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第7話:邪神を討ちし勇者


 *****




 何の変哲もない暮らしだったと思う。

 中学を卒業し、公立高校に入学し、勉強も部活もそれなり。

 友人もたくさんいた訳ではないがそれなりにいた。

 色恋沙汰が一切なかった以外は、

 普通の男子高校生といってよかったのではないだろうか。

 それが何よりも幸せだったと気付いたのは、失われてからだった。


 高校の入学式が終わってから数日後。

 休日だったのでどこかに行こうかと玄関を出た瞬間。

 突然体が光に包まれ、引っ張られるような感覚を感じた。

 光が消えた時、僕の目の前にあったのは輝くような神殿の大広間。


 目の前にいたのは背中に白く輝く翼をもつ女神様。

 これはいわゆる異世界転生?

 いや、死んでいないから異世界転移か、などと他人事のように考えていた。


 この世界は邪神と、邪神によって召喚される魔物によって危機に瀕している。

 何度肉体を破壊しても無限に再召喚される魔物。

 魔物を完全に殺す事ができる光を剣に宿す祝福を与えられ、

 国王の下へと転移させられた。

 女神様はずっと事務的に微笑んでいて、僕の話を聞いてはくれなかった。

 邪神を滅ぼせば元の世界に返してくれるという約束だけを辛うじて取り付けた。


 いきなり王城の謁見の間へと転移させられ、

 事前に神託を受けていた国王に光の剣を見せると

 最低限の路銀と一枚の外套だけを渡され、城から放り出されるように旅立った。

 まるでロールプレイングゲームだ。

 しかし、ゲームバランスを保つためにそうしたのでは決してない。

 国王や周囲の文官、騎士や兵士たち。彼らの諦念に満ちた目。

 神託の勇者が僕で十七人目だと知ったのは随分と後の事だ。


 見知らぬ町に放り出された僕が

 最初に話しかけられたのは柄の悪い連中だった。

 見慣れぬ上等な服を着ているし、ぼけっとした金持ちに見えたのだろう。

 その内の一人にいきなり殴りかかられた。

 僕は喧嘩などした事もないし、格闘技はテレビの特番で見たくらい。

 だというのに、男の拳は赤ちゃんがじゃれるように遅く感じ、

 あっさりと受け止める事ができた。

 掴んだ拳を引いて放り投げると、男は石畳を五回は転がって気絶した。

 女神様の祝福なのかどうかは分からないが

 今の僕は超人的な身体能力を持っているらしい。


 怯えて逃げる男たちに謝りつつ、町を見渡す。

 看板に文字が書かれているが、当然ながら日本語でも英語でもない。読めない。

 女神や国王との会話は通じたので

 自動翻訳のような魔法でもかかっているのだろうと考えた。


 町の人に話を聞く。冒険者ギルドのような場所を知らないかと。

 うさん臭い者を見る目をされた。

 冒険者などという存在も、互助組織のようなものも存在しないらしい。

 旅人ならば宿のある酒場か、荒くれ者の住処にでも行けと言われる。

 洋風の中世ファンタジーというより

 祖父がよく見ていた時代劇の渡世人か浪人になった気分だった。


 場所を教えてもらった酒場に入ってみると、客はたった一人。

 背に長柄の斧を担いだ無精髭の男。

 柄の悪い連中に襲われた事もあり、恐る恐る声を掛けた。

 意外にも男は気さくに応じてくれて、一緒に昼ごはんを食べる事になった。


 素面ではなかったから僕の話をちゃんと聞いてくれたのかもしれない。

 この世界とは違う異世界から来たなどと、初対面の人にする話ではない。

 それでも話さずにはいられなかった。

 いきなり見知らぬ世界に独りで放り出されてから、

 初めて僕とまともに話してくれる人だったのだ。

 もちろん信じてはくれなかったが、

 代わりにこの世界の事を色々と教えてくれた。

 もし彼が悪人だったなら、僕は悲惨な末路を迎えていただろう。


 後の話だが、どうしてあの時に僕と話してくれたのかを聞いてみた。

 お人好しそうな奴が不安そうにしていたので酒の肴に。

 そうやって笑っていた。

 笑う彼も相当のお人好しだと思う。


 彼は行商人で、明日にでも城下町を旅立つのだという。

 僕も同行させてもらえないかとお願いをした。

 邪神を滅ぼせば元の世界に帰れる。逆に言えば邪神を滅ぼさなければ帰れない。

 旅を生業とする行商人なら世界や魔物についても詳しいはず。

 城下町の人々の対応を見る限り、町にいても助力など期待できない。

 打算は色々あったが、それ以上に孤独が怖かった。

 突然見知らぬ地に放り出された子犬が

 初めて通りがかった人に必死で縋るように、行商人に頭を下げた。

 彼は隣村までなら構わないという条件で応じてくれた。


 城下町を出発するまでは、まだ恐怖や不安は半分だった。

 ゲームや漫画に小説、アニメの世界のような

 異世界に召喚された主人公に自分がなっている。

 何者でもなかった自分が主人公になっている。それに心が躍っていた。

 心底愚かだったと気付いたのは、次の日だった。




 次の日、隣町へと向かう街道を進んでいると魔物の襲撃を受けた。

 行商人は小鬼と呼んでいる。地獄にいるという餓鬼のような人型をした魔物。

 行商人は荷物を背にしたまま、長柄斧を振るって小鬼を叩き斬っていく。

 前に出て魔物の大半を引き付けてくれたのは、

 僕が剣など握った事のない素人だと分かっていたからだろうか。


 小鬼の一匹が僕に向かってくる。やはり動きは遅く容易に避けられる。

 違う。避ける以外頭になかった。

 明確な殺意を向けて襲い掛かる異形がどれ程恐ろしいか、初めて知った。

 元の世界に帰るためには邪神を倒さなくてはならない。その過程で魔物も。

 剣を握る手に力を込める。剣の長さを頭に入れる。

 斬れるように刃を小鬼に勢いよく当てて振り切るだけ。

 女神から授かった祝福があるはず。やれると自分に言い聞かせた。

 簡単な詠唱で剣に光をまとわせる。邪神を討つための光の剣。


 突進してきた小鬼を避け、無防備な首筋を斜めに斬りつける。

 姿勢が悪く勢いも足りていなかったのか、剣は小鬼の半ばで止まる。

 吹き出す血を被る。肉を裂いた感触。

 剣が止まった理由。肋骨と背骨に引っかかったからだ。

 体を半ばまで断ち斬られた小鬼が、苦痛と憎悪の混じった目を向けてくる。

 目から光が消え、体を支える力がなくなり僕の方へと倒れ込んでくる。

 僕は悲鳴を上げて剣を手放し、後ずさって尻もちをついた。


 ゲームで敵を倒すのとは何もかも違う。

 五感全てが、お前が命を奪ったのだと伝えてくる。

 お前は今、殺し合いの場にいるのだと伝えてくる。

 丸腰で小鬼に襲われたらどうする。剣を取らなければ。

 自分が殺した、死体に刺さった剣を。

 体が動かない。涙がこぼれる。どうしてこんな事になった。


「しっかりしろ! そいつで最後だ、もう終わった。安心しろ」


 行商人が僕の肩を揺する。

 安堵したのと同時に、自分がやった事と置かれた状況を理解してしまい、

 僕は胃の中の物を全て吐いた。

 帰りたい。ただ帰りたい。こんな世界じゃなく元の世界に。

 小さな子供のように泣くしかできなかった僕を、行商人は少し乱暴に起こす。

 頭を抱え、半ば無理に前を向かせてくる。

 何かの決意に満ちた、それでいて優しい目。


「俺が家に帰してやる。君が帰るための道を作る。何があろうとも」


 彼ははっきりと宣言した。

 なぜ彼が、昨日始めて会ったばかりの意味不明な事を言う少年でしかない

 僕を助けてくれるのかは分からなかった。

 それでも確実に、僕にとっては何よりも嬉しい言葉を言ってくれたのだ。


「そういえば自己紹介もしてなかったな。俺は行商人のシュエット。君は?」

「……鳥添勇司。その、名前はユウジ」

「ユウジか。よろしくな」


 行商人……シュエットが差し出した手を縋りつくように握る。

 この約束が、僕の旅路の始まりだった。




 旅路は、当然だが辛い事ばかりだった。

 長い旅と戦いで剣は腕の延長になっていき、

 命を奪う事には愚鈍になっていった。


 旅路の途中、二人の少女と出会った。

 守護と癒しの奇跡において女神様に匹敵するとまで称えられる聖女メーヴェ。

 天空から凄まじい雷を落とす魔術を苦もなく操る魔術師クアーリャ。


 四人で色々な場所に行った。色々な苦難を乗り越えた。数多の魔物を倒した。

 その果てに、邪神を倒せる目前にまで辿り着いた。

 後一歩。しかしその後一歩が果てしなく遠かった。

 最後の一歩を届かせるため、シュエットは僕たちと別れた。


 それから時だけが過ぎゆく。

 風に聞こえてくるシュエットの噂は悪評ばかりで、不安ばかりが募る。

 信じていた。信じたかった。旅路の始まりで僕を救ってくれた友達を。

 不安を打ち消すように、メーヴェとクアーリャの力も借りて神殿に挑んでいた。

 しかし、何度挑んでも到達はできなかった。


 約束の一年半が迫り来る。

 最後まで信じようという思いが負けそうになった時だ。

 ウルラ商会の輸送隊が、最果ての砦に大量の物資と人足を運び入れた。

 続いて到着したのは二百人近い武芸者たち。

 そして光芒教会の司祭たちまでやって来た。


 クアーリャが嬉しそうに転移魔術で魔導の洞穴に行った時、

 あれだけ心に積もっていた不安は消し飛んでいた。

 何を不安がっていたのかと、少し前までの自分を馬鹿にしてやりたいくらいだ。


 数日後。砦の兵士が知らせてくれる。

 彼の報告を全て聞く前に、飛び出るように部屋から出た。

 メーヴェも同じだったようで、寝間着のままで外に出てきてしまっている。

 その時に靴を履いていない事に気付いたが、部屋に戻る気は一切なかった。


 砦の広間に行くと、クアーリャが笑顔で手を振っている。

 隣の見知らぬ少女は、僕たちの格好を見てきょとんとしている。

 そして、彼女たちの側にいる長柄斧を背にした無精髭の男。

 メーヴェと共に彼へと全力で駆け寄った。


「シュエット!」

「待たせてすまなかったな、ユウジ。約束通り、道を作りにきたぞ」


 旅路の終わりへ。届かなかった最後の一歩を届かせるため。

 僕たちは今度こそ、荒野を越えて邪神の神殿に挑む。




 *****




 砦の一室を借りて作戦会議を行う。

 商会の輸送隊が五百二十七名、武芸者による護衛隊が百九十八名、

 光芒の司祭二十三名、魔術師が十五名。

 物資も可能な限りかき集めてきた。

 もう一度集めろと言われても不可能。機会はこの一回限り。

 ユウジに残された時間だけではない。

 これ以上は国が耐えきれず、大陸全てが無法と魔物によって潰れる。

 失敗すれば魔物以外の何もかもを巻き込んで滅びる大博打だ。


 部屋にはユウジ、メーヴェ、クアーリャ、そしてシュエットとパッセル。

 輸送隊の代表者としてラーツァ。護衛隊の代表者としてストーク。

 司祭たちの代表者はメーヴェ、魔術師の代表者はクアーリャだ。


「オレと副会長だけ部外者感があるな、ははは!」


 大声で笑うストーク。

 ユウジとメーヴェには、パッセルの事は一部を伏せて話した。

 神魔を滅ぼす短剣を持っている事だけは伝えていない。

 理由はいくつかあるが、神殿に到達するまでは

 余計な迷いや諍いを生みたくないというのが最大の理由だ。


 クアーリャが机に一枚の地図を広げる。

 書き込まれた情報は近場に集中しており、荒野の先は無地と言ってもいい。


「シュエットが準備を整えている間に、わたしたちも調査はしていたよ。

 神殿がある大まかな方角だけは推測できたの。砦から北西」

「北西に三日ほど進んでみましたが、神殿は影も形も見えませんでした。

 シュエットさんがいた時と状況はほとんど変わっていないです」

「大体の方角が分かるだけでも大分違うさ」

 

