噂
「ねえ……アイちゃんから聞いたんだけどさ、この学校に“黒物病”の患者が逃げ出したって噂があるんだよ」
「えっ、ほんと? こわ〜……」
「私も聞いた聞いた。でも、そんなことあり得る? 国が“感染者はごくわずか”って発表してたじゃん」
「“わずか”でも危ないでしょ。だって怖い病気なんだよ? 治療薬もないし、感染したら死ぬか、死ななくても政府に処分されるんだって。ドキュメンタリーで見たもん。じゃなきゃ、“感染区域”と“安全区域”を分ける必要なんてないでしょ?」
「こら! ちょっと静かにしてくださーい。今は授業中ですよ。おしゃべりは休み時間まで我慢してください。これが今日最後の授業なんですからね」
「はーい……」
女子生徒たちはそろって小さく返事をした。
高校の教室から、教師が生徒を叱る声が大きく響き渡った。
その声に釣られるように、レンジは顔を上げて後方を見た。どうやら先生は、後ろの席に座っている女子生徒たちを叱っているらしい。
そのとき、左肩をトントンと叩かれた。
「ねぇ、レンジくんも聞いたでしょ?」
隣の席のホタルが、先生に聞こえないように小声で囁いた。
「……何の噂だよ? 俺、全然知らないけど」
「ほら、今この街で“黒物病”の第四段階の患者が逃げ出したっていう噂。最近ね、直接この件を担当してる“ミッドナイト部隊”が、町中の路地裏とかを巡回してるんだって。それに、“日が沈む前には家に帰るように”ってお達しまで出てるらしいよ」
「うそだろ……今日、俺バイト入ってるんだぞ。代わりもいないし、急に休むなんて無理だよ」
少年は顔をしかめ、焦ったように呟いた。
「一度、店長に相談してみたら? 今は非常事態なんだし、もしかしたら休ませてくれるかもよ」
「……そうだな。ありがとな、ホタル。とりあえず、聞いてみるよ」
本当はレンジ自身、わかっていた。
自分が仕事を休めるはずなんてないことを。
それは、コンビニの店長が厳しいからではない。
――理由は、家のほうにあった。
働くことは、そのまま“金”になる。
そして、今の家はあまり居心地のいい場所ではなかった。
レンジが働かなければ、母親はお金を手にできない。
それが、彼と母の間に絶えず意味のない口論を生む原因の一つでもあった。
コンビニ《ザ・タワー》にて――。
「本来なら、うちは二十四時間営業なんだが……今日は十八時で閉める。みんな、日が沈む前に帰るようにな」
棚の商品を並べながら、黒髪に白髪の混じった男性がそう言った。
制服の胸元には「佐藤」と名札がついている。
「佐藤さんも、あの噂を聞いたんですか?」
近くで同じく品出しをしていたレンジが、少し緊張した声で尋ねた。
「聞いたもなにも、あれはもう“噂”じゃないよ」
佐藤はため息をつきながら答えた。
「今日の正午、政府から直接電話があったんだ。それにテレビやラジオでも報道してた。実際には夜七時から外出禁止令が出てる。だけど、うちは余裕を見て六時で店を閉めることにしたんだ」
「……ってことは、本当に第四段階の感染者が、この辺に出たってことですか?」
「まぁ、そういうことになるな」
「そっか……それじゃ、仕方ないですね」
レンジは肩を落とし、小さく呟いた。
「まったくだ。ホントなら朝まで開けていたいよ、ったく」
佐藤店長は疲れたように頭を掻いた。
「いつまでも感染者を怖がってばかりもいられないが……経済を止めるわけにもいかんだろ。黒物病が流行ってからというもの、どれだけの人が飢えてると思う? 感染して死ぬか、飢えて死ぬか――そんな世の中だ」
少し黙ったあと、彼は静かに言葉を続けた。
「……まぁ、怖いのは確かだけどな。だからこそ、日が沈む前に帰れ。若いんだ、夜遅くまで残るなよ。帰りは木村さんに送ってもらえ。二人でシフトに入ってるんだ、互いに気をつけろよ」
「はい、わかりました」
佐藤店長が仕事を終えると、副店長の木村と何やら話し込み始めた。
その間、店を任されたのはレンジと木村の二人だけだった。
