狂気の処刑人 (特別編06)
妖艶な肢体を持つ女が、ゆっくりと問題のビルへと足を踏み入れる。
血溜まりや無残な人間の残骸を通り過ぎても、視線を向けることすらしない。
一歩、また一歩……階を上がっていき、やがて彼女は一人の男と出会った。
彼は茶色のソファに腰を下ろし、顔を伏せ、両手を組んで前に添えている。
破壊で空いた穴から月光が差し込み、最上階まで貫き、その背後に広がる鋼の翼を煌めかせていた。
「まあ……可愛い坊やが私を待っていてくれたのかしら」
女は挑発的に声を掛ける。
「遅れてごめんなさいね。ちょっとした用事があったの。怒っていないといいけれど」
「はい、怒ってなんかいませんよ」
タツヤは顔を上げ、柔らかな声で答える。
「淑女を待つのなら、どれだけ長くても……僕はいつだって待ちますから」
「ふふっ、本当に紳士ね。……ってことは、もう覚悟はできてるのかしら?」
タツヤはただ薄く微笑んだ。その刹那——
――フッ! ドガァン!
ミコトの身体が一直線に飛び込み、黒い血の槍がその手に現れると、ためらいなくソファの中央を突き裂いた。
ソファは真っ二つに裂け飛ぶ。
タツヤは目を見開き、心臓が轟音を立てる。
本能が悲鳴を上げ、彼はとっさに跳び退いた。その瞬間、槍が身体を貫く寸前だった。
(速すぎる……影すら見えなかった……さっきの化け物とは格が違う!)
「まあ、やだ……外しちゃったかしら」
女はわざとらしく驚いたように声をあげる。
「でも、なかなか速いじゃない。……面白いわね」
「はぁ……はぁ……当然ですよ」
タツヤは荒い息を吐きながらも、彼女から視線を逸らさない。
「わざわざ大人しく殺されてやる理由なんてありませんから。……それじゃあ、つまらないでしょ?」
女はゆっくりと回り込むように近づいていく。
タツヤもまた慎重に反対側へと身をかわした。
「ますます気に入っちゃったわ……」
澄んだ声とともに、女の瞳が妖しく輝く。
「地獄へ送る前に、あなたのことを知っておけるなんて光栄だわ。もしあの世で再会したら、挨拶くらいはしやすいものね」
その唇が妖艶に弧を描く。
「ミコトって呼んでちょうだい……よろしくね」
「よろしく——」
タツヤが自分の名を口にしかけた瞬間、女の影が再び襲い掛かった。
ミコトの身体は闇と溶け合うように素早く突進する。
血の槍が空気を裂き、シュッと音を立てて静寂を一直線に切り裂いた。
本能に突き動かされるように、タツヤは腕を振り上げて防御する。
ガキィン!
衝撃が逆流し、腕が折れそうなほどの痛みが全身を駆け抜ける。
それでも歯を食いしばり、彼は横へと跳ね退け、天井から折れ落ちた鉄骨を掴んで武器代わりに構えた。
「ちっ!」
喉奥で罵り、渾身の力で鉄骨を振り抜く。
「女ってやつは……本当に掴みどころがない!」
ミコトはただ細い腕を軽く掲げただけで、それをいなす。
そしてバク宙で華麗に後退し、血の槍がその動きに合わせて軌跡を描く。
着地はバレリーナのように優雅で、音すら柔らかかった。
「さあ、もっと早く来なさいよ」
彼女は小さく笑い、赤い瞳がからかうように光る。
「これで一点は私のもの。……気をつけないと、知らないうちに負けちゃうわよ?」
その挑発に、タツヤの瞳が鋭く光った。
彼の身体は瞬時に距離を詰め、手にした鉄骨の鋭い先端をミコトの脇腹めがけて突き出す。
しかし一瞬で、ミコトは身体をひらりとかわし、彼の腕を掴むと同時に、流れるような動きで地面に叩きつけた。
ドンッ!