 八日ほどの距離であり、目指すべき方角が分かっている。

 ならば、人数を考えて作るべきベースキャンプは二つ。

 一つでは足りず、三つでは維持できない。


「北西方向にベースキャンプを二つ設置する。

 三日進んだ所に一つ、更に三日進んだ所に二つ目だ。

 第一ベースキャンプには三分の二、第二には残りの人員を配置する。

 第二は奥地に入るうえ数も少ない。最精鋭を選んでくれ」

「明日までには選別しておきます」

「こっちも明日までには済ませておくぜ」


 地図に丸を描き込みながら、ラーツァとストークに指示を出す。

 すると、パッセルが服の裾を引っ張って聞いてきた。


「べーすきゃんぷ、って何?」

「ええっと……大規模な野営の事なんだよ、パッセルちゃん」


 少女にとって聞き慣れない言葉の意味を、ユウジが答えてくれる。

 ユウジが極地法を説明する時に使った単語なのだが、

 野営とは違うそれを区別するためにそのまま使っている。

 ユウジ本人は野営でいいんじゃ、と言っていたが少々強引に使う事にしていた。

 友の故郷の言葉だ。故郷に帰すという目的を風化させないでいてくれる。


「出発は二日後。

 メーヴェ、クアーリャ。司祭と魔術師には十分な休息を取らせるように。

 砦の室内を優先的に使わせるように言ってある」

「肝心な時に魔力切れじゃ役立たずだもんね、ちゃんと言っておくよ」

「ユウジ、二日間は武芸者たちと顔を合わせないようにな。

 勝負してみたいと言い出す奴が出ないとも限らないから」

「分かったよ、最低限の鍛錬だけして体を休めておく」


 指示を出しているシュエットは

 七百人超の人間を指揮して動かした経験などはない。

 それでも自分がやるしかないからやっている。

 学んだ知識と、自前の経験だけで何とかするしかないのだ。


「俺は二日間、ラーツァと部屋に籠りきりになると思う。

 何かあった時は俺の部屋に報告してくれ」

「あたしも一緒にいていい?」


 無邪気に聞いてくるパッセルに、疲れた苦笑を見せながら言う。


「朝から晩までの書類仕事を手伝ってくれるんだな?」

「文字読むのいや。隣で寝てる」


 即座に拒否しつつも、一緒の部屋にはいたいらしいパッセル。

 それがどこか可笑しくて、部屋にいた全員が笑い声をあげた。




 会議からの二日間は書類とひたすら格闘した。

 人数も物資も、一人で行商人をやっていた時とは桁が違う。

 九割はラーツァがやってくれたというのに、

 斧を振る前に腕と指が駄目になりそうだ。

 横ですやすやと眠っているパッセルが羨ましいと心の底から思った。


 二日目の夕方。

 何度目か分からないため息を吐くと、ラーツァが声を掛けてくる。


「シュエット様、後は私がやっておきます。今晩はゆっくりと休んでください」

「ありがとう、そうさせてもらうよ」


 書類仕事から解放され、立って背伸びをする。

 隣を見ると、いつの間にか起きていたパッセルが同じように背伸びをしていた。


「私は明日、城下町へ戻ります。

 後はお願いします、シュエット様、パッセル」

「必ず成し遂げる」

「またね、ラーツァ」


 小さく手を振るラーツァに手を振り返し

 パッセルと共に部屋を出て寝室へと向かう。

 寝室といっても毛布を敷いただけの雑魚寝だ。

 この砦に寝具などという上等な物はない。

 寝室に入ると、中にはクアーリャがいた。


「お仕事終わった? お疲れ様、シュエット」

「ユウジたちと一緒じゃなかったのか?」

「ゆっくり話せる最後の機会だもん、二人きりにしてあげたいじゃない」


 クアーリャの寂しそうな声に、改めて思い出した。

 邪神を討てばユウジは故郷に帰る。

 それは異世界であり、二度と会う事はできない。

 大切な友と別れるのは辛い事だが

 恋仲のメーヴェにとってはそれ以上に辛いだろう。

 目を閉じて黙ってしまったシュエットに、クアーリャは聞いてくる。


「ねえ、もしもユウジがこの世界に残るって言ったらどうする?」

「どんな手段を使っても帰す。ユウジが望んでいなくても」


 はっきりと即答した。

 シュエットが道を作るのは、ユウジのためだけではない。

 別れの日にも言った。この世界に生きる全ての者の責任で義務だと。

 もう一度身勝手な召喚をされないためにも帰さなくてはいけない。

 召喚された者が身勝手を許したなら、同じ事が繰り返されてしまう。

 あいつは許してくれたから今回も許してくれるだろうと。

 人だろうが神だろうが、他人の人生を勝手に奪う事が許されていいはずがない。

 だから義務。ユウジ本人の意思さえ関係ない、しなければならぬ務め。


「メーヴェには二度と口をきいてもらえないかもな」

「あんまり見くびらない方がいいよ、頑固過ぎて誰よりも心が強いんだから」


 くすくすと笑うクアーリャ。確かにそうだと頭を抱え、笑みが漏れた。


「パッセル、短剣の事ユウジたちにばれてない?」

「二人とはあんまり話してない。沈黙は便利だって詐欺師が言ってた」


 そう言われてみれば、

 パッセルはユウジやメーヴェとの会話を最低限にしているように感じた。

 女詐欺師のやり口を覚えてしまったのは良いのか悪いのか。


「明日からは死地の行軍だ、今日はゆっくり寝ておくぞ」


 そう言って毛布に寝転ぶ。パッセルが隣に寝転んできた。

 クアーリャも隣に寝転んできて、挟まれるような形になる。

 一般的に旅人の野宿は襲撃に対処するため、固まって寝る事が多い。

 とはいえ男女は分けるのが普通で、

 異性を挟むのは重要な護衛対象を守る時くらいだ。

 パッセルとクアーリャは出会って数日しか経っていないので

 お互いに隣をためらった結果だろうか。

 そもそも野宿ではないので隣に来る必要はないのだが、

 いつもそうしていたからかも知れない。


 自分の両隣で寝息をたてる二人の少女。

 結婚どころか恋人の顔すら想像できないありさまだが、

 父親というのはこういう気持ちなのだろうかと思った。

 半端な男を恋人として連れてきたら間違いなく反対する。確信に近い。

 幸せになって欲しいのだ。妹か娘のように思っている二人には。

 二人をこれから死地に向かわせようとしている化物が何をと自嘲する。


 目を閉じ、何も考えないようにする。

 昨晩は考え事で眠れなかった、などという事はシュエットに許されていない。

 背負うのは直接見えるだけでも、大切な友人と七百人以上の人。

 そして数多の協力者たち、ひいてはこの大陸全ての人々。

 全員を道の先に送り届ける事はできないだろう。

 それでもやらなければならない。

 使命感か責任感かは分からないが、そう決意した時、眠りに落ちていた。




 翌朝、砦近く。

 荒野を踏破するために集った者たちは

 あらかじめ決められた隊列の通りに整列していた。

 数だけならアルソス町で共に戦った兵士たちの方が多い。

 しかしあの時とは違い、今は彼ら全ての命運がシュエットに懸かっている。

 手の震えを抑え込むように拳を握った。


「ユウジ、遠話の石片を全部出してくれ」

「石片を? 分かった」


 荷物から十数個の石を取り出すユウジ。

 この石は魔道具であり、

 対になった石とどれだけ離れていても会話ができるという物だ。

 転移拠点となっている町村に一つずつ置いてきて、連絡用に使っていた。

 今まではそれを逆手に取られ

 魔物の突発的な襲撃によって神殿の攻略を妨害されていた。


 石片を小さな箱に入れる。蓋を閉める前、はっきりと宣言した。


「ウルラ商会長シュエットより通達する。

 今この時をもって勇者の助力は出せなくなる。各自の判断で町村を死守せよ」


 返事を待たず蓋を閉めた。

 この箱は簡素な魔道具で、中の音を完全に遮断する効果がある。

 町村にあった連絡用の石片は

 ウルラ商会の兵士や防衛部隊の指揮官に預けられている。

 どれだけの被害が出ようと邪神を討つまで助けにはいかない。

 行ってはいけない。

 ユウジは辛そうにしつつも何も言わずに頷いた。


「魔導の洞穴の魔術師たち、その魔術を存分に見せるよ!

 魔物なんてわたしたちの敵じゃないんだから!」


 クアーリャが右手を高く掲げると、魔術師たちも同じように右手を掲げた。


「私たちには女神様の加護と祝福があります。光芒の守護と祈りを!」


 メーヴェの略式の祈り。司祭たちも祈りを捧げる。

 正式なものではなく、略式だという所に聖女の心の内を感じた。


「オレたちは国一番、いいや世界最強の輸送隊だ!

 輸送隊は恐れずただ進め、運べ!

 護衛隊は湧いてくる魔物どもを殺して殺して殺しまくれ!

 オレたちの命と誇りに懸けて、勇者殿を送り届けるぞ!」

「ウオオオォォォォーッ!」


 ストークの号令。輸送隊と護衛の武芸者たちが雄叫びを上げて答える。


「勇者ユウジ。出陣の号令を」


 シュエットに言われ、ユウジは全員を見渡す。

 しばらくは人数と責任感に圧倒されたように黙っていたが、

 強く拳を握りしめてしっかりと前を向く。

 腰の長剣を抜き放ち、光をまとわせて天に掲げる。


「みんなと共に荒野を抜け、この剣で邪神を討つ! 力を貸してくれ!」

「オオオオオォォォォーッ!」


 地面が揺れているように感じるほどの雄叫び。

 士気が高いからではない。この雄叫びの本質は不安と恐怖だ。

 皆がどれだけ困難かを知っている。

 二度と帰ってこられないかもしれないと知っている。

 それでも行かねばならぬと知っている。

 だから雄叫びを上げる。不安も恐怖も押し殺し、前へと踏み出すための空元気。


「出陣ーっ!」


 シュエットの号令で、全員が動き始める。

 今までと何も変わりはしない。

 友のため、そして思いを乗せてくれた者たちのため。

 道を作る。邪神の神殿へと至る道を。ただそれだけだ。



 ***



 不毛の荒野を進む。最低限の確認以外は皆が無言。

 足音と荷車の音だけが響く。

 先頭を行くシュエットたちにも伝わる緊張感。

 普段なら元気だけでも出していこうと声を掛ける所だが、それもできない。


 まずは魔物にできるだけ発見されないように、限界まで距離を稼ぎたい。

 こちらの位置がばれてしまえば、

 邪神はその地点に魔物を次から次へと送り込んでくる。

 そのため、発見される前に魔術による先制攻撃で仕留めるのが理想といえる。

 しかし行軍速度を緩めては本末転倒。

 早さと慎重性、これをぎりぎりで両立させる事が必要だ。

 隊の外周部分を担当する護衛隊は

 ひりつくような緊張感で周囲に目を凝らし歩いている。

 荒野には身を隠すような場所が非常に少ない。

 まして七百人以上の人間を隠す場所となれば皆無と言っていい。

 警戒を最大限にして、足は止めずただ進む。




 一日目は幸いにも、魔物に遭遇する事は二度しかなかった。

 クアーリャの魔術で気付いていない間に仕留めたので、

 こちらの位置はまだ把握されていないはず。

 一日目の休憩地点に到着し、全員から安堵の息が漏れる。

 ユウジたちの事前調査地図にあった、"半分丘"と名付けられていた場所。

 確かに丘の半分が切り取られたかのような形状で、身を隠すにはうってつけだ。


 夜は行軍を中断し、休息を取る事にしていた。

 魔物は夜目が利く者も多い。対して人間は視界が大幅に制限されてしまう。

 発見の危険が高まり、魔物の攻撃に対する危険も増す。

 更にこちらは大人数。

 もし明かりのない夜に乱戦にでもなってしまえば大混乱は必至だ。

 四人で荒野を進んでいた時でさえ、夜の戦闘で何度物資を駄目にされたか。


 明かりはランタンの光だけ。

 火が欲しい所だが、輸送する薪の量を減らすために休息地では使えない。

 硬いビスケットと塩辛い干し肉で腹を満たす。

 水は多めに積んでいるが、食料は保存がきく物だけだ。

 毛布を敷き、そこに寝転ぶ。

 見張りは三交代制だが、ユウジたちは基本的に一晩休む。


「あたし、丘の上で見張ってる。朝になったら降りて来るから」

「ですが、パッセルちゃんも寝ないと……」

「数えてなかったから分からないけど、五十日くらいなら寝なくても平気」


 メーヴェの心配を遮り、パッセルは一人で歩いて行ってしまう。

 単独での戦闘に慣れていて、一切寝る必要がない。

 丘の向こうを見張るには適任だろう。

 距離感が掴めない少女に何を言っていいのか分からないのか、

 メーヴェはシュエットに悲しそうな視線を向けてきた。


「真っ暗な夜に独りぼっちって、とっても寂しいんですよ」

「嫌っていうほど知ってる。それでもパッセルに任せるしかない」


 行商の旅の途中、一人で野宿する事は日常茶飯事だった。

 最初の頃は眠る事さえできず、

 揺れる火を見ながら怯えて夜が明けるのを待ったものだ。

 メーヴェも罰で夜間の屋外に立たされた事がある。だから分かるのだろう。


 本音を言えば一緒にいてやりたい。

 しかし今のシュエットは数百人の命を預かる身、勝手な事はできない。

 もしも魔物の襲撃があったなら、即座に指示を出さなくてはいけないのだ。

 心構えと部隊の動かし方は、アルソス領主ティグリスに仕込まれた。

 命令を実行できると確信しているなら

 指揮官は部下を信じて任せなくてはならないと。


「シュエットはパッセルの事を信じてるんだよ、わたしたちと同じくらいに。

 パッセルも多分同じ。

 シュエットが丘の上に来たら、怒って蹴り落とすと思うよ。

 メーヴェもそうするでしょ?」

「……確かに蹴り飛ばしますね」


 横になりながら足を振り上げるクアーリャに言われ、神妙に頷くメーヴェ。

 蹴り飛ばされて丘の上から落ちる自分を想像してしまい、笑ってしまった。

 ユウジも口元を隠そうとしているが笑っている。

 魔物どもがうろつく死地にいるというのに、

 かつて共に旅していた頃に戻ったような懐かしさを覚えた。




 夜は魔物の気配もなく、二日目の行軍。

 一日目に何事もなかったので緊張が緩んだのか、

 大きな声ではないが雑談が聞こえてくる。

 良い傾向とは言えない。しかし緊張し続けては肝心な時に十全の力を出せない。


「旦那、ちと緩んできてるみたいですな。どうしましょう?」


 同じ事を考えていたらしく、ストークが近寄ってきて聞いてくる。

 少し思考し、指示を伝える。


「今はまだ警戒の方が強いから放っておく。目に余るようなら注意してくれ」

「了解だ。中々指揮官も板についてますな」

「商会長っていう張りぼてを、まだ担いでいるからかも知れない」

「お互いにさっさと張りぼてを捨てたいですなぁ」


 自嘲気味に苦笑すると、ストークも同じように苦笑して護衛隊に戻っていく。

 それっぽく振舞い、言動に説得力を与えるためだけの張りぼて。

 ずっと使っていればそれなりにやり方も覚えるし慣れる。

 どれだけ慣れても窮屈な事には変わりない。

 自分ではない張りぼての姿を見せ続けるのは疲れるのだ。

 道を作り終えれば張りぼても役割を終える。そのためにも前へ歩き続ける。




 二日目の夜も何事もなく過ぎ、荒野に出て三日目を迎えた。

 ここまで魔物に悟られずに進めたのは奇跡と言ってもいい。

 代償として時折大声が聞こえ、ストークの怒号が飛んでいる。

 やはり改めて気を引き締めさせるべきか。

 そんな事を考えていた時、声がざわめきに変わる。

 即座に放たれる雷の魔術。一日目とは違い、かなり近場に落ちた。


「……逃げられた。転移魔術を使われちゃった」


 憎々しげに、上げた腕を振り下ろすクアーリャ。

 注意が緩慢になって視認を許してしまった。

 クアーリャの詠唱速度で間に合わなかったというなら、

 先に発見された時点でどうしようもなかっただろう。

 即座に振り返り、大声で指示を出す。


「魔物に位置を知られた、行軍速度を早める!

