永遠の自由へ (特別編05)
「やめろおおおおおおおおおおッ!!!」
タツヤの絶叫が建物全体に反響する。目には涙がにじみ、親友のヨシキが激しく地面に叩きつけられるのを目の当たりにした瞬間、絶望が胸を押し潰し、彼は力なく膝をついた。血にまみれたヨシキの身体をただ見つめるしかなかった。
タイチも同じだった。あまりの衝撃に言葉を失い、胸が張り裂けそうな痛みに襲われる。小さな涙が、止めどなく頬を伝い落ちていった――こんな光景など、決して望んでいなかったのに。
彼はただ弟を連れ帰りたかっただけだ。父と母の元へ、昔のように「いい子」として戻ってほしかっただけ。たとえこれまで憎まれ口ばかり叩いてきたとしても、それは弟を突き放し、強くあれと願うためだった。決して……弟の死を望んだことなどなかった。たとえ怪物だとしても、失いたくはなかったのだ。
二人の胸を覆う深い悲しみは、しかし怪物にとっては祝宴そのもの。邪悪な笑みを浮かべ、今こそが好機だと牙をむく――だが、その瞬間。
「うおおおおおおおおっ!」
咆哮とともに拳が怪物を襲った。
タツヤの耳には世界の音が消え、涙で霞む視界の中、ただ怒りに突き動かされるまま身体が動く。拳を、また拳を。止まることなく叩き込んだ。怪物の顔面は打ち据えられ、血飛沫が舞う。
何発殴ったかも分からない。ただ一撃ごとに強く、速く、人間の限界を超えていく。最後の拳が顎を跳ね上げると、怪物の巨体は天井を突き破り、三階分を一気に吹き飛ばし、巨大な穴を穿って夜空へ。満月の光を切り裂くように、闇の中へと吹き飛ばされた。
「うおおおおおっ!」
その時――左の背中から、巨大な鋼鉄の翼が裂け出した。漆黒の羽毛が左腕を覆い、左目は怒りに燃えるように真紅に輝く。
タツヤは吹き飛ぶ怪物を見届け、そこでようやく我に返った。理解してしまったのだ――自分はもう、“人間”という枠を踏み越えてしまったことを。
「まずい……!」
青年は急いで降下し、地面に横たわるヨシキのもとへ駆け寄った。ヨシキは弱々しく笑みを返し、黒い羽がひらひらと舞い散る。呼吸はどんどん浅くなっていく……。
「きれいだな……あの鳥……。俺も……あの鳥に……なりたかった……」
かすかな声が漏れた瞬間、タツヤは慌てて飛び込み、血に染まった親友の身体を抱きかかえた。
「しっかりしろよ、ヨシキ! 俺が病院に連れてってやる!」
タツヤの声は震え、焦りと恐怖が入り混じる。
「いいんだ……タツヤ……もう、いい……」
ヨシキは力ない笑みを浮かべ、自分の命が尽きかけていることを悟っていた。
「ごめんな……お前は、俺の……本当の友達なのに……」
「何言ってんだよ! バカなこと言うな!」
「俺は……知ってるんだ。あの日……俺が“ヘヴン”に連れて行ってくれって頼んだ日……お前、襲われただろ。でも……俺には言わなかった……誰にやられたのか……」
タツヤは一瞬言葉を失い、歯を食いしばった。
「そんなこと後でいい! 今は耐えろ! 俺はもう飛べるんだ! 本当に病院まで連れていける!」
「病院に……何として行くんだよ……化け物としてか……?」
ヨシキの声は途切れがちになっていく。
タツヤは言葉を失った。
「“ヘヴン”……それは、クロモノのウイルスなんだ……」
ヨシキは告白した。
「……俺が……お前に注射した……」
「な、何だと……お前……」
タツヤの瞳が大きく見開かれ、言葉が途切れる。
「そんなこと……なぜ……」
「くだらない嫉妬のせいだよ……」
ヨシキの目から涙がこぼれる。声は苦しみに震えていた。
「ずっと見てた……お前の背中にある翼を……羨ましかった……。なんで俺には生えないんだって……。だからバカなことをしたんだ……。鳥に傷がついたっていい、そんな浅はかな気持ちで……でも忘れてた……クロモノに耐えられる人間なんて……ほとんどいないって……。ずっと後悔してた……お前が死ぬんじゃないかって怖くて……本当に、ごめん……」
「バカ野郎……アホかよ……ヨシキのバカ野郎!」
タツヤは叫び、涙が溢れ出す。
「もしお前が死んだら……俺には誰が残るんだよ!? 分かってるだろ……俺には、もう誰もいないんだ……!」
ヨシキは涙を流しながらも、震える声で笑った。
「だから……謝るんだ……」
タツヤは血の匂いに包まれながら、親友を強く抱きしめ、嗚咽を漏らし続けた。
ヨシキはかすかに空を見上げ、息も絶え絶えに呟いた。
「タイチ兄……そこにいるんだろ……」
