部隊訓練の日
(ワニのシェフがいるレストランって……いや、ワニって舌がないんじゃなかったっけ?)
そんな疑問が頭を離れないまま、レンジはクジラ班の仲間たちと一緒に移動していた。
今日は屋外訓練の日。午前中は体力測定が行われ、みんな汗だくになりながら走らされていたばかりだ。
だが今度は筋力勝負ではない――次の課題は「能力制御訓練」だった。
「なあ、マサトくん……」
レンジは隣にいたマサトにひそひそ声で話しかけた。
「ワニってさ……舌、あるの? 知ってる?」
唐突な質問に、マサトは眉をひそめてレンジの方を向いた。
「えっ? なんでいきなりそんなこと……今朝、コクロモ対策用の薬飲み忘れたんじゃないのか?」
「違うよ……」レンジはため息まじりに言った。
「後輩がね、レストランで働いてるんだけど、その店のシェフがワニらしいんだ。それで、味に問題があるとかなんとか……」
「ははははっ!」
マサトは吹き出した。
「レンジくん、それが本当なら別に驚くことじゃないさ。味の問題があるのも納得だよ」
そう言いながら、彼は肩をすくめて続けた。
「ワニの舌って、人間みたいに味を感じるためにあるわけじゃないからね。確かに舌はあるけど、あれは飲み込みやすくするためのもので、味覚のためじゃないんだ」
「へぇ……そういうことか」
レンジは納得したように小さくうなずいた。
その時、二人の笑い声がまだ消えないうちに、重々しい足音が訓練場の向こう側から響いてきた。
視線を向けると――軍服を着た大柄な男が現れた。日焼けした肌に、短く刈り込まれた髪。鋭い目つきが心を貫くようにこちらを見つめている。
クジラ班のメンバー全員がビクッと身を正し、直立不動の姿勢をとった。もちろんレンジも例外ではなかった。
「午後の訓練、始めるぞ。一年コクメ組!」
低く響く声が訓練場に鳴り響く。重々しい足音が、その威圧感を一層強めていく――まるで空気そのものが凍りついたかのようだった。
炎天下の中、整列していたコクメたちはぴしっと背筋を伸ばし、声をそろえて返事をする。
「こんにちは!」
迷いのない返答。それだけで全員がこの男にどれだけ気を張っているかが分かる。
登場したのは、日焼けした肌に戦闘服をまとった大柄な男。目つきは鋭く、まるで心の奥を覗き込むかのような冷たさを宿していた。
彼の名は―― 鷹志 リオ。
ミッドナイト隊で“最凶”と恐れられる教官である。
「お前たち、自分の能力が何か……もう理解しているな?」
その声には一切の甘さがなかった。鋼のような硬さと、兵士としての規律が染みついている。
「はいっ! 理解しています!」
コクメたちの声が訓練場にこだました。
リオはその場からゆっくりと歩き出す。整列する生徒たちを、頭から足の先まで冷徹な目で見回しながら――。
その視線が近づいてくるにつれ、レンジの喉がごくりと鳴った。
(やばい……来るな……お願いだから、こっちに来ないでくれ……)
心の中で何度も願う。
幸運にも、その願いは届いた。
「お前だ」
リオが声を発したのは、レンジのすぐ隣――一人の大柄な少年の前だった。
その少年の名は佐藤 優真。
体格は大きく、どこか落ち着いた雰囲気を漂わせている。少しぽっちゃりしているが、その肉体には確かな力強さがあった。
「お前の能力はなんだ?」
「ぼ、僕は……血液変換系です。血を……短剣に変えることができます!」
少し震えた声だったが、その答えはしっかりとリオに届いた。
彼は小さくうなずき、次の生徒へと視線を移す――。
教官はさらに数歩進み、小柄なポニーテールの少女の前で足を止めた。
彼女の名は――黒川 愛理。
その顔は青ざめ、手足はまるで操り人形のように硬直していた。
「で、君はどうだ?」
「わ、私は……音波の能力があります……」
彼女は小さな声で答え、目には涙が滲み始めていた。
「音で……ものを破壊できます……」
「うむ……よく聞こえた」
リオは軽く頷いた。
そして彼はさらに数人の生徒の前を通り過ぎ、ついにレンジの前で立ち止まった。
その瞬間、レンジの心臓は一気に高鳴った。
「お前の能力は?」
「ぼ、僕は……血を弾丸に変えることができます!」
緊張を押し殺しながらも、震える声でレンジはそう答えた。
「弾丸、か……ふん、面白い能力だな」
リオは目を細めて言い残し、それ以上何も言わずに通り過ぎていった。
レンジはほんの少しだけ、安堵の息を漏らした。
(よかった……もっといろいろ聞かれるかと思った……)
全員の能力を確認し終えると、リオは大きな声で宣言した。
「さて、これから『機動力テスト』を始める!」
「朝の体力訓練は全員終えているな?」
「はいっ!!」
「よろしい」
リオ・タカシ教官の声が、グラウンド中に響き渡る。
彼は前方の長い走路を指さし、はっきりと告げた。
「今から説明する。あの走路の先に見えるか?」
「見えます!」
コクメたちは力強く返事をそろえた。
「君たちの任務は――あの先にある青い旗を取ってくることだ。
旗は一つだけ。クジラ隊のマークがついている。
それを手にした者は、その時点でテスト合格とする」
彼は少し間をおき、さらに続けた。
「合格者はそのまま授業終了とする」
ざわつく声が生徒たちの間から上がった。
「質問はあるか?」
リオはグラウンドの中央に立ち、誰かが声を上げるのを待った。
(ただ旗を取りに行くだけ……そんなに簡単なはずがないよな?)