レンジはいつも通り、黙々と品出しやレジの作業をこなしていた。
客が増えたときには、木村がレジに入って手伝ってくれる。
やがて、閉店時間が近づく。
木村は店の奥へ引っ込み、片づけやレジ締めの準備を始めた。
そのとき――。
カラン、とドアのベルが鳴る。
店に入ってきたのは、男女二人の客だった。
女のほうは黒い露出の多い服を身にまとい、真っ赤な口紅を塗っている。
指には白い煙を立ちのぼらせるタバコ。
男のほうはというと、油を塗ったような黒いレザージャケットに、やけに整った髪型。
やせ細った体に、不自然に光る瞳のくぼみ――。
その男が、片づけをしていたレンジのほうを睨みつけた。
その表情には、明らかな“苛立ち”が浮かんでいた。
「す、すみません、お客様……! ただいま非常事態につき、当店では――」
「はあ? 閉めるってのか? おい、ここは二十四時間営業の店だろうが!」
苛立った声が店内に響く。
「で、ですが……店頭にも“本日は十八時閉店”と――」
言い終える間もなく、胸ぐらをつかまれた。体が浮く。
「うちの彼女が買い物してんだよ! 五分や十分くらい待てねぇのか、ああっ!?」
息が詰まる。視界の端が揺れた。
――その瞬間、バックヤードから人影が飛び出してきた。
「お、お客様! どうか落ち着いてください!」
木村だった。慌てて間に入り、深く頭を下げる。
「大変失礼いたしました。本日、政府の指示で営業時間を短縮しておりまして……安全確保のための措置なんです。で、ですが――もしお求めの商品が少しだけでしたら、すぐにご用意いたします」
引きつった笑顔。
――本当は、レンジの対応は間違っていない。
だが、この手の“客”を刺激すれば、面倒なことになるのは目に見えている。
だからこそ木村は、頭を下げてでも波風を立てない道を選んだ。
小さな火種が、大きな騒ぎになる前に。
「本当に……いいんですか、木村さん」
隣に立つ木村へ、レンジが小声で囁く。
「この二人に買い物させたら、もし次の客が来たとき――」
「わかってる」
木村も同じく小声で返した。
「正しいやり方じゃないのは承知してる。でも、まずはあの二人に出て行ってもらう。それから店の前の照明を落とすんだ。そうすれば、もう営業してないってわかるだろ」
レンジは小さくうなずいた。
副店長の判断に従うほかない。
客が会計を済ませるのを待ちながら、ぼんやりと外へ目をやる。
――そのときだった。
視界の端を、ひとりの男がゆっくりと横切った。
足取りはふらつき、まるでゾンビのよう。
顔を上げ、曇った空を見上げている。
焦点の合わない目。
泥と黒ずんだ染みで汚れたコート。
赤くただれた手の甲。
その男はただ、店の前を通り過ぎていくだけだった。
だが、口は途切れることなく何かを呟いている。
「……ニク……ニク……」
くぐもった声が、夜気の中に不気味に響いた。
「おい……タバコ。ひと箱くれよ。聞こえてんのか?」
乱暴な声が店内に響き、レンジの体がびくりと跳ねた。
「っ……は、はいっ! お待たせしてすみません!」
慌ててレジに戻り、会計を済ませる。
カラン――。
ドアベルが鳴り、男女の客が店を出ていく。
去っていく背中を見送りながら、胸の奥にざらつく不安が残った。
すぐに照明のスイッチを切り、店内が一気に薄暗くなる。
ショーウィンドウ越しに外をうかがうと、どこかで風の音がした。
「どうした、レンジくん」
背後から木村の声。
「い、いえ……ちょっと……」
言葉を選ぶように口を開く。
「さっき外を通った人が……その、ニュースで見た“黒物病”の症状に似てて……」
「黒物病、だと?」
木村の声が低くなる。
「まさか。誰のことを言ってる?」
「二人じゃありません。さっき通りの向こうに……」
言いかけて、レンジは口を閉じた。
目だけで示す。
木村もその視線を追い、ガラス越しに外を覗き込む。
沈黙。数秒の間に、重苦しい空気が店の中を満たしていく。
「……本気で、そう思うのか?」
