悪意の計画
「ハハハハッ!死ね!全部死にやがれぇぇぇ!」
タツヤの狂気に満ちた笑い声が、辺り一面に響き渡った。
刃のように鋭い翼を何度も何度も振り下ろし、巨大なウサギの死体をめった刺しにする。
真っ赤な鮮血が芝生に飛び散り、空気に鉄の匂いが混じる。
その目は大きく見開かれ、口元には悪魔のような歪んだ笑みが浮かんでいた。
目の前の光景に、ヒロキは一瞬息を呑んだ。
「もうやめろ!あいつはもう死んでる!」
叫びながら、彼はタツヤの正気を呼び戻そうとする。
だが、その声は虚しく空に消えるだけだった。
タツヤは止まらない。ヒロキの声など、まるで聞こえていないかのように、無我夢中でウサギの体を斬り続けていた。
ヒロキは意を決してタツヤに駆け寄り、彼の腕を掴んで止めようとした。
だが——
「ぐっ……!」
タツヤは振り返ることもなく、全力でヒロキを振り払った。
その勢いでヒロキの体は壁に叩きつけられ、床に崩れ落ちた。
その拍子に、服の内側にしまっていた通信機が転がり落ちる。
「……こちら、誰か聞こえるか?第十四区、南側の廃ビルでオレンジランクの感染者を確認!制圧部隊では手に負えない、ミッドナイト部隊の応援を要請する——
おい、誰か聞こえてるのか……?
ちっ、通信機が壊れてるのか?基地に戻って交換とかマジかよ……
まあいい、時間がない。クソッ、なんてこった……!とりあえず一旦撤退、後で再展開だ……」
通信機から漏れた声に、タツヤの手が一瞬止まる。
彼はゆっくりと振り返り、通信機をじっと見つめる。
その目には、凍りつくような冷たい光が宿っていた。
「行く気だな……」
ヒロキが唸るように言った。
彼の目は、タツヤの思考を完全に読み切っていた。
痛みに顔を歪めながらも、ヒロキは立ち上がる。
タツヤが鋭い視線を向ける。
「……お前、俺が何しようとしてるか分かってるのか?」
「分かってるさ!」
ヒロキは即座に答えた。顔には一切の迷いがない。
「命令が下るまでは、そこに行くことは禁止されてるんだぞ!」
タツヤは薄ら笑いを浮かべた。
「それで?」
彼の態度からは、ヒロキの言葉など一片たりとも届いていない様子だった。
「俺が弱い奴の戯言を、いちいち聞く必要あるか?」
「行くなら……俺の死体を踏み越えて行け!」
「……ふーん、いいぜ。その願い、叶えてやるよ」
その瞬間、タツヤはヒロキの胸倉を強く掴み、地面から強引に引き起こした——
だが、まさにそのとき——
ガラッと音を立てて教室のドアが開き、複数の足音が駆け込んできた。
「ちょっと、二人とも何してるの!?」
ミキが叫んだ。
彼女の目には驚きが浮かんでいる。
その背後には、レンジ、オイダイラ、そしてリンの姿があった。
三人とも、教室の中の異様な空気に言葉を失っていた。
「友達同士でしょ?なんでこんなとこで喧嘩してるのよ……?」
「これは君には関係ない――」
タツヤは冷たくそう言い放つと、ヒロキの胸ぐらから手を離し、迷いなく教室の窓際へと向かった。
「止めてくれ!タツヤが第十四区に向かおうとしてるんだ!」
ヒロキが叫んだのは、まさにタツヤが窓枠に足をかけたその瞬間だった。
だが――遅かった。
ガラス窓が風を切る音とともに、タツヤの体が宙に舞い上がる。
そのまま彼は一気に空を飛び、第十四区の南にある廃ビル――オレンジランクの感染者が現れたという現場へ向かっていった。
「はっ!? 今なんて……?」
リンが信じられないというように声を漏らす。
「第十四区って……あの、オレンジランクの感染者が出たっていう場所か?」
オイダイラも眉をひそめ、明らかに焦った表情を浮かべていた。
「追いかけるしかないわね。第十四区の南にある廃ビル……今すぐにでも」
ヒロキがそう言い残した瞬間――彼の姿がふっと掻き消えた。
短距離転移の能力を使って、ためらいもなくタツヤを追ったのだ。
「タツヤって、かなり高く飛べるよね……」
ミキがぽつりと呟いたあと、隣にいるリンに視線を向ける。
「彼のスピードについていけるの、たぶんリンちゃんくらいだよね。風の力を使えば」
「……あんなやつ、誰の話も聞くわけないじゃない」
リンはピシャリとそう言い放ち、厳しい表情を浮かべたまま目を伏せる。
「たとえ追いつけたとしても、あのバカには何を言っても無駄よ」
彼女は少し肩を落とし、ため息交じりに続けた。
「ごめんね。私にはあいつを説得するほどの話術なんてないし……
飛べるのは飛べるけど、ミキちゃんの方がうまく言いくるめられると思うわ」
「アイツ……本気で死にに行こうとしてるよな」
レンジがぽつりとつぶやいた瞬間、周囲の視線が一斉に彼に注がれた。
彼は少し目をそらし、声を落として続ける。
「……俺さ、前にオレンジランクの感染者に会ったことあるんだ。
あれは……人生で一番最悪な経験だったよ」
「お前、オレンジランクに遭遇したって……?」
オイダイラが驚いた様子で問い返す。
「バカな……普通の人間があのレベルに遭って、生き残れるわけないだろ!嘘つくなよ!」
「さあね……」
レンジは不安げに首を横に振る。
「でも信じてくれ。あいつは止めなきゃダメなんだ」
彼は慌てて通信マスクを装着し、タツヤに連絡を取ろうとした。
だが——応答はなかった。
「くそっ……繋がらない……」
レンジの額にはじっとりと汗が浮かび始めていた。
「通信が無理なら……追いかけて止めるしかない。今すぐに」
その声は、明らかに恐怖と焦りに満ちていた。
ミキはその様子を見て、すぐに事態の重大さを悟る。
「それじゃあ……行こう!」
彼女はみんなに向かって真剣な眼差しで言い放つ。
そして隣にいた少女へと顔を向けた。
「リンちゃん、ちょっとお願いしたいことがあるの」
「うん、何?」
「高いところまで、風で私を飛ばしてくれない?