視線の先には、無表情で立ち尽くす兄の姿があった。タイチもまた、じっと弟を見返している。
「俺は……本当にダメな弟だった……ごめん……。父さんに伝えてくれ……これが、俺にできた……家族への最後で、最高のことだったって……」
ヨシキの身体は次第に冷たくなり、震える手を空へと伸ばす。タツヤが開けた天井の穴の向こうに、満月が輝いていた。
「見ろよ……最後に……やっと俺にも翼が……生えたんだ……」
言葉を言い終える前に、ヨシキの手は力なく落ち、床に叩きつけられた。
鈍い音とともに、最期の息が途絶える。開いたままの瞳は、夜空に浮かぶ月を映し続け――それが、彼の人生で選んだ最後の光景となった。
「やめろ……やめろ……ヨシキ! 戻ってこい!!」
タツヤの叫びが響き渡る。必死に呼びかけるも、心の奥底ではもう分かっていた。二度と彼が目を開けることはないと。
タイチは――弟の死を目の前にして膝をついた。涙があふれ止まらず、震える手で拳銃をこめかみに押し当てる。瞳は、息絶えたヨシキをただ見つめていた。
「違う……ダメな兄貴は……俺のほうだ……」
声はかすれ、震えていた。
「俺は言ったんだ……お前はもう弟じゃないって……。でも心配するな……すぐに行くからな……」
「待てよ! 何をする気だ!?」
タツヤは即座に察し、反射的に動いた。鋼鉄の翼が閃き、銃をはじき飛ばす。爆風のような衝撃に、タイチの身体は後ろへ吹き飛び、床に叩きつけられた。
タツヤはヨシキの身体をそっと地面に横たえ、すぐさまタイチの胸倉を掴み上げた。涙に濡れ、怒りに燃える目で睨みつける。
「てめぇ……何を考えてやがる!!」
怒号が響く。
「もしお前が死んだら、ヨシキが命を懸けて守った意味がなくなるだろうが! バカ野郎!!」
タイチは声を詰まらせ、嗚咽混じりに泣き崩れる。
「ごめん……ひっく……ごめん……本当に……」
警官としての誇りも何もなく、ただ弱々しい男の声だった。
タツヤは歯を食いしばり、震える声で言葉を絞り出す。
「生きろ……生き続けろ……。どれほど苦しくても……あいつだってそうだった。あんなに苦しんで……それでも誰にも弱さを見せなかった。お前はあいつの兄貴だろ……だったら代わりに生きろ……! あいつにできなかったことを……お前が果たせ!!」
その言葉を吐き出すと、タツヤは胸倉から手を離し、ヨシキの亡骸のそばへ戻った。
震える瞳から涙が止めどなくこぼれ落ちていく。
「お前……ずっと言ってたよな……翼が欲しい、空を飛びたいって……」
タツヤは嗚咽まじりに言葉を紡ぐ。悲しみに震える身体を抱えながら。
「ごめんな……俺、うまく飛べねぇかもしれない……これが初めてだし、翼も片方しかねぇ……。でも、できる限りやってみせるよ……」
そう呟き、彼はヨシキの亡骸を抱き上げた。鋼鉄の翼を広げ、夜空へと舞い上がる。無数の星々と、輝きを放つ満月の下へ。
もう手遅れだと分かっていながら――それでもタツヤは必死だった。ヨシキに「見せてやりたかった」。この世界の美しさを、最後の最後に。
しばしの時が流れ、タツヤはゆっくりと地上へ降り立った。
屋上にはタイチが待っていた。視線は一瞬たりとも弟の亡骸から離れない。
「逃げたほうがいい……まもなくミッドナイトがここに来る」
タイチの声はかすかで、それでも確かな思いがにじんでいた。
タツヤは涙を浮かべたまま、かすかに笑みを漏らす。
「警官のあんたがさ……俺みたいな犯罪者に逃げろなんて……おかしくねぇか?」
「……おかしいさ」
タイチは視線を落とし、震える声で続けた。
「でもヨシキは……俺だけを守ったんじゃない。お前のことも守ったんだ。お前は、彼が最後まで守りたかった存在かもしれない……だから俺も、ヨシキのようにする」
彼は一呼吸置いて、重々しく告げた。
「俺は……彼のことを理解したことがなかった。でも、これが……彼の最後の願いなんじゃないかと思う」
その瞬間――タイチには、もう涙は残っていなかった。心は深い絶望に沈み、弟を取り戻したいと願い続けた努力のすべてが、皮肉にも命を奪い、心を壊す毒となった。
すべては……自分の手で生み出してしまった悲劇だった。
ダメな兄貴でありながら――最期の瞬間、弟は怒ることなく、逆に「ごめん」と言葉を残して逝った。
その事実はタイチの胸を深く抉り、息ができないほどの痛みに変わる。
だからこそ……せめて、自分は弟の代わりに大切なものを守り抜きたい。
ヨシキが命を懸けて守ったものを――。
「たとえ違法であっても……そういうことか」