「ぐっ!」
肺から一気に空気が押し出される。
立ち上がる暇もなく、鋭いハイヒールが胸に突き刺さるように踏みつけられた。
「ふふっ……私のハイヒールを甘く見ないことね」
少女のように無邪気な声でからかいながらも、その圧力は容赦がない。
「思っている以上に……強いんだから」
「ぐあああああああっ!」
タツヤの絶叫が響く。
骨が砕けそうな痛みに全身が痙攣し、必死にその足を押し退けようとする。
だが、もがけばもがくほど、ハイヒールは鋭い鉄槍のように深く胸へ食い込んでいく。
女は少し身を屈め、唇の笑みを崩さないまま囁いた。
「ねえ、坊や……」
透き通る声が甘く、しかし残酷に響く。
「命乞いをする気はないの? 分かってる? どんなに足掻いても……無駄なのよ」
彼女は小さく笑い、顔を近づけてタツヤの耳元に囁いた。
「命乞いしてみなさいよ……もしかしたら、気まぐれで助けてあげるかもしれないわ」
しかし、タツヤは答えなかった。
歯を食いしばり、口の端から血を滲ませながらも、両手で彼女の足首を掴み、必死に押し退けようとする。
無駄だと分かっていながらも。
その間にも、ミコトの手の中で血の槍が円を描く。
ブンッ――!
槍は形を変え、六面体のサイコロとなって彼女の掌の上に浮かび、回転する。
各面には異なる武器が浮かび上がり、赤黒い光が瞳に映り込み、不気味な輝きを放った。
「惜しいわね……」
首を傾げ、薄い笑みを浮かべる。
「その目を見る限り、戦いの才能は悪くなさそう。……その翼も、なかなか綺麗じゃない」
「だったら……どうして僕が……そんなことを……」
途切れ途切れの声でタツヤは答える。息は荒く、胸が上下していた。
「でも……美しい女性に殺されるなんて……光栄だよ。……くくっ、これじゃまるで天国じゃないか」
ミコトの動きが一瞬止まる。
そして胸を踏みつけていた足を離し、タツヤの襟首を掴むと、軽々と持ち上げた。
「嘘つき……!」
その声は怒りに満ちていた。
「私が美人だなんて、どうして分かるの? マスクを着けているのに!」
次の瞬間、彼の身体は振り回され、床に叩きつけられる。
ドガァン!
「男と嘘……本当に切っても切れない関係ね」
冷笑を漏らし、目を細める。
「さあ、見せてちょうだい……その戦士の血を。全力でいいわよ。……遠慮なんて要らない。迷っていたら、あの世行きが早まるかもしれないわよ」
カチリッ!
サイコロが瞬時に姿を変え、両手には光を反射する双剣のナイフが握られていた。
タツヤは歯を食いしばり、腹を押さえて立ち上がる。
血が止まらず流れ落ちるが、その瞳はなおも強い光を宿していた。
「くそっ……」
呻きながらも、ゆっくりと身体を支え起き上がる。
だが、態勢を整えるより早く、ミコトの姿は空気に溶けるように消える。
次の瞬間、短剣が心臓を狙って突き出される。
タツヤは直感した。
背中の鋼の翼が反射的に展開し、目の前に壁を作り出す。
ガキィン!
短剣が翼にぶつかり、轟音と共に火花が散った。
「お嬢さん……」
タツヤは歯を食いしばりながらも、力を込めて言い放つ。
「僕に魅了されるのは分かるけど……そんなに急いで迫らなくてもいいじゃないか」
圧倒的な力が翼を震わせる。
タツヤは理解していた――もう長くは耐えられないことを。
「やだぁ〜、ごめんなさいね」
ミコトは狡猾な笑みを浮かべた。
「私って、押しの強いタイプの女なのよ」
その声には悪意が満ちていた。
「仕方ないでしょ……体が火照って、もっと楽しみたいんだから。あはははっ!」
タツヤは歯を食いしばり、全力で彼女を押し退ける。
だが、ミコトの身体はほとんど弾かれることなく、その場に残った。
隙を与える気はない。
鋼の翼がしなり、羽根の一本が抜け落ち、手の中で鋭い剃刀の刃へと変わる。
彼は即座に斬りかかった――。
しかし――シュバッ!
ミコトは身をひらりと反らしてかわす。
どれほど鋭い攻撃でも、彼女にかすりもしない。
タツヤは翼を地面に薙ぎ払う。
相手の足を止めるために。
だが、ミコトは逆にバク宙で宙を舞い、空中で回転しながら彼の頭上を飛び越えていった。
その動きは見事で、まるで舞踏のようだった。
タツヤはすぐに振り返り、防御の構えを取る。
背後からの刃を警戒して――。
だが――ゴッ!
