黒き檻の中の獣(特別編04)
「違う……お前は俺の弟なんかじゃない」
タイチの怒声が階全体に響き渡った。
ヨシキはただ黙って立ち尽くす。反論の言葉ひとつも口にしない。
その光景を前に、タツヤは二人の兄弟を見つめながら、どちらに味方すべきか分からず戸惑っていた。
――その瞬間。
ドスン、と重々しい音が響く。
机の残骸に押し潰されていた巨大な半人半トカゲの化け物が、もぞりともがき、散らばった瓦礫を弾き飛ばした。
ゆっくりと立ち上がると同時に、全身から圧倒的な威圧感を放つ。
三人は一斉に目を向ける。
再び、恐怖が迫り来る。
「タツヤ……頼む」
ヨシキが低く声を絞り出し、振り返って友に視線を送る。
「兄貴を連れて逃げろ……ここはもう危険だ」
そう言うや否や、ヨシキは獣に飛びかかり、食い止めようと歯を食いしばる。
タツヤは迷わなかった。ヨシキの意図を即座に理解すると、負傷したタイチに駆け寄り、その体を抱えて安全な場所へと運ぼうとする。
しかし、タイチは激しく振り払った。
「離せ、このクズ! お前も……お前もグルなんだろう!」
憎悪に満ちた声が突き刺さる。
一瞬、タツヤの動きが止まる。だがすぐに反撃の言葉を返した。
「そうだよ! だったらどうした! 俺が誰だろうと関係ないだろ!――今は生き残ることが先だ! 見えないのか!? 弟がお前を守るために命懸けで戦ってるんだぞ!」
「いやだ……俺はお前なんかと行かない!」
タイチは叫び、視線をカイの方へと向ける。床に倒れたまま意識のない相棒の姿を見据えながら。
「俺は相棒を見捨てない! 死んでも絶対に!」
タツヤは歯を食いしばる。怒りと苛立ちが胸を焦がした。
「自分一人守れない奴が、誰を守れるって言うんだ! ……信じられないな。あんたが本当に警察学校を出た人間だなんて!」
怒声と共に言い放つ。
「自分すら守れないなら、他人なんて守れるわけないだろ!」
ドガァァンッ!!
轟音が部屋を揺るがす。
ヨシキの体が壁に叩きつけられ、弾き飛ばされて二人の足元に転がった。
それでも彼は必死に踏ん張り、タツヤとタイチを巻き込まぬよう、体勢を崩しながらも身を挺して受け身を取っていた。
ヨシキの口からは荒い息が絶え間なく漏れ続けていた。
タツヤは一瞥しただけで分かった――
この戦いは、ヨシキ一人でどうにかできる相手ではない。
だが、それでも彼は立ち続けている。
タツヤは振り返り、タイチと視線を交わした。
その瞳に宿るものは、恐怖ではなく決意。
「見ろよ。弟さんは必死に戦ってるんだ……! これ以上足を引っ張るな!」
言い切ると同時に、タイチの抗議を無視し、その手首を強引に掴んで引きずった。
崩れかけたオフィス机を盾にして、強引に安全な場所へと連れて行く。
タイチがどれだけ抵抗しても関係ない――最優先は彼を戦場から遠ざけることだ。
タイチの身がある程度守られたのを確認すると、タツヤはすぐさまヨシキの奮闘に目をやる。
そして、倒れているタイチの相棒――カイのもとへ駆け寄った。
ソファや壁の陰を縫うように走り、気を失ったままのカイを肩に担ぎ上げると、そのままタイチの側へ運び戻す。
視線の端には、なおも戦うヨシキの姿。
しかし状況は明らかに不利だった。怪物の拳が何度も叩きつけられ、古傷に新たな傷が重なっていく。
誰よりもヨシキを信じてきたタツヤでさえ、一瞬迷うほどの絶望的な光景。
助けたい――だが、現実は残酷だ。
相手は〈黒物〉に蝕まれた巨躯の化け物。
対する自分はただの人間。勝ち目などほとんどない。
それでも――
タツヤはタイチと、意識を失ったカイに目をやり、奥歯を噛み締めた。
そしてもう一度、ヨシキの方へと顔を向ける。
「……ここで待っててください」
低く、だが揺るがぬ声で告げる。
「俺がヨシキを助けに行く」
「な、何考えてんだお前!」
タイチが叫ぶ。タツヤの眼差しに射すくめられ、思わず声が裏返った。
「見りゃ分かるだろ! あれはもう人間じゃねぇ! 行ったらお前も殺されるだけだ! そのうち〈ミッドナイト部隊〉が来て全部片付けてくれるんだよ!」
その言葉に、タツヤは動きを止める。
「……ミッドナイト部隊、だと?」
そして、ゆっくりと振り返り、低く問いただした。
「じゃあ……ヨシキはどうなる」
答えを聞く暇もなかった――
ドガァァンッ!!