 隠れる事はもう考えるな! 魔物が来る前にできるだけ距離を稼ぐぞ!」

「のんびり話してる時間はお終いだ! 口の分だけ足を動かせ!」


 ここまで先制攻撃だけで終わって一戦も交えていないので輸送隊は懐疑的。

 武芸者たちはようやく出番かと張り切っている。

 ストークの怒声で渋々従って足を早めたという感じだ。


 荒野に挑んだ事のあるシュエットたちだけが

 この先に何が起こるかを体験している。

 なぜ圧倒的な力を持つ勇者が荒野を進めなかったのか、その理由を。




 行軍速度を早めたのが功を奏したか、

 日が沈み切る前に第一ベースキャンプの場所に到着した。

 湧き水が小さな池となっており、わずかに草も生えている数少ない場所。

 毒や病を無効化できるシュエットたちならば飲んでも構わないだろうが、

 他の者には決して飲むなと厳命してある。

 魔物の巣窟にある水飲み場、どんな毒や虫が湧いているか。


「ベースキャンプの設営急げ! すぐに魔物どもが群れでやって来るっ!」


 やはり焦っているのはシュエットだけのようで

 談笑している武芸者や司祭もいる。

 設営は輸送隊だけで行い、戦闘要員は周囲を警戒させているのだが、

 ここまで魔物と剣を交えていないので拍子抜けしているようだ。

 輸送隊からも、こんな大規模な輸送隊を作る必要があったのかと

 疑問の声がいくつも聞こえてくる。


 そんな声など聞こえていないユウジは北西の方向をじっと睨んでいる。

 メーヴェは隣に寄り添うように。

 クアーリャは少し前で同じように北西へと目を凝らしている。

 指示出しを終えてからユウジたちに声を掛ける。


「俺たちは護衛に任せて休むぞ。

 特にメーヴェとクアーリャ。今晩だけは何があろうと寝てもらう」

「分かってる、みんなを信じるしかないもんね」


 少しだけシュエットの方を振り向き、すぐに北西に向き直るクアーリャ。

 魔術や奇跡を使う者は、しっかり休まないと魔力が回復しない。

 ユウジとシュエットの二人で守るのには限界がある。

 だから今までは魔力切れ寸前で撤退していた。


 クアーリャの腕が静かに動き、深く息を吐く。魔術の準備。

 北西の方から走って来る人影。左手を上げ、次に右、再度左手を上げた。

 クアーリャが腕を下ろす。

 事前に決めていた合図。斥候に出していたパッセルが帰ってきたらしい。

 ここまで全力疾走してきたのか

 呼吸が荒いまま近くに来たパッセルに水袋を差し出した。

 パッセルは水を一口飲むと、北西の方向を指差す。


「すぐ近くに来てる。真っ直ぐここに突っ込んできてるよ」

「数は?」

「ざっと見ただけなんだけど、二百くらい」


 護衛隊の数とほぼ同数。

 相変わらずの、戦略も戦術もなく物量で潰しに来るごり押し。

 二百なら上級混じりでも確実に撃退できる。

 そういう者たちを選別して集めたのだ。

 この襲撃が一度や二度なら、という前提が付くが。


「シュエット、あたしはどうしたらいいかな?」

「ユウジたちの護衛だ。万が一にも攻撃されないように見張ってくれ。

 よし、ベースキャンプの中心に戻ろう。戦闘指揮はストークがやってくれる」


 急ぎベースキャンプの中心に設営された野営地に入る。

 布の屋根で雨を凌ぐ程度の簡素なもの。

 それが五つほどあり、魔術師や司祭たちが中で休んでいる。


「三班と四班の戦える連中は魔物との戦闘に備えろ!

 残りと五、六班は防衛設備の設営急げ!

 一、二班は後詰だ、戦闘に備えて待機!」


 ストークの指示が飛ぶ。

 ずっと単独で武芸を磨いてきた男にしては様になっていた。


 全員を一から六までの班という部隊に振り分け、

 部隊ごとに指示を出して各個に動かす。

 ティグリスに教わった戦術論と、ユウジの故郷の話を統合してできたやり方だ。

 輸送隊の人足、武芸者、司祭、魔術師の混成部隊を

 素人に毛が生えた程度のシュエットとストークが動かすなら、

 こうやって簡略化するしかなかった。


 ユウジが毛布に横になる。

 剣をすぐ手に取れる場所に置いたのを見て、声を掛ける。


「ユウジ、酷な事を言う。休む時は何人死のうと絶対に助けず休め。

 お前のために死ぬんじゃない。お前の所為で死ぬわけでもない。

 個々の思いは違えど、自分の意思で命を懸けた連中なんだ」

「……ああ。分かったよ、シュエット」


 辛そうな表情のユウジ。

 納得し切れるものではないだろうが、それでも押し殺さなくてはならない。

 無傷で突破するなどという楽観はとっくに捨て去った。

 屍を踏み越えてでも進む。その覚悟が必要なのだという意味で言った。

 ユウジだけでなく、自分自身に対しても。


「俺は最初の一度だけ指揮と確認のために出る。

 パッセル、ユウジたちを頼むぞ」

「いってらっしゃい」


 クアーリャの近くに座り、手を振るパッセル。

 守ってくれという意味だけではない。

 絶対に休息させろという意味も込めてある。

 外に出て布を下ろす。音はどうしようもないが、少なくとも見える事はない。

 話している間に隊列は整い、魔物もベースキャンプのすぐ側まで迫っていた。

 ストークが手を上げてシュエットを見る。

 離れた所からでも見えるように大きく頷いて示す。


「三班、四班、攻撃開始っ!」


 ストークの号令と同時に詠唱が始まり、魔術師たちの魔術が放たれる。

 火球、氷刃、大岩が魔物に向かって二発ずつ飛んでいき、

 数を半分近くに減らした。

 続けて司祭たちが守護の奇跡を女神に願う。

 武芸者たちが淡い光の防御に守られる。

 混乱はしても進軍を止めない魔物どもに、武芸者たちが突っ込んでいく。

 上級は一体で、他は全て中級の魔物。

 個々の戦力で上回るこちらが一気に押し切っていく。

 設営中の防衛陣地さえ踏ませる事なく、初戦は危なげなく終わった。

 遠距離からの先制攻撃で数を減らし、守護を受けた武芸者で殲滅する。

 理想的な動きだ。


「よーし、よくやった! すぐに次が来るぞ、無駄口叩かず手と足を動かせ!

 一、二班は休息を取れ! 他の班の戦闘要員は二交代で魔物を叩き潰せ!」


 再度ストークの指示が飛ぶ。

 魔物が実際に襲ってきて危機感が蘇ったようで、雑談は聞こえなくなった。

 魔物の全滅を確認し、後の指示はストークに任せユウジたちの元へ戻る。


「みんな寝たか?」

「寝られる訳ないじゃない……」


 パッセルに聞いたつもりだったが、答えたのはクアーリャだった。

 メーヴェも体を起こす。

 この状況ですぐ眠れと言われてできる者はそういない。

 意外にもユウジは眠っている。

 それだけシュエットが集めた者たちを信頼してくれているのだろう。


 小手と具足を外し、少し離れた毛布に寝転がる。

 襲撃を受けるかもしれない場合は装備を身につけたまま寝るのが普通だが、

 今は護衛を信じて全力で休む必要がある。

 こんな所で突破を許すようなら、神殿に辿り着くなど夢のまた夢だ。

 毛布を被ろうとすると、クアーリャがしがみ付いてきた。


「何やってるんだ」

「……これなら安心して寝られるから、お願い」


 小さな子供のような事を言うクアーリャ。

 シュエットを掴む手はかすかに震えていた。

 メーヴェもそうだが、彼女たちは基本的に何かを任せた事がない。

 自分にできる事は全て自分でやってきた。それを可能にする才を持っていた。

 だから不安になる。見知らぬ人間を信じ任せる事ができなくて。


 そんなクアーリャの頭を、パッセルがそっと撫でる。


「あたしがいるから大丈夫。

 あたしは寝る必要ないし、何があっても魔物をここに通さない。

 ゆっくり休んで、クアーリャ」

「……うん。ありがとう、パッセル」


 シュエットにしがみついたまま、クアーリャは目を閉じる。

 その様子を見て、メーヴェに思いついた事を冗談交じりに言ってみた。


「メーヴェもユウジに抱き着いて寝たらいい」

「流石にそこまではしませんが、この位はいいですよね……」


 メーヴェはユウジの手を握り、隣で横になる。

 初々しい仕草に思わず吹き出してしまい、メーヴェに睨まれてしまった。


「すまないな、パッセル。任せたぞ」

「うん。お休みなさい」


 設営の喧騒の中、眠りへと集中する。

 不安も恐怖も消せ。明日の朝に再度目を覚ますと心の底から信じろ。

 ここまでの疲労もあってか、眠りはすぐにやってきた。




「起きて、シュエット。朝だよ」


 頬をぺちぺちと叩く小さな手に起こされる。

 布の向こうから朝日が漏れている。

 どうやら無事に翌日の朝を迎えられたようだ。

 結局一晩中離してくれなかったクアーリャを揺すって起こす。

 その間に、パッセルはユウジとメーヴェを起こしていた。

 急いで装備を身につけながら、パッセルに状況を聞く。


「パッセル、襲撃は何回あった? 死傷者の数は?」

「襲撃は二回。全部撃退して死んだ人はいない。

 怪我した人はいたけど、治る怪我だったから司祭さんが治したよ」


 二回という襲撃回数に安堵する。

 やはり最初の二日見つからなかったのが大きい。

 魔物の初動を大幅に遅らせる事ができた。


 装備を整えて外に出てみると、防衛陣地はほぼ完成していた。

 第一ベースキャンプが完成。次はここを起点にして更なる奥地へと進む。

 感慨に浸っていると、ストークが駆け寄ってくる。


「旦那、勇者殿! お早いお目覚めで」

「ストーク、第二ベースキャンプへ出発する者たちの準備はできているな?」

「若干休めてねえ奴もいますが、問題はないでしょう。いつでも出発できる。

 旦那たちは……流石の勇者一行だ、とんでもない肝っ玉してますな」


 十分に休息を取ったシュエットたちを見て苦笑するストーク。

 不安は当然あったが、それを見せる必要はない。

 彼らを神殿に辿り着かせれば勝ち。

 そう思わせる存在でなければならないのだから。


「シュエット、ここから第二キャンプまではどんな風に進む?

 改めて確認しておきたいんだ」


 ユウジの言葉に頷き、地面に地図を広げる。

 ユウジたちの事前調査で、北に少し行った所には大きな岩があるらしい。

 まずはそこまで移動し、その後に北西へ進む。

 いきなり第一ベースキャンプから北西に進むと、

 神殿から直進してきた魔物と鉢合わせする可能性が高い。

 魔物を全て倒しながら進んでは今までの二の舞でしかないので、

 気付かれない程度に避けるような道程で進む。


 第二ベースキャンプに向かうのは精鋭を集めた一班と二班。

 三、四、五班は第一ベースキャンプに残りこの場を死守する。

 六班は人足を多く割り振り、ベースキャンプ維持のための輸送を担当する。

 物資や食料に余裕は持たせてあるが、

 魔物との戦いを繰り返せば陣地は破壊されるし、武具も壊れてくる。

 砦まで戻って物資を補給するのは必須だ。


「六班はクアーリャの魔術で砦へ転移してもらう。

 一回限りだが、復路の危険と時間を考えたらこれが最良だ」

「三百人を超える人数を転移させるとなると、

 魔力を九割くらい使うから休むまで戦力外だけどね」


 これから行う事に対して疲れた顔をするクアーリャ。

 一日彼女の魔術が当てにできないのは辛いが、それ以上の利がある。


「ここからは時間との勝負になる。

 なにせ相手は無限に湧く魔物、こちらはぎりぎりの物資と人員。

 焦りは禁物だが、急ぎはする」


 荷物から小箱を取り出す。封をしてあるので開けられはしない。

 中の石片からは助けを求める悲鳴のような叫びが届いているかもしれない。

 どこの町村かは分からないが、

 魔物に発見されたという事は間違いなく襲撃を受けている。

 ウルラ商会の兵士たちが耐えている間に神殿へと辿りつかなければ。


「転移する六班はあそこで待機してる。よろしく頼むぜ、魔術師の嬢ちゃん」

「分かった、ぱぱっと砦に転移させちゃうね」


 六班の所へ走っていくクアーリャ。

 しばらくすると彼らは光に包まれ、一瞬だけ光が膨らんでから弾けて消える。

 膝をついて座り込んでしまうクアーリャを見て、

 無茶をさせてしまった事に心が痛んだ。


「ストーク、全員への指示を頼む」

「了解だ」


 総指揮官としての役目はシュエットなのだが

 ストークが指示した方がきっちりと従ってくれる。

 シュエットより一回り体格が大きく、見るからに歴戦の戦士という風貌。

 それに加えて武芸者たちの代表で一目置かれている。

 シュエットは商会長という肩書があるので、

 どうしても指揮に関してはお飾りに見られがちだ。

 姿形や周囲からの扱いというものは、説得力に大きく影響するのだ。


「さっきの光を見ていたな、六班は嬢ちゃんが砦に転移させた。

 三から五班はこのベースキャンプを死ぬ気で守れ。

 魔物にここの位置は知られてる、ひたすら襲い来る魔物と戦う消耗戦になる。

 一班、二班はオレたちと一緒に第二ベースキャンプ予定地まで進む。

 連中の本拠地に近づく上に気付かれてる、危険は今までの比じゃねえ」


 声そのものは全員に聞こえるよう大きいが、

 出発時の号令と違い淡々と事実を話すストーク。

 皆の顔も緊張の色が濃い。

 実際に魔物と戦った事で、自分たちが死地にいると自覚したのだ。

 その反応を予想していたらしく、ストークは不敵な笑みを浮かべた。


「それがどうした? 出発の時言ったよな、オレたちは世界最強の輸送隊だ。

 やる事は何も変わらねえ! 勇者殿を送り届けるだけだ!」


 ストークが大曲剣の切先を天にかざす。そして豪気に歌い始める。


「オレたちゃ無敵の輸送隊ィ、魔物どもなぞ恐れはしねえ!」

「オレたちゃ無敵の輸送隊、魔物どもなぞ恐れはしねえ!」


 護衛隊の武芸者たちも、各々の獲物を天にかざして歌いだす。

 戦場に生きる者たちの勇壮な歌。命知らずたちの凱歌、あるいは挽歌。


「オレたちゃ無双のろくでなしィ、今更命を惜しみはしねえ!」

「オレたちゃ無双のろくでなし、今更命を惜しみはしねえっ!」


 輸送隊の人足に、司祭や魔術師たちまで一緒になって歌っている。

 恐怖と不安を乗り越え、己を鼓舞して戦うために。


「よーし、一班と二班は出陣! 他はこのベースキャンプを守れ!

