愛と気遣い(特別編02)
夜の路地裏、ネオンの光に照らされる繁華街は、今宵も酒と女に酔いしれる人々で賑わっていた。
そんな喧騒の中、ヨシキとタツヤはあるヤクザの組から依頼を受け、違法な品を近くに住む不良グループへと運ぶことになっていた。
「クソッ……なんで俺が薬の運びなんか手伝わされてんだ。こんなの俺の仕事じゃねぇだろ」
タツヤは頭を振りながら文句をこぼす。視線の先には、大きな黒いバッグを抱えたヨシキの姿。自分はその少し離れた駐車場でバイクに跨り、配達先までの道を確認していた。
「お前は薬を運んでるわけじゃねぇよ。ただ俺を現場まで送るだけだ。何をそんなに気にしてんだ? 終わったら飯でも奢ってやるから」
ヨシキは軽口を叩きながら笑った。
「普段は俺一人でやってるんだけどさ、今日は車が壊れててな。今日だけでいいんだ。しかもこの道は何度も通ってる。トラブルなんて一度もなかった」
「……分かってるよ。お前が有能なのは。だからさっさと行けって。こっちは体調悪いのに、わざわざ家から引っ張り出しやがって」
「ちょっと熱があるだけで大袈裟だな……行ってくるわ」
友の小言を聞き流し、ヨシキは片手を軽く振って路地の奥へと消えていった。
残されたタツヤは煙草に火をつけ、紫煙を吐き出しながら退屈そうに待つ。
しばらくすると、ヨシキが血相を変えて駆け戻ってきた。その後ろには二、三人の見知らぬ男たちが追いすがっている。
「警察だ! あの不良、ポリのスパイだったんだ!」
「……マジかよ」
タツヤは低く呟き、即座に判断を下す。
ヘルメットを被り、バイクのエンジンを唸らせた瞬間、ヨシキが飛び乗って後ろにしがみつく。
次の瞬間、マシンは轟音を上げて闇夜を切り裂いた。
追ってきた男はすぐに無線で仲間に連絡し、警察隊と連携して二人を捕らえようとする。
「やっちまったな……ヨシキの野郎」
タツヤは毒づきながらアクセルをさらに開く。赤と青の点滅灯がじわじわと彼らを取り囲み、路地の出口を塞いでいく。
「本当に悪かった……まさか取引相手が警察のスパイだなんて思わなかったんだ!」
ヨシキは息を荒げながら叫んだ。友を死地に巻き込んでしまった罪悪感が胸を締めつける。
「クソッ……で、どうするつもりだ! このまま逃げ続けたらヤバいに決まってる。二分もしないうちに、警察に全ての路地を塞がれるぞ!」
タツヤは苛立ちを隠さず、歯ぎしりしながら怒鳴る。
その言葉と同時に、パトカーが目の前に突っ込んできた。タツヤは即座にハンドルを切り、ギリギリで細い路地へと飛び込む。
「お、おいタツヤ! お前どこで運転覚えたんだよ!」
ヨシキは悲鳴交じりに叫んだ。
「うるせぇ! しっかり掴まってろ!」
背後ではサイレンが鳴り響き、スピーカーから警告が飛んでくる。
『ただちに停車しろ! これは警察の命令だ!』
「止まったら刑務所行きだろがッ!」
タツヤはバックミラーに映る赤と青の点滅灯を睨みつけ、低く唸る。「クソッ……」
「お前は前だけ見て走れ。後ろは俺が食い止める」
ヨシキがヘルメット越しに冷静な声を放つ。その声には妙な決意が宿っていた。
「……は? 今なんて言った?」
タツヤは思わず聞き返す。
「撃って止めるって言ったんだよ」
ヨシキはそう言い放つと、迷わず銃を抜き、迫り来るパトカーのタイヤへと狙いを定めた。
「やめろ! バカな真似すんなヨシキ! 撃つな――!」
パンッ! パンッ! パンッ!
