謎の男
もし、人生の最期の日に——
自分の体が異形へと変わり果て、
記憶すら消え去り、
もはや“生き物”とすら呼べぬ存在になるとしたら——
それでも、生きたいと思うか?
他人の肉を、血を——
大切な人の命を喰らわねば、生き残れない世界。
君なら、どうする?
ようこそ——人類の“裏側”へ。
誰にも知られたくない、誰にも触れてほしくない“もう一つの世界”。
そこを知ることができるのは、
「黒物病」に感染した者だけ。
彼らは、“表”の世界では決して見えなかった真実と向き合い、
“生き延びる”ための選択を迫られる。
そこでは——誰も信じることはできない。
なぜなら、そこにいる全員が……“黒物病”の患者だから。
「現在、政府は“黒物病”の感染拡大をある程度抑えることに成功しました。過去数年間にわたり猛威を振るったこの病に対し、感染症対策センターは引き続きワクチン開発に尽力すると約束しています。この病を世界から根絶し、平和な日常を取り戻すことが、我々の目標です——総理大臣は各都市の自治体に対し、住民の監視を強化するよう指示を出しました。黒物病が疑われる人物を見かけた場合、ただちに支援センターまで——」
高校生・藤原蓮司は、柔らかな黄色のキャップをかぶり、コンビニのカウンター奥から頭上のテレビ画面を見上げていた。
「黒物病……まだあったのかよ。子供の頃から聞いてたけど、ワクチンってまだできてないんだな……」
蓮司は、独りごとのように小さくつぶやいた。
「——危険区域と通常区域に分けて対策を取っているとはいえ、通常区域での感染確率はわずか2〜3%程度。それでも、国民全体に症状の認識を広めることは重要です。黒物病の初期症状には、赤い発疹、食欲不振、関節や筋肉の腫れ、一部に微熱が見られ——」
ピンポーン!
「いらっしゃいませ!」
自動ドアの開く音に反応して、蓮司は反射的にお辞儀をした。
「蓮司くん、もう帰っていいわよ。あとは私がやるから」
そう言って入ってきたのは、長い髪を揺らす異国風の美女・マリ。二十代前半、青森産のリンゴが描かれた段ボールを抱え、疲れた表情を浮かべていた。
「青森に行ってきたんでしょ? 寒かった?」
蓮司は尋ねた。
「寒かったわよ」
マリは段ボールを運びながら答える。「南部町にいるおばさんに会いに行ってきたの。昔、介護の仕事してた頃によくお菓子くれてた優しい人なのよ。観光なんてしてる暇なかったわよ。あんたも知ってるでしょ? 私の休みなんて、ほんっと少ないんだから」
「そうなんですか……」
蓮司が返事をすると、マリは彼の顔をじっと見つめた。彼女はすぐに気づいた——蓮司の目の周りに、小さなアザがあることに。
「また……家でやられたの?」
彼女は低い声で問いかける。蓮司は視線をそらし、口をつぐんだ。
「警察に連絡——」
「やめてください」
蓮司はすぐに遮った。「僕……転んだだけです。大丈夫です。心配してくれてありがとうございます」
マリはわずかに眉をひそめ、納得がいかない様子だった。
「はぁ……まあいいわ。それより、このリンゴ持って帰りなさい。おばさんがいっぱいくれたから、あんたにもおすそ分け。持っていきなさい」
彼女は小さな袋を取り出し、リンゴを詰め始めた。
「でも……今リンゴって高いんじゃ——」
「いいから!」
マリは有無を言わさず袋を蓮司に押し付けた。
「私ひとりじゃ食べきれないのよ。これはあんただけにあげるんじゃなくて、みんなに配るつもりだったから。さ、着替えて、帰りなさい」
「は、はい。ありがとうございます」
「それと、家に持って帰る前にちゃんと全部食べなさいよ。これはあんたにあげるの。あんたのあの酔っ払いでクズな継父に食べさせるためじゃないんだから。私のこと『ガイジン』って罵ったアイツにやるくらいなら、捨てたほうがマシよ」
「わ、わかりました……」
蓮司は言われたとおり、控え室へ行って着替え、タイムカードを打刻して、コンビニを出た。
薄暗い街灯が、川沿いの道をぼんやりと照らしていた。夜風は冷たく、川のせせらぎが静かに耳を撫でる。
蓮司は、濃い茶色のコートを羽織り、大きなリンゴの袋を抱えて歩いていた。彼は袋を見つめながら、思案に沈んでいた。
(どうしようかな……このリンゴ、家に持って帰ったら継父にバレるかも……でも捨てるのはもったいないし)
そんなときだった。橋の下、灰色のローブをまとった男が、うずくまるように横たわっているのが目に入った。白いズボンに、裸足。黒く変色したような足の爪が目立っていた。
「……よし、あの人にあげよう。ホームレスの人かな。少なくとも、このリンゴが今日の最初の食事になるかもしれないし」
蓮司はそう呟き、ゆっくりと橋の下へ降りていった。
「こんばんは……聞こえますか?」
蓮司は男に声をかけた。
