共に見る夢
敵が立ち上がろうとしたその瞬間、ハヤトは一切の迷いなく飛びかかった。
両腰の鞘から引き抜かれたのは、漆黒の刀。血のような赤い光を放つ血管模様が刃に浮かび上がり、生きているかのように脈打つ。
対する敵も一歩も退かず、野獣のような唸り声をあげて突進してきた。
だがその瞬間——
ハヤトはまるで動くことをやめたかのように、静かに立ち尽くしていた。
巨体の魔物が腕を振り上げ、ハヤトを粉々に打ち砕こうとする。
だが——
スッ……!
カエルのマスコットヘッドを被った男の姿が、視界から消える。
魔物は気づいていなかった。
ハヤトはすでにその頭上へと飛び上がっていたのだ!
「こちらですよ、お兄さん……」
空中で回転しながら、ハヤトは敵の背に足をかけ——
そのまま一太刀、深々と黒刀を突き立てる!
「グ……グオォォォアアアアアッ!!」
断末魔の叫びが路地裏に響き渡る。
ハヤトは即座に刀を引き抜き、距離を取って着地。
魔物は腕を振り回し、めちゃくちゃに暴れ回るが、
華奢な体のハヤトに触れることすらできない。
地に足をつけたハヤトは、魔物の頭を蹴り飛ばし、さらに距離をとる。
「……辛かったでしょうね」
彼の視線は、魔物の体に刻まれた“バッファロー部隊”の紋章に向けられていた。
「申し訳ありません。今ここで……終わらせます」
魔物は再び腕を振り上げる。今度こそ、最後の一撃。
だがハヤトは微動だにせず、静かに目を閉じ、刀に意識を集中する。
キィン……!
その一瞬——
振り下ろされた巨大な腕の代わりに響いたのは、空気を裂く刀の音。
ハヤトはすでに、魔物の背後に静かに立っていた。
「…………」
数十か所に及ぶ斬撃跡から、どす黒い血がどくどくと噴き出す。
魔物はその場に立ち尽くし——そして、音もなく崩れ落ちた。
ハヤトは静かに刀を鞘に納め、
ゆっくりと魔物の亡骸の前に立ち、深々と一礼する。
「……約束します。こんなこと、できるだけ早く終わらせてみせます」
──
「そっちにいるのは誰だ?」
通信機から声が聞こえた。
「はい、ハヤトです」
ハヤトは応答する。
「状況は? 応援が必要か?」
「はい。急ぎでお願いします」
「非常事態か!?」
「いえ……」ハヤトは一瞬言葉を止めた。
「ただ、感染者の死体の処理をお願いしたいだけです。それと……帰りの足も欲しいですね」
「……は?」
「車をお願いします。僕、帰る手段がなくて」
「……バッカヤロー!!!」
通信はそれっきり、途切れた。
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「感染者になったとはいえ……薬を定期的に服用していて、任務があれば、外に出る許可が下りるらしい」
レンジはぼそりと呟きながら、寮へ向かって歩いていた。
「でもマスクに全身スーツ……顔を覚えられないようにってさ……
それにもし誰かに顔を覚えられたら、即座に離脱。無駄な感染を防ぐためだと。
非感染者には絶対に近づいちゃダメってさ……。ルール、多すぎだろ……」
彼は深いため息をつき、どこか疲れたような表情を浮かべた。
「“外出可”って言っても、任務の時だけ。
行ける場所なんて限られてるし……はあ……」
その時だった——
「お兄さんっ! どいてください! ブレーキ効かないですっ!」
鋭い声が突如として耳に飛び込んできた。
レンジが顔を上げた瞬間——
ドガッ!