鋭いハイヒールが顎を跳ね上げ、彼の身体を仰け反らせた。
読み違えた。
彼女は刃を使わなかったのだ。
顎に走った衝撃で口の端から血が滲む。
だが、タツヤの身体はまだ倒れない。
そこへミコトが畳みかける。拳、蹴り、再び拳――その連撃は目で追えないほど速かった。
「くそっ……!」
喉の奥で唸り、怒りが込み上げ、歯を食いしばる。
一度たりとも反撃を当てられない。
「ねえ、少しは敬意を見せなさいよ」
ミコトは口元を歪め、手にした短剣を大きく振りかぶった。
「私が女だからって、本気を出せないってわけ?」
刃が振り下ろされる――。
タツヤはほんの刹那、顔を反らし、その鋭い線をかわす。
「だって……私たち、どっちも人間じゃない」
彼女は鼻で笑い、再びバク宙で距離を取る。
「でもまあ、いいわ。ここからが本番よ。重病人みたいな私たちにとって……あの連中にとっては、もう人間なんかじゃないんだから」
タツヤは後退しながら荒く息をつく。
胸は激しく脈打ち、絶え間ない衝撃に身体は疲弊していく。
恐怖が、じわじわと心を侵食し始めていた。
ミコトは再びサイコロを放り投げた――。
赤い光が揺らめき、サイコロは黒き虎の鉤爪へと姿を変える。
細い掌は鋭く長い爪へと変貌した。
ガキィン!
マスクの下の素顔が露わになる。
薔薇のように紅い唇、血の色を宿した瞳――殺戮を望む虎の魔性が燃え盛っていた。
彼女が腕を振るうだけで、周囲の窓ガラスが粉々に砕け散る。
飛び散った破片がタツヤの腕を裂き、長い傷を刻んだ。
(悪魔……もう女なんかじゃない!)
鉤爪が突き出される。
片翼で防いだが、もう片方が胸を裂き、服が破れ、血が噴き出す。
タツヤは歯を食いしばり、鋼の羽根を引き抜いて大きく振り払う――。
だがミコトは影のようにかわし、回転しながら足首を掴み取る。
ズバッ!
鮮血が飛び散り、タツヤの身体は蹴り飛ばされ遠くへ吹き飛んだ。
「くっ……!」
彼は地を這うようにして再び立ち上がる。
瞳は怒りに赤く染まり、決して退かずに飛び込んでいった。
ミコトは低く笑う。その声は冷ややかで、同時に熱を帯びていた。
「獲物は……罠にかかった」
実際、彼女は彼の動きをすべて読んでいた。
タツヤは決して全力を出さない。
翼や折れた鉄骨で押し返すだけで、彼女の顔を狙おうとはしなかった。
どれほど傷ついても、手加減をしていた。
だが、そのせいで体力は確実に削られていく。
傷だらけの脚は重く沈み、視界は霞み、避ける動きも鈍っていった。
――好機。
ミコトの爪が腹を貫き、タツヤの身体を壁へ叩きつける。
「ぐっ……!」
激しい咳き込みと共に声が漏れる。
彼は必死に腹へ突き立つ彼女の手首を掴んだ。
「もっと……叫んでみなさい」
耳元で囁く声は艶めき、残酷さを滲ませる。
「男の悲鳴が一番好き……それが私を……昂らせるの」
彼女の舌が唇を伝う血を舐め取り、さらに鉤爪を深く突き立てた。
「ぐあああああああああっ!」
タツヤの絶叫が響く。
呼吸は詰まり、血が溢れ出す。
絶望すべき状況――。
しかし彼は笑った。挑発的な、狂気を帯びた笑みで。
「は、はは……好きなんだろ……」
震える声で、それでも挑むように言葉を放つ。
「最後に……女を気持ちよくできるなんて……光栄じゃないか」
顔を近づけ、挑発的な笑みを浮かべる。
「さあ……もっと深く突き刺してみろよ」
青年はなおも挑み続け、一瞬たりとも彼女から視線を逸らさなかった。
ミコトは嬉しそうに口元を裂き、虎の鉤爪をその身に深々と突き立てる――。
ズブッ!