タツヤの制止は間に合わなかった。銃弾の一発がタイヤに命中し、猛スピードで走っていたパトカーは制御を失い、轟音を立てて横転する。
「撃つなって言っただろ! 何やってんだよヨシキ!」
タツヤは怒鳴り散らし、顔を青ざめさせる。「これで本当に大事になっちまった!」
ヨシキはしばし黙り込み、やがて低く呟いた。
「心配すんな……全部、俺が責任取る」
ヨシキの言葉に、タツヤは思わず息を呑んだ。苛立ちはまだ消えていなかったが、胸の奥に説明できない感覚が走り抜ける。
周囲の音が一瞬かき消え、まるで時間そのものが止まったかのようだった。しかしタツヤの心の中では、その刹那が現実よりも何倍も長く感じられる。
出口の見えない障害に直面していたその時、前方に大渋滞が現れた。原因は近くで「黒物」の感染者――危険度イエローに分類される者が暴れているという報せだった。人々は慌てて逃げ惑い、別の道へと殺到している。ボランティアの避難誘導員が必死に声を張り上げ、避難を促していた。
「おい……あれは何だ?」
タツヤは掲げられた警告の看板を目を凝らして見たが、速度と暗闇のせいで文字ははっきり読めない。
「どうでもいい! 向こうの車線はガラ空きだ、逆走してでも抜けろ!」
ヨシキが急かす。その背後では、パトカーのサイレンがさらに近づいてくる。
タツヤは歯を食いしばり、ハンドルを切って車体を傾けた。バイクは猛スピードで反対車線に飛び込む。
しかし安堵する間もなく、複数のパトカーが次々と侵入し、道を塞いでいく。退路をじわじわと削り取るかのように。
ついに二人は、オフィスビルの前で完全に包囲された。
「クソッ……完全に囲まれたな」
タツヤのこめかみから汗が滴り落ちる。「もう止まるしかねぇ……」
「簡単に諦めんな! 捕まったらどんな罪になるか分かってんのか!」
ヨシキは必死に叫ぶ。
「知るかよ! そもそも全部お前のせいでこうなったんだ!」
タツヤも怒鳴り返す。「だが今ならまだ間に合う! 降伏すれば――」
「俺は絶対にそんな真似はしねぇ!」
ヨシキは目を見開き、声を荒げた。「兄貴に見下されるくらいなら、死んだ方がマシだ!」
「何言ってやがる! こっちは命が懸かってんだぞ!」
ヨシキは冷たい視線を横に流すと、低く呟いた。
「言っただろ……全部俺が責任取るって」
「どうやって責任取るんだよ! もう逃げ場なんてねぇだろ!」
タツヤは叫ぶと同時に、急ブレーキをかけてバイクを止め、そのまま地面に足をつけ立ち上がった。
周囲を取り囲む十数台のパトカー。赤と青の光が、夜の闇を不気味に染め上げていた。
タツヤがバイクから降りたその瞬間、ヨシキは好機を逃さなかった。
彼を強引に引き寄せ、首を締め上げるように腕で固定し、こめかみに銃口を突きつける。
「てめぇ……何やってんだよ!」
タツヤは低く唸るように悪態をついた。
「黙ってろ。余計なことは一言も喋るな……俺たちがここを抜け出すまでな」
冷たい声とともに、銃口に込められた圧がタツヤの頭を押さえつける。
タツヤは歯を食いしばる。不快極まりないが、従うしかなかった。
『こちら警察だ! 直ちに投降しろ!』
拡声器から響く怒声。しかし、人質に銃を突きつけられた光景を見た瞬間、警官たちは動きを止めた。
「人質を解放しろ! 我々は力ずくでお前を傷つけたいわけじゃない!」
その声にヨシキの体が一瞬止まる。耳慣れた声――兄の声だった。
ヨシキは目を細め、次の瞬間ヘッドライトへ向けて発砲した。
眩い光が砕け散り、破片が宙を舞う。
「投降だと? 冗談じゃねぇ! 一歩でも近づいたら、こいつを撃つ! あいつを騙したのは俺だ! クスリは全部、俺のもんだ!」
ヨシキは叫び、喉が裂けるほどの声で吠える。
タツヤは必死に抗う素振りを見せるが、横目で見たヨシキの瞳には涙が浮かんでいた。
兄の声が、彼の心をえぐるように痛みを増していく。
周囲を見渡すと、背後に廃ビルがそびえていた。
黄色いテープが張り巡らされ、「危険・立入禁止」の文字が目立つ。
「ちょうどいい……ここに入るぞ」
ヨシキが低く呟く。
「おい、立入禁止だろ!」
タツヤが小声で制止する。
「ここで突っ立って撃たれるよりマシだろが!」
ヨシキは怒鳴り、タツヤを無理やり引きずりながら暗い建物の中へ。
「やめろ! 入るな!」
兄の叫びは途中で途切れる。