 三班の班長、お前にここの指揮権を預ける。役目はきっちり果たせ!」

「任せてくれ、ストークさん!」


 ストークは三班の班長に遠話の石片を渡す。

 連絡用にいくつか用意していたものだ。

 ベースキャンプの状況が逐一確認できないと全滅すらありうるので

 定期的な連絡を義務付けている。

 ただし、救援要請には一切応じないという事は全員に伝えてある。

 魔物がうろつく荒野のど真ん中、逃げたくても逃げられない。

 死守か、全滅かの二択なのだ。


 行軍を開始する一班と二班。荷車が重い音を立てて動き出す。

 クアーリャの所に駆け寄って抱き上げ、一班の荷車にそっと寝かせた。

 メーヴェが癒しの奇跡を使おうとすると、

 クアーリャはゆっくりと首を振る。


「単なる魔力の使い過ぎだから平気。こんな事に奇跡使っちゃだめ」

「……分かりました」


 ぐったりしているクアーリャを心配そうに見つめるメーヴェ。

 魔力を限界近くまで消費した時は、

 風邪をひいているのに数日徹夜したような酷い体調になるらしい。

 魔術や奇跡を使えないシュエットには体験しようがないが

 辛い事だけは伝わる。


 ユウジは光の剣に魔力を使うので、時々その状態になっていた。

 祝福を受けた勇者でも光の剣は一日に三回の使用が限界。

 それを無限に使おうとしたのだから、あの代償も納得するしかなかった。


「メーヴェ、一緒に荷車に乗って見ていてやってくれ。

 俺はユウジやストークと話してくる」

「はい、お任せください」


 荷車から離れ、隊列の前の方を歩いていたユウジたちに合流する。

 第二ベースキャンプまでの道程では

 シュエットとユウジ、パッセルも戦闘に参加する。

 もちろん光の剣も、神魔を滅ぼす短剣も使わせないが。


「ストーク、指揮官の才能でもあるんじゃないか?」

「勘弁してくださいよ。オレ自身が気合を入れたかったんで言っただけで」


 軽く冗談でからかうと、照れ臭そうに頭をかくストーク。

 この武骨な男は、意外にも一軍の将が合っているのかもしれなかった。


「シュエット、クアーリャは?」

「荷車で休ませてる。メーヴェが付いているから心配は要らない」


 ほっと胸を撫で下ろすユウジ。大切に思う仲間なのだから当然だ。

 自分を兄のように慕ってくれる少女を酷使するしかない

 己の頭の悪さに嫌気が差す。

 自己嫌悪を振り払うため、全力で両の頬を張ろうと腕を上げる。

 次の瞬間、平手で尻を思いっきり叩かれた。

 予期せぬ突然の痛みに足がもつれ、危うく転びかける。

 シュエットの尻を叩いたパッセルは、表情を変えず怒っている。


「シュエットもちゃんと信じて。

 あたしもあの子も、できない事をできるとは言わない。

 やれと命令されたからやってるんじゃない」

「もう少し優しく諭して欲しかったな」

「神罰」


 少女の黒髪を彩るのは、白に金糸のリボン。

 大司教の代役を務めたパッセルを見て、

 叩かれていないユウジまで尻をさすって笑った。

 お陰で考えても仕方のない悩みは吹っ飛んだ。気合も十二分に入った。


「覚悟してもらうぞ、パッセル。限界まで酷使するからな」

「もっと力を入れて叩いておけばよかった」


 わずかに微笑みながら冗談を返してくるパッセルの頭を撫でた。

 使えるものは全て使い、ただ早く確実に歩を進めて行くだけ。

 そうすれば届く。届くと皆が信じているから挑んでいるのだから。



 ***



 日が地平線に半分ほど沈み、夜の闇が迫っている時間。

 シュエットが横薙ぎに振り切った長柄斧は

 二体の魔物をまとめて両断した。


「こっちは僕が何とかする! 荷車の左側に回ってくれ!」

「分かった!」


 ユウジの指示に従い、急ぎ荷車の左側へと走る。

 護衛の武芸者もよく凌いではいるが、物資を守りながらの戦いは難しい。

 しかも人数は精鋭を集めたとはいえ三分の一未満に減っている。

 数で勝るのは単純にして圧倒的な力なのだ。

 それをひっくり返そうとするなら、個々の武しかない。


 左側で戦っていたパッセルに合流し、豚人を袈裟斬りに叩き斬る。

 パッセルは魔物から奪ったであろう粗悪な骨槍を短く構えていた。


「全然あたしを狙ってこないから、やりにくい」

「物資を潰す事だけに集中しているからな」


 当たり前だが、パッセルは防衛戦の経験がほとんどない。

 自分以外の目標を狙ってくる相手との戦いは不得手だ。

 シュエットは民の救助や護衛をする事も多かったので心得はある。


 横を駆け抜けようとした蜥蜴人の肩を掴んで引き倒し

 長柄斧を脳天に叩き込む。

 パッセルは蜥蜴人の腕をひねり上げ、首に骨槍を突き刺した。

 それと同時に、戦場の騒音に混じる不快な声が聞こえた。

 しゃがれ声の歌に似た魔術の詠唱。

 蜥蜴人数体の壁の向こうに見えた、二対の蝙蝠の翼。

 四枚蝙蝠と呼ばれる、厄介な上級魔物だ。


「四枚蝙蝠だ! 奴を頼む!」

「任せて」


 荷車と四枚蝙蝠の射線上に駆ける。

 途中にいた蜥蜴人の槍を躱し、羽交い絞めにする。

 予想通りに四枚蝙蝠から放たれる魔術の火球。

 荷車を狙ってくるのも分かっていた。

 羽交い絞めにしていた蜥蜴人を前に蹴飛ばして盾にする。

 次の瞬間、蜥蜴人に火球が着弾した高熱と衝撃。

 シュエットの方に吹き飛んできた、焼け焦げた蜥蜴人に止めをさす。

 四枚蝙蝠はパッセルが投げた骨槍が胸に突き刺さり絶命していた。


 闇の転移魔術は邪神の祝福によって与えられるもので、

 ごく一部の最上級魔物しか使えない。

 それ以外で唯一魔術を使ってくるのが四枚蝙蝠だ。

 魔術自体は、洞穴の魔術師たちと比べるまでもない貧弱なもの。

 クアーリャの雷のように目標地点へと直接発生させる高等魔術は使えず、

 術者から放つ初歩的な魔術だけを使ってくる。


 魔物だというのに魔の術をまともに扱えない。違う、順序が逆だ。

 魔術と奇跡は数百年前に光の女神から伝えられたもので、

 魔物は邪神と共に数年前から突然現れた。

 そもそも"魔物"とは一体何なのか。


 そこまで考えて思考を打ち切り、襲い来る蜥蜴人を縦に両断した。

 今考える事ではない。

 今はとにかく第二ベースキャンプを作る事、それだけに専念しなければ。

 少し前で四体の蜥蜴人を相手にしているパッセルが見えた。

 大きく長柄斧を斜め上段に振り上げ、叫ぶ。


「パッセル、伏せろ!」


 素早く身を屈めた少女の頭上を、全力で振られた斧が薙ぐ。

 蜥蜴人の首が四つ、胴から離れて宙を舞う。

 パッセルは即座に地を蹴って、噴き出す血飛沫から逃れた。


 斬り飛ばした蜥蜴人が最後だったようで、安堵の声が聞こえてくる。

 最後の一体が死ぬまで攻撃を止めない死兵。

 肉体が死んでもまた再召喚されるだけの奴らを死兵とは呼びたくないが。


「もう少し進んだ所で野営するぞ! 足を止めるな!」


 シュエットの号令に従い、輸送隊は疲れた足を引きずるように歩き出す。

 第一ベースキャンプを出発してからの道中で、魔物と二回戦った。

 ユウジやシュエットの戦いを実際に見たからか、

 皆が号令に従ってくれるようになった。

 一の事実は百の言葉より雄弁に語る。


「シュエット、汚れてない?」


 シュエットの前を歩きながら、わずかに首を振って聞いてくるパッセル。

 体は所々返り血で汚れているが、少女が聞きたかったであろうリボンは

 乱戦の真っ只中で主人の髪を彩りながらも純白を保っていた。


「白いままだ、どこも汚れてないぞ」

「汚したくないから外して預かって。もう気にしてる余裕ないから。

 手に血が付いちゃってるから、触ると汚しちゃうの」


 小手で髪を挟まないように、そっとリボンを解いてやる。

 するとパッセルは、薄汚れた布の切れ端で乱雑に髪を縛った。

 殺戮者に戻るという決意の証。

 前を歩く少女の横に並ぶと、

 顔も向けないまま無意識にシュエットの服で手を拭う。

 かつての殺戮者に戻っても化物と魔剣は一心同体のまま。それでいい。

 魔物の死体が転がる荒野を並んで歩くと

 パッセルと出会った時の事が思い出された。




 日が完全に沈んでからもしばらく歩き続け、

 戦闘の跡から十分離れた所で野営する。

 護衛の武芸者は今日に限っては徹夜の見張り。

 昼の戦いで司祭と魔術師が魔力を削られ過ぎたので、

 全員で守るしかなくなった。


「夜は私が起きています。ユウジさんとシュエットさんは交代で休んでください」


 メーヴェの言葉に頷き、荷車の近くに敷かれた毛布に寝転ぶ。

 夜中に起こされる方が負担が大きいので、先に眠らせてもらう事にした。

 隣で眠っているクアーリャが明日には魔術を使えるようになる。

 視界が制限される夜間はメーヴェの守護で耐え凌ぎ、

 昼間はクアーリャの魔術で大半を蹴散らす。

 パッセルには単独での索敵と遊撃を担当してもらう。

 ベースキャンプと防衛設備が設営できれば多少楽になるが、

 丸裸の陣を守るとなると数の減った護衛隊だけでは厳しい。

 ユウジたちにも可能な限り働いてもらうしかないのだ。


「それじゃ、あたしは行ってくるね」

「あまり陣から離れるなよ。目印になるようなものが何もないからな」

「うん、分かってる」


 パッセルは荷車の袋から干し肉二切れと小さな水袋を取り出し

 北西の方向へと駆け出していった。


「あの子は凄いな。不死だという事よりも精神力が。

 シュエットが切り札と呼ぶのも納得だよ」


 ユウジの言葉に対して、小さく頷くだけにしておいた。

 パッセルが真に切り札たり得るのは、神魔を滅ぼす短剣を扱えるからだ。


 短剣の事をユウジに話していない理由は三つある。

 一つは優しさで短剣の使用を止めるから。

 一つは勇者の存在意義を否定する事になるからだ。

 光の剣でなくても邪神を討てるなら、自分はやらなくてもいい。

 自分は必要ない。そんな事を考えてしまったら士気など保てない。

 光の剣はどれだけ歪んでいて所有者を苦しめても、

 ユウジにとっての寄る辺なのだ。

 最後の三つ目は考え過ぎであって欲しいと願っている。

 見知らぬ異世界に引きずり込まれ身を削ってきた友のために。


「眠いと思ったら早めに起こしてくれて構わないからな。

 俺は魔力を使う訳じゃないから、一日くらい徹夜してもいいんだ」

「決めた時間まで寝ててもらうよ。後でクアーリャに怒られたくないから」


 微笑みながらユウジが指差した先では

 クアーリャが寝ながらシュエットの服を握っていた。

 苦笑しつつ目を閉じる。思考を追いやる。眠りはすぐにやって来た。




「シュエット、起きてくれ。交代だ」


 ユウジの声で目を覚ました。当然だが辺りは暗いまま。


「魔物の襲撃は?」

「一回。メーヴェの守護があったから、人も物資も傷ついてない」


 ユウジと話しながら

 まだ服を掴んでいたクアーリャの手を起こさないようそっと離す。

 できるだけ音は出さないように立ったが、

 いまさら多少の音で起きる訳がなかった。

 シュエットが寝ていた場所に、ユウジが寝転ぶ。すぐに寝息が聞こえてきた。


 二人から離れ、荷車に座って保存食を食べているメーヴェの隣に座る。

 顔は疲労の色が濃い。保存食も無理をして口に運んでいる感じだ。

 心配しているのが顔に出ていたか、メーヴェは微笑んで言う。


「大丈夫ですよ、夜明けまでは保たせます。

 この大陸の人々のため、何よりユウジさんのためですから」


 その微笑みはどこか寂しげだ。この旅路がユウジと共に過ごす最後だからか。

 それでも聖女は気丈に微笑む。


「起きていても体を休める事はできる。

 初撃を凌ぐくらいはやってみせるから、気を楽にな」

「ユウジさんと同じ事を言うんですね」


 余程可笑しかったのか、くすくすと笑いだすメーヴェ。

 疲労と徹夜で変に高揚してしまっているのかもしれない。


「さて、俺は陣を見て回ってくる。夜が明けるまでの辛抱だ、頼んだぞ」

「こんなに朝日が待ち遠しかったのは、お外に立たされた時以来ですね」


 ついには自分の言った事に対して笑い出してしまうメーヴェ。

 状態は正直に言って良くない。しかしこの夜は彼女に頼るしかない。


 メーヴェと離れ、陣を歩いて回る。

 司祭と魔術師、人足たちは眠っており、護衛の武芸者も半数が休んでいる。

 起きている武芸者たちは疲労の色が濃い。

 今日で四日めの行軍、気を休める暇さえない魔物の襲撃。

 肉体も精神も疲弊していく一方だ。


「商会長、ちょっといいかな?」


 起きて見張りをしている壮年の武芸者に声を掛けられた。

 手招きをする男の側に座ると、彼は炙った干し肉を差し出してくる。