高層ビルの辺りまででいい。あとは自力でなんとかするから」
「……ああ、つまり自分の糸を使ってビルの間を渡るってことね?」
リンはふっと微笑んだ。
「オッケー。任せて」
そう言うと、彼女はそっと手を掲げ、指先で空気を操るような仕草をする。
次の瞬間――
強烈な風が巻き起こり、ミキの身体をふわりと宙へと舞い上げた。
まるで天使の翼に抱かれるように、彼女の姿は窓の向こうへと消えていく。
「さて……次は私の番ね」
リンもすぐさま窓枠に足をかけ、風をまとって身を翻すと、そのまま空へと舞い上がった。
風の流れに乗って軽やかに飛翔し、瞬く間に姿を消してしまう。
その場に残ったのは、まだ窓際に立っていた二人の少年だけだった。
「はぁ……みんな、それぞれカッコいい移動手段があるんだな、レンジくん」
オイダイラはぽつりと呟きながら、窓の外を見つめていたレンジに声をかける。
「まさか、君も空を飛べる……なんて言わないよな?」
「えーっと……」
レンジは少し間を置いてから返した。
「まあ、状況が状況だからな。でも、ひとつ言っとくよ。
俺も空は飛べない」
肩をすくめ、口の端を軽く上げる。
「でもね、俺たちには"いいモノ"があるんだ」
「いいモノ?」
「こいつさ」
そう言って、レンジは自分の足を指さした。
「走るんだよ、走るしかないだろ!」
言い終わると同時に、彼はくるりと背を向けて、教室を飛び出していった。
「お、おい!待ってくれよ!」
慌ててオイダイラも後を追う。
階段に響く足音と、疲れたような声が交錯する。
「この任務が終わったら、どんな処分を受けるのか……あー、泣きたいわ!」
「うわ、速っ!待ってよレンジくん!
こっちはスリム体型じゃないんだぞ!」
「おいおい、オイダイラくん、文句ばっか言ってる暇あったら走れっての!」
レンジは後ろを振り返って怒鳴る。
「こっちは銃器フル装備なんだぞ!背中が折れそうなんだよ、走ってるだけでもキツいんだってば!」
二人の足音は、まるで競い合うように廊下に鳴り響く。
――仲間を追って。
――そして、迫り来る破滅を止めるために。
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「……使えないか。まったく、困ったもんだな」
静まり返った研究室の中に、中年男のぼやき声が響いた。
彼は小太りで黒縁の眼鏡をかけ、少し乱れた髪に、淡く黒い瞳をした男。
着ている白衣はところどころに薬品の染みが付いており、袖口も少しくたびれていた。
蛍光灯のチカチカとした明かりの下、男は手にした試験管の中をじっと覗き込んでいる。
中には黒く濁った液体が、まるで生き物のようにゆらゆらと揺れていた。
「まったく……あと何を加えれば、こいつはもっと強力になるんだ?」
そう呟きながら、男は顕微鏡のピントを微調整する。
その瞬間――
男の背後に、ほのかに光るものが現れた。
最初は小さな光点だったが、次第にそれは膨らみ、やがて輝く光のリングとなる。
そして、その中から一人の男がゆっくりと姿を現した。
その男は大柄で筋肉質、やや無精ひげを生やしており、
炎のように赤いロングコートに、片方にずれたカウボーイハットを被っていた。
彼は片手で帽子を直すと、大きくため息を吐き、
傍にあった椅子を引き寄せて、どっかりと腰を下ろした。
「ったく……マジで疲れたぜ」
男はぼそっとつぶやきながら、研究者を見やった。
「言われた通りの仕事はしてきたぞ、ルター」
「ご苦労さまです、ゲンゾウさん」
白衣の男――ルターは、薄く微笑みながら振り返る。
「それで……“黒物ウイルス”の拡散計画の方はどうでしたか?」
「まあ、ベストは尽くしたさ」
ゲンゾウは肩をすくめる。
「どうやらアンダーグラウンドのヤンキーどもにはウケが良かったみたいだな」
「それは良かった。光魔様が目指す理想郷の実現に、一歩近づいたということですね」
「……でもな、たまに思うんだよ。
その“理想郷”ってやつ、本当に実現できるのかって」
「うん……必ずできますよ。僕はそう信じてますから」
「だけど今の黒物ウイルスって、ほとんどの人間を化け物にしちまってるんだろ?」
ゲンゾウは眉をひそめながら、ルターの手元にある黒い液体を見つめた。
