タツヤ(特別編01)
「この殺人鬼の息子!」
「そうだよ、俺は殺人鬼の息子だ……。けどな、お前は次の犠牲者になるんだ」
幼稚園の教室に怒鳴り声が響き渡る。六歳の少年――タツヤは拳を振り抜き、同い年の子どもの顔面に叩き込んだ。小さな体は派手に倒れ込み、泣き声を上げながら担任の先生のもとへ駆け込む。
タツヤにとって喧嘩沙汰はもはや日常茶飯事だった。担任はしょっちゅう保護者を呼び出し、そのたびに学校へ姿を見せるのは痩せこけた年老いた祖父だった。
「またか……。一体いつまで問題を起こすつもりだ」
祖父はため息をつき、痣だらけの孫の顔をじっと見つめる。
「仕方ないだろ。親父がクズなんだからさ」タツヤは強気に言い返した。「俺は誰とも関わりたくないのに、向こうが勝手にちょっかい出してくるんだ」
「……そのクズも俺の息子なんだがな」祖父は喉の奥で自嘲するように笑った。「だが確かに、奴はどうしようもないクズだった……ハハハ! だがな、もう少し喧嘩は控えろ。次は本当に退園になるぞ」
タツヤの父親は殺人事件を起こし、無期懲役となって服役中だ。その犠牲者の一人こそ、タツヤの実の母親だった。母は暴力から息子を庇おうとした末に命を落とした。裁判では「事故」と片づけられたが――幼いタツヤには分かっていた。あれは紛れもなく、故意の殺人だった。
それから彼は体の弱い祖父に育てられることになる。母方の親族たちは「殺人鬼の血を引く子」として彼を忌み嫌い、受け入れてはくれなかった。無実のはずのタツヤに、何の罪もないはずの少年に。
だからタツヤは孤独を選んだ。友達など一人も作らず、祖父の言葉――「誰とも争うな」――に従い、ひたすら静かに、目立たぬように日々を過ごした。通うのは小さな無名の学校。心の扉を閉ざし、他人を遠ざけるようにして。
そして十七歳になったある日。唯一の味方だった祖父がこの世を去った。残された財産はすべて父方の親族の手に渡り、タツヤは一人取り残される。行き場を失った彼は、荷物をまとめて田舎を後にした。
向かう先は――都会。
新しい人生を、自分自身の力で始めるために。
「なぁ、ちょっと試してみないか」
黒いピアスをした不良っぽい少年が声をかけてきた。濁った目を光らせながら、手にしていた何かをタツヤへ差し出す。タツヤはコンビニの横で缶ジュースを飲んでいるところだった。
「ふざけんな! 俺がどれだけドラッグ嫌いか知ってんだろ……。俺の家族だってあんなクソみたいなもんのせいでめちゃくちゃになったんだ!」
タツヤは即座に言い返し、大きくため息をついた。
「お前だってそうだ、ヨシキ。いい加減やめろよ」
ヨシキは肩をすくめ、ポケットに小袋を押し込み、隣に腰を下ろす。刈り上げにしたピンクの短髪は、通りすがりの視線をいやでも引きつけていた。
「やめられるわけねぇだろ」彼は淡々と答える。「一度縛られたら抜け出せねぇ。それに金にもなる。この世界から簡単に足を洗える奴なんていないだろ。お前だって知ってるはずだ」
「はぁ……ほんと頑固だな」タツヤはぼそりと呟いた。
ヨシキは横目でタツヤを見ながら、探るように口を開く。
「それより……お前さ、最近金足りてんのか? 工場の箱詰めバイトだけで暮らしていけんの?」
タツヤの動きが一瞬止まり、視線だけを横に流した。
「なんでそんなこと聞く……まぁ、足りてねぇよ。……それがどうした」
ヨシキの口元に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「ならちょうどいい。お前に頼みたい“特別な仕事”があんだ」
「仕事? どんなだよ」
「配達だよ」ヨシキは小さく笑った。
「……まさか、薬の運び屋じゃねぇだろうな? そんなもん関わる気はねぇぞ。これ以上面倒に巻き込まれるのはごめんだ」
「まぁ待てって」ヨシキは肩をすくめる。「ドラッグじゃねぇ。グレーゾーンっちゃグレーだが……禁止薬物じゃない」
「どういう意味だ」
「“ヘヴン”って呼ばれてるブツだ」彼は声を潜める。「詳しいことは知らなくていい。ただやることは簡単だ。受け取った荷物を“バー・シックスナイン”の裏口まで運ぶ。それだけでいい」
