そんなに難しいことじゃない
パリーン!!
大きなガラスが茶色い毛に覆われた拳によって粉々に砕け散った!
巨大なウサギの化け物がそのままガラスを突き破って飛び込んでくる。
柱のように太い腕を振り回しながら、ミキを目がけて突進してきた。
彼女は小学校の二階の廊下で、怪物の注意を引きつけていたのだ。
「はぁっ……まだ追ってくるの!?」
ミキは息を切らしながら空中で身をひるがえす。
しなやかに体を回転させ、指先から糸を放ち、蜘蛛の糸で建物の梁に飛び移る。
その瞬間、振り下ろされた鋭い爪が、ギリギリのところで彼女の身体をかすめていった。
怪物が咆哮を上げる。
その爪が床に激突した衝撃で、白い埃が舞い上がる。
「ヒロキ!! こいつを長く足止めするのは無理だよ!!
なにかあるなら、今すぐやって!!」
ミキは怪物の頭上をすり抜けながら、声を張り上げた。
ヒロキはその様子を見ていた。
ミキが必死に怪物の注意を逸らし、攻撃を誘導しているのがよくわかる。
彼の額には汗がにじみ、顔は明らかに緊張していた。
「ヒロキ……考えろ、ヒロキ!」
心の中で自分に言い聞かせる。
「今の俺たちじゃ、誰もあいつを正面から倒すことはできない……俺も例外じゃない。
ミキがずっと逃げ回るなんて無理だ……速すぎる……!」
唇を噛みしめながら、ヒロキは廊下の奥に視線をやる。
そこには蜘蛛の糸が残っていた。
「蜘蛛の糸……そうだ、蜘蛛の糸なら……!」
彼の目が一瞬で光を取り戻す。
そして小さく呟いた。
「そうか……この方法なら、いけるかもしれない!」
彼はすぐさま顔を上げ、空中で身をかわしているミキに叫んだ。
「ミキ!! 役割交代しよう!!」
「えっ!? なに言って……うわっ!!」
ミキは返事をしかけたが、その瞬間に黒ずんだ二股の舌が彼女を襲った!
とっさにバク転でかわすが、その舌は床に激突し、埃が舞い上がる。
「俺が囮になる!!」ヒロキが怒鳴る。
「ミキちゃんは、罠を張ってくれ!!」
そう言うや否や、ヒロキは瞬間移動の力で自分とミキの位置を入れ替えた——!
そしてその一瞬。
ウサギの巨体が振り下ろした脚が、ちょうどヒロキの位置へ迫っていた!
ドガァン!!
木製の床が一瞬で砕け散る――
だが、ヒロキはギリギリで後方にワープして回避した。
その体は攻撃が直撃する寸前に地面から消え、次の瞬間には廊下の端に現れる。
彼が立っていた場所の床には、大きな亀裂が走っていた。
「あっぶな……は、はは……」
ヒロキは肩で息をしながら、背後の亀裂を見て顔を引きつらせた。
あと一秒遅れていたら、自分の骨は砕けていたに違いない。
「ヒロキくん、私……何をすればいいの?」
ミキの声が彼の意識を現実に引き戻す。
ヒロキはハッとしながら、目の前の怪物――怒り狂った巨大ウサギを見据えた。
その赤い目は彼を引き裂かんばかりに睨みつけている。
「えっと……一階に降りて、蜘蛛の糸で罠を張ってくれ。
俺がそいつを誘導するから、そこに落とし込む!」
「罠で……? 誘導ってどうやって?」
ミキは驚きつつも、飛び上がって爪の一撃をかわす。
その刃は髪をかすめるようにして風を切った。
「一階の、俺がさっき立ってた真下の場所だ!」
ヒロキは焦りながら説明を続ける。
「俺がなんとかして、そいつをその罠に突っ込ませる。
お前は糸を追加して、抜け出せないようにしてくれ!」
「わかった、今すぐ行く!」
ミキは即座に頷くと、振り向いて階段へと駆け出した。
だが、その行動をウサギの怪物が見逃すはずもなかった。
それはギョロリと目を向けると、近くの机に手を伸ばし――
ブンッ!!
「いや……っ!!」
ヒロキはその瞬間を見逃さなかった。
彼は瞬時にワープし――
ミキの身体を抱き寄せ、机が直撃する直前に柱の陰へと飛び込んだ!
ドガァン!!
机が壁に衝突し、木片や金属片が空中を舞う。
ミキは目をつぶり、反射的に頭をかばった。
だが、次の瞬間に感じたのは、誰かの胸の温もりだった。
「……ありがとう……」
ミキは驚きと安堵が混ざった声で呟いた。
ヒロキは軽く息を切らしながら、薄く笑う。
「行け、ミキ。ここは任せろ。」
そう言いながら、視線は決して怪物から逸らさない。
「お前の相手は……俺だ。」
ミキは迷うことなく再び走り出した。
一階へと駆け下りる彼女を背に、ヒロキは一人で怪物と向き合う。
「さあ来いよ、モフモフ野郎。」
彼は構えを取り、凛とした表情で挑発する。
怪物が再び吠えた。
低く、地鳴りのような声を上げると、前足を曲げて地面を蹴る体勢に入る。
グルァアアアア!!