「追ってくるな! 入ってきたらコイツを撃つ!」
ヨシキは怒声を響かせ、タツヤを押し込むようにして中へと消え、背後の扉を乱暴に閉めた。
「中は……クソッ……!」
眼鏡をかけた長身の男――ヨシキの兄であり、警察の警部は苦々しく唇を噛んだ。
「どこまで俺に迷惑かければ気が済むんだ、ヨシキ……」
「警部……これからどうされますか。あの中は……」
部下の一人が声を震わせて問いかける。
「俺が行く」
警部は冷静に告げた。「奴は俺の家族だ。止められるのは俺だけだ……迷惑をかけてすまない」
「駄目です! 一人で入るなんて! 中は危険すぎます! すでにミッドナイト部隊に連絡してあります。彼らが来るまで待ってください。俺も一緒に入ります!」
「だが、人質が――」
「大丈夫です」部下の声には揺るぎない決意があった。「俺は信じています。警部なら必ずやり遂げられると」
その言葉に、警部はわずかに口元を緩め、感謝を示すように頷いた。
二人は銃を構え、暗い廃ビルの中へと潜入する準備を整えるのだった。
廃ビルの中に入ると、ヨシキは銃を下ろし、腰に差し込んだ。
「お前……何考えてんだよ、ヨシキ」
タツヤが苛立ちを隠さずに声を荒げる。
「ただ、生き延びる方法を探しただけだ……それだけだよ」ヨシキはうつむき、かすれた声で答える。「それに……もうこれ以上、俺の問題に巻き込みたくないんだ」
「ここまで来ちまったら仕方ねぇだろ。俺も一緒に刑務所行くさ」タツヤは言い返す。「もう無茶するな。頼む。お前はいつも一人で背負い込んでるけど、俺はずっとそばにいたじゃねぇか。いろんなこと一緒に乗り越えてきただろ。家族がクソなのは分かる。でもなんでそこまで家族に縛られる? 俺たちなら新しい生き方を選べるはずだ」
「分かってねぇんだよ、タツヤ!」
ヨシキは叫ぶ。「お前には何も分からない……でも、それでいいんだ。知らない方がいい。分からない方が……こんな絶望を一生背負うよりマシだから!」
「……ヨシキ」
タツヤは声を落として名前を呼んだ。
「悪い……ちょっと感情的になりすぎた」
ヨシキは深く息を吸い、無理に笑みを作りながら涙を拭った。「ごめんな……こんな馬鹿げたことに巻き込んで」
「俺も悪かったよ」
「いや、全部俺のせいだ」ヨシキは首を振ると、非常階段を見上げた。「もうすぐ兄貴が追ってくるはずだ。とりあえず上へ行こう。いい場所を見つけて、逃げる算段を立てよう」
「……ああ」
タツヤは短く答える。本心では反論したかったが、ヨシキの諦めと後悔に満ちた表情を見て、何も言えなくなった。ただ黙って彼の後に続く。
非常階段を上がる途中、タツヤは真剣な声で問いかける。
「お前、俺に隠してることがあるんだろ? 言いたくなけりゃ言わなくてもいい。でも……聞きたい」
ヨシキは一瞬立ち止まり、低い声で言った。
「……正直なところ、俺はお前が羨ましいんだ、タツヤ」
「羨ましい? 何でだよ」
「お前には家族がいない。勉強しろとも、あれをやれこれをやれとも誰にも強制されない。自由なんだ……だから羨ましいんだ」
「はっ……野良犬同然の俺を羨ましがるとか、どうかしてるな」
「本気だ」ヨシキは小さく頷く。「俺だって自由が欲しかった。絵を描いたり、音楽をやったり、ハンドメイドの店を開いたり……でも一度も挑戦できなかった。小さい頃、こっそり漫画を買って読んでたんだ。でも親父に見つかって、全部燃やされた。『成績が悪いのは漫画のせいだ。兄貴みたいになれ』ってな。周りから見れば大したことないかもしれない。でも十二歳のガキにとっては……世界が崩れ落ちるのと同じだった」
タツヤは眉をひそめる。「今の時代、漫画なんて立派な文化だろ。お前の親父、頭ガチガチすぎだな」
「だろ?」ヨシキは苦笑する。「俺の成績なんて別にトップじゃなかったけど、落第したことは一度もねぇ。せいぜい真ん中あたりってとこだ」
「ははっ……勉強の話なんて俺にしても意味ねぇよ。ゲームしかやってなかったバカなんだから」
ヨシキは小さく笑った。「でも、そういうお前だから、俺はどんな話でもできた。だからずっと一緒にいられた」
「……やっとまともなこと言いやがったな。普段はただの狂犬のくせに」
「狂犬と野良犬……だから気が合うんだろ。ハハハ!」
笑い声が廃ビルの階段に虚しく響き渡る。二人は行き場も分からぬまま、ただ上へと登っていった。