鮮血が飛び散る。
ゆっくりとそれを引き抜くと、タツヤは地に崩れ落ち、自らの血溜まりに沈んだ。
息は途切れ途切れ、まるで死の淵に立たされているかのようだ。
ミコトは彼の身体を仰向けに返す。
赤い瞳が燃え上がり、最後の一撃を放つべく爪を振りかぶった。
タツヤはただ薄く笑みを浮かべ、迫る運命を受け入れるようにした。
夜空に浮かぶ月を仰ぎ、ゆっくりと瞼を閉じ、最後の意識を手放す。
「本当は惜しいのよ、あなた……」
ミコトは小さく呟く。
「任務さえなければ……私たち、案外うまくやれたかもしれないのに」
――その瞬間。
「待ってください……ミコトさん」
階段の方から男の声が響き、彼女の動きが止まる。
「どうして止めるの、タイチ」
ミコトは目を細めた。
それでも彼女は武器を再びサイコロへと戻し、掌の上に浮かせる。
周囲に敵意がないことを示すかのように。
タイチはゆっくりと階段を降り、血溜まりに倒れるタツヤの傍へと歩み寄った。
「任務を邪魔してすまない……」
彼はか細い声で言う。まるで懇願するように。
「おかしなことを言うけど……彼を助ける方法は、ないのか」
ミコトは喉の奥で笑う。その目は戦闘よりも会話を楽しんでいるかのようだった。
「面白いわね。任務に忠実なあなたが、私なんかに頼むなんて……でも、そうね――方法がないわけじゃない」
タイチの眉がわずかに上がる。
「最初に断りもしないのか」
「しないわ」
ミコトは即答する。
「だって無駄でしょ? 『あら、そんなことできないわ。もし方法があってもやるべきじゃない、条件があるのよ、うんぬんかんぬん』……なんてね。映画で散々見てきたわ。古臭くて退屈よ。あるならあるって言えばいいの。なんで大げさに回りくどくする必要があるのよ」
彼女は肩をすくめ、笑みを浮かべた。
「それと――『さん』付けはやめて。鳥肌立つから」
タイチは安堵したように小さく笑った。
「それでいい……変わり者の君みたいな友人がいて、本当に良かったよ、ミコト」
彼はタツヤの横に腰を下ろし、その眼差しは明らかに柔らかくなっていた。
「この子は……あまりにも多くを背負っている。
それに、俺の弟が命を懸けて守ろうとした大事な存在だ……だから――まだ死なせたくないんだ」
「えっ……弟が守った? どうしてそこまで……え、もしかして弟さんって――」
タイチは答えず、黙ったままだった。
「……ごめんなさい」
ミコトは一瞬だけ言葉を詰まらせ、それから問いかける。
「でも、どうして彼が……」
「気にするな」
タイチは話題を逸らすように言った。
「大事なのは……この状態で、どうやって助けられるかだ」
「完全に治すことはできない」
ミコトは淡々と告げる。
「せいぜい現状を維持するくらい……だから、ミッドナイトに入れればいいのよ」
そう言いながら、彼女はタツヤの反対側に腰を下ろし、細い指で彼の髪を優しく撫でた。
「この子、光るものがあるわ……私と戦ってた時、ずっと生き延びてた。
運なんかじゃない、本物の本能よ。きちんと鍛えれば、私を超えるかもしれない」
ミコトはいたずらっぽく笑う。
「正直、もう興味はあるのよ……殺すか生かすか迷ってただけ。
でもあんたが割り込んでくれたおかげで、生かす理由ができた。……せっかく気分が乗ってたのに、ね」
「本当にサディストだな」
タイチはため息をついた。
「でも、こいつは相当な頑固者だ……死を覚悟してるタイプだろう」
「うん……」
ミコトは満面の笑みを浮かべた。
「心配しないで。もしウイルス抑制剤を飲まないなら、無理やり口に突っ込むわ。
それでも逆らうなら……血管に直接注射して、苦しませながらでも生かしてやる。ちゃんと面倒を見てあげるから」
「……ありがとう。本当に頼りにしてる、ミコトちゃん」
タイチは真剣にそう告げ、間を置いてから続けた。
「それと……もう一つだけ」
「なに? タイチくん」
ミコトは澄んだ声で返し、挑発するように笑う。
「もしかして、二人きりの特別な夜でも望んでるの?」
「ああ……それは遠慮しておく」
タイチは首を振った。
「まだ生きていたいからな」
彼はため息をつく。
「ただ……俺が君に頼んで命を助けさせたこと、誰にも言わないでほしいんだ」
「な〜んだ、それだけ?」
ミコトは肩をすくめて笑った。
「つまらない……でもまあいいわ。恩人のお願いなら、いつだって聞いてあげる」