自転車が勢いよく突っ込んできて、二人の体が地面に転がった。
「うっ……いててて……」
レンジは膝をつき、強くぶつけた腕をさすりながら呻いた。
「こんな運転して……もし人に怪我させたらどうする気だよ……!」
「す、すみませんっ!」
慌てて駆け寄ってきたのは、先ほど自転車に乗っていた少年だった。
必死の形相でレンジを支え起こそうとする。
「僕が悪いですっ! どうか……通報だけは勘弁してください!」
レンジは立ち上がって、軽くホコリを払う。
そして少年の顔をじっと見つめた。
眼鏡をかけたその少年は、丸坊主の頭に、着古したボロボロの服を身にまとっていた。
(……まるで、かつての自分を見てるみたいだな)
「大丈夫。そんなに痛くないよ。……君は? 怪我してない?」
レンジは優しく声をかけた。
「だ、だいじょうぶですっ!」
少年は即答した。——しかし、膝には明らかな擦り傷ができていた。
それを隠すように座り込んでいるが、レンジの目は誤魔化せなかった。
「本当に大丈夫なのか?」
「はいっ! ただの擦り傷ですし……すぐに治ります、集中してれば……」
少年は必死にごまかそうとする。
レンジは肩をすくめ、それ以上は何も言わず、地面に散らばった荷物を拾い始めた。
その中には、まだ温もりの残るお弁当のパックも混じっていた。
「これ……飲食店の弁当か?」
レンジが手に取って問いかけると、少年の動きが止まる。
「しょ、そうです……お店の裏から、もう捨てるって言われたものを……
お願いして、もらってきたんです」
「そっか」
レンジは静かに頷くと、どこか苦笑いを浮かべた。
「でも、ぶつかったことについてはどうしてくれるのかな?」
「えっ……し、賠償金とかですか……!? お金はないですけど、
少しずつでも返します! 誓いますっ!」
「もちろん、責任はとってもらうよ」
レンジは少し考えるふりをしてから、近くのコンビニを指差した。
「今すぐアイスクリームを一緒に食べに行こう」
「……え?」
少年はぽかんとした顔で聞き返した。
「ちょっと君と話したいことがあるんだ。
座ってアイスでも食べながら、ゆっくり話そう」
少年は少しの間黙っていたが、やがて照れたように微笑みながら頷いた。
「……あ、うん。行きましょう」
ふたりは荷物を抱えて、レンジの寮からさほど遠くない小さなコンビニにたどり着いた。
質素な店内だったが、窓際の席は思ったよりも落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
「佐藤 健太って呼んでください」
少年がそう言いながら、手にしたアイスをぺろりと舐めた。
「ついこの前、十四歳になったばかりなんです。レンジさんは?」
「うーん……一年くらい先輩かな」
レンジはそう答えながら、自分のアイスを口に運んだ。
「先輩ってかっこいいですよね! コクロモノ対策隊に入れるなんて、うらやましいです」
ケンタの目がキラキラと輝いていた。
「僕なんて、通常の討伐隊止まりでしたから……」
「え? 二次選抜で落ちたの?」
レンジが穏やかに問いかけると、ケンタは小さく頷き、淡々とした口調で続けた。
「でも、僕は別に気にしてませんよ。これで十分です。
頭もあまり良くないですし……」
軽く笑った後、彼は言葉を続けた。
「昔は警察官になりたいと思ってたんですけど、こうしてコクロモノの討伐隊で働くのも、違った意味でかっこいいなって思えてきて。
警察みたいに難しい試験もないし、実際に任務に出るようになれば、それなりに報酬ももらえますから。
だから、出動できるようになるまで訓練をがんばって、できるだけたくさん働こうと思ってます」
「お金が欲しいのか?」
レンジがじっと彼を見つめながら問いかけた。
「そのお金、何に使うんだ?」
その質問に、ケンタはほんの一瞬だけ黙り込んだ。
そして、少しだけ残っていたアイスを静かに食べ終える。
「……妹が、白血病なんです」
彼はぽつりと呟いた。
「治療費がすごく高くて……政府からの援助はあるけど、それでも全然足りません。
両親も、もういません。
