第二次選抜試験
「最近って……朝も昼も夜も、ずっとお肉ばかりですよね」
美姫は目の前に置かれた大きなステーキを見つめながら、ぼんやりとつぶやいた。
「これ……おいひい……っすよ……」
雄平は口いっぱいに肉を詰め込みながら、もごもごと返事する。見た目なんて気にせず、ただひたすらにむしゃむしゃと咀嚼を続けていた。
「まあ、正直言うと……最近、私の体って本当に肉を欲しがるようになってきたんですよね。特にレアなやつ……」
美姫の視線は、ほんのり赤みを残した肉の断面に向けられ、ふっと小さく息を吐く。
「でも……なんとなく思っちゃうんです。これって、何かの暗示だったりするんじゃないかなって」
その言葉に、蓮司は肉を飲み込もうとしたところでぴたりと動きを止めた。
喉にひっかかるような、嫌な感覚が走る。
「もしかして……“血を見る”ことになるって意味なんじゃ……」
彼は苦笑いを浮かべながらつぶやいた。
「兵士が戦場に出る前にいい食事を出される、みたいな……そんな感じですね」
「や、やめてよっ!そんな不吉なこと言わないでよ!」
雄平は慌ててナイフとフォークを置き、口元をハンカチで何度もぬぐった。まるでその言葉を払いのけるかのように。
「だって……前回の選抜、本当に過酷だったから……」
美姫の声はどこか沈んでいた。
彼女は目を伏せて、膝の上で握りしめた拳をじっと見つめる。
「あと数時間で、第二次選抜が始まるんですよね……嬉しいはずなのに、どうしても怖くて。自分にできるか不安でたまらないんです」
「そんなこと言わないでくださいよ」
蓮司は優しく語りかける。
「僕は信じてます。美姫ちゃんが、どんな試練にも負けずに前に進めるって。本当に、心からそう思ってます」
「うんうん、今回はレンジくんの言う通りだ!」
雄平も勢いよく頷いた。
「美姫ちゃんは絶対に乗り越えられるよ!そしてまた、ここで一緒にご飯を食べよう!」
「はい……」
蓮司は力強く頷いた。
「必ずここに戻ってきます。僕、約束します」
「俺もだよ!絶対戻ってくるから!」
雄平は親指を立てて、満面の笑みを浮かべた。
美姫はそんな二人を見て、そっと目を細めた。
そして、静かに微笑む。
「……じゃあ、私も戻ってきます。約束します——」
夕食が終わって間もなく、防疫スーツに身を包んだ職員たちが再び部屋へと入ってきた。
彼らは前回の選抜を通過した者たち——蓮司、美姫、雄平を含む数名——を第二次選抜試験の会場へと案内するためだった。
試験会場は四つの時間帯に分かれており、朝、午前、午後、そして夜の部。
——そして彼らが選ばれたのは、その一番最後の時間帯だった。
「夜の部とか……運がいいんだか悪いんだか」
エレベーターの中で、雄平がぼやいた。
そこには蓮司、美姫、達也、そして他の四人の受験者たちが一緒に乗っていた。
「この時間帯って、黒物病の力が一番強まる時間なんだぜ?」
「でも、逆に考えたら……」
蓮司が少し明るい声で口を開く。
「夜だからこそ、僕たちの力も発揮しやすいかもしれないよ」
「へえ、そう思うの? 蓮司くんが?」
美姫がすかさず尋ねた。
「うん、まあ……勘だけどね」
蓮司は飄々と微笑んだ。
雄平はじろりと蓮司を睨んだが、蓮司は自信たっぷりの目で見返す。
美姫は苦笑し、達也はそれを見てこっそり笑いをこらえていた。
やがて、エレベーターの扉が開き、防疫スーツの職員たちは一人ずつ受験者を別々の部屋へと案内していった。
——今回は個別試験であり、集団での受験はない。
蓮司が案内されたのは、第606号室——身体能力を測るための試験室だった。
目の前に現れたのは、白くて分厚い巨大な扉。
それはまるで、何かを封じ込めるために作られたかのように見えた。
扉がゆっくりと開く。
中に足を踏み入れた瞬間、蓮司は真っ白な広い空間に包まれた。
天井からは強烈な白いスポットライトが容赦なく照らしてくる。
正面には頑丈そうな白いステージがあり、
その横には武器ラックがずらりと並んでいた——
だが、そこにあったのはすべて**「使えない武器」**ばかりだった。
— 弾の入っていない銃
— 矢のない弓
— 刃のない鞘だけの剣やナイフ
— そして、使い物にならない模擬武器の数々
蓮司の視線が揺れる。
心臓の鼓動が、急激に速くなる。
(ここ……試験会場っていうより、まるで……実験場みたいだ)
そのとき、背後の職員が蓮司の背中を軽く押した。
——それは「行け」という無言の合図だった。
