う。
コンクリートが大きくひび割れ、崩れ落ちていく。レンジは逃げ場を失い、足場の不安定な床を必死に駆け抜け――ついには行き止まりへと追い詰められた。
崩れ落ちる破片に追われながらも、最後には四階の崩れた瓦礫の上にうずくまり、完全に逃げ場を塞がれる。
「うわっ……や、やべぇ……もう逃げられねぇ……」
ゆっくりと、巨大な頭部が彼の正面に迫ってくる。影が覆いかぶさり、視界は闇に閉ざされた。
「は、はは……ど、どうも……」
レンジは乾いた笑いを浮かべ、精一杯の強がりで口を開く。
「さっきは……ごめんなさい……。撃ったの……そんなに痛くなかったですよね……?」
だが、返答はない。
怪物はただ、にたりと笑みを広げていくだけ。――広がり、さらに広がり、やがて腰のあたりまで裂けた。
それは女の上半身に見えていた部分――だが実態は、全てが怪物の「口」だったのだ。
冷たい恐怖が心を支配する。レンジは大きく唾を飲み込む。脳は真っ白になり、逃げる術も思いつかない。
ギャアアアアッ!!
鼓膜を裂くような甲高い絶叫が響き渡り、怪物の巨大な口が大きく開いてレンジを丸ごと飲み込もうと迫る。
「うっ……!」
レンジは両手で耳を塞ぎ、必死に凶悪な音の波から身を守ろうとする。
その時――。
「レンジくん! こっちよ!」
聞き覚えのある声が響いた。
ミキだ!
仮面を着けたしなやかな身体が現れると同時に、彼女の腕から蜘蛛の糸が放たれる。糸は空を切り裂き、レンジの身体に巻きついて一瞬で引き寄せた。
さらに、リンが風を巻き起こし、ミキの体を持ち上げるように押し上げる。そのおかげで、レンジは怪物の顎から間一髪で救い出された。
シュッ!
レンジはミキに引き上げられ、辛うじて助かる。胸は激しく波打ち、心臓が今にも飛び出しそうなほど脈打っていた。
「よし、確保したわ! オオイダイラ、今よ!」
仮面の奥からミキが叫ぶ。彼女の指示を受け、五階で機をうかがっていたオオイダイラが動き出す。
「任せろ!」
彼は巨大な鉄柱を両腕でつかみ上げた。常人の百倍以上の重量を軽々と持ち上げ、そのまま怪物の頭上めがけて振り下ろす。
ドガァン!
鈍い衝撃音と共に、鉄柱は怪物の頭蓋に直撃した。巨体が崩れ落ち、粉塵が白い霧のように辺り一面に立ちこめる。静寂が訪れ――怪物は動かなくなった。
「やったぞ! 俺たちの勝ちだ!」
オオイダイラが歓喜の声を上げる。
彼は急いで下の階へ駆け降り、仲間と合流する。その間にミキはレンジを絡め取っていた糸を解き、リンと共に地上へと降り立った。
仲間たちは全員でタツヤを取り囲み、真剣な面持ちで向き合う。
「さっき、ヒロキと話してたこと……全部聞こえてたのよ」
リンが口を開いた。声は静かだが、強い意志が宿っている。
「確かに、守ることは時に喪失を伴うかもしれない。だけど……あなた、本当に見えてないの? みんなが、誰のために動いているのかを」
タツヤは顔をそらし、視線を逸らす。拒絶するように。
「それは……“愛”なんです」
レンジがかすれた声で言う。しかし、その言葉は揺るぎなく真っ直ぐだった。
「僕も失いました……。でもここにいるのは、僕だけじゃない。みんな同じように、大切なものを失ってきたんです」
ミキはその横顔を見つめ、切なさを滲ませた瞳を柔らかな微笑みで覆い隠した。
「みんなが本当は伝えたかったこと……でもお前が耳を塞いできたこと……それは――“生きろ”ってことだ」
ヒロキが低く、しかし力強く言い放つ。チームリーダーの声は揺るぎなく、タツヤの体を支えながら立たせた。
「死にたいって本気で思うなら……せめてもっと有意義に使えよ。その命で、守りたいと思える誰かを見つけろ。今はいなくても……必ず見つかる日が来る」
「そうだよ!」
レンジが笑顔を見せる。
「今の僕たちは同じチームだ。やるべきことは互いを守ること。それだけさ。今はまだ認められなくてもいい……僕たちは待つよ。君が僕たちを受け入れられる日まで」
「フン……好きに言えよ。そんな言葉で、オレが変わると思ってんのか?」
タツヤは奥歯を噛みしめ、頑なに突っぱねる。
「変わらなくてもいいんです」
レンジはそれでも笑みを崩さない。
「僕たちの声を、ほんの少しでも聞いてほしい……。タツヤさんのこと、心から心配してるんですから」
無邪気な笑顔を浮かべるレンジ。だが彼は気づいていなかった――背後で“それ”が忍び寄っていたことに。
ガブッ! ズシャッ!