 布を被せて光を漏れにくくしたランタンの灯で炙ったらしい。

 香ばしい肉を食べていると、彼は突然頭を下げた。

 何を謝るのかと困惑するシュエットに、男は静かに話し始める。


「勇者たちが一向に邪神を倒せない事に憤っていた自分が情けなくてね。

 何も知らずに自分でもできると言うのと、実際にやるのは大違いだったよ。

 貴方たちはたった四人でこんな場所に挑んでいたんだな」


 不安に駆られ不満をぶちまけるだけの民衆。八つ当たりをする王や貴族。

 何度思った事だろう。現状で実行可能な、具体的な改善案があるなら出せと。

 絵空事でも机上の空論でもない提案があれば

 それを使ってより良い道にできたのだ。

 共に戦った事で、彼のように分かってくれた者がいるのは素直に嬉しかった。


 シュエットのやってきた事は、最善には程遠い行為だったろう。

 しかし自分にはこれしかなかった。これ以上はできなかったのだ。

 自分に作れる最高の道を作ってきた。

 現状でこれ以上の物は作れないから、最高だと信じて作り続けるしかなかった。


「あんたはどうして武芸者をやってるんだ?」

「剣技の極みに辿り着きたいから、かな」


 シュエットの問いに対し、男は腰の長剣を軽く触って答える。


「勇者殿の剣技を見たよ。私とは比較にすらならない高みにある剣。

 私の三十年は何だったのだろうかとさえ思ったほどだ」


 言葉とは裏腹に、男は心の底から楽しそうな笑顔を見せた。


「しかし商会長とストークさんが教えてくれていた。

 人はその枠に届くかもしれないのだと。

 だから私は今ここにいる。貴方たちが見てきたものを見るために」


 男はシュエットの肩に手を置く。

 父親を思い出させるようでいて、自分の後を追ってくる子供のようにも感じた。


「ためらわず進んでくれ、商会長。

 武に生きる私たちがここに来たのは、きっと貴方の背を追うためなんだ。

 今更死など恐れはしない。いつ死のうと悔いのない様に生きてきたつもりだよ」


 そう言った後、男は周囲にいる武芸者を見渡す。

 精鋭を選んだので彼のような武に生きる者の比率は多いが、

 当然ながら金のために戦う者も多い。


「無論死ぬつもりはないが、死ぬのなら私のような年寄りから死ぬべきだ。

 金のために命を懸ける若者を死なせるより余程いい。

 手段を目的として齢を重ねてきた私より、

 金で為したい事がある彼らが生き残るべきだ」

「道半ばで果てる事が怖くないのか?」

「勿論怖い。その時になれば未練も当然あるだろう。

 それでも自分で選んできた道だから後悔はしない。貴方もそうあってくれ」


 寝ている者たちがいるので声は極力出さなかったが、笑ってしまった。

 あって欲しいという提案でなく、あってくれという命令にも似た願いに。

 返事をしようと口を開きかけたシュエットを制し、男は微笑んで手を振った。


「年寄りに付き合わせてすまなかったね。

 こちらの方面は何とかなるから、仲間の所に居てあげてくれ」

「任せたよ」


 男の側から離れ、ユウジたちが寝ている所に戻る。

 小さい陣なので大体は見て回った。全員に疲労はあるが、問題はない。


 彼はこの荒野を死に場所だと考えている気がした。

 死の間近で生きてきた者だから感じるのだ。死の気配というものを。

 生に疲れたからではない、死を願うからでもない。

 自分はここで死ぬのだという確信めいた予感。

 だから彼は、シュエットの背を押してくれたのだろう。

 屍を踏み越えて進む事を恐れるな、生き抜いて選んだ道をただ進めと。




 幸運な事に魔物の襲撃はなく、無事に朝を迎えた。

 夜通し起きていたメーヴェが荷車で眠り、

 魔力が回復したクアーリャが魔物に先制攻撃を放つ。

 クアーリャの魔術をもってすれば先制攻撃で魔物どもの群れは八割が消し飛ぶ。

 そこまで削ってしまえば司祭の加護を受けずとも余裕で片付けられる。

 行軍中に二度の襲撃を受けたが、死傷者を出す事はなく物資も無傷だった。


 そして夜はメーヴェの加護と、温存されていた司祭と魔術師たちの援護がある。

 最初の夜の戦闘が嘘のような堅実さで、昼夜合わせて三度の襲撃を乗り切った。




 砦を出発してから六日目の夕方。

 小さな山と浅い洞窟があった場所に第二ベースキャンプを設置する。

 人数も物資も少ない分、防衛陣地は小さめ。全力で洞窟を守る陣を組んでいる。


「最高級の宿を用意しましたぜ」

「予想以上に豪勢な部屋だ」


 ストークの冗談に笑いながら答える。

 入口は少々狭いが、中は十人が横になれる程度に広い。

 動物が住んでいた形跡はなく、

 不快な虫もクアーリャが魔術で洞窟内を炙ったのでいない。

 洞窟の中に毛布や食料などを入れていく。

 最低限の倉庫としても使える優良な場所だ。


「俺たちは五人ともここで休んで、明日の朝に出発する。

 後は任せたぞ、ストーク」

「必ず維持してみせますよ、邪神の野郎がくたばるまで」


 お互いに右手を掲げ、そのまま叩きつけるように握手をする。


「"赤き火を宿せし水よ、我が手より流れ溢れよ"!」


 近くではクアーリャが魔術で湯を出している。

 今晩は完全に休むので、残った魔力を無駄にしないように使っているらしい。

 水は持ち運びが難しいため貴重で、飲水以外には使えない。

 魔術で作られた水は飲めはするが、強烈な吐き気に襲われ腹も下る。

 毒や病を無効化できるシュエットたちなら飲水として使えるが、

 他の者が飲む意味は全くない。

 ならば湯浴みに使ってしまえばいいという発想だろう。

 少女が掌から湯を出している姿は何とも珍妙な絵面だが

 単純そうに見えて相当の高位魔術である。


 大きな桶の湯を使って、皆が体を拭く。

 清潔にするのが気持ちいいからではなく、

 不快さと血の臭いを消すためという切実な理由だ。

 完全に裸になる者はいない。

 いつ魔物が襲って来ても対応できるようにはしている。


「パッセル、おいでー」

「あ、しゅ……べべぼぼ」


 クアーリャに呼ばれたパッセルは頭を出し、湯を直に被る。

 その直前にシュエットに気付いて声を掛けたようだが

 湯の中で変な声を出してしまう。

 大声で笑いそうになったが、声を何とか喉で押し留める。


 直接湯を被れるという特別扱いだが、不満を漏らす者はいない。

 少女が夜闇の中で斥候をし、休みなく魔物と戦い続け、

 体中を血で汚しているのを皆が知っているからだ。


 濡れた長い髪を絞りながら、シュエットの元に歩いてくるパッセル。

 服に頭を擦りつけられるのを覚悟していたが、濡れた手を拭うだけだった。


「旦那たちは洞窟の中へ。雑にですが入口は荷車で塞いでおきます。

 明日からはいよいよ神殿の探索だ、体だけじゃなく心も休めませんと」

「ありがとう、ストークさん。しっかり休ませてもらうよ」

「勇者殿に礼を言われるなんて、一生の自慢にできますぜ」


 ユウジに礼を言われ、ストークは照れたように頭をかいた。




 洞窟の中に敷かれた毛布の上で、小さな火を囲みながら暖かいスープを飲む。

 貴重な薪を使ってでも英気を養うべきと判断して、一部を使う事にしていた。


「わたしたちだけだったら、おふろ入ってたのにな」

「おふろ?」

「小さな温泉を自分たち用に作るんだ。

 たくさんの湯を用意しなきゃいけないから面倒なんだけどね」


 聞き慣れない謎の単語に首を傾げるパッセルに、ユウジが説明してくれる。

 湯をごく小さな湖のように張り、そこに入る。

 本物の温泉にはかなわないだろうが、中々気持ちのいいものだ。


「でも、ここは岩場で平らだけど」

「岩場の方がやり易いよ。わたしが岩場に穴を作って、お湯を入れるだけだもん」


 クアーリャは事もなげに言っているが、どちらも高度な魔術だ。

 一般に普及させるのは難しいだろう。

 商売でするにしても、高位の魔術師がやる事ではない。


 談笑をしながらの温かい食事。次に同じ事ができるのは邪神を討った後だ。

 毛布に寝転ぶと、両隣にクアーリャとパッセルがしがみ付いてきた。


「洞窟内なら多少離れても大丈夫だ、何でくっつく」

「両手に花ですねぇ」


 その様子を見てくすくすと笑いながら、

 メーヴェもユウジに寄り添って横になっている。

 クアーリャはやはり不安なのだろうし、

 パッセルはずっと離れて戦っていたので寂しかったのだろう。

 小柄な娘たちを抱きかかえてやると、すぐに寝息が聞こえてきた。

 荒野に出てからずっと、喧騒と死の気配を感じながら休んでいた。

 仮初とはいえ静かで安全な場所で眠れるのは本当に有難い。


 少し離れた場所で寝ているユウジとメーヴェの様子に

 聞き耳を立てていたが、特に何もなく二人とも眠ったようだ。

 二人は恋仲ではあるが男女の関係を持った事は一度もない。

 メーヴェは司祭という立場など気にしないし

 ユウジが求めれば受け入れるはず。

 ユウジが関係だけは拒んでいる理由は、彼が異世界に帰るからだ。

 生涯を共にする気もないのに抱けはしない。

 生真面目で優しいユウジらしいと思う。


 それでは、自分はどうすればいいのだろうか。

 旅路が終わればクアーリャは魔導の洞穴に帰るだろう。しかしパッセルは?

 故郷は滅び天涯孤独の身で、あるのは殺しの技だけ。

 その上何があろうと死ねない。

 どうすればパッセルが幸せになれるのだろうか。

 良くない頭で考えても分からない。

 そんな事を考えているうちに、自然と眠りに落ちていた。




「旦那方、朝ですぜ」


 ストークに体を揺すられ、目を覚ます。

 久しぶりにぐっすりと寝たような気がする。

 隣でまだ寝ているのはクアーリャだけで

 パッセルは既に起きて干し肉を火で炙っている。


「みんなの分、焼いておいたよ」

「ああ、助かる」


 串に刺された二切れの干し肉を受け取り食べる。

 しっかりと味わう。次に火を通した物を食べるのは全てが終わった後。

 起きて干し肉を食べる全員が、そう決心している。


「ストーク、ベースキャンプでの死傷者は出ていないか?」

「死人は出ていやせんが、第一ベースキャンプで重傷者が二名。

 護衛を抜かれて人足をやられたと。

 第二ベースキャンプは一度だけ魔物に襲撃されましたが全員無事。

 まあ、これから本格的に被害が出てくるでしょうな。

 疲れはたまるし、物資は減る一方」


 ストークの言う通り、死人が出るのはこれからだ。

 第一は数が多いが個々の戦力は控えめ。

 第二は戦力は高いが人数が少なく、物資の補給も厳しい。

 時間は掛けたくない。一度で神殿に辿り着くのが理想だが。


「数回は戻ってくる事になると思う。覚悟はしておいてくれ」

「シュエット!?」


 ユウジが驚いて咎めるような声を出すが、視線を合わせる事もしなかった。

 一度で神殿を見つけられるという甘い考えはとっくに捨てている。


「三角測量を使うなら最低二回戻らなくてはいけない。

 こっちの方が強くても、数日荒野を彷徨った後でまともに戦えるはずがない」

「それは、そうかもしれないけど……」

「俺たちは絶対に勝たなきゃいけないんだ。確実な方法を取る」


 基線の両端にある既知の点から測定したい点への角度をそれぞれ測定して、

 目標点の位置を決定する三角測量。

 似たような測量方法は存在していたが

 正式な名前がなかったのでユウジが名付けた。

 道中で魔物と遭遇して転移魔術を使わせれば、

 魔力残滓を調べる事で大まかな方角と距離が分かる。

 第二ベースキャンプは砦とは比べ物にならないほど神殿に近い。

 より正確な場所を推測できる。


「勇者殿、オレたちも覚悟はできてる。

 気に病む必要はねえが責任は感じてくれ。

 あんたの光の剣に、オレたちは全員で希望を託したんだ」


 ストークの静かな言葉を聞き、ユウジは辛そうな顔で剣に触れる。

 そして、一度だけ大きく息を吐いた。


「分かった。シュエットの言う通り、三角測量で確実に行こう。

 ストークさん、キャンプをお願いします」

「任された」


 しっかりと握手を交わすユウジとストーク。

 ユウジの顔は、緊張感を伴いながらもしっかりとした決意に満ちたものだった。




 準備を整えて洞窟の外に出ると

 見張りと休息している者以外の全員が集まっていた。

 彼らは口々に声を掛けてくる。

 激励、応援、皮肉、叱咤、冗談。様々な声には一つだけ共通点がある。

 ここは自分たちが死守する、必ずや邪神を討ち倒してくれ、という決意と願い。


 ユウジが彼らの前に立ち、剣を抜いて空に掲げる。

 出発の時と同じだが、剣に光は宿っていない。無駄にする魔力などないからだ。


「何度か戻ってくる事になるかもしれない。だけど、最後には必ず僕たちが勝つ!