レンジはふと違和感を覚えた。
まるで、この訓練計画そのものから危険な匂いが漂ってくるようだった。
ついには、彼は勇気を振り絞って手を挙げた。
本音では、誰にも注目されたくなかったにもかかわらず。
周囲の仲間たちが、一斉に彼を振り向く。
「し、質問があります!」
震える声でそう口にした。
「その…走っている途中に……障害物とか、出たりしますか?」
リオは一瞬だけ沈黙し――そして低く笑った。
「いい質問だな、レンジくん」
彼は右手を挙げ、ランニングレーンから約三百メートルほど離れた広場の右端を指し示す。
「あそこにあるのが、自動追尾型のターゲット発射機だ」
生徒たちの視線の先には、大型ロボットのような機械が構えていた。
武装を備えたその姿は、いつでも射出可能な状態にあることを告げていた。
「スタートと同時に、あの機械は高速のターゲットを発射する」
リオの声は明瞭かつ容赦がない。
「君たちの任務は――そのターゲットに一度たりとも触れさせないことだ。
持てるスキルを総動員して、接触前に撃破しろ。
一度でも被弾すれば即失格。
ゴールまで到達して青い旗を手にするまで、何度でもやり直しだ」
その瞬間、場内は静まり返り……
ごくり、と唾を飲む音だけがいくつも響いた。
「そして――その勇気ある質問に対する報酬として」
リオは淡々とした声で続けた。
「レンジくんには、最後の順番で挑戦してもらう」
そう告げると、彼はくじ引き用のボックスを取り出し、生徒たちに順番を引かせていった。
くじが引き終わると――一番手に選ばれたのは、がっしりとした体格の男だった。
レンジがこの施設に来た初日に顔を合わせた人物でもある。
名前は――島 銀次。
中年の男性で、血液を矢に変える能力を持つ。
クロスボウとロングボウの両方を使いこなせるが、今回はクロスボウを選んだ。
なぜなら、リオのターゲット射出システムは非常に高速であり、通常の弓では追いつけないからだ。
「……じゃあ、始めるぜ」
ギンジは深く息を吸い、姿勢を低くしてスタートの合図を待った。
「行け!」
号令が響くと同時に、ギンジの力強い足音が地面を蹴った。
ドンッ!
第一の飛翔ターゲットが圧縮空気で射出される。
弾丸のようなスピードでギンジに向かって飛んできた。
大柄な男はすかさず振り返り、腕の先から血を変化させて矢を作り出す。
クロスボウに装填し、即座に発射。
ズバン!
空中のターゲットが撃ち落とされる。
だが、息を整える暇もない。
第二、第三のターゲットが連続して射出された。
ギンジは二発とも命中させたが――
飛翔ターゲットは進化する。
ターゲットが撃ち落とされるたびに、次の速度が上がっていく仕様なのだ。
スピードはますます上昇し――そして、
ガツン!