蓮司は、震える両足を引きずるようにしてステージへと向かう。
一歩、また一歩と踏み出すたびに、心の奥底で警鐘が鳴っていた。
そして、ステージにたどり着いたその瞬間——
蓮司の目の前に現れたのは、一人の男だった。
漆黒のボディスーツに身を包み、首元まで隠れるタートルネックの上からは黒いフード付きコートを羽織り、
足元には無骨なコンバットブーツ。
胸の左側には、漆黒の装いの中でひときわ目立つ白いツバメのピンバッジが輝いていた。
その男は、ステージの床に膝をつき、深く頭を垂れていた。
まるで謝罪を捧げるかのように。
——だが、蓮司には心当たりがない。
彼はその男を、知らない。
蓮司は凍りついたように動けなかった。
声をかけることすら、できなかった。
「こんばんは、藤原 蓮司さん」
静かな声が空気を切り裂いた。
男は穏やかで冷静な口調でそう言った。
だがその中には、どこか異様なほどの敬意が含まれていた。
「これからの行動が、不快に感じられたら……どうかお許しください」
男はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、淡く煙ったような灰色をしていた。
「ようこそ、第二次選抜試験へ——この試験は、あなたがどの部隊に相応しいかを判定するためのものです」
ゆったりと立ち上がりながら、男は名乗った。
「掛守 昶翔。今回の選抜試験の試験官を務めさせていただきます」
「こ、こんばんは……」
蓮司は思わず返事をしたが、声は震えていた。落ち着きなどなかった。
「では——あなたは、試験の開始準備が整っていますか?」
「し、試験って……何の試験ですか?」
蓮司は慌てて尋ねた。
「まだ何も説明されてないんです。どういう——」
言い終える前に、耳元で空気を切る音が鳴った。
——フッ。
掛守の姿が、目の前に一瞬で現れた。
「この試験に、特別なルールはありません」
その声は、耳元で冷たく響いた。
「僕を倒すこと。それだけです」
言い終わった瞬間、彼の掌が蓮司の背中へと突き刺さった。
ドンッ!
蓮司の身体は無防備なまま宙に舞い、ステージの反対側まで吹き飛ばされる。
——たった一撃。
世界がぐらりと傾く感覚。
床に叩きつけられた蓮司は、息を大きく吸い込んだ。
「この部屋の中にあるものは、何を使っても構いません」
掛守は何事もなかったかのように告げる。
「そこにある武器——ご自由にお選びください」
彼はゆっくりと近づいてくる。
その一歩一歩が、蓮司の心臓に圧をかけてくるようだった。
蓮司は荒い息を吐きながら、後ずさりして距離を取る。
その目は、試験官を一瞬たりとも見失わない。
「もし今、諦めようとするなら……」
その声は、まるで胸を直撃するようだった。
「あなたに残された道は——死のみです」
「……ふざけんな」
蓮司は歯を食いしばり、そう吐き捨てた。
彼は横目で武器ラックを確認する。
——だが、そこにあるのはすべて使えないものばかり。
「何だよこれ……使える武器、ひとつもないじゃんか……」
そのときだった。
掛守が最初の一歩を踏み出した。
その足音が、床を通して蓮司の脳に響く。
そして——その瞬間、蓮司は理解した。
(この男……レベルが違う)
トンッ!
足音が一度だけ響いた瞬間、掛守の姿がまたもや消えた。
「速っ……!」
蓮司は本能的に身を低くして、横に転がる。
間一髪で回避。
ズバン!
背後で何かが風を切る音がし、直後にステージの壁が振動した。
——あの一撃が直撃していたら、終わっていた。
蓮司は素早く身を起こす。
反撃はしない。ただ……距離とタイミングを頭の中で再計算する。
一つ、二つ、三つ——
来た!
掛守は再び無言で襲いかかってくる。
言葉も笑みもない。
——まるで、左右どちらに逃げるか迷っている獲物を狩る虎のようだった。
「この人……突進する直前、ほんの一瞬だけ息を吸う癖がある……!」
蓮司は今度はその隙を突いて、掛守の足の間をくぐり抜けるように回避。
呼吸は荒い。だが、頭の中は妙に冷静だった。
——敵の呼吸音が、まるで時計の針のように脳内で刻まれていく。
掛守は間髪入れず、低い体勢から足を横に大きく振り抜いた。
回し蹴り——床を薙ぐ一撃!
蓮司は避けきれなかった。だが——彼は“あえて”喰らった。
蹴りの勢いを身体に受け、そのままモーメンタムに身を任せる。
そして、壁に肩から突っ込んで衝撃を逃がした。
ズシャアアッ!
