思った通りにはいかない(特別編03)
「この裏口から入れば、やつらに気づかれずに済むかもしれない」
若い警部は声をひそめ、人気のないオフィスビルの裏口へと身を潜めながら進んでいった。相棒もすぐ後ろに続く。
「ここは状況がかなり不穏だ。黒物の感染者が潜んでいる可能性があるし、ミッドナイト部隊もまもなく到着する。俺たちは俺たちの任務を全うするしかない……カイ、君も十分気をつけてくれ」
「了解しました、タイシ警部」
タイシがドアを押し開けた瞬間、鼻を突く血の匂いが漂ってきた。室内の備品は無残に壊され、散乱している。覆いかぶさる闇が、異様なまでの凄惨さを際立たせていた。普通の人間なら、その光景を見ただけで逃げ出していただろう。しかし、タイシとカイは警察官だ――容疑者を捕らえる任務を放棄するわけにはいかない。
二人が慎重に階段を上がり、二階、三階へと進むにつれ、血の臭気はさらに強まり、思わず袖で鼻口を覆わざるを得なかった。
「どうしましょう、警部……この道は黒物感染者がいる可能性が高いです。別のルートに変えた方がいいのでは?」
不安をにじませるカイの声。
タイシは眉をひそめた。「上の階へ行く道は二つしかない……この道は黒物が出るかもしれん。もう一つの道は、武装した犯人と人質がいる。どちらも危険には変わりないな」
「でも、犯人たちが本当に上の階にいるとは限りません。もしかすると、この辺りに潜んでいる可能性も……」
「……君の言う通りだな、カイ」タイシはゆっくりとうなずいた。「だったら、いっそ別れて捜索した方がいいのかもしれん」
「えっ……この状況で、それは賛成できません!」カイは声を震わせる。「確かに犯人は怖くありません、相手は人間ですから。でも……あの化け物たちだけは……」
「……そうか、わかった」タイシは小さくため息をついた。「そうだ、ちょうどいいものがある。ミッドナイト部隊の知り合いが、もしもの時にと渡してくれたんだ」
そう言って彼は腰の反対側に忍ばせていた拳銃を取り出し、相棒へと差し出す。
「弾は六発だけだ。無駄にするなよ。仲間の話では、初期段階の黒物なら仕留められるらしい。ただし、黄色ランク以上や強力なやつ相手だと、せいぜい動きを止める程度だ……だがそれでも、生き延びる手助けにはなるはずだ」
「警部はどうするんですか?」
「俺は大丈夫だ。……君がうまく使ってくれ」タイシは短く答えた。
「いや……いやいや! 俺は受け取れません!」カイは震える声で即座に否定する。
「受け取れ。……俺は君を信じている、カイ」
タイシは強引に銃を握らせた。
カイは一瞬ためらったが、やがて銃を受け取り、じっと見つめる。そして決意を込めて頷いた。
「……はい。全力で使ってみせます」
二人が犯人を探すために別行動を取ろうとした、その瞬間――
ギッ…ギッ…ギッ…
周囲に不気味な音が響き渡った。何かが、ものすごい速さで這い寄ってくる。
グラァァアアッ!!
耳をつんざく咆哮が爆発した。嵐のような衝撃波が空間を震わせ、床はひび割れ、二人の警官は弾き飛ばされてそれぞれ別の方向に吹き飛ぶ!
やがて――その声の主が姿を現した。
それは三メートル近い巨体の人型トカゲだった。岩のように荒れた皮膚、白いスーツと黒いネクタイは無残に裂けている。膨れ上がった四肢の筋肉は獣じみた力を誇示し、異様に伸びた口元は真っ赤な血に濡れていた。光を失った瞳が、目の前の獲物を確かに捉える。
――ここに、“喰えるもの”がいる、と。
バンッ! バンッ! バンッ!