大口を開けて突進――
鋭く尖った牙が並び、濃いよだれが垂れている。
生臭さが辺りに充満し、殺気が風と共に押し寄せる。
「……へへっ、そう簡単にはいかないよ。」
ヒロキは不敵に笑い、瞬間移動で姿を消した!
ドゴォン!!
ウサギの怪物は、そのまま勢い余って廊下の端の壁に激突。
壁は大きく凹み、亀裂が走る。
その衝撃で頭部が裂け、黒い血が床に流れ出す。
……だが、怪物はまだ死んでいなかった――。
黒い血液が、まるで引き寄せられるかのように、
少しずつ傷口へと戻っていく。
裂けた肉が、ぞっとするほど静かに――そして確実に、塞がっていった。
「うわぁ……」
ヒロキが思わず声を漏らす。表情は一気に引き締まった。
「ククロモノに完全感染してる奴って、こんなにヤバいのか……
そりゃあ、この施設の職員が自己再生システムに神経質になるのも納得だよな……」
そう呟いた瞬間——
シュバァッ!!
ウサギの怪物が、再び猛スピードで突進してきた!
目にも留まらぬ速さで迫るその巨体に、ヒロキは即座に反応し、
ワープで回避!
その刃のような牙が、彼の顔をわずかにかすめる。
ヒロキは着地と同時に大きく息を吐き、肩で呼吸した。
「まずい……」
歯を食いしばりながら、彼は思う。
ワープの反応が、明らかに鈍くなっている。
このまま使い続ければ、肉体が限界を超える。
ワープが途中で止まり、体がちぎれてしまう――
最悪の未来が脳裏をよぎる。
「ミキ! そっちはどうなってる!?」
彼は一階に向かって叫ぶ。
その間も、鋭い爪が彼に向かって襲いかかる。
ヒロキは脚力と反射神経だけで、それをかわす。
バシィッ!!
しかし次の一撃は、肩に直撃。
血が飛び散り、頭と唇の端からも鮮血が垂れる。
それでも、ヒロキは微笑んだ。
ボロボロになりながらも、彼はあくまで強気だった。
「お前にできることくらい……俺にだってできるさ。」
そう吐き捨てるように言って、にやりと笑う。
「こっちは完了したよ!」
一階から、ミキの声が届く。
「蜘蛛の巣っぽくはないけど……
ちゃんと効いてくれるといいなって、思ってる!」
「上出来だ!」
ヒロキは力強く叫び、歯を食いしばる。
そして――
ワープで、あの砕けた床の地点へと移動する。
「ここだ……来いよ! 俺はここだ!!」
モフモフの巨獣が低く唸り声を上げ——
次の瞬間、ヒロキに向かって全力で突進してきた!
ドガァン!!
すでにヒビが入っていた木の床は、衝撃に耐えきれず崩れ落ちる。
怪物の巨体が床を突き破り、一階へと真っ逆さまに落ちていく——
そこには、ミキが張った蜘蛛の糸のトラップが待っていた!
ヒロキも一緒に落下するが、寸前でワープして二階に戻ることに成功する。
下では、獣の体がねばついた糸に絡まり、暴れまわっていた。
狂ったように舌を振り回し、咆哮を上げるが、完全に捕らえられていて逃げられない。
「やったーっ!! 成功だよ、ヒロキ!! うちらやったよ!!」
ミキの歓声が一階から響き渡る。
その声には安堵と喜びが満ちていた。
「そうだな……はぁ、助かった……」
ヒロキは深く息を吐き、胸のつかえが取れたような気がした。
背筋を伸ばし、少しだけ笑みを浮かべる。
だが、そのとき——
彼の背後、闇の中で“何か”が音もなく動いていた。
スッ……!
ガッシャーン!!
背後からの強烈な衝撃が、ヒロキの体を壁へと叩きつける!
「ぐっ……!!」
壁に激突した瞬間、ヒロキの口から血が吹き出す。
体は崩れ落ち、膝をつく。
「ヒロキーッ!! だめっ……!!」
ミキの絶叫が空気を切り裂いた。
ヒロキは必死に手をついて体を支えようとするが、
全身がガクガクと震えて言うことを聞かない。
そこへ、追い討ちのように——
ズルズルッ!!
もう一体のウサギの怪物が突進してくる!
ねばつく舌をヒロキの足首に巻きつけ、力任せに引き寄せた!