蓮司の身体は弾かれたように床を転がる。まるでゴムボールのように。
けれど、彼は止まらない。
数回転がっただけで、手と足で地面を押し、素早く体勢を立て直す。
視線は真っ直ぐ前方へ。
つま先を地面に食い込ませるようにして構える。
その対面——掛守はどこか楽しげな顔を見せていた。
足を止め、じっと蓮司を見つめている。
荒くなった蓮司の呼吸——
それはもう、逃げるだけでは勝てないという事実を物語っていた。
(どうすれば……俺は、あいつに勝てるんだ……)
蓮司は歯を食いしばり、鼻から流れる血を手の甲で拭った。
さっきの衝撃が、今でも体に響いている。
(逃げるだけじゃ、絶対に勝てない……くそっ、なんで俺がこんな目に……!)
「ずっと僕のことを見てますね」
掛守が、場違いなほどに朗らかな声で話しかけてきた。
彼の唇に、薄ら笑いが浮かぶ。
ゆっくりと、円を描くようにして蓮司の周りを歩き始める。
「今までの攻撃はですね……ただの“テスト”です」
笑みが消えた。
次の言葉には、明確な“圧”が宿っていた。
「本番は、これからですよ」
「全力で来てくださいね。僕は——手加減なんて、しませんから」
その瞬間——掛守の身体に異変が起きた。
目の下に、深く刻まれたような線が浮かび上がる。
それはまるで、“サメの顔の模様”のようだった。
柔らかな茶色だった目が、
凍てつくような青色へと変わる。
口元がわずかに開き、そこから鋭い牙が覗いた。
皮膚が変質し、まるで鮫肌のような灰色に変化していく。
——気づけば、掛守 昶翔は人間とサメの融合体と化していた。
「これが僕の“黒物第四段階”の姿です」
彼は、静かに告げた。
「僕は、フィジカル系ですよ」
蓮司の目が大きく見開かれる。
唇が震え、つい口をついて出た言葉は——
「……ふざけんなよ……なんだよこれ、マジで……」
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第617号室
美姫は動かない。
その瞳は真っ直ぐ前を見据えていた。
息遣いは荒く、汗が額を流れる。
——この相手、簡単には倒せない。
「そんなふうに睨んでも、勝てませんよ。美姫さん」
涼しげな声が空気を切った。
相手の少女は、明るい茶色の髪をツインテールで短くまとめ、
体にぴったりとしたスーツに黒いショートスカート、
そして膝まで届くブーツを履いていた。
左胸には白いツバメのバッジが輝き、
左手首にはごつめの黒い時計が巻かれている。
その瞳は、美姫を一瞬たりとも逸らさない。
「私だって、あなたに負けるつもりなんてありませんよ。凪さん」
美姫は腰を落とし、構えを取る。
「私があなたを怖がってるって?——それは大きな勘違いです」
その声は震えていない。
むしろ、芯のある強さがこもっていた。
「あなたには分からないでしょうね。私がどんな過去を乗り越えてきたか。
こんな程度じゃ、あの父と母に比べれば……全然怖くなんかない!」
その言葉と同時に、美姫は突っ込んだ!
最大限に足を振り上げ、顎を狙って蹴り上げる——!
だが、凪はひらりと後方にバク宙し、あっさりと回避する。
「綺麗でしたけど……ちょっと遅かったですね」
凪は地面に両手をつき、
脚を180度に開いて、回転しながら二本の足で美姫の顔面を狙う!
美姫は素早く後退し、ギリギリで回避。
だが——
フッ!
凪はその隙を見逃さなかった。
足で地を蹴り、前方に突進!
頭から思い切り、美姫の腹に体当たりする!
ドガッ!
美姫の身体が空を舞い、部屋の反対側まで吹き飛ばされた。
地面に叩きつけられた瞬間、痛みが全身を走る。
立ち上がる間もなく、視界の端に“彼女”が映る。
——また来た!
しかし今度は……
凪の手には、漆黒の巨大なハンマーが握られていた。
そのサイズ、凪の体の三倍はあるだろう。
ズドォン!
ハンマーが美姫の体を直撃する!
彼女の身体は壁に叩きつけられ、
コンクリートの壁が凹むほどの衝撃を生む。
白い粉塵が室内に舞い上がった。
ゴホッ、ゴホッ……!
咳き込みながら、粉塵の中で美姫がもがく。
額からも鼻からも血が流れ、制服を赤く染める。
凪は部屋の中央に立ち、じっと美姫を見下ろしていた。
その表情には、微かな笑みが浮かんでいた。
「私の“黒物・第四段階”……」
その声は冷たく、確かな自信に満ちていた。
「“血液変質型”です」
半ば意識を失いかけながら、美姫は顔を上げる。
ぼやけた視界の中でも、彼女は凪を捉え続けた。
「私は……絶対に、あんたになんか負けない……クソが……」
その声はかすれていたが、意志は消えていなかった。
「私は……友達のところへ……絶対に帰るんだからぁっ!」