「……届けるだけ、か?」
「ああ、それだけだ」
タツヤは迷いの色を浮かべ、目の前の男――唯一の友人であるヨシキを見つめた。配送会社で一緒に働いていた頃から、二人は同じような生き方をしてすぐに親友になった。その関係が、今も彼を縛りつけていた。
断り切れるはずがなかった。
表向きのヨシキはどう見ても信用できない――ドラッグに溺れ、大手のヤクザ組織の下で働く不良。
だがタツヤは知っていた。友である彼が本質的に悪人ではないことを。ただ、誰も望まない道を歩かざるを得なかっただけなのだと。
ヨシキの家族は、彼に決して温かくなかった。兄は何でもそつなくこなし、成績優秀で、今では警察官として両親から厚い信頼を得ている。それに比べ、勉強ができないヨシキは叱られてばかり。家族が欲したのは彼の存在ではなく、ただ「成績表の数字」だった。
本当のヨシキは――絵を描くことや音楽に才能があった。だがそれらは家族から最も嫌われ、無価値とされた。だからこそ、彼は家を捨てた。家族が与えてくれなかった自由を、自らの手で掴み取るために。たとえその自由が暗闇に染まっていようとも。
タツヤは何度か「もう一度絵を描いたり、音楽をやってみろ」と勧めたが、ヨシキはすでに燃え尽きてしまっていた。どれだけ彼の才能を称えたところで、心を動かすことはできなかった。
それでも――タツヤは心のどこかで信じていた。時間さえあれば、ヨシキは変われる、と。なぜなら二人に共通しているのは、「束縛のない生き方」――ただ自由に、好きなことをしていたいという思いだからだ。
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「ありがとな……ほら、これが報酬だ」
「喜んで」
最初の仕事は驚くほど簡単に終わった。
タツヤはヨシキに言われた通り、〈バー・シックスナイン〉の裏口で小さなバッグを渡し、代わりに封筒を受け取った。開けてみれば、中にはぎっしりと詰まった札束。インクと汗の匂いが混じり合い、心臓が高鳴る。
「……思った以上に入ってるな」
仕事は簡単すぎた。簡単すぎて逆に不安になるほどだ。だがその額に、口元は自然と緩んでいた。
夜の都会は妙に静まり返っていた。帰り道、コンクリートを踏みしめる靴音が狭い路地に反響する。街灯のいくつかは消えており、闇がじわじわと迫ってくる。タツヤは気づかなかった――その先に一つの影が待ち構えていることに。
黒いフードを被った人影が壁にもたれ、じっとこちらを見つめていた。冷気が背筋を走り抜ける。タツヤは無意識に歩調を早めた。だが次の瞬間――その影は襲いかかってきた。
逞しい腕が首に絡みつき、強引に路地裏の暗がりへと引きずり込む。
「離せっ! お前、誰だ!」
必死に抵抗し、心臓は爆発しそうなほど打ち鳴らす。脳裏をよぎったのは――警察か!? まさか、もうバレたのか!?
「黙れ」
低くくぐもった声。次の瞬間、もう一方の手が口を押さえ、呼吸を奪った。
「んぐっ……は、離せ……!」
歯を食いしばり、全身の筋肉を震わせて暴れる。しかし相手の力は常軌を逸していた。人間とは思えない圧倒的な力に、体はますます締め上げられていく。
そして――冷たい金属の感触が首筋を走った。
「……!?」
細い針が突き刺さり、得体の知れない液体が血管へと流れ込む。灼けるような痛みが全身を駆け巡り、悲鳴は押し殺され、声にならない。必死に暴れ、涙がにじむ。だが力はみるみる奪われていった。
視界が揺らぎ、そして――闇。
最後に見えたのは、まるで悪魔のように彼を見下ろす黒い影だけだった。
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「うっ……いってぇ……」
うめき声が漏れる。タツヤは混乱したまま首に手を当てた。体は鉛のように重く、悪夢から目覚めた直後のようだ。薄暗い部屋に目が慣れていくと、そこがヨシキの部屋であることに気づく。ボロボロのソファに寝かされ、壊れた家具や散らかったゴミの山、そして染みついたタバコの臭い――間違いなかった。
