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謎の男



ドサッ。


 何かが転がり、黒髪の少年の足元で止まった。

 茶色のコートを羽織ったその少年の目の前にあったのは──

 かつて自分の命を救おうとしてくれた、あの人の“頭”だった。


 震える両手がゆっくりと膝を折り、その首に触れようと伸びる。

 涙、恐怖、怒り、混乱……。心の中は、どうしようもない感情でいっぱいだった。


「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ……! ぼ、僕は……ごめんなさい……! 本当にごめんなさい……っ!」


 彼はその残骸を強く抱きしめた。

 胸の奥には、虚しさと──もう二度と届かない謝罪だけが残る。


 グルルルルル……ッ!!


 再び、獣のような咆哮が響き渡った。

 少年はその恐ろしい音の方を、震える体で振り返る。


 (あの“黒物病”の感染者だ……! また来た……! ミッドナイト部隊も全滅した……もう誰も助けてくれない……どうすればいい……)


 闇の中から、怪物の影がゆっくりと姿を現す。

「や、やめて……! 来ないでっ……! た、助けて! 誰か……助けてぇぇっ!!」

.

.

.

.

.

「現在、政府は“クロモノ病”をある程度まで制御することに成功しています。

かつて数年間にわたって猛威を振るったこの感染症について、

感染症対策および研究センターは、ワクチンの開発に全力を尽くすと約束しました。

この病が、いずれ世界から消え去るその日まで──。

なお、“クロモノ病”の感染が疑われる人物を見かけた場合は、

最寄りの支援センターまでご連絡ください――。」



藤原(ふじわら) 蓮司(れんじ) 薄い黄色のキャップをかぶり、柄物のシャツを着た高校生くらいの少年が──

 コンビニエンスストア「ザ・タワー」のカウンター奥で、頭上のテレビ画面を見上げていた。



「クロモノ……まだこの病気が残ってるなんて、信じられない。

 まったく、ワクチンはまだできてないのかよ……」

 少年は小さくつぶやき、視界を遮る黒髪の前髪を指で払いのけた。



「……感染拡大を防ぐため、発見した場合は速やかに支援センターまでご連絡ください。

“クロモノ病”の主な症状は、赤い発疹、食欲不振、体の一部の腫れや痛みなどで、

初期段階では微熱が見られるケースもあります。


その後、患者は次第に――」



そのとき、店内に自動ドアの電子音が響いた。


 ピンポーン。


「いらっしゃいませ――」


 レンジはすぐに頭を下げ、来客を迎えた。



「ねぇ、レンジくん。もう帰っていいわよ。ここからは私がやるから。」



 そう声をかけてきたのは、二十代前半の外国人女性──

 長い髪を揺らしながら、どこか疲れた表情を浮かべているマリだった。



 彼女は段ボール箱を抱えていた。

箱には、青森産の新鮮なリンゴのロゴが印刷されている。

そのままコンビニの店内へと入ってきた。



そしてその箱を、倉庫の扉近くにそっと置いた。



「青森、どうでしたか? 旅行って聞きましたけど……寒かったですか?」

「寒いに決まってるでしょ。」


マリは苦笑しながら答えた。



「南部町のおばさんに会いに行ってたの。昔、介護の仕事をしてたときにお世話になった人でね。優しい人なのよ、よくお菓子をくれたりして。観光なんてほとんどしてないわ。……あなたも知ってるでしょ、私の休みなんてほとんどないんだから。」


「そ、そうなんですか……。」

レンジが少し気まずそうに答える。


 マリは箱を片づけ終えると、ふとレンジの方を振り向いた。

 そして、彼の目の周りに小さな青あざがあるのに気づく。

「……また家で、何かあったの?」

視線を逸らすその様子に、声の調子がわずかに強くなる。


「警察に連絡するわよ……?」


「やめてください!」

レンジが即座に声を上げた。


「僕……転んだだけです。本当に大したことじゃありません。

 心配してくれて……ありがとうございます。」


 その返事に、相手は小さく眉をひそめた。

 せっかくの気遣いを拒まれたようで、胸の奥が少しだけざらついた。



「……わかったわ。じゃあ、このリンゴ持っていきなさい。

 おばさんからたくさんもらったのよ。少し分けてあげる。」



 棚の奥から小さな袋を取り出し、リンゴを詰めはじめる。

「いいんですか? 今、リンゴ高いのに……。」



「いいから、持って行きなさい。」

 マリはリンゴの入った袋をレンジの手に押しつけた。


「一人じゃ食べきれないし、もともとみんなに配るつもりだったの。

 あなただけ特別ってわけじゃないんだからね。

 さあ、早く着替えて帰りなさい。」


「……あ、ありがとうございます。」


「それと――食べきってから家に帰るのよ。これはあなたにあげたんだから。あの酒癖の悪い継父に渡すくらいなら、捨てた方がマシだわ。“ガイジン”なんて言う人に食べさせたくない。」