 必ず邪神を討ち果たし、この地に平和を!」


 武芸者と司祭たちは得物を空に掲げ、人足と魔術師たちは手を掲げた。

 雄叫びは上げない。敵地のど真ん中である事を皆が知っている。


「行ってくる!」


 ユウジはシュエットたちの方を見て頷く。出発の時だ。


「旦那、オレに連絡できる石片です。こちらからは連絡しませんので」

「魔物から隠れている時に声でも聞こえてきたら笑い話じゃ済まないしな」


 ストークと笑い合う。

 ここからは五人という少人数なので

 隠れる場所があればやり過ごす事も考えている。

 方位磁石を持ったメーヴェが指し示す北西へ歩みを進める。

 後ろを振り返ると、見えなくなるまで皆は得物と手を空に掲げたままだった。



 ***



 第二ベースキャンプを出発してから一日。

 道中の遭遇は一回。

 転移魔術が使える魔物はおらず、上級も二体で呆気なく終わった。

 クアーリャにはなるべく派手に魔術を使ってもらった。

 わざと発見されるようにだ。


「影も形も見えてこないね」


 目を細めて遠くを見ようとしているクアーリャ。

 方向が間違っているのか、距離が足りていないのか。その両方か。

 分からないが、今は進むしかない。


「夜になるまで歩いて発見できなければ一度引き返すぞ。

 この荒野を四日歩くのは限界ぎりぎりだ」


 シュエットの言った事に対して返事はない。異論がないという事は了承だ。

 喋るのにも体力は使うので、全員が必要最低限の会話だけで歩いている。

 水袋を取り出して飲む。水に困る事だけはないのが幸いか。




 ただ歩き続ける。

 太陽は最も高くなる折り返し地点を過ぎ、ゆっくりと沈んでいく。

 影が多少伸びてきた頃、

 少し前を歩いて斥候をしていたパッセルが戻ってきて、袖を引っ張る。


「魔物がいる。こっちに気付いてないけど、周りに隠れられそうな所がない」


 パッセルが指差した方向、わずかに見える魔物の集団。

 周囲は完全な平地で視界を遮る物が何もない。

 引き返すにしても見つからない保証はなく

 こちらから奇襲を仕掛けて倒した方がいいだろう。


「後ね、変なのが一体いた。体中から尻尾生えてる狐人」

「四天王じゃないですか!?」


 驚いて声を上げてしまったメーヴェが、慌てて手で口を塞ぐ。

 体中に七本の尻尾を生やした異形の狐人。

 素手で戦う格闘家で、人間の頭蓋を蹴り砕く事を何よりも好む残虐な魔物だ。

 更に、女子供を狙って殺す事に快感を覚える性質まで持つ。

 しかし今の自分は、それ以上に残忍で獰猛な笑みを浮かべているのだと思う。

 最高に近い位置で測定ができる。運を味方につけた。

 長柄斧を構えると、シュエットに続けてユウジも剣を抜く。


「パッセル、分かってるな?」

「腕一本と口だけは動かせるようにしておく」

「奴は格闘術の達人級で、体中の尻尾も自在に動かす。

 補助の腕が全身に七本あるのと同じだ。

 奴は間違いなくパッセルを真っ先に狙ってくる。接近し過ぎには気を付けろ」

「うん、気を付けておく」


 頷きながらも短剣は抜かないパッセル。

 格闘術で戦う訳ではなく、魔物から武器を奪って使うからだ。

 村で戦い続けた時はそうやって魔物を殺し続けていたという。


「クアーリャ、準備はできた。先制攻撃を」

「任せて! "黒き雲より舞い降りよ雷、彼方に在りし敵を焼き焦がせ"!」


 クアーリャの魔術で現れた天雷が魔物どもの頭上から降り注ぐ。

 当たり前だが魔物もこちらに気が付いたらしく、生き残りが向かってくる。

 メーヴェとクアーリャを後ろに下げ、前に出て待ち構える。

 真っ先に突っ込んできたのは予想通り狐人。

 走りながら、怒りの表情が歪んだ笑顔に変わる。

 奴が見ているのはパッセルで、そこに向かって突進してくる。


「キィィィヤァァァッ!」


 奇声と共に襲い来る上段蹴りを屈んで躱すパッセル。

 即座に組み付こうとしたが、

 腰の辺りから生えている尻尾に叩かれて失敗した。


「一つずつ思い通りに動かせるの? 邪魔な尻尾」


 パッセルはそう吐き捨てながら

 矢継ぎ早に繰り出される拳と蹴りを躱していく。

 加勢したいがそうもいかない。後続が追い付いてきた。

 流石にユウジ一人では突破されてしまう。

 守護の奇跡で無防備でないとはいえ、後衛に近づける訳にはいかない。

 ある程度はパッセルの方に魔物を誘導する必要もある。

 どうしたものかと思案しながら、向かってきた犬人を逆袈裟斬りに両断した。




 十回ほど魔物を斬り飛ばした辺りで、近場に魔物がいなくなった。

 ユウジはシュエットの倍近い魔物と戦っていたので、まだ少数が残っている。

 狐人と戦っているパッセルは、攻めあぐねているようだ。


 近場にいた蜥蜴人を掴み、素早く盾代わりにしつつ持っている槍を奪う。

 哀れな蜥蜴人は、狐人の上段回し蹴りを頭に叩き込まれて絶命した。

 パッセルはその隙に槍を突き出すが、尻尾に槍を弾かれる。

 お互いに決定打を与えられない状態。減っていくのは周囲の魔物だけだ。


 長柄斧を短めに持ち、加勢に向かう。

 ユウジも加わっての三対一になれば即座に逃げるだろうが、

 その前にできる限り傷を与える。

 重傷であればあるほど回復に時間が掛かる。

 キャンプや町村を狙われるのは避けたい。

 この狐人は知能は低いが戦闘能力に特化していて

 シュエットでも一対一では負けかねない相手だ。

 そんな奴が勇者のいない場所を襲ったら、間違いなく被害が拡大する。

 可能な限り神殿で休んでいるか、神殿の周りをうろつく守衛でいて欲しい。


 最後に残った犬人を、狐人に突き飛ばすパッセル。

 狐人は容赦なく犬人の頭蓋を殴り砕いて退かせた。

 もう盾になる魔物はいない。パッセルの手には武器もない。

 狐人が嬉々として踏み込もうとした瞬間、背後から斬りつけた。

 刃の横腹を尻尾に弾かれる。

 その勢いを利用して後ろに下がると、中段の後ろ回し蹴りが服をかすめた。

 一瞬見えた狐の顔は、楽しみを邪魔された怒りに満ちていた。

 二対一の挟み撃ちを嫌ったか、狐人は横っ飛びで間合いを取る。

 その跳躍だけでも身体能力の凄まじさが伝わってくる。


「こいつ、面倒臭い……」

「次の仕掛けで隙を晒させる。一気にやるぞ」

「わかった」


 長柄斧の石突で地面を一度叩き、頭上で一度振り回し上段に構える。

 シュエットを真似たのか、パッセルは何度も小さく拳を突き出している。

 攻撃を誘う挑発と取ったようで、狐人は自分から仕掛けようとはしない。

 知能は低くても戦闘に関する勘の冴えは抜群にいい。

 今回はそれを利用させてもらったが。


「"彼の者の背にて爆ぜよ炎、熱風よ吹き荒れろ"!」


 シュエットの合図を見たクアーリャの詠唱。狐人の背後で炎が爆発する。

 突然の爆炎に反応さえできず、背を焼かれながら大きく姿勢を崩す狐人。

 その隙を逃すほどシュエットたちは甘くない。

 パッセルが右足に向けて低い蹴りを放ち、脛の骨を蹴り砕いた。

 シュエットも気合を込めて突進し、斧を振り下ろす。

 狐人の左腕と左足、尻尾を一つまとめて断ち斬った。


「ギィィアァァァッ!」


 絶叫と共に転移の闇に包まれ、一瞬で消える狐人。

 武芸だけで戦うとは誰も言っていない。

 不快な障害物を除去するのに手段を選ぶ意味もない。

 ちょうどユウジも全ての魔物を倒し終えたようだ。

 クアーリャが狐人がいた場所に急いで走ってきて、小さな声で詠唱を始めた。


「どうしたの、クアーリャ?」

「魔力の残滓を調べてる。しばらく掛かるから休憩だ」


 パッセルに説明をしてから、近場にある魔物の死体に腰を下ろす。

 狐人が殺した魔物は血も出ていないし、尻が汚れずに済む。

 パッセルもシュエットの隣に座り、水袋から水を飲んでいる。

 ユウジとメーヴェも同じ魔物に隣同士で座っている。

 ユウジは最初の頃は拒んでいたが、

 メーヴェは最初から平然と座っていた事を思い出す。

 こうしていると屋外でくつろいでいるような気さえしてくる。

 魔物どもの死体と、むせ返るような血の臭いがなければだが。




 影は随分と伸び、時間の経過を伝えてくる。

 まだ夕方ではないが、そろそろ空が赤らんでくる頃だ。

 クアーリャの詠唱が終わる。彼女は水を飲んだ後で方向を指し示した。


「結構近い。大体一日くらいだと思う」

「方角は北西ではありませんね、西でしょうか」


 方位磁石とクアーリャの示した方向を照らし合わせるメーヴェ。

 方角は予想よりもずれていた。

 このまま進むかどうか、非常に悩ましい位置と距離だ。

 神殿を発見できればそのまま攻略できる余力はある。

 時間を考えればこちらを選びたい。

 しかし発見に手間取った場合、第二ベースキャンプの方角が分からなくなり

 転移魔術を使い砦まで戻る必要がある。

 また六日をかけて第二ベースキャンプに到達しなければならない。

 今戻れば二日で済む。博打に出るか堅実さを取るか。

 今は運を味方につけている、賭け時かもしれない。


「……第二キャンプに戻る」


 恐らくシュエットと同じ事を考えていたであろう、

 ユウジが静かにはっきりと言った。


「いいのか?」

「確実性を取る。僕たちには万に一つの失敗も許されないんだから」


 ユウジは右の手首を左手で抑えるように握っている。

 本音はこのまま進みたいのだろう。

 その思いを押し込めてでも確実性を取ると決めた。流石だと感心する。

 シュエットなら賭けに出てしまっていただろう。

 流れが来ていると言って、何の根拠もなく。

 