タツヤの言葉に、タイチは息を呑み、黙り込んだ。
「何があっても……」
タイチは重々しい声で言った。
「お前は、死んではならない」
タツヤはその瞳を見返した。表情は静かで、すべてを受け入れるかのようだった。
「お気持ちはありがとうございます」
淡い笑みを浮かべながら言葉を返す。
「でも……見れば分かるでしょう」
彼はゆっくりと鋼鉄の翼を広げ、タイチに見せつける。
それはもう、人間の身体ではなかった。
「俺はもう、普通の人間じゃない……。道を選ぶことすらできないんです」
そう言うと、タツヤはヨシキの顔を見下ろし、そっと瞳を閉じてやった。そして立ち上がる。
「これから、あなたの仲間をここまで連れてきます。大事に抱えて」
振り返り、穏やかな声で告げた。
「これからは危険になります。俺はもう人間じゃない。だから、あなたたちはここにいたほうがいい……。それに、自分の死体を誰かに見られるなんて、俺もごめんですから」
深く息を吸い込み、続ける。
「できる限り、暴力は最小限に……この建物も壊さずに済むように努めます」
そう言って、タツヤは床に空いた大穴の縁へ歩き出し、ためらうことなく後ろへ倒れ込んだ。
「待てっ……!」
タイチは思わず手を伸ばすが、掴むことはできない。
次の瞬間――タツヤは飛び上がり、再び屋上へ戻ってきた。その腕には、気を失ったカイの身体が抱えられている。
「なぜ下に運ばないかって? それは……」
少し言葉を切り、視線を揺らす。
「もう、遅すぎると思ったからです。あなたが言っていた“ミッドナイト”の部隊が、もう来てるんでしょう? だったら今、下で迎えるほうがいい」
タツヤはヨシキの亡骸へと視線を向けた。
「ヨシキの死体は……感染している。触らないほうがいい。専門の人間が処理するまで待つんだ。そのほうが、みんなのためになる」
そう言ってから、彼はわずかに微笑み、タイチにうなずいた。
「本当にありがとうございました……じゃあ、さようなら」
タツヤは軽く手を振り、再び大穴の闇へと身を投げた。
今度ばかりは――タイチには、もう止める術はなかった。
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ドンッ!
巨大なイグアナの怪物がビルの下階に叩きつけられ、轟音が響き渡った。土煙がもうもうと舞い上がり、その巨体はゆっくりと身じろぎしながら、必死に立ち上がろうともがいていた。
グゥゥゥ……
低く唸る呼吸音には、剥き出しの怒りが混じっていた。拳を固く握りしめ、狂ったように地面を叩きつける。
コツ……コツ……コツ……
高いヒールの音が夜に響き渡る。そこに現れたのは、すらりとした長身の女だった。
ぴったりとしたレザーパンツにハイヒールブーツ。黒いセクシーなタンクトップの上に、赤い反射ラインが入った黒のスーツジャケットを羽織り、ボタンは外されたまま。銀色のベルトが月光を受けて輝く。長い黒髪は高い位置でポニーテールにまとめられ、毛先には真紅のハイライト。丸いイヤリングが月明かりを反射し、見る者に威圧感を与える。
手には黒いレザーグローブ、顔は赤い翼をあしらった黒のマスクで覆われていた。左胸には鷲を模した円形の紋章、左腕には四本の赤いラインが刻まれている。
「退屈ね……。こんなの、討伐部隊にやらせりゃ済む話でしょ。なんでわざわざ私を呼ぶわけ? せっかくのネイルが台無しじゃない」
女は冷めた声でぼやきながら、怪物の前に歩み出る。
彼女はちらりと怪物の顔を見て、小さく首をかしげた。
「なに? その顔……どうしたらそんなに腫れぼったくなるの?」
鋭い眼差しがビルの上階へ向けられる。天井には大きな穴、ひび割れが縦に走っていた。それだけで、ここで何があったのかを理解するのに十分だった。
「ああ……上から落ちてきたのね」
彼女がまだ夜空を見上げていたその瞬間――。
怪物は大口を開け、丸ごと呑み込もうと迫ってきた!
ザシュッ!
次の瞬間、彼女のハイヒールが閃光のように振り抜かれる。体の中心から顔面にかけて一直線。轟音とともに、怪物の巨体は真っ二つに裂け、真紅の血が地面に飛び散った。
女は軽く足を振り払い、苛立ち混じりにため息をつく。
「まったく……油断してるときに飛びかかるなんて、失礼にもほどがあるわ」
血の海に沈む怪物の死骸を見下ろし、仮面の下で薄く笑みを浮かべる。
「嫌な予感がするのよね……。上には、もっと“面白いもの”が待ってる気がするわ」