ヨシキの体が怪物の蹴りを受け、壁へと叩きつけられる。轟音と共に、分厚いコンクリートに巨大な亀裂が走った。
「チッ……クソッ!」
タツヤが低く吐き捨てる。
もう言葉を交わしている場合じゃない。
彼は怪物の視線を逸らさぬよう注意を払いながら、音を殺して階の反対側へと移動する。
――そうだ、自分はただの人間にすぎない。
だが、ただの人間でも、戦いの修羅場を幾度もくぐり抜けてきた男だ。
恐怖が心を蝕もうとも――
退くことだけは、絶対にしない!
タツヤの鋭い視線が、室内をくまなく走った。
何か……何か一つでもいい、この怪物の注意を引けるものを。
そして、目に入った。
金属製のゴミ箱。片手で扱えるほどの大きさだ。
「……これだ」
ガシッと掴み、力任せに投げつける。
ガァンッ!
甲高い音と共に、ゴミ箱は化け物の硬い頭蓋に直撃した。
その巨体がぐらりと揺れ、ゆっくりとタツヤの方へ振り向く。
背後からの鋭い視線を一身に浴びながら、タツヤの口元が歪む。
「――よし、かかったな」
挑発は成功した。
ヨシキはほんの僅かだが、戦いの中で呼吸を整える時間を得る。
タツヤの狙いは明確だった。
怪物を窓際へ誘導すること。
このオフィスを囲むのは一面のガラス。
正面から打ち合うのは不可能に近い。
ならば唯一の勝機は――
窓を突き破らせ、そのまま下層へと叩き落とすこと。
「……なぁ」
タツヤの声がオフィスに響き渡る。わざと挑発的に笑みを浮かべながら。
「暇なら、俺とちょっとお喋りでもどうだ?」
怪物はベロリと舌を這わせる。どす黒い舌が唇を舐め、まるで獲物を味わう瞬間を心待ちにしているかのようだった。
「やめろ……タツヤ!」
遠くからヨシキの声が飛ぶ。しかし、彼は何かを言いかけて――結局、言葉を飲み込んだ。
グォォォォッ!!
轟音のような咆哮。次の瞬間、怪物の巨体がタツヤへと突進する。
だが――
ヒュッ!
刹那、タツヤの体が回転し、爪を紙一重でかわす。怪物の巨腕はそのまま窓際へ突き抜けそうになった。
「おっと……惜しいな。あとちょっとで当たるところだったのに」
肩をすくめ、余裕の笑みを浮かべて挑発する。だが、その瞳は真剣そのものだった。
――ズバァッ!
嵐のような連撃が襲いかかる。巨大な爪が風を裂き、机や椅子を粉砕していく。
タツヤは左右に飛び、必死に身をかわす。しかしオフィスは狭く、家具が邪魔をして動きが鈍る。
ガンッ!
足が何かに引っかかり、背中から倒れ込む。
「チッ……!」
ギャアアアアッ!!
振り下ろされた一撃。
ヒュッ――ガァンッ!!
両足を思い切り開いてかわした瞬間、爪は床をえぐり取り、コンクリートが爆ぜて亀裂が広がる。
「うわっ……あっぶねぇ! 危うく種無しになるとこだったぜ」
タツヤは目を見開き、冗談めかして口にした。だが、肩で荒く息をし、筋肉は悲鳴を上げていた。
――ただ逃げ続けるだけじゃ、いずれ潰される。
そのことは誰よりもタツヤ自身が理解していた。
そして、彼の知らぬところで。
タイチとヨシキは、その動きを見つめていた。
彼らの目に映るのは――
明らかに人間離れしたタツヤのスピード。
「……なんだ、あれは」
「タツヤ……?」
一歩、一歩。
タツヤの身体は速さを増していく。
もう“ただの人間”とは呼べない。
――何かが。
彼の中の“何か”が、今まさに目を覚まそうとしていた。
「……やっぱり、あいつも化け物か」
タイチは低く呟いた。視線の先では、タツヤが死闘を繰り広げている。
彼はポケットから慌ててスマホを取り出し、遮蔽物の陰に身を隠しながら何かを打ち込んでいた。
「タツヤ……」
ヨシキが掠れた声で友の名を呼ぶ。
疲弊しきった瞳に浮かぶのは、言葉にできない複雑な感情。誇り、喜び――そして、僅かな嫉妬。
――友が、まばゆいほどに輝いていた。
戦いは限界に近づき、ついに隙が生まれる。
ドゴォッ!!