今は僕一人で、妹を支えていかないといけないんです」
レンジはその言葉に言葉を返せず、沈黙した。
さっきの質問を少し後悔しているようにも見えた。
「そういえば、ケンタくん、どうして頭を剃ってるの? お坊さんにでもなるのかと思ったよ」
軽く冗談めかして尋ねると、ケンタは照れくさそうに笑った。
「ただ……妹にひとりぼっちだって思わせたくなかっただけです。
僕がそばにいるよって、そう伝えたくて」
「……で、どうやってコクロモノに感染したんだ?」
今度の質問には、ケンタは少しだけ間をおいてから、隠さずに答えた。
「感染性廃棄物の回収のバイトをしてたんです。
たぶん、そのときにうっかり……
最初はすごく落ち込みましたけど、今はもう慣れました。
それに、今は討伐隊の一員として働けてますし」
「でも……それじゃ、妹さんとどうやって連絡を取ってるの?」
レンジが心配そうに尋ねた。
「感染者になったら、外部の人との接触は禁止なんじゃ……?」
「ネットでこっそり連絡してるんです」
ケンタは隠す様子もなく、あっさりと答えた。
「チームの隊長に一度頼んだんです。もし僕が連絡できなくなったら、妹の病状が悪化するかもしれないって」
彼は少し言葉を止めたあと、続けた。
「感染したことは絶対に妹に言わないって約束しました。
それに、ビデオ通話のときは必ず誰か隊員が傍で聞いてるんです。
治療費も、ミッドナイト隊の名義で偽名を使って振り込んでます」
レンジはしばらく言葉が出なかった。
その瞳には、ケンタに対する同情と尊敬がにじんでいた。
この少年の夢は、彼の心と同じくらい純粋で、美しかった。
過酷な運命にも屈しないその姿に、胸が熱くなる。
「ねぇ……」
沈黙のあと、レンジが口を開いた。
「こんな大事なこと、俺に話して大丈夫? 俺が誰かに言っちゃうかもって思わない?」
「思いませんよ」
ケンタは即答し、屈託なく笑った。
「ここに来てから、あんまり友達できなかったんです。
レストランの人たち以外とは、あまり仲良くなれてなくて……
だから、レンジ先輩なら話しても平気だと思ったんです」
「……そっか。冗談だよ」
レンジは小さく微笑み、椅子にもたれかかった。
「何か困ったことがあったら、いつでも言ってくれよ。
俺にできることなら、なんでも手伝うからさ」
レンジはやさしく微笑んだ。
「……実はさ、俺の夢もケンタくんとちょっと似てるんだ。
昔はね、消防士になりたかったんだよ」
「えっ、本当ですか!?」
ケンタの目がまんまるになる。
「レンジ先輩の夢、めちゃくちゃカッコいいじゃないですか!
でも今はコクロモノ対策隊の候補生だし、
そのうちミッドナイト部隊に入って、
夜の街で変異体と戦うんですよね?
それもすごくカッコいいです!」
「はは……まあね」
レンジは照れくさそうに笑った。
ふと、彼の視線がケンタの抱えているビニール袋へと移る。
「そういえば、それ……こんなにたくさん残り物もらってきて、
店の人に怒られたりしないのか?」
「大丈夫ですよ」
ケンタはうなずいた。
「ここのお店、すごく優しいんです。
売れ残ったものでも、毎回僕に分けてくれるんですよ。
このカレーのルーも、ちょっと肉を足して煮直せば、
何日か持ちますから」
「おいおい、そんなもんばっか食ってたら、腹壊すぞ」
レンジが眉をひそめて言った。
「俺も昔はよくやってたけどさ……
なるべく控えた方がいいよ。
で、その店ってどこにあるんだ?
なんでそんなに売れないんだろうな」
「心配してくれて、ありがとうございます~」
ケンタは笑ってみせた。
「でも僕、胃は丈夫なんで大丈夫です!
お店のことは……うーん、正直僕もわからないです。
一部の人が言うには、
『シェフが変異してから味が変わった』って話なんですけど……
僕は味なんて気にしないで食べちゃうんで、全然わかんなくて」
「……シェフの変異って、まさか……?」
レンジが不審そうに眉をしかめた。
「はい、そうです」
ケンタはあっさり言った。
「だってシェフ、ワニなんですよ」
「は……はぁああああっ!?」
レンジは思わず声を上げた。信じられないものでも見たような顔で。