「それは……連中が弱いだけです」
ルターは即答する。
「もちろん、このウイルスは危険です。注射しても生き残れる保証はありません。
でも、生き残ったら――得られるのは圧倒的な力ですよ?」
「まあ、そこは否定しねえよ。でもな……
“生き残れる”人間がどれだけいるんだ?」
「そこなんです」
ルターは眼鏡をクイッと押し上げる。
「それこそが、僕が光魔様のために成し遂げたいこと――
黒物ウイルスの“変異率”を可能な限り抑える実験を進めているんです」
ルターは机の上から一枚のメモを取り上げて、ゲンゾウに見せた。
「気づきませんか?最近になって、“自分で免疫を持つ感染者”が少しずつ増えてきたんですよ。
これは偶然なんかじゃない。僕とチームが開発した変異型のウイルスによる効果なんです」
「ふぅん……それで?」
「……まだ完璧とは言えませんけどね」
ルターは率直に言った。
「今できているのは、ウイルスの反応速度を早めることだけです」
彼は横の金属ケースから別の薬瓶を取り出す。
「でも、それでも闇市場ではかなり売れてますよ。
しかも、変異率も少しは抑えられるようになってきました。今のところ……四十対六十くらいですね」
「四十対六十……ってどういう意味だ?」
ゲンゾウが眉をひそめながら訊いた。
「つまり、六十パーセントの人間は副作用で自我を失い、変異してしまう。
残りの四十パーセントは、免疫を持っていて、自らの力をコントロールできる――
あなたや僕のように、ですよ、ゲンゾウさん」
ルターは少し間を置いてから続けた。
「もともとは、免疫の有無を判断するのに何日もかかっていたんですが……
今はその判別時間をかなり短縮できるようになりました。
将来的には、変異のリスクをさらに下げてみせますよ」
「それならいいことじゃねえか」
ゲンゾウは軽くうなずいた。
「もし成功すれば、こんなバカみてぇな病気で死ぬ人間もいなくなる」
「――とはいえ」
ルターの声がふいに低くなり、表情もどこか鋭さを帯び始める。
「もちろん、皆が強くなるという点では素晴らしいですが……
僕はそれと同時に、“感染者全員が抗ウイルス薬に依存する仕組み”を作るつもりです」
「はぁ?まさか……ミッドナイト部隊が使ってるあの薬と同じってことか?」
「そうですよ」
ルターは静かにうなずいた。
「黒物ウイルスの抗ウイルス薬は、光魔コーポレーションしか製造できません。
だからこそ、我々が世界の主導権を握っている。
そしてもし……“全世界”の人間を感染させることができたら――」
彼の目が細められ、不気味な笑みが浮かぶ。
「我々は“神”になるんですよ」
「おお……それ、結構いいアイデアじゃねえか。世界征服も夢じゃないな」
「でしょう?」
ルターは胸を張り、満面の笑みを浮かべた。
「……でも、そんなにうまくいくか?」
ゲンゾウが眉をひそめる。
「ミッドナイト部隊の連中が、素直に従うとは思えねえんだが」
「ふむ……そう思いますか、ゲンゾウさん?」
「思うに決まってんだろ」
ゲンゾウは大きく鼻から息を吐き、腕を組んだ。
「俺なんか、今じゃあいつらから見りゃ指名手配レベルの犯罪者だぞ?」
「まあ……もう少しの辛抱です」
ルターは淡々と続ける。
「光魔様なら、この件に関してもきっと“計画”を立てておられますから」
「計画、ね……」
「ええ……」
ルターは眼鏡をそっと押し上げ、その瞳に冷たい狡猾さをにじませながら続けた。
「少なくとも……ミッドナイト部隊は、いまだに我々の会社から抗ウイルス薬を購入しています。
政府から受け取った予算で、価値のない感染者を“排除”しているわけです」
「つまり簡単に言えば――」
「我々がウイルスをばらまいて、あいつらがそれを殺す。
でも、治療に使う薬は我々から買うしかない」
「自分の手を汚さず、リスクも負わず、利益と権力だけを手に入れる。
……完璧な構図だと思いませんか?」
「はぁ……まあ、頑張って我慢するしかねぇな……」
ゲンゾウは長いため息と共に大きなあくびをして、疲れたように呟く。
「お前はお前で、そっちの仕事をしっかりやってくれ。
俺は……捕まらないように頑張るさ」
「了解しました、最高司令官殿」