銃声が三度轟き、建物全体に反響する。その音はあまりにも大きく、別の場所にいた二人の犯人さえも思わず身をすくめた。
「な、なんだ……銃声だと!? いったい何が起きてる!」
ヨシキは驚愕の表情で左右を見回した。今、彼とタツヤは全力で階段を駆け上がり、屋上を目指していた。すでに逃走経路は決まっている――屋上に出たら、隣のビルへ飛び移って脱出する。それがヨシキの提案だった。
「銃声は……下の方から聞こえたな」
タツヤがそう呟き、ヨシキを横目で見た。
「でも……やつらは俺たちを追ってるんじゃなかったのか? それなのに、何を撃ってやがる……?」
「別の犯人か……? もし銃を使うほどの相手なら、ただ者じゃねえな」
その言葉に、ヨシキは一瞬動きを止めた。表情が険しくなる。
「……まずい。もし犯人じゃなかったら? もっと厄介なものだったら……」
タツヤは眉をひそめた。「どういう意味だ、ヨシキ。お前、何か知ってるのか?」
「……黒物だ」
「ば、馬鹿な! 政府は発見率が下がってるって発表したばかりだろ! じゃあ、なんで……」
「決まってるだろ……あいつらが俺たちに嘘をついてるからだ」
ヨシキの声は重く、決然としていた。そして彼は踵を返し、階段を下り始める。
「おい! お前逃げてる途中だろ、ヨシキ! 何やってんだ! もう少しで抜け出せるんだぞ!」
タツヤは慌てて腕をつかんだ。
「放せ!」
ヨシキの声は鋭く、力強く、階段の壁にまで反響した。
「だが、戻ったら……もう二度と帰ってこられねえかもしれないんだぞ! お前、自分で言ったじゃないか、逃げ切るって!」
「……ああ、言ったさ」
ヨシキは冷たく認めると、じっと友を見据えた。
「だがな、タツヤ……俺は確かにろくでなしだ。だが、兄貴が俺を追ってきたせいで死ぬのを、黙って見てるほど腐っちゃいねえ」
その言葉と共に、ヨシキはタツヤの手を振り払った。力はほんの僅かだったが、それだけでタツヤの体はよろめき、倒れそうになる。
ヨシキは一度も振り返らず、決意に満ちた表情で階段を駆け下りていった。
「おい……待てって!」
タツヤの叫びは届かなかった。ヨシキはもう振り返らない――兄を救うため、己の意志だけを胸に階下へと向かっていた。
タツヤは歯を食いしばる。胸の奥に不穏な感覚が走る。……ヨシキの体が、明らかに変わっていた。先ほど振り払われた力、そして怒りと悲しみが混じった声――それは、もはや彼が知っているヨシキではなかった。
「なぜ急に、こんな力が……? なんなんだよ、これは……!」
その頃、下の階では――タイシとカイが怪物を相手に必死で耐えていた。
タイシの腕は血に染まり、真っ赤に滴り落ちている。頭も強打され、血が流れ出していた。カイは床に倒れ、意識を失っているようだった。
周囲には家具やオフィス機器が散乱し、激しい抵抗の痕跡が残っている。さらに出口へ続く道は、大きな机で塞がれていた――誰かが意図的にぶん投げて道を遮ったのだ。
「……くそ、俺はここまでか……」
タイシは膝をつき、声を震わせながら呟いた。
「……すまない、父さん……弟を連れ戻すことは……できなかった」
口から漏れるのは、まるで遺言のような言葉。
その眼前で、黒物の感染者は笑っていた――勝利を確信した怪物の笑み。
弾は尽き、逃げ道もなく、戦う力すら残っていない。
グラァァアアアッ!!
咆哮が響き渡る。鼓膜を突き破らんばかりの音に、周囲の物が震え、揺れる。
タイシは咄嗟に両手で耳を塞いだ。もう何も聞きたくない、何も感じたくなかった。
怪物は天井に届かんばかりに跳び上がり――その鋭い牙を、跪くタイシへと突き立てようとする。
「やめろぉぉぉぉッ!!」
だが、その瞬間――
ドガァァンッ!!
机がひとつ、宙を舞い、怪物の巨体を直撃した。
ものすごい衝撃で吹き飛ばされた怪物は壁に叩きつけられ、轟音と共に壁が砕け散る。
机は木端微塵となり、破片が辺りに散乱した。
荒い息遣いがすぐ近くで響く。
タイシは信じられない思いで、ゆっくりと顔を上げた。――そこに立っていたのは。
さきほど机を投げつけた、その張本人。息を荒げながらも、確かにそこに立っていた。
ヨシキの右腕は、もはや人間のものではなかった。異様に肥大化し、白と黒の毛並みが虎のような縞模様を描いている。鋭く伸びた爪は、一撃で敵を葬れるほどの力を秘めていた。瞳は琥珀色に染まり、獣が獲物を狙うような冷たい光を放っていた。
「……危なかったな」
ヨシキはかすれた声で呟いた。息は荒いが、その瞳には兄がまだ生きていることへの安堵が宿っていた。
そこへ、全力で駆けつけてきたタツヤが追いつく。息を切らしながらも目にした光景に――思わず足が止まり、言葉を失った。
「ヨシキ……なんでお前、そんな……」
喉が詰まり、声が震える。
「お前……一体、何なんだ……」
ヨシキは答えなかった。ただうつむき、悲しみに沈んだ表情を浮かべる。琥珀色の瞳が細まり、かすれた声が漏れた。
「……すまない、タツヤ。ずっと隠してた……ごめん」
そう言って振り返った先には、唖然としたままのタイシの姿があった。信じられないという表情で、目を見開いている。
「……ごめん、兄貴」
だが返ってきたのは、刃のように鋭い拒絶の声だった。
「違う……お前は俺の弟なんかじゃない」
その一言は、ヨシキの心を容赦なく引き裂いた。
それでも彼は、小さく笑みを浮かべるだけ。涙で滲んだ瞳を伏せ、何も言わなかった。
タツヤには、もはやどう感じればいいのかわからなかった。悲しむべきか、怒るべきか、それとも恐れるべきか――。
だが、胸に湧き上がった感情はただ一つ。
ヨシキへの哀れみだった。
あまりにも重い宿命を背負ってしまった友への、どうしようもない哀しみだった。