第5話:光芒の信仰
*****
「ねえ、どうしてこのお花は赤いの?」
目の前の幼い少女が無垢な瞳で質問を投げかけてくる。
光芒大聖堂に併設された孤児院の司祭は困り果てていた。
花が赤い理由を知らないからではない。
少女は何にでも疑問を持ち、質問を投げかけてくる。
知識欲が旺盛な事はいいのだが、一線を超えるような疑問であれば話は別だ。
「光の女神様のお父さんとお母さんは誰なの?」
「どうして女神様は信じている人しか助けてくれないの?
女神様はみんなをお救い下さるんでしょ?」
光芒教会の信仰に関わるような事まで、
子供特有の無邪気さで疑問を投げかけてくるのだ。
答えに困る質問ばかりを繰り返し、
答えが納得できなければ頑として譲らず質問を続ける。
少女は問題児として扱われていた。
司祭たちがつけたあだ名は"どうしてちゃん"。
元々、孤児院に回される司祭は
平信者とほとんど変わらない扱いの下級司祭だ。
人脈もなければ奇跡という特殊な力もない、出世から外れた者たち。
それでも子供たちを愛し真摯に向き合う者もいれば、
全てを適当に済ませようとする者もいる。
その双方から、どうしてちゃんは疎まれていた。
孤児たちは三十人近くいる。少女一人に構ってばかりはいられないからだ。
どれだけ叱られても、手を煩わせた罰として食事を抜かれても、
夜の寒空に立たされても質問を止めない少女。
業を煮やした司祭の一人が、いい加減にしろと怒りを込めて少女に言う。
今度下らない質問をしたら連帯責任で子供たち全員の食事を抜く、と。
どうしてちゃんはその日から、一切質問を口にしなくなった。
ある日、子供たちと引率の司祭は山へと遊びに行った。
山といっても大聖堂の近くにある、大して高くもない山だ。
中腹までは近くの村の住人がよく登山をしているくらい安全な山で、
中腹の花畑は絶景と名高く、子供たちが喜ぶので定番の遊び場だった。
その先は岩肌が露出する登山道で、
登山を楽しむ人にも満足できる山として知られていた。
子供たちが遠くに行かないように見張っていればいいので、
司祭としても楽ができる場所だった。
女神の悪趣味な悪戯だったのだろうか。
その日、絶景の噂を聞いて頂上へと登った旅人が
調子に乗り、小石を一つ蹴った。
小石は岩壁に当たって加速しながら転がり、
出っ張った岩壁から石を剥がし、共に下へと転がり落ちていく。
何気なく蹴られた小石は、あっという間に岩雪崩を引き起こしていた。
司祭と子供たちが音に気付いた時には、既に手遅れだった。
岩雪崩は容赦なく花畑と子供たちを飲み込む。
巻き込まれなかったのは離れた所にいた引率の司祭たちと、
司祭の側で休んでいた数人の子供たちだけ。
司祭たちは無事な子供たちにその場を動かないように言い、
すぐに花畑だった場所に向かう。
四人のうち二人は子供たちを純粋に心配して。
残り二人は自分の責任問題になるのを恐れて。
目を覆いたくなる惨状だった。
どう見ても即死な子が三人。
他の子も大小の違いはあれど怪我をしており、
痛みで泣いている子は意識があるだけましという状況。
司祭たちは癒しの奇跡を使えない。
応急処置にしても、大聖堂に運ぶにしても、とてもではないが手が足りない。
絶望で泣き出してしまう若い司祭。彼女の胸倉を掴んで頬を張り、
泣く暇があるなら手を動かせと怒鳴る年配の女性司祭。
戦場のような凄惨な状況の中、
一人の少女が倒れていた子供に近づき、その身を抱きかかえる。
どうしてちゃん。
この緊急時にまで言う事を聞かない少女を司祭が怒鳴ろうとした時。
「"天上に住まう女神に願い給う。彼らの命を繋ぎ止め、傷を癒し給え"」
舌足らずの声で紡がれた拙い聖句。
教えられてすらいない、見様見真似の癒しの奇跡。
それは正しく"奇跡"と呼ぶべきもの。子供たちの傷は一瞬の元に治っていた。
驚き、喜ぶ司祭たち。
子供たちの負傷が癒された事と、幼い少女が大奇跡を使った事に。
どうしてちゃんと呼ばれていた少女は、
奇跡でも癒せない友人の亡骸を抱いて泣きながら疑問を口にする。
「どうして?
私よりずっといい子にしていて、真面目に祈っていたこの子を、
どうして女神様は助けてくれないの?」
後に勇者と共に旅する事となる少女の名は、メーヴェといった。
*****
光芒大聖堂。
光の女神を信仰する者たちの総本山ともいえる場所。
白く塗られ、金色の意匠が施された大聖堂は、
建物自体が女神の似姿とまで称されるほど美しい。
初めて大聖堂を見た時は、
信仰心など大して持ち合わせていないのに息を飲んだものだ。
歩みを止めて大聖堂を見つめているパッセルのように。
残念ながら観光で来たわけではないので、
パッセルを促して大聖堂へと向かう。
光芒教会は国教ではあるが、信徒は国民の半数ほど。
都市部から離れると土着の信仰が多くなる。
シュエットの故郷で信仰されていたのは山の女神だった。
遺跡で見た祈りの形式から、パッセルも光芒信仰ではないだろう。
光芒教会は割と異教に寛容で、
光の女神を表立って否定でもしない限りは異教徒でも大聖堂に入れる。
外装の美しさも素晴らしいが、
大聖堂の真なる美しさは内装にこそあるといわれる。
パッセルが目を輝かせて内装を見つめている間に、受付に話を通しておく。
「俺はウルラ商会長シュエット。大司教様にお会いしたい」
受付の司祭はシュエットの顔を知っているので、すぐに通してくれる。
大司教の部屋も知っているので案内は必要ないと断った。
歩いている間もパッセルは聖堂の内装に見惚れ、
橙色のリボンがひらひらと落ち着きなく揺れていた。
特に迷う事もなく大司教の私室前に辿り着き、軽く扉を叩く。
「どうぞ」
返事が返ってきてから扉を開ける。豪奢ではあるが