「は、はい……。」


 レンジは苦笑しながらうなずくと、言われたとおりバックヤードへ向かう。

 制服を脱ぎ、更衣室から出てタイムカードを押し、

 そのままコンビニ「ザ・タワー」をあとにした。



川沿いの道路に、街灯の淡い光が細く伸びていた。

夜は深く、月は半分だけ顔を出している。

星の瞬きが、かろうじて闇を照らしていた。

流れる水音と、頬をなでる冷たい風。

それが胸の奥に、静かな孤独を残した。


古びた茶色のコートの裾が揺れる。両腕には、大きな袋に詰まったリンゴ。

どうするべきかと考える。

捨てるには惜しい。

けれど、家に持ち帰れば継父に見つかるかもしれない。



果物なんて、そう簡単に口にできる生活じゃない。

手の中の袋が、ずっしりと重く感じられた。

その重みが、嬉しさと同時に罪悪感を連れてくる。


 マリは、いつも優しい。困っていると、黙って手を差し伸べてくれる。だから、約束を破るなんてできない。


 以前、家の前で継父に突き飛ばされるところを見られた。帰りが遅く、夕食の支度をしていなかったせいだ。母親は、そのときも弟ばかりを気にかけていた。



マリは助けに入ろうとした。

止めたのは、自分だった。

それ以来、あの人が家族の話をするとき、どこか冷たい目をしている気がする。



「……それで、このリンゴ、どうすればいいんだろう。」



思わずつぶやく。袋いっぱいのリンゴを抱えたまま、途方に暮れる。

どう考えても、一人で食べきれる量じゃない。

捨てるわけにもいかず、誰かに渡すあてもない。

ため息をついたその瞬間―― 視界の端に、妙な影が映った。



 川に架かる橋の下。


 灰色のコートをまとった人物が、うずくまるように眠っている。汚れた布の下から、真っ白なズボンがのぞき、裸足の足先に、黒く染まった爪が月明かりに浮かび上がった。まるで、意図的に塗られたかのように。



「……そうだ。残った果物、あの人にあげよう。ホームレスの人なら、これが今日最初の食事になるかもしれない。」



 そうつぶやき、ゆっくりと坂道を下りていく。足元の砂利が小さく音を立て、夜気が肌に冷たい。橋の下、暗がりに横たわる人影が見えた。



「こんばんは……聞こえますか?」

 声をかけながら近づく。



 相手は何も答えず、肩をびくりと震わせると、ゆっくりと体を起こして胡坐をかいた。その動きには、どこか戸惑いがにじんでいる。



「えっと……これ、どうぞ。友だちからたくさんもらって、食べきれなくて。一緒にどうですか?」

 笑みを浮かべ、袋を差し出す。



「もしよければ……手を、出してもらえますか?」


反応は、ない。


 灰色に汚れたフードの奥は暗く、表情どころか顔の輪郭さえ見えなかった。

 欲しがっているのか、拒んでいるのか――それすらわからない。


 沈黙が、夜気よりも重く流れる。


 やがて、ゆっくりとその腕が動いた。


 闇の中から伸びてきた手は、驚くほど白い。その白さを切り裂くように、黒く染まった爪が月光を反射している。指には、金と黒の指輪がひとつずつ光っていた。


「……病気、なのかな。なんだか、かわいそうだ。」

 レンジが小さくつぶやき、リンゴをそっと差し出す。



相手はゆっくりと手を伸ばし、それを受け取った。

その瞬間、世界の時間が止まったような錯覚に陥る。

目の前の光景に、視線が釘づけになる。赤い果実を包み込む、白く冷たい指先。どこか現実感がなかった。



「……ありがとう。」

 低く静かな声が闇の中から響く。


 その言葉で、レンジの意識がふっと現実に戻った。


「何も食べてなかったんだ。もしよければ――そのリンゴ、一緒に食べないか?」


レンジの深層意識は、その誘いに疑うことなく応じていた。

.

.