小さく呟いたあと、木村は顔をしかめた。
「だが、もし違ったら――」
短く息を吐き、決断したように言った。
「……いい、裏口から出よう。ドアはすぐに施錠する」
そのとき――。
外から、怒号と罵声が聞こえてきた。
数人が揉めているようだ。
レンジがそっと目を向けると、さっき店に来ていたあの不良カップルの姿が見えた。
彼らは、奇妙な男――先ほど通りを歩いていた、あの泥まみれの男――と何やら口論になっている。
どうやら、あのカップルの仲間らしき者たちが駐車場に車を止めていたらしい。
ざっと見ても十人はいる。全員、いかにも柄の悪そうな連中だった。
何が起きているのかはわからない。
ただ、あの異様な男が彼らの“癇に障ること”をしたのは確かだ。
「この野郎! どこ見て歩いてんだ、あぁ!? 道はひとつじゃねぇだろうが!」
怒鳴り声が響き、空気が一瞬で殺気立つ。
「おい、聞こえねぇのかよ! 俺の仲間が言ってんだろうが!」
怒号が重なり、周囲の空気がざらついた。
やがて罵声は殴打音に変わる。
男たちは奇妙なその男に掴みかかり、無理やり地面に押さえつけた。
泥まみれの男は頭を抱え、抵抗する力もなく蹲っている。
「警察、呼んだほうがいいんじゃ……」
カウンターの影に身を潜めながら、レンジが木村に囁く。
「不良なんかに関わるな。あとが面倒になる」
木村は配電盤のスイッチを確認しながら、静かに言った。
「今日、あいつらが捕まったとしても……明日には“誰が通報したか”を嗅ぎまわるさ。誰が疑われると思う? レンジ」
言葉を失う。
痛いほどわかっていた。
――理不尽に殴られる側の気持ちを。
家でも、学校でも、同じように。
そのとき、外の通りに赤と青の光がゆらめいた。
一台のパトカーが、ゆっくりと店の前を通り過ぎていく。
不良たちの動きが止まった。
慌てて男を抱え上げ、腕を組むようにして“酔っぱらいを介抱する”ふりをする。
警官は車を止め、窓越しに様子を伺った。
表情には、ほんのわずかな疑念。
それでも、ドアを開けて外に出る。
夜の静寂に、靴音がひとつ、またひとつと近づいていった。
「おい! お前ら、何してる!」
パトカーのドアが開き、腹の出た中年警官がもう一人の相棒とともに降りてきた。
二人の視線が、不良たちを順に舐めるように走り――最後に、地面に倒れた男で止まる。
「おいおい……どうしたんだこれは。血まみれじゃないか。お前ら、まさか殴ったのか?」
警官の声が一段と鋭くなる。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、警官さん!」
一人の不良が慌てて声を張り上げた。
「勝手に人を疑わないでくださいよ! こいつが勝手に酔って転んだんです! しかも俺のバイクに吐きやがって!」
指をさした先には、まだ湯気の立つ嘔吐物があった。
「何にせよ、このままにはできんな。まずは病院に運ぼう」
警官はしゃがみ込み、男の肩に手を置いた。
「おい、大丈夫か? 聞こえるか?」
返事はない。
ただ、唇がかすかに動いていた。
「……ニク……ニク……」
「おい、どうした――」
言いかけた瞬間。
その瞬間だった。
警官の言葉が最後まで届くよりも早く、
地面に伏せていた男の頭が、ぐにゃりと歪んだ。
次の瞬間――。
肉が裂ける音とともに、巨大な犬の頭部が姿を現した。
血走った瞳。唸りを上げる喉。
そいつは咆哮と同時に、警官の頭部に噛みついた。
ばくり。
鈍い音が夜を裂く。
真紅の液体が噴水のように吹き上がり、アスファルトを染めた。
「ぎゃあああああっ!!」
残っていた不良たちは、その光景に凍りつく。
逃げ出すよりも早く、怪物の体が膨張した。
三メートルはあろうかという巨体。
伸びた爪が宙を薙ぎ、
一人の胸を貫く。
牙が別の男の首を噛み砕き、
叩きつけられた死体が地面を転がるたび、赤が広がっていった。
わずか十数秒――。
駐車場は、血と肉片の海と化した。
ただいまリライト中です。