「……っ!」
ヒロキは目を見開く。
この距離、この体勢では――回避できない。
彼は目をつぶり、腕を前に出して身を守ろうとした。
「うっ……!」
ズバァッ!!
空気を裂くような鋭い音が響く。
そして次の瞬間——
ギャアアアアアア!!
怪物が苦痛に満ちた咆哮を上げる。
血飛沫が宙に舞う。
ヒロキは恐る恐る目を開けた。
目の前には——
一人の男が立っていた。
その背中は、まるで盾のように彼を守っている。
彼の背には、片方だけの鋼の翼が広がっていた。
その鋭利な翼の先端からは、真っ黒な血がポタポタと滴り落ちていた——。
「タツヤ……」
ヒロキは呆然とした声で男の名を呼んだ。
目を見開き、驚きに満ちた表情でその姿を見つめる。
男は少しだけ視線を落とし、冷淡な声で言い放つ。
「護衛もいないだけで、ウサギ一匹すら倒せないのか?」
床に倒れていたヒロキは、血を滲ませた口元を歪めながらゆっくりと身を起こす。
「……だって、俺には君みたいな攻撃力はないからさ。」
声はかすれていたが、芯のある口調だった。
タツヤは小さくため息をつき、忌々しそうに顔をしかめる。
「おいおい、自分で頭が切れるって言ってただろ?」
腕を組み、周囲をぐるりと見渡した後――
彼は鋭く言った。
「忘れたのか? お前の血も、奴らには有効なんだよ。」
その一言が、雷のようにヒロキの脳内を駆け巡る。
「……俺の、血……?」
彼は思わず呟き、周囲を見渡す。
壊れた机、鉄の破片、ガラスの破片――
それらに自分の血を流し込めば、武器になりうる。
その一方で、タツヤはすでに動き出していた。
片翼の鋼の翼が展開される――
ギィイイイイ……!!
金属が擦れる音が響き、彼の体が一閃のごとく跳ねる。
目にも止まらぬ速さで、別のウサギの怪物に突撃。
その鋭さ、力強さ、正確さ――まさに一撃必殺。
ザシュッ!!
鋼の翼が怪物の胴体を切り裂き、血飛沫が壁に飛び散る。
しかし今回は、怪物は再生できなかった。
まるで“何か”がその力を封じたかのように、ただもがくだけ。
やがて、それは力尽きるように、床へと崩れ落ちた。
“片翼の鷲”――その異名にふさわしい勝利だった。
タツヤは少しだけ息を吐き、ヒロキを見下ろす。
「立て。終わってない。」
口元にわずかな笑みを浮かべるその瞳には、まだ炎が宿っていた。
そのとき――
一階から、蜘蛛の糸が裂ける音と共に、別の悲鳴が上がる。
「……嘘でしょ……」
ミキの声が震える。次の瞬間、悲鳴に変わった。
「どうしよう……!? どうすればいいの!?」
先ほど落ちたもう一体のウサギが、再び立ち上がっていた。
拘束されていた糸を引きちぎり、血走った目でミキを睨む。
ミキは後退し、背中が壁にぶつかる。
逃げ道は、ない。
「やばい……誰か……助けて!!」
その瞬間、通信機から声が飛び込んできた。
「ミキ、伏せろ!」
言われるがままに、ミキは即座にしゃがみ、頭を抱える。
パンッ! パンッ! パンッ!
立て続けに銃声が三発。
そのすべてが、怪物の額を正確に撃ち抜いた。
ドサッ!!
巨体は一瞬静止し、そのまま崩れ落ちる。
血が床に広がり、再生の兆しは――ない。
ミキは、まだ頭を抱えたまま、恐る恐る顔を上げた。
その瞳に映ったのは、動かぬウサギの死体だった。
「レンジ……あなたなの……?」
ミキの問いかけに、落ち着いた声が返ってくる。
「そうだ、俺だ。」
その声の主——レンジは、体育館の隣の屋上に伏せていた。
彼の左目だけが、特殊な能力を帯びた“異能の目”として光を放っていた。
その左目で、遠く離れた校舎内のミキを正確に捉えていたのだ。
「驚かせたならごめん。
窓越しに君の姿が見えて……走って向かったら間に合わないと思ってさ。」
声はあくまで冷静だが、どこか優しさが滲んでいる。
「オイダイラが今そっちに向かってる。俺もすぐ行く。」
ミキは目に涙を浮かべ、顔を上げた。
「ありがとう……本当に、ありがとう……」
その声には、張りつめていた恐怖が滲んでいた。
「もう大丈夫だよ。」
レンジはライフルをたたみ、背負い直すと仲間を振り返った。
「行こう、オイダイラ、リン。」
彼の合図で、三人は小学校の校舎へと走り出した。
残されたのは、まだ温もりの残る銃口と、静まり返った戦場の空気だけだった。