風説
「ねえ……藍ちゃんから聞いたんだけどさ、この辺りに“黒物病”の感染者が逃げ出したらしいよ」
「えっ、マジで? 怖っ……」
「うん、私も聞いた。でもさ、政府が“感染者はごくわずか”って言ってたじゃん? 本当なの?」
「わずかでも、危険は危険でしょ。治療法もないし、かかったら死ぬって……。死なないまでも、政府に処理されるって聞いたよ。ドキュメンタリーで見たことあるもん。だからこそ、感染区域と安全区域を分けてるんでしょ?」
「こらっ! 授業中に私語は控えなさい。あと少しで授業終わるんだから、我慢しなさいね!」
「はーい……」
女子たちはしぶしぶ返事をした。
その声に反応するように、教室の前列で座っていた**藤原 蓮司**が後ろを振り向いた。先生が注意していたのは、後ろの席の女子たちだった。
「なあ、蓮司くんも聞いた? あの噂」
隣の席の友人、**蛍**が小声で話しかけてきた。
「噂って何? 俺、知らないけど?」
「なんかさ……この町に“黒物病”のステージ4の感染者が出たって。最近、ミッドナイト部隊があちこち巡回してて、日没前には家に帰れって言われてるんだよ。安全のためにって」
「マジかよ……。でも今日、俺バイトあるんだよ。代わりもいないし、急に休むなんて無理だって」
「店長さんに相談してみたら? 今は非常時かもしれないし、知ってるかもしれないよ。店、早めに閉めてくれるかもよ?」
「……そうだな、ありがとう。聞いてみるよ」
本当は蓮司もわかっていた。
彼には“休む”という選択肢がほとんどなかった。
店長が厳しいわけじゃない。問題は“家”だった。
家にいるくらいなら働いていた方がマシ。仕事はお金。お金がないと母親も困る。
そして——父親ではない“男”が、まだ酒を飲みに出かけていない時間に帰宅すれば、蓮司は必ず殴られる。それを止める母もいなかった。
「うちは通常24時間営業だけど……今日は、18時で閉店することになったよ」
コンビニで商品の陳列をしていた年配の男性、佐藤店長が言った。
「佐藤さんも、あの噂を聞いたんですか?」
商品を一緒に並べていた蓮司が尋ねた。
「ああ。というか、あれは噂じゃない。正午に政府から直接電話が来たんだ。テレビでも、ラジオでも報道されてた。実際、今夜から外出禁止令が出る。19時以降な。うちはそれより少し早めに閉めるつもりだ」
「じゃあ……本当に、感染者がこの町に?」
「たぶんな」
「……仕方ないですね」
蓮司は少しうつむいて呟いた。
「本音を言えば、いつもどおり朝まで営業したいよ。ったく……感染者が怖いのはわかる。でも経済は回さなきゃならん。病気で死ぬ前に、飢えて死ぬ人間の方が多いかもしれない。だがまあ、今日は夕方で切り上げるさ。お前はまだ子供だ。夜更かしはするな。閉店後は木村副店長に送ってもらえ」
「はい、わかりました」
閉店が近づくと、佐藤店長は木村副店長と交代し、蓮司と木村の二人で店を任されることになった。
客足は徐々に減ってきていたが——そのときだった。
黒いミニドレス、真紅のルージュに長いタバコ。女性客が一人、男と共に入店した。
男は無表情で、つるんとした髪型に全身黒のレザー。背は高く痩せており、冷たい目で蓮司をにらんでいた。
「す、すみませんお客様。現在、非常事態のため、当店は——」
「は? 閉めるってのかよ?」
男が声を荒げる。「24時間営業だろうが、ここ!」
「で、でも……店頭に貼り紙が——」
言い終わる前に、男が蓮司の襟元をつかみ、持ち上げた。
「うちの彼女が買い物したいって言ってんだよ。5分か10分、待てねぇのかコラァ?」
蓮司が息を飲んだその瞬間、
木村副店長が防犯カメラ越しに状況を察知し、裏から飛び出してきた。
「し、失礼しましたお客様! すぐに閉店する予定でして……でも、もし買われるものが少ないようでしたら、今すぐ対応させていただきますので!」
木村は丁寧に頭を下げる。
本当は、蓮司が正しい。だが、トラブルを避けるには頭を下げるしかなかった。
「木村さん、本当に大丈夫ですか? 他の客が来たら……」
蓮司が小声で聞く。
「わかってるさ。奴らが出てったら、すぐに店の灯りを消す。閉店だって示せば、誰も入ってこないさ」
「……了解です」
そのとき——
蓮司の視界に、一人の男が映った。
泥と黒ずみで汚れたローブをまとい、ふらふらと歩く姿はまるでゾンビのようだった。
顔は上を向き、目は虚ろで、手には赤い発疹が広がっている。
(……っ! 黒物病の……!)
男は店の前をただ通り過ぎただけだったが、その唇は、低くこうつぶやいていた。
「……肉……肉……」
不安が胸を締めつける。
そんなとき、先ほどの男がカウンターに近づき、声を荒げた。
「おい、タバコ! 1箱だ。聞こえてんのか、コラ!」
「は、はいっ! すみません!」
蓮司は急いで会計を済ませ、二人の客はようやく店を出ていった。
蓮司は彼らの後ろ姿を見送ったあと、すぐに店内の照明を落とし、表の様子を伺う。
「どうした、蓮司くん?」
木村副店長が尋ねる。
「さっき、通り過ぎた男……たぶん、黒物病の症状です。手に発疹があって、目が……」
「黒物病……?」
木村は顔をこわばらせた。
「本気でそう思ってるのか?」
蓮司は無言で、店の外を指差す。
木村は一瞬ためらったが、やがてうなずいた。
「……よし、裏口から出よう。ドアはロックして」
二人は静かに裏口へと向かおうとした、そのとき——
外から、怒号が聞こえた。
先ほどのカップル、その仲間と思われる十数人の不良たちが、先ほどの男と揉めていた。
「てめえ、どこ見て歩いてんだよッ!」
「おい、聞こえてんのか! こっち来いよ!」
言い争いは次第に激しさを増し、やがて暴力へと変わった。
男は地面に倒れ、頭を抱えていた。
「警察、呼んだほうがいいですか?」
蓮司はカウンターの陰から小声で木村に尋ねた。
「やめておけ。ヤクザまがいの連中に目をつけられたら厄介だ。もし、あの男が本当に黒物病なら……余計に関わるべきじゃない」
それでも、蓮司の胸にはざわつきが残っていた。
“殴られる側”の痛みを、彼は知っている。
そのとき——
一台のパトカーが静かに近づいてきた。
警官が二人、車から降りて不良たちに声をかける。
「おい、何してるんだ! そこの男、血まみれじゃないか!」
「ちょ、ちょっと! そいつが勝手に転んだだけですって! 酒に酔って、ゲロまで吐きやがって!」
不良の一人が、地面の吐瀉物を指差す。
警官は倒れた男に近づき、肩を軽く叩いた。
「おい、聞こえるか? 大丈夫か?」
「……にく……にく……」
「……なに?」
その瞬間——
男の顔が、巨大な犬の頭へと変貌した。
ズガンッ!!
犬頭が警官の首を食いちぎった。血が吹き出し、地面に飛び散る。
次の瞬間、男の身体はみるみる膨張し、3メートル近くにまで巨大化した。
「ぎゃあああああああっっっっ!!」
逃げようとした不良たちは、逃げ切れなかった。
巨大な爪が彼らの身体を貫き、噛み千切り、打ち砕く。
辺り一帯は、たちまち真紅の地獄と化した。