男は少し身じろぎし、ゆっくりと胡坐をかいたが、言葉は返さなかった。
「えっと……これ、よかったらどうぞ。友達からたくさんもらって、食べきれなくて……ほんの差し入れです」
「……」
男は無言だった。フードの影に隠れて顔は見えず、反応も読めない。
だが、やがて彼は静かに、真っ白な手を差し出した。その手には、黒く濁った爪がくっきりと浮かんでいた。
(……病気かもしれない。かわいそうに)
蓮司はリンゴをそっと差し出した。男はゆっくりとそれを受け取る。
「ありがとう」
低く、くぐもった声が蓮司の耳に届いた。
「……今日は何も食べていなかったんだ。よかったら、君も一緒にここで食べていかないか?」
蓮司は一瞬迷ったが、男の口調や雰囲気がどこか穏やかで、妙に信じられる気がした。
「大丈夫ですよ。悪い人じゃなさそうですし……」
彼は男の隣に腰を下ろし、リンゴの袋をそっと差し出した。
「もっと食べますか? 全部どうぞ」
「ふむ……そなたは食わぬのか?」
「さっき少し食べたので、大丈夫です」
蓮司は膝を抱えて座った。
「……家に帰るのが嫌なのか?」
その言葉に、蓮司は一瞬表情を曇らせ、顔を伏せた。
「何か言いたきことがあるのなら、口に出してみよ。我は他人の秘密を洩らすような者ではない。そもそも、そなたの名すら知らぬのだからな」
「藤原蓮司……です」
蓮司は静かに名乗った。
「家の人たち……僕のこと、あんまり好きじゃないんです。だから、まだ帰りたくなくて」
「そうか……では、いっそ逃げ出してしまえば良いのではないか? そなたが消えても、誰も気にかけぬのではないか?」
「それは……できません。あの家は、もともと父の家だったんです。父はその家をとても大事にしていました。だから僕は、せめてそこに残っていたいんです……父の存在を感じたくて」
「ふむ……父上は既に他界されたのか?」
「はい。父は消防士でした。地震のあと、火事になった家に子供を助けに入って……そのまま帰ってきませんでした」
蓮司の声がかすれた。
「炎に包まれて……家が崩れて……僕の目の前で。あのとき助けられた子は生きてます。でも、父は……」
「……立派な者であったのだな。我が身を顧みず、他者を救わんとするその覚悟——称賛に値する」
「はい。僕のヒーローでした。だから僕も、そんな人になりたいんです。誰かの役に立てる人に」
「……だが、母上はその想いを理解してはおらぬようだな?」
「はい……たぶん。母は、今の再婚相手と……弟のことしか見てません。僕は……いるだけで邪魔みたいです」
蓮司はぽつりと続けた。「『死ねばいいのに』って、言われたこともあります」
「……哀れな子よ」
男——否、ノワールはぽつんと呟いた。
「されど、そなたは父を想い、今もその家にとどまっておる。それは——弱さではない。そなた自身の、揺るぎなき強さに他ならぬ」
「で、君は……なぜこんな場所に?」
蓮司の問いに、男は口元をわずかに緩めて答えた。
「我はただ、少々疲れておった。それに、飢えておってな。務めも未だ定まらぬまま、彷徨っているのだ」
「でも、昼間はずっとローブを着てるんですね? 皮膚のこと、何かあるんですか?」
「うむ。我の身は、日輪の光を受けるに不向きでな。肌がそれを拒む。ゆえに昼はこのように身を覆い、夜を好んで動くのだ。されど、安心するがよい。我は怪しい者ではない。そなたには、害を為さぬ」
「……ちょっとだけ、変わってるとは思いましたけど、怖くはないです」
蓮司はそう言って、微笑んだ。
彼にとって“変わっている”ことは、“悪い”ことではなかった。ただ、普通じゃない存在と対話するこの時間が、なぜか心地よくさえあったのだ。
二人は、星空の下で様々なことを語り合った。ときに笑い、ときに沈黙し、時間が過ぎるのを忘れるほどだった。
やがて——
「そろそろ帰らなきゃ……これ以上遅くなると、さすがにまずいです」
蓮司が立ち上がり、袋を抱え直す。
「また、どこかでお会いしたら……声をかけてもいいですか?」
男はゆっくりと立ち、フードの奥から月を仰ぎ見た。
「名乗っておこう。我は——ノワールと申す」
「ノワール……さん」
「覚えておけ、藤原蓮司。いずれ、そなたがこの世で最も困難なる時に直面したならば……我の名を呼ぶがよい。もしくは、思い出すだけでもよい。我は必ず、そなたの元へ現れよう。そなたがくれた、その一つの林檎への礼として」
「え……そ、そこまで……そんな、大袈裟にしなくても」
蓮司は照れくさそうに笑った。「でも、覚えておきます。ありがとうございます」
彼は深く頭を下げ、その場を後にした。
ノワールは静かに、彼の背を見送る。
そして、独り言のように呟いた。
「——光か。ふふ……どうやら、久方ぶりに面白い時が始まりそうだな。これより先、よろしく頼むぞ……蓮司」