鉄のドアがきしむ音とともに開き、ヨシキが入ってきた。手にはビールの缶を二本、口にはタバコをくわえている。薄暗い明かりに照らされた彼の目の下には濃い隈が浮かび、刈り上げたピンクの髪は乱れていた。
「お、起きたか。ほらよ」ヨシキはにやりと笑って缶を差し出す。「まさか年齢気にして飲めないなんて言わねぇよな。ハハハ」
タツヤは缶を奪うように受け取り、プルタブを開けると一気に飲み干した。苦みが舌に広がり、頭に残っていた違和感を無理やり流し込むように。
「そんなに喉乾いてたのかよ」ヨシキが眉をひそめる。
「……俺、どうしてここにいるんだ」タツヤは腕で口元を拭いながら、苛立ちと困惑を混ぜた声で問う。
ヨシキは大声で笑った。
「俺が運んできたんだよ。お前、酒場の前でぶっ倒れてたからな。そのままじゃ危ねぇと思って連れてきたんだ。隠れて一人で飲んでたんだろ?」
タツヤは目を細め、疑いを込めた視線をヨシキに投げかけた。次の瞬間、彼の手からビールを奪い取り、そのまま口をつける。
「……酔ってなんかねぇよ」低い声で吐き捨て、それ以上は口をつぐんだ。
「はいはい、酔ってない酔ってない。で、まだ飲むか?」ヨシキが肩をすくめる。
「あるだけ持ってこい」
――あの夜以来、タツヤはヨシキと行動を共にし続けていた。あの「出来事」については一言も語らないまま。
請け負う仕事は次第に色を濃くし、ただの荷物運びから借金取りの“制裁”へと変わっていく。しなやかな体と磨かれた格闘技術は裏社会でも通用するほどで、多くの組織から声がかかった。だがタツヤが選んだのは――「まだギリギリ許せる仕事」……すなわち、借金を踏み倒した連中を叩きのめすことだけだった。
程なくして。いつものように友人の部屋を訪ねたタツヤは、ドアを開けたヨシキの姿に思わず足を止めた。
やつれた顔、痩せ細った体――至るところに殴られた痕が刻まれ、もはや別人のようだった。
「おい……どうしたんだよ、その有様は。誰にやられた? 言えよ。俺がぶっ飛ばしてやる!」
タツヤの声は怒りと焦りで震えていた。
ヨシキは視線を逸らし、短く吐き捨てる。
「……お前には関係ねぇ。気にするな」
タツヤは奥歯を噛みしめた。
「……家族か。会いに行ったんだな」
ヨシキの瞳がわずかに揺れ、苦笑が浮かんだ。
「さすがだな、親友。そこまで見抜くか……。ああ、母さんに会いに行ったんだ。医者にはもう長くないって言われてな。どうしても顔を見たくて……でも、まさか親父までいるとは思わなかった」
タツヤは眉をひそめる。
「……それで?」
ヨシキは左目の下を指さした。
「殴られたんだよ、親父に一発。……それだけじゃねぇ。あいつ、兄貴に電話して俺を捕まえさせようとしやがった。……危なかった、ほんとに」
冗談めかして話そうとしていたが、その瞳には隠しきれない痛みが滲んでいた。肩はわずかに震え、今にも崩れ落ちそうだった。ヨシキは手を伸ばし、コカインを吸い込む――まるでそれが唯一の逃げ道であるかのように。
「やめろ! そんなもんで救われるわけない!」
タツヤは腕を掴み、必死に止めた。
「家族に愛されなくても……お前には俺がいるだろ! 俺たちみたいな人間に、本当の友達なんてそう簡単にできやしねぇ! だから――俺からも奪うなよ!」
その言葉に、ヨシキの目から涙がこぼれた。顔を上げ、声を震わせながら呟く。
「……お前は、本当にいい奴だな。思ってた以上に……でも、俺は……お前が思ってるほど“いい友達”じゃないのかもしれねぇ」
胸を突くような言葉に、タツヤはしばし沈黙した。心臓を鷲掴みにされたような感覚が走る。
「どういう意味だよ……ヨシキ」
だがヨシキはかすかに笑い、首を横に振った。
「なんでもねぇよ。忘れろ」
タツヤは分かっていた。ヨシキの家庭は、彼一人の力ではどうにもならないほど深い闇を抱えていることを。
その心の傷は、広く、そしてあまりにも深い。癒すことなどできはしない。
だからこそ、彼にできることはひとつ――。
誰もいなくなった時、傍にいること。
タツヤにとってヨシキは――ただの友人ではない。唯一残された“家族”でもあった。