「ぐっ……!」
鮮血が飛び散る。
「レンジ!!」
ミキの絶叫が響き渡る。
倒れたのは仲間の少年。
誰もが息を呑んだ――さっき仕留めたはずの怪物が、静かに動き出していたのだ。
その大顎がレンジの胴を丸ごと噛み砕くように咥え込み、巨体を持ち上げる。頭を振り回し、壁や柱に叩きつけるたび、建物全体が揺れた。
「や、やばい……レンジが……!」
オオイダイラが目を見開き、声を震わせる。
「どうすりゃいいってんだよ!」
ヒロキが焦りを隠せず叫ぶ。
「頭を押さえ込む! そうすれば……レンジが助かるはず!」
ミキは歯を食いしばり、怪物の周囲を駆ける。両腕から無数の血糸を放ち、床や壁に絡めとりながら怪物の動きを拘束しようとする。
だが――。
バキィッ!
怪物の力はあまりにも強大だった。張り巡らせた糸は次々に引きちぎられ、逆に振り抜かれた尾がミキを直撃する。
「くっ……!」
細い身体が壁に叩きつけられ、コンクリートが粉々に砕け散る。
「じゃあ……オレが嵐を起こす! レンジを飲み込ませはしない!」
リンが叫び、両手を広げる。小さな風が生まれ、それが次第に渦を巻き、やがて嵐のような強風へと膨れ上がる。瓦礫や砂塵が巻き上げられ、濃い霧のように視界を覆った。
「オレが行く!」
タツヤが呟き、レンジを咥えて揺さぶる怪物を睨みつける。そしてヒロキを一瞥した。
「合図したら……レンジを受け取れ。チームで戦うってのは……こういうことだろ」
「タツヤ……どういうつもりだ!」
ヒロキは吹き荒れる砂塵の中、必死に叫ぶ。
タツヤは答えない。金属の翼を大きく広げ、リンの生み出した暴風の中へ飛び込んでいった。
「彼の言う通りだ!」
オオイダイラが咆哮する。
「ヒロキ! お前はタツヤをサポートしろ! オレはミキを助けに行く!」
「くそっ……なんて無茶苦茶だ……!」
ヒロキは唇を噛みしめ、タツヤの背を追った。
タツヤは渦巻く暴風を切り裂き、怪物へ一直線に突っ込む。レンジはまだその顎に捕らわれ、血に濡れた体をぐったりと揺らしていた。深い噛み傷から毒が染み込み、全身を蝕んでいく。目は見開かれ、苦痛に耐えるように荒い呼吸を繰り返す。
「人間を吐き出させる方法は……これしかねぇ……!」
タツヤは奥歯を噛みしめた。
ドガッ!
鉄の拳が怪物の顎を打ち抜き、凄まじい衝撃音が響く。怪物は苦痛にのたうち、大きく口を開いた。その瞬間、レンジの体が吐き出され、空中へと弾き飛ばされる。
だが同時に――。
タツヤの一撃に反応した怪物は、本能のままに体をねじり、巨大な胴体を渦巻くように巻きつけてきた。圧倒的な力で締め上げ、タツヤの身体を押し潰そうとする。
しかし――締め上げが完全になる前に、タツヤは落下するレンジの襟を掴み取り、その体を持ち上げて怪物の締め付けの外へ突き出した。
「ヒロキィィ!!」
怒号が嵐を突き抜け、仲間の耳に届く。
一瞬の間に、ヒロキの姿がワープしてタツヤの隣に現れた。
タツヤは残された最後の力を振り絞り、レンジをヒロキの腕へと押し込む。――連れて行け、その意思は明確だった。
「ダメだ! タツヤ!!」
レンジは必死に手を伸ばし、涙を流しながら叫ぶ。タツヤの体が、暗黒の渦の中へゆっくりと呑まれていくのを見つめながら。
「離してよ! オレが助けるんだ!」
だがヒロキは理解していた。何をすべきかを。
歯を食いしばり、レンジを抱え込むと瞬時に下の階へとワープした。――これ以上、少年を死地に踏み込ませるわけにはいかない。
同じ頃、リンの力も限界に達しつつあった。彼女の生み出した風は弱まり、舞い上がっていた塵と瓦礫も次第に静まり始める。
そして……視界に現れた光景は――。
巨大ムカデの怪物が、タツヤの体を渦巻くように丸め込んで締め上げ、ゆっくりと、しかし確実に腹の奥へと飲み込んでいく姿だった。
残酷で、容赦のない動作。
「いやだ……タツヤ……! こんなの間違ってる……!」
レンジの声は震え、視界が滲む。友の姿が、目の前でゆっくりと消えていく。胸は締め付けられ、心臓は張り裂けそうなほどに痛んだ。