「……家に帰りたくないのか?家族とうまくいっていないのか?」

 低い声が静かに響く。返す言葉が見つからず、視線が落ちる。眉が寄り、胸の奥が締めつけられた。



「話したいことがあるなら、話せばいい。どうせ、ここにいるのは俺とお前だけだ。

 他人に知られることはない――約束する。それに……まだ名前も聞いていなかったな。」



「……僕は、フジワラ・レンジです。」

 そう名乗ると、男はわずかに驚いたように目を向けた。


「家の人たち、僕のことあまり好きじゃないんです。だから……今は、まだ帰りたくなくて。」


「へぇ……じゃあ、なんで逃げないんだ?逃げればいいじゃないか。どうせ、そんな連中、お前がいなくなっても気にも留めないさ。」


「それは……できません。」

 小さく首を振る。

「家は、もともと父のものなんです。父はあの家を、とても大切にしていました。

 だから僕は……あの家を守らなきゃって。」



「――死ぬまで、か?」

 男の声が、冷たく静かに割り込んだ。



「もし、いつかお前が死ぬとしても。そのときもまだ、その家を守ろうとするのか?」

 言葉が喉に詰まる。死について、考えたことなどなかった。まだ若すぎて、そんなものは遠い世界の話だと思っていた。



「……いいえ。死ぬまでなんて、思っていません。

 ただ……父が、まだそばにいるような気がしたくて。」

 声が震える。唇の端に、かすかな笑みが浮かんだ。



「それに……時々思うんです。もし僕がいなくなれば、母はもっと幸せになれるのかもしれないって。僕なんか、母の幸せの邪魔でしかないから……。」


「お前はさ……」

 淡々とした声が、闇の中で響いた。



「もしそうだとして、本当に母親は幸せになれると思うか? それに――お前自身はどうなんだ。そんなふうに消えて、気が済むのか?」

胸の奥が詰まり、息が苦しくなる。



 こんな夜に、見知らぬ相手と語り合うことが正しいのかどうかさえ、わからなかった。けれど、その問いは確かに心の奥を揺らしていた。



「……わかりません。」

 絞り出すように答える。



「父の家にいるのに、ずっと透明人間みたいで……。

何をしても間違い。どんなに頑張っても、母の気に入らない。

それで……時々、言われるんです。」

 言葉が途切れ、喉が震える。やがて、かすれるような声で続けた。



「……“死ねばいいのに”って。」



「――かわいそうに。」

 男の声が、ほんの少しだけ優しくなる。



「けれど、お前……まだ父親を愛してるんだな。だからこそ、あの家に縛られてる。」


「……父は、消防士だったんです。」

レンジの声が、どこか遠くを見つめるように沈んでいく。



「火の中に取り残された人を助けようとして……そのまま、帰ってこなかった。でも父は、誰かを助けて死んだ。だから僕も……父みたいな“ヒーロー”になりたいんです。」



「そうか……。お前の父親は、とても勇敢な人だったんだな。」


「そうなんです。」

レンジは少し照れたように笑う。


「もう過去のことですし、別れっていうのはいつか来るものですから。それより……失礼ですけど、どうしてこんなところで寝てるんですか?それに……その肌、どうしたんです?」


「ただの疲れと、空腹さ。」

 男は淡々と答える。



「仕事がまだ形にならなくてな。それで、ここで休ませてもらってるだけだ。

 ――それに、太陽の光とは相性が悪いんだ。だから昼間はフードを被っている。つい、眠り込んでしまって……気づけばこの時間さ。」

 そのあと、他愛のない話を続けた。



 どうでもいいことを語り合い、笑い合う。時間が過ぎるのを忘れるほどに。気づけば、すでに一時間近く経っていた。それでも、男は一度もフードを取らなかった。



 顔を見せることなく、ただ静かに、闇の中で声だけが響いていた。



「そろそろ帰らないと。これ以上遅くなると、少し面倒なことになるので……。」

 立ち上がり、軽く頭を下げる。



「どうか体に気をつけてください。また会ったら、声をかけてくださいね。あなた――」


「ノワール、と呼ぶといい。」

 低く笑う声。



「お前も覚えておけ。もし人生でどうしようもなく苦しいときが来たら、そのときは“ノワール”の名を呼べ。無理なら、思い浮かべるだけでもいい。――お前のリンゴへの礼として、助けてやろう。」



「はは……ありがとうございます。でも、そんなに気にしなくても。あれはタダですから。」

 軽く手を振り、夜道へと歩き出す。



 その背中が見えなくなるまで、ノワールは立ち尽くしていた。やがて、唇の端がゆっくりと歪む。


「――光か。どうやら、楽しい時間の始まりのようだな。これからよろしくな、レンジくん。」

.

.

.

.

.

「……その夜、レンジはまだ知らなかった。」














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