拳が鳩尾にめり込み、タツヤの体は宙を舞った。ソファに叩きつけられ、轟音が階全体に響き渡る。
「ぐっ……!」
歯を食いしばり、荒く息を吐く。顔を歪めながらも睨み返すが――
計画していた窓際への誘導は崩れ去り、怪物はなおも涎を垂らしながらタツヤを獲物として狙い続ける。
止まらない。喰らうまで、絶対に。
タツヤはうつ伏せのまま、その眼差しを怪物へ突きつける。
最後の一手を探し続けて――
だがその時。
「うぉおおおおッ!」
ヨシキが背後から突撃した!
ガキィン!!
怪物が咄嗟に振り返り、ヨシキの両腕を掴み取る。拳と鋭爪がぶつかり合い、床が振動するほどの力比べが始まった。
「ぬぅぅぅぅうううッ!!」
ヨシキの叫びが響き、両腕は震えながらも必死に押し返す。
一方その頃――タイチの目がギラリと光った。
彼は倒れているカイの体を漁り、以前渡した拳銃を見つけ出す。
「……弾は、あと三発か」
呟きと共に銃口を持ち上げる。
その一瞬を、タツヤは見逃さなかった。
「やめろ、タイチ――ッ!」
だが、もう遅い。
「死ねぇッ!!」
タイチが叫び、引き金を引く。
パンッ! パンッ!
時が止まったかのように静まり返る。
次の瞬間――
銃弾は怪物を穿たなかった。
代わりに、盾にされたヨシキの背中を撃ち抜いたのだ。
怪物は人外の腕力でヨシキの体を引き寄せ、そのまま銃弾の盾にした。
真っ赤な血飛沫が空中に散り、床を汚す。
「……ぐっ」
ヨシキが呻き、口端から鮮血を零す。
背中を撃ち抜かれた彼の体は力を失い、膝から崩れ落ちていった。
巨獣はすぐさま興味を切り替え、血走った眼をタイチへと向ける。
震える手で銃を握る彼を、殺意に満ちた瞳で射抜きながら。
――ゴゥゥゥン……!
荒々しい呼吸が部屋を揺らす。
三人同時に立ち向かわれた“遊び”は、もはや終わりだと告げるかのように。
その漆黒の影はタイチの体を覆い隠し、足元に落ちる影すら掻き消した。
「グラァァァァァッ!!」
耳を裂く絶叫。
巨腕が振りかぶられ、タイチを握り潰さんと迫る――。
だが、その瞬間。
「……兄貴……!」
掠れた声が響く。
血に染まった腕が、なおも怪物の腕を掴んでいた。
「……逃げろ……」
瀕死のヨシキが、最後の力で食い止めていた。
「ヨシキッ!!」
タツヤは目を見開き、全身を駆り立てて駆け出す。
怪物は喉を鳴らし、愉悦を隠しきれぬ低い笑いを漏らす。
そして、もう片方の手でヨシキの首を鷲掴みにすると――まるで人形のように持ち上げた。
「やめろぉっ! そいつに触るなあああッ!!」
タツヤの声が悲鳴に変わる。
ズブッ――!
鈍い音と共に、怪物の巨大な掌がヨシキの脇腹を貫いた。
血が噴き出し、骨と肉が裂ける音がこだまする。
「……ッ!」
ヨシキの瞳が大きく見開かれ、やがて光を失いかけていく。
全身から力が抜け、ぐったりと垂れ下がった。
「やめろおおおおおおおおおおッ!!!」
タツヤの絶叫がオフィスに木霊する。
彼は膝から崩れ落ち、友が血に染まり崩れ落ちる光景をただ見届けるしかなかった。
赤黒い血は止まらず、冷たく床を覆っていく。
――だが、ヨシキの唇はまだ、かすかに震えていた。