「よし、なるべく急いでベースキャンプまで戻るぞ」

「ある程度戻ったら身を隠せる場所があるから、そこで夜を明かそう」


 パッセルが早足で前を歩き先導してくれる。

 これは確実に迫るための一時的後退だ。

 分かってはいるが、やはり後ろ髪を引かれる思いだった。



 ***



 引き返してから二日目。昼頃に第二ベースキャンプへと到着した。

 落胆の声が上がる。

 事前に戻ってくると言われていても、期待してしまうのは仕方ない。

 クアーリャが湯を作り、メーヴェはわずかな傷を負っている者たちを癒す。

 司祭たちの癒しが追い付いていない。危険な兆候だ。


 陣を軽く見て回っていると、地面に抜き身の長剣が突き刺さっていた。

 掘り返されて少しだけ盛られた土に刺さった剣。

 誰かの墓だと理解するのに時間はかからなかった。

 火葬に必要な薪がないので、土葬で弔われたようだ。

 剣の形状に見覚えがある。数日前の夜に話した武芸者の物だ。

 墓に祈りを捧げていると、背後から声を掛けられる。


「旦那、お知り合いだったんですかい?」

「数日前に話しただけだが……共に神殿へ挑む仲間だ」


 声を掛けてきたストークの方を振り向くと、若い武芸者が隣にいた。

 両の腰に長剣を差している若い青年。うつむいて悔しそうな顔をしている。

 青年の肩に手を置き、ストークは話を続ける。


「そいつは四本腕の猿人と一騎討ちで戦い、

 奴の腕と足一本ずつと相討ちになった。

 もし一対一で相手してなかったら、

 魔物に陣を突破されて死人は一人じゃすまなかったでしょうな」


 その猿人とは一撃を受けるまでという条件で

 シュエットも一騎討ちをした事がある。

 結局は一撃すら加える事ができずに傷を受けて終わった戦いだった。

 猿人は戦闘能力では狼人や狐人には一歩譲るが、

 それでも上級十体分以上に匹敵する強さ。

 墓の下で眠る剣士は、命と引き換えに常の枠へ手を掛けて外に出たのだ。


「商会長。この魔道具、おれたちが貰えるんですよね?」

「彼が君に預けたんだろう。持っていってくれ」


 青年が腰の剣を触りながら聞いてくるので、頷いて返す。

 魔導の洞穴で作らせていた魔道具の武器であり、

 切れ味などに変化はないが限界まで頑丈さと耐久力を高めてある。

 本来は全員に渡す予定だったが

 数の不足で第二ベースキャンプの武芸者たちだけに支給されていた。

 青年はその剣を二本持っているが、誰の物かは分かりきっている。


「おっさんが一騎討ちで戦わなかったら、多分おれは猿人に殺されてた。

 ただ高額の金に釣られただけの奴を庇って死んじまったんだ」


 青年は悔しそうに視線を落とす。

 武芸者としての自信が砕かれただけでなく、

 俗な目的の自分が生き残ってしまったと感じているのだろう。

 そんな青年に、壮年剣士との話を思い出しながら問いかける。


「君は金を稼いで何をしたいんだ?」

「特に考えてはなかった。贅沢してあっという間に使い潰すだけの金。

 そんな奴のために……」

「彼はそうあるべきだと言っていた。

 金で為したい事がある者が生き残るべきだと。

 それが一時の贅沢であっても、きっと同じ事を言っただろう」

「じゃあ、おっさんの一生は何だったんだよ……」


 強く拳を握る青年。ストークは何も言わないが、青年をじっと見ている。

 武芸に人生を捧げた者ではないシュエットが言っていいのか分からないが、

 青年の問いには答えなければならないと思った。


「猿人の強さを間近で見たはずだ。奴との一対一は上級魔物との一対十と同等。

 彼はそれをやってのけ、剣の高みに達した。

 無駄とは言わせない。絶対に無駄になどさせない。

 彼がたった一人で猿人を撃退してくれたから、俺たちは再度神殿に挑める」


 青年が顔を上げる。そこに悔しさはなく、決意のようなものを感じた。


「泣き言を言っちまって、すみませんでした。

 商会長。おれは何があろうと生き残って、この陣を守り抜いてみせます」


 青年は一礼して走り去っていった。

 一部始終を見ていたストークが、複雑な感情を混ぜこんだため息を吐く。


「あれはオレたちの方に来ちまうなぁ」


 武芸者として、武を高め極める道を歩む。あの剣士のように。

 青年がその道を後悔なきように進む事を祈るしかできなかった。



 ***



 第二ベースキャンプで一夜を明かし、再度の出発。

 今度は西に進む。三角測量を行うためのもう一点を得るために。

 一夜じっくり休んでいるとはいえ、どうしても疲労は蓄積していく。

 身体は常時万全なはずのパッセルですら、精神的に疲弊しているのか足が重い。

 こうしている間にも被害は増え、人が死んでいく。

 全員が焦る心を必死に抑えている。焦りは失敗をもたらすと知っているからだ。

 一定の速度で、荒野をただ歩き続けた。




 西に進んでから半日ほどが経過し、日は沈みかけ夕暮れ時。

 魔物の襲撃を一度は退けつつ派手に暴れて

 シュエットたちの位置を知らせておいたが、どこまで役に立つか。

 前を歩くパッセルが手を横に出して、進むなと伝えてくる。


「魔物の群れが近くにいる。

 あたしたちには気づいてないから、ベースキャンプに向かってるんだと思う。

 後、変わったのがいる。四本腕の猿人」


 パッセルの報告を聞いて、複数の感情で強く拳を握った。

 幸運の流れが来ている。最高の位置で四天王と遭遇したという高揚感。

 それと同時に、一人の剣士が命と引き換えに与えた傷を、

 何事もなかったように治して戻ってきたという怒りだ。


「仕掛けよう。クアーリャ、先制攻撃は頼むよ」

「任せてよ。今回は魔力も余裕があるしベースキャンプも近いし、全力でやるね」


 ぐるぐると腕を回し、気合が入っているクアーリャ。

 恐らくシュエットの出番はない。余計な事に構っているような暇はない。

 悔しさで握られた右拳が、小さな両手でそっと包まれる。


「シュエットが猿人を痛めつける。いいよね?」


 予想外なパッセルの発言に、シュエットを含め全員で驚いてしまう。


「パッセルちゃん、何かいい作戦があるんですか?」

「シュエットがお墓の前でしてた話を聞いてたの。

 勇者さんたちじゃだめ、あたしもだめ。

 ただの人間が修めた武芸だけで勝たないとだめなの。

 できるのはシュエットだけ」


 心の中を透かして見たかのような少女の言葉に面食らってしまう。

 ユウジなら余裕で勝つ。

 クアーリャの援護があれば狐人のような強敵でも勝てる。

 人の武芸だけで勝ちたい。

 女神の祝福も魔術も奇跡も呪いも、全てなくても魔物に勝てるのだと示したい。

 しかし、これは完全に個人的な事情だ。だから押し殺したのだが。


「パッセル、それは俺の下らない感傷だ。今はそんな事を……」

「感傷じゃなくて矜持でしょ。いいじゃない、やる事は変わらないんだから」


 どこか気楽に返してくるクアーリャに、背中の長柄斧を軽く叩かれる。


「守護の奇跡は使いますよ。

 致命打を一撃でも受けたと判断したら負けとします。いいですね?」


 挑む事を否定していない。メーヴェもそれでいいと言っている。

 本音を言えば守護もなしで戦いたいが、優先すべきは神殿への到達。

 妥協点としてはこちら側に譲歩をしてくれている。それだけでありがたい。


 ユウジを見ると、微笑みながら頷いてくれた。


「あいつに見せてやってくれ、人間の力を」


 斧を手に取る。機会を与えてくれた仲間たちに感謝する。

 必ず勝ってみせる。矜持を示してみせる。

 武芸者でないシュエットが彼らを代表するのはおかしいのだが、それでも。




「"黒き雲より舞い降りよ雷、彼方に在りし敵を焼き焦がせ"!」


 クアーリャの魔術による先制攻撃。魔物は七割が消し炭となった。

 わざと浅く当たるように放ったのだろう。

 魔力に余裕がある状態、全力で雷を放てば一撃で全滅させられる。


 向かってくる魔物に向かって、ユウジが斬り込んでいく。

 少し遅れるようにシュエットも続く。狙うはただ一体。

 突っ込んでくる猿人。ユウジは猿人に目もくれず魔物の群れに向かう。


「お前の相手は俺だ!」


 長柄の中心を持ち、猿人に斬りかかる。鎚矛で受け止められた。

 横薙ぎの剣を石突で受ける。最後の斧は後ろに躱した。

 四本の腕全てが利き腕で、四本全てで武器を振るわれると厄介極まりない。


「お前のような雑魚に構っている暇などないわ! 女どもの一人でも殺せれば!」

「その雑魚も殺せないような奴には無理な話だな!」


 ユウジを狙う事なく、

 後衛のメーヴェとクアーリャを狙おうとする辺りが下劣さを物語る。

 勇者に勝てないから挑むのを止めた癖に、他の人間を雑魚と蔑む。

 そんな奴に負けてたまるものか。


 一年半ほど前には猿人と戦い負けているが、あの時とは違う。

 修練は積んできた。

 そして、命を懸けて猿人に勝った男が教えてくれた事もある。

 長々と戦う必要はない。次の攻防で勝敗を決す。


 猿人が踏み込んでくる。斧の袈裟斬りを躱す。

 続けて短槍の突き。槍は肩口を紙一重で逸れる。これも躱した。

 三撃目、頭上から振り下ろされる鎚矛を身をよじって躱す。

 最後に剣の鋭い突き。これを待っていた。

 横薙ぎで剣を払いながら体を回転させつつ、長柄の端の方へと持ち替える。

 回転の勢いをつけて全力で振り切る。

 不格好な一撃は、猿人の左足を断ち斬った。


 シュエットは姿勢を崩しているが、ある程度の間合いがあるので追撃はない。

 猿人は斧と鎚矛を支えに片足で立っている状態で、シュエットまで届かない。

 これで動きと二本の腕を封じた。

 四本腕の猿人と戦う時にはどうしても腕に注視してしまうが、

 足をこそ狙うべきだったのだ。


 このまま一気に仕留める。

 先程の鋭さが見る影もない剣と短槍の攻撃を躱し、右腕二本を叩き斬った。

 完全に姿勢を崩し転倒する猿人。決着はついた。

 大上段に長柄斧を構え、怒りのままに言う。


「これが、お前が雑魚と呼んだ者たちの武芸だ」


 猿人はすぐに闇に包まれ、転移して逃げ去った。

 魔物どもは上級すらいなかったらしく

 ユウジとパッセルがほぼ全滅させていた。

 クアーリャが急いで駆け寄ってきて、嬉しそうに微笑んだ。


「格好良かったよ、シュエット」


 シュエットが返答する間もなく、クアーリャは魔力の残滓を調べ始めた。

 ユウジたちも集まってくる。


「よくできました」

「いつから俺の師匠になったんだ」


 偉そうに何度も頷きながら言うパッセルに、つい思った事が口に出てしまった。

 ユウジとメーヴェが笑う。

 どこか心地の良い達成感と共に、その笑い声に身を任せた。




「あっちに……一日半くらいかな」


 クアーリャが指差した方角は北北西のやや西より。

 これで必要な二点が揃った。


 魔物の死体だらけの場所で休みたくはないので、

 少しベースキャンプの方向へと戻って休む。

 メーヴェとクアーリャが寝ている夜、

 ユウジは短剣の鞘で地面に何かを書きながら独り言を呟いていた。


「ここの角度は……辺の長さが小数だとやり難いな、いったん二倍にして……」


 地面に描かれた十字の左上側にひし形が追加され

 近くに文字が書き足されていく。

 何をやっているのか、学のないシュエットにはさっぱりだ。

 パッセルはユウジを真似して地面に絵を描いているが

 独創的すぎてやはり何を描いているか分からない。

 じっと見ていると文字を書く手が止まり、一番近くの文字の下に線が引かれた。


「計算できた。西北西に二日と五分の一。そこに神殿がある」

「五分の一か」


 ユウジの計算で導き出された悩ましい距離に呻く。

 二日を超えるなら撤退は転移しかない。十日近くを浪費する事になる。


「それでも行くしかない、そうだろう?」

「確かにそうだったな」


 ユウジが軽く肩を叩いてくる。それに苦笑して答えた。

 これ以上の策も案も、逆さに振っても出てこない。やるしかないのだ。


「できた」


 パッセルの絵も完成したらしい。丸と四角形で描かれた何か。


「これは何だ?」

「邪神の神殿」


 言うや否や短剣を抜き様に、パッセルは絵を横一文字に斬り裂いた。

 何があろうと必ず成し遂げるという、少女の決意だ。

 ならばとシュエットも長柄斧を手に取り、

 寝ている二人を起こさないように地に斧を押し当てて絵を潰した。


「神殿ごと邪神を押し潰してやったぞ」

「やったね」


 幼い子供じみた事をやっているシュエットとパッセルを

 ユウジは微笑んで見ていた。

 決してお遊びや妄想ではない。予行演習だ。



 ***



 一晩夜を明かし、一日をかけて第二ベースキャンプに戻ってきた。

 陣はかなり損傷が激しく、補給物資が到着してはいるが足りていないようだ。

 死者は三人に増えていた。第一ベースキャンプでは二十人にもなるという。

 墓の前で話した青年は宣言通りに生き残っており

 見張りとして周囲に目を光らせていた。


 ベースキャンプで一夜を明かし、朝に出発する。これで三回目。

 最初の時のような見送りはない。それが普通の事になってしまっているからだ。

 次に戻ってくる時は、勝利の報告を持って帰りたいと心から思った。




 魔物の襲撃を三度退け、西北西に進んでから三日目の朝を迎えた。

 転移魔術を使える魔物はいなかったので

 方角や距離は三角測量による推測のまま。

 今日で発見できなかった時は、邪神を討つ事はかなり難しくなるだろう。

 全員が無言で歩く。疲労と精神的な重圧が口を閉じさせる。

 二日と五分の一。

 五分の一がどのくらいの距離なのか、体感だけで分かるはずがない。


「……四天王でも出てくればいいのに」


 クアーリャの呟きに同意して何度も頷く。

 転移を使わせればより正確な位置が分かるのに。


「噂をすれば影が差す、かな。パッセルちゃん、こっちへ」


 ユウジが手招きして先行していたパッセルを呼ぶ。

 全員が集まった後、ユウジは遠くを指差した。

 そこにいたのは魔物の群れ。それを率いているのは猿人だ。

 距離が離れているからか、こちらに気付いていない。


「やっぱり運が向いて来てるよね! よーし、それじゃあたしが……」

「あいつって神殿から出てきたんだよね?」


 腕を回してやる気満々のクアーリャを遮って、パッセルが聞いてくる。

 現在位置は神殿に近く、重傷を負わせて撤退させていた。

 神殿から出てきたばかりと考えるのが妥当だろう。


「猿人が歩いてきた方角に神殿があるのでは、という事か。

 正直な所、メーヴェもクアーリャも魔力は全快してないはずだ。

 戦いを避けられるなら、その方がいいんだがな」


 少人数で夜間に襲撃されると起こさないわけにもいかないので

 どうしても回復は不完全になる。

 余計な消耗を取るか、推測を信じて進んでみるか。


「方角はどうなるかな、メーヴェ?」

「少しだけずれますね。日の高さを考えてみると、許容範囲内だと思います」

「……よし、猿人の歩いてきた方向を目指そう」


 ユウジの決定に全員が頷く。

 神殿に辿り着いたはいいが、戦えないのでは本末転倒だ。

 魔物を無視して先に進む。もう信じて祈るしかなかった。

 神にではない。天使たちの言動を見る限り、祈りが届くとも思えない。

 シュエットが祈るのは大博打に乗ってくれた人々。

 彼らの想いは、意志は、必ず自分たちを神殿へと導くはずだと。

 まるで数多の人々の祈りに動かされるように、ひたすらに歩みを進めた。



 ***



 それを最初に見つけたのはシュエットだった。

 遠く離れた場所、わずかに見える漆黒の建造物。

 歓喜の叫びを上げたい所だったが、息を潜めて慎重に近づいていく。

 近づくほどに建造物の威容が明らかになっていく。

 