一発がギンジの肩をかすめ、バランスを崩す。
彼の身体がふらつき、ついに足が止まった。
「……まだだ……」
ギンジは息を切らしながら呟く。
だがその瞬間――
ひとつのターゲットがギンジの腹部に命中した。
強烈な衝撃で、彼の体が壁の向こうへ吹き飛ばされる。
ドガァンッ!という轟音とともに、側面の薄い壁が大きな穴を開けられた。
試験者一人目のあまりにも苛烈な結末に、コクメたちは目を見開き、
中にはごくりと喉を鳴らす者もいた。
「よし、二番。持ち場につけ」
リオの声がグラウンドに響き渡る。
容赦のないその言葉が、次の挑戦者を押し出す。
続いての挑戦者は――マサト。
本音を言えば寮に逃げ帰りたい気持ちでいっぱいだったが、
彼は観念して走路へと足を踏み出した。
スタート姿勢をとり、全力で“ハリネズミ”の力を解放する――。
もしこれが普通の訓練場だったなら、
この過酷なテストからこっそり逃げ出す者がいても不思議ではなかっただろう。
だが彼らは「コクメ」――ミッドナイトの特別訓練生だ。
たとえ試験がどれほど苛酷であっても、ここで失敗すれば、
将来チームの足を引っ張る存在になってしまうかもしれない。
誰もがわかっている。
この厳しい試練はクジラ班だけに課されているわけではない。
他の班の仲間たちも、同じような試験に臨んでいるのだ――
……そして、次々と倒れていった。
高速で飛んでくるターゲットに撃たれ、
走路の周囲の壁は穴だらけになっていた。
倒れて転がる者もいれば、連続で衝突されて立ち上がれなくなる者もいる。
呻き声がフィールド中に響き渡った。
レンジはその光景を重たい気持ちで見つめていた。
仲間たちが敗れていくたびに、彼の胸にかかるプレッシャーは増していく。
そして、自分は“最後”――
あの質問を口にしたことで得た特別な順番。
それが今、全員の視線を集めていた。
中には、リオ教官の鋭い眼差しもあった。
まだ誰一人として課題を達成できていないことに、彼の表情は徐々に険しくなっていた。
レンジは深く息を吸い込み、自分の能力を冷静に分析しようとした。
(少なくとも……左目がある。
この目を、最大限に活かすしかない!)
「よし、最後の番だ。持ち場につけ!」
リオの声が再びフィールドに響く。
レンジはわずかに肩を震わせながらも、
迷うことなく走路へと足を踏み出した。
両手に持ったハンドガンをしっかりと握りしめる。
「うっ……」
小さく声を漏らす。
銃のグリップ内部の注射針が皮膚に刺さり、血液を吸い上げて弾丸に変換しようとしていたのだ。
……だが、彼は耐えた。
「準備はいいな?」
リオが叫ぶ。
レンジは無言で、こくりと頷いた。
「行け!」
その号令とともに、レンジの体が走路へと飛び出した。
彼は右目を閉じ、左目を開いて鋭く前方を見据える――
特別なその左目の性能を最大限に引き出すために。
最初のターゲットが、猛スピードで彼に向かって飛んできた!
パン!
銃口から炸裂するような銃声が響いた。
レンジの手に握られた拳銃が、血液から作られた弾丸を空中へと放つ。
その弾丸は一直線にターゲットに命中し、空中で粉々に砕け散った。
だが――彼は一歩たりとも立ち止まらない。
足裏で地面をしっかりと踏みしめ、
心臓の鼓動が激しく鳴り響く中、ターゲット射出装置の駆動音が耳に届くたびに全神経を集中させた。
ヒュッ!
(来た……二発目!)
レンジはすばやく顔を上げ、銃口をターゲットに向ける。
パン!
再び発砲。
二発目のターゲットも、空中で紙のように引き裂かれた。
彼の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
レンジは確信し始めていた。
どれほど過酷な試験でも――自分なら「やれる」と。
だが、走路の半ばに差しかかったその時だった。
何かが、変わり始めた――
ターゲットのスピードが明らかに増してきたのだ。
……しかも、一度に飛んでくる数も増えている。
「な、なんだよこれ……」
レンジは驚きに目を見開きつつも、
素早く銃を構え、迫る二つのターゲットに狙いを定める。
パン! パン!
両方のターゲットが空中で撃ち落とされ、かろうじて彼の体をかすめる前に崩壊した。
だが――難易度は、さらに上昇していく。
体力が削られ、視界も徐々に霞み始めていた。
集中しなければならない照準…それは巨大なプレッシャーに変わっていった。
フィールドの端から、リオの声が響いた。
「ラストカーブだ。頑張れよ」
その声は厳しかったが、どこかに思いやりも感じられた。
レンジは深く息を吸い、もう一度気合を入れた。
しかし——
視界がぼやけ始めた。
左目が…ずきっと痛んだ。
瞳孔が軽く震えているような感覚。
疲労が確実に蓄積している。
そして彼が態勢を整える前に——
ドカン!!
大きな衝撃音が響いた。
レンジの体はターゲットに撃ち抜かれ、走路から吹き飛ばされた。
——そのまま、フィールドの端にあった薄い壁を突き破っていく。
彼の体は地面に横たわった。
袖から血がにじみ出ている。
息は荒くなっていた。
結果は「失敗」だったが——
彼はチームの中で最も遠くまで走った者であり、
当然ながら、最も多くのターゲットを受けた者でもあった。