 黒い城のような、歪に増設された箇所がそこら中にある異形の建物。

 門が開き、中から魔物が出てくる。魔物の群れは南東の方へと向かっていった。

 第二キャンプを襲撃しに行ったのだろう。


「ここまで近づいたら残滓も何もないね。これだよ、邪神の神殿」


 神殿に手をかざし、クアーリャが静かに言う。

 ついに道は繋がった。邪神の神殿に到達したのだ。


 神殿の近くにある小さな高台に隠れる。

 改めてじっくり見ると、神殿というより侵入者を徹底的に拒む城塞だ。


「あの様子じゃ罠とかもたくさんあるかも。

 あたしが前を歩くから、シュエットたちは……」

「罠の事なんか気にする必要ないぞ、パッセル」


 パッセルにそれだけ言うと、準備を始める。

 クアーリャが荷物から拳大の赤い宝石を取り出す。

 そして、全員にペンダントの形をした魔道具を配る。

 この時のために作られた特注品だ。


「これをちゃんと身に着けてね。半日程度は高熱から身を守ってくれるから」

「邪神は火の魔術が得意なの?」

「人の身を焼く闇を自在に操る。闇を剣や槍にしたり。

 このペンダントはちょっと違う用途でな、闇には効果がない」


 シュエットたちは邪神と一度戦っているので、戦闘方法も当然知っている。

 闇の魔術は高熱で人を焼く訳ではないので

 純粋に熱だけを防ぐペンダントの効果はない。


「じゃあ何でこんな物を?」


 疑問に思うパッセルの肩にそっと手を置き、クアーリャを見る。

 シュエットの視線の先を同じように見るパッセル。

 魔術師の少女は、宝石を抱くようにして神殿が一望できる場所に立っていた。

 そして、パッセルに理由を説明する。


「わたしが炎の魔術で神殿を吹っ飛ばすの。

 邪神と召喚の魔法陣だけは多分残るから

 一気に突っ込んで再召喚の前に終わらせるよ。

 地面と空気が焼けるから、まともな生物なら近づく事もできなくなる」


 冗談だよね、とでも言いたげに

 シュエットとクアーリャを何度も交互に見るパッセル。

 あえてパッセルと視線を合わせない。

 言葉で何を言っても信じられる話ではない。


「皆さん、クアーリャちゃんの近くに。

 強い守護の奇跡を使いますが、範囲がかなり狭くなるので」


 メーヴェと共に、クアーリャに密着するほどに五人が固まる。

 パッセルはシュエットの服を強く握りしめ、しがみ付いてくる。

 吹っ飛ばすという単語から、自分が飛ばされないようにしているらしい。


「じゃあ、やるよ。

 "遥か天空より火をもたらす太陽よ、その欠片を貸し与えたまえ。

  大いなる力をこの地に下ろせ"……」


 宝石を前に掲げながら、

 出会ってから今まで聞いた事のない長さの詠唱をするクアーリャ。

 少女の可憐な声が紡ぐ詠唱は、まるで歌のようにも聞こえる。

 余程の魔術でなければ数個の単語で発動できるクアーリャが

 これほどの詠唱を行うのは、極大規模の魔術だけだ。

 魔術師の集大成である彼女であっても

 とてもではないが魔力が足りないほどの魔術。

 それを可能にするのが魔道具である宝石。


 魔導の洞穴で不適格と判断された子供たち、

 その命と魔力をすり潰して作られた忌まわしい宝石。

 二百人の子供を犠牲にして作られたという宝石は

 一度だけ魔力の消費を肩代わりしてくれる。

 どんな魔術でも一度だけ。そよ風を起こすだけの魔術でも宝石は砕ける。

 あまりにも莫大な量の魔力と、一回限りという制限。

 そして宝石を作るために犠牲になった命。

 人道と欠陥から魔の宝石を作る術は未来永劫禁じられ、

 唯一現存しているのがクアーリャが手にしている物だ。

 邪神を討ち、世界を平和にするために使われたなら

 犠牲になった者たちも報われるだろうか。


「"輝ける白き火によって、地上の全てを焼き払い清めよ"……」


 長い詠唱の果て、クアーリャが右手を空に向ける。

 少女の手が示す先、神殿の上空には

 神殿の半分ほどの大きさがある白い火球が浮かんでいた。


「お日様が、もう一個浮かんでる」


 より強くシュエットにしがみ付きながら呟くパッセル。

 ここまで桁違いの魔術を見た者は誰もいないだろう。

 彼女の言う通り、もう一つの太陽が下りてきたとしか形容しようがなかった。


「"天上に住まう女神に願い給う。我らが同胞を苦難から守る壁を与え給え"!」


 メーヴェの奇跡により、淡い光の壁がシュエットたちを覆う。

 光の壁を確認し、クアーリャは空に向けていた手を一気に振り下ろして叫ぶ。


「"地に在るもの全て、燃え尽きろ"っ!」


 詠唱の完了、魔術の発動と同時に宝石が高い音を立てて砕ける。

 火球がゆっくりと神殿に落下する。

 神殿の上部が、白炎に晒され溶けながら崩れていく。

 邪神は火球を見ているだろうか。見ていた所で誰にも止める方法はないが。


「伏せて、目を閉じてっ!」


 クアーリャの指示に従い、彼女とパッセルを庇うように伏せて目を閉じる。

 恐ろしい轟音、目を閉じているというのに感じる爆光。

 守護の壁が軋むような音を立てる。

 光が収まった後で目を開けると、そこはもう邪神の神殿ではなかった。


 跡形もない。わずかな残骸だけが転がる、焼けた荒野だけがある。

 中にどれだけの魔物がいたのかは知らないが、諸共に消し飛んだはずだ。

 焼けた荒野の中心に光る魔術陣があり、

 その中心に誰かが一人だけ立っている。

 間違いなく邪神だ。邪神は光の剣でしか滅ぼせない。


 クアーリャがシュエットを押しのけるように立ち上がる。

 意識が若干朦朧としているのか一瞬ふらついたが、

 頭をぶんぶんと振って笑顔を見せる。


「とんでもない術式だったから疲れただけ。

 まだわたし自身の魔力は残ってるんだからね」


 不敵な笑みを浮かべながら手をひらひらと振るクアーリャ。

 大丈夫だというその言葉を信じるしかない。


 皆の前に立ち、剣を抜くユウジ。

 外套をなびかせたその姿は、英雄譚の勇者が具現化したようにも感じた。


「メーヴェ、クアーリャ、パッセルちゃん……そして、シュエット。

 行こう。邪神を滅ぼし、この地に平和をっ!」


 走り出すユウジの後を追う。走りながら斧を手に構えた。

 ペンダントが赤く淡い光を放つ。

 熱を防御してくれる魔道具があってなお、全身を火で炙られるような熱さ。

 パッセルをちらりと見て頷く。彼女も頷き返した。

 今この時こそ、邪神が滅び去る時だ。




 魔術陣の近くまで行くと、複数の叫びが聞こえてくる。

 邪神が魔物を召喚したのだろうが、この状況下で生きていられる生物はいない。

 召喚直後に全身と肺腑を焼かれて死ぬのを繰り返しているのだろう。

 それは邪神とて例外ではない。


 鷲、獅子、牛、そしてどの獣とも似ていない異形の頭、

 四頭に二対の翼をもつ邪悪なる神。

 邪神にはパッセルの超再生を更に強化したような回復能力があるのだが、

 常時全身を焼かれながら再生し続けるのだ。

 苦痛は尋常のものではないだろう。


 ユウジが足を止める。勇者の周りに、全員で集まった。

 もう逃げ場のない邪神と対峙している。

 この状況を作り出すために一年半を使った。何人もの犠牲を払った。

 全てはこの瞬間のためだった。


 邪神は何も言わない。

 呼吸する事さえ苦しいはずなので、何も喋れないというべきか。

 元よりどんな話だろうが聞く気もない。これ以上時間を掛ける気もない。

 先陣は貰う。パッセルと共に一気に突っ込む。


「おおおおぉぉぉっ!」


 大上段から全力で斧を振り下ろす。鋼鉄のような一対の翼が斧を受け止めた。

 パッセルが邪神の足を短剣で浅く斬りつけたが、邪神は全身に闇をまとう。

 小さな悲鳴を上げ、パッセルは銀の光をなびかせ地面を転がるように離れた。


「本当だ、闇なのに熱いし焼かれる」


 パッセルの呟きを聞きながら、翼との力比べをするが徐々に押されていく。

 姿勢が揺らいだ所へ、黒い刃が横薙ぎで襲ってくる。

 長柄を盾代わりに受けた。


 邪神の体が熱で焼けていき、四つの顔が苦悶に歪む。

 邪神はシュエットに空いた手を向け、魔術を放とうとする。

 シュエットにこれ以上の攻撃を受ける手段がないと見破ったか。

 勝ち誇ったような醜悪極まりない笑顔。それに苦笑を返しておいた。

 やはり邪神を討つのは、商人ではなく勇者だ。


「光の剣よっ!」


 シュエットの背後、死角になっていた場所からユウジが飛び出す。

 手には光輝く剣。邪神を滅ぼす唯一の希望。

 剣はシュエットが受け止めている。

 魔術は一度詠唱を始めたが最後、止める事はできても違う魔術にはできない。

 シュエットに向けて魔術を放とうとした時点で、完全に無防備状態になる。

 近づけば焼ける闇で牽制したつもりだろうが、長剣の突きならば範囲の外だ。


 邪神が魔術を止め、身をよじろうとする。

 その程度の動きなど一切問題にはならず、ユウジの剣は邪神の心臓を貫いた。

 四つの頭からの絶叫。

 言葉なのかどうかすら分からない事を空に向かって叫び続ける。

 叫びに違和感を覚えた。自分を討ったユウジの事を見てもいないような。

 まるでここにいない誰かへの恨み言のように感じたのだ。


 声が小さくなっていき、頭が四つとも支えを失ってうなだれる。

 次の瞬間、邪神の体は光が弾けるように消滅した。


「ユウジ、召喚の魔術陣を!」


 ユウジは光をまとったままの長剣を陣の中心に突き刺す。

 黒い光としか言いようのない淡い光を放っていた魔術陣は

 光を失い崩れ去った。

 これでもう、二度と魔物は再召喚されない。

 今この世界にいる魔物どもは魔力の供給源を失い、衰弱の果てに死ぬだけだ。


 皆が呆然とその様子を見ていた。

 徐々に、徐々に実感がわいてくる。

 成し遂げた。ついに邪神を討ち果たした。


「やった……とうとうやったよーっ!」

「シュエット、やったね」


 クアーリャとパッセルが歓喜のあまり全力で抱き着いてくる。

 全力で挟まれてしまい、食べた物を戻しそうになってしまった。

 ユウジとメーヴェもしっかりと抱き合っている。

 しばらくの間、やり遂げた達成感と充実感に身を任せた。




「よくぞ成し遂げました、勇者たちよ」


 不意に、天から声が響く。

 ユウジはその声を知っているようで、はっと空を見上げた。


「光の女神様、でしょうか?」

「人の子らにはそう呼ばれていますね」


 メーヴェの問いに答える女神の声。

 それを聞いた瞬間、パッセルが強くシュエットの服を握りしめた。

 突然聞こえてきた声に戸惑っていると

 シュエットたちの目の前に光輝く小さな魔術陣が現れる。


「さあ、転移の陣を用意しました。それで私の元へ。

 勇者ユウジ、司祭メーヴェ、魔術師クアーリャ」

「……え? シュエットとパッセルは!?」


 しばらく待っても三人の名前しか呼ばれない事に驚き、

 声に問いかけるクアーリャ。

 いつまで経っても返事はなかった。


「女神様にとっての勇者一行は、三人だったらしい」

「そんな事って!? 僕たちがここまで来れたのは誰のお陰だと……!」


 憤るユウジに対し、黙って首を振る。


「そもそも俺が望んだ事だ。誰のお陰というなら俺とパッセルだけじゃない。

 全員女神様に謁見って訳にもいくまい、代表がユウジたち三人ってだけさ」


 それだけ言って大きく息を吐く。

 昨夜の保存食が、別れの宴代わりになってしまうなと苦笑した。

 荷物から固く紐で縛ってある小袋を取り出し、ユウジに渡す。


「この世界でのお土産だ。故郷に帰るまでは絶対中身を空けるなよ?」


 シュエットの言葉で、今この時が今生の別れになると気付いたのだろう。

 ユウジは小袋を差し出した手をしっかりと握ってきた。


「ありがとう、シュエット。

 ずっと、君が言ってくれた言葉が僕の支えだった」

「元気でな、ユウジ」


 長々とした言葉は要らない。お互いに一言で十分だった。

 この先何があろうとユウジという友を忘れる事はないだろう。


 小袋を渡した後、クアーリャが近づいてくる。

 見るからに不機嫌そうな顔をしていて、女神の声に憤っているのが分かる。


「女神様が送ってくれないらしいから、わたしが二人を転移させるね。

 どこで合流しよう?」

「城下町のウルラ商会でいいんじゃないか。王都に飛ばしてくれ」

「そうだね、分かった」


 パッセルと手を繋ぐ。

 勇者の旅路は終わったが、シュエットにはまだやるべき事が大量にある。

 ユウジに向けて手を振ると、彼も同じように大きく手を振った。

 詠唱が開始される直前、クアーリャに向けて小さく頷く。

 クアーリャはユウジたちに見えないよう、片目を閉じて了解の合図をした。

 

「"天を巡りし偉大なる風よ、かの者らを彼方へと疾く運べ"!」


 魔術が完成し、シュエットたちは強い光に包まれる。

 地面から足が離れる。一瞬の浮遊感。

 一呼吸程度の時間の後、再度足が地面を踏みしめ、光が消える。

 周囲の風景は一変しており、近くに大きな城が見える。


 別れの時と同じ光景だったが、

 今のシュエットたちは邪神を討ち果たし帰ってきたのだ。

 パッセルと繋いだ手が、それを改めて実感として与えてくれた。



 ***


 

 急ぎウルラ商会に走りながら、遠話の石片を全て取り出す。

 言う事は決まっていた。


「勇者ユウジが邪神を討ち果たした!

 もう魔物どもは無限ではない、殲滅せよ!」


 石片から歓声と雄叫びが大音量で聞こえてくる。

 続けて、ベースキャンプの石片を手に取る。


「邪神は討ったぞ! もう魔物どもの数に怯える必要はない!

 第二は即時、第一は第二の者たちを待ってから撤収だ!」

「その言葉、待ちに待ってましたぜ旦那!」

「みんな聞いたな! もう一踏ん張りで仕事は終わりだぞ!」


 ストークと三班の班長の声にも、はっきりとした力がある。

 高まった士気は一時的にでも疲労を打ち消す。

 あと一度凌ぎ切れば勝ちという明確な目標は

 精神力で肉体を支えてくれるのだ。




 ウルラ商会に入ると、書類と怒号が飛び交う戦場のようなありさまだった。

 武の仕事は終わりだが、文の仕事はこれからが本番。

 彼らは恐らく二日くらいは眠れないだろう。

 所在なさげに申し訳なく思っていると、

 ラーツァが商会長室まで連れて行ってくれた。


「ありがとうございます、シュエット様」

「こっちこそありがとう、ラーツァ。

 ラーツァがいなかったらこの道を作る事などできなかった。感謝している」

「そんな事……」


 嬉しさからか、言葉を詰まらせ泣き出してしまうラーツァ。

 これで彼女も自分を許せるだろうか。

 それはシュエットにはどうにもできない。ラーツァの心次第だ。


「シュエット、寂しいの? あんまり嬉しそうじゃない」


 シュエットの顔を覗き込み、疑問を口にするパッセル。

 友との別れは寂しいが、それが理由ではない。

 ユウジが何事もなく故郷に帰る事ができればそれでいい。

 しかし、そうはならないだろうという確信に近いものがあった。

 この推測が当たって欲しくはなかった。

 友が寄る辺さえ失い、辛い思いをする事が分かっているからだ。


「俺の寂しさだけで終わって欲しいんだがな」


 茶を飲みながら一息ついていると部屋の扉が叩かれた。

 クアーリャたちが帰ってきたらしい。扉を開く。


 やはり、自分の予想は当たってしまった。

 泣きそうな表情のクアーリャ、沈痛な顔のメーヴェ。

 そして、呆然自失状態のユウジがそこにいた。


「シュエット……女神様は、僕を元の世界に戻せないって……」


 その姿は初めて魔物を殺した時よりも弱々しく、

 今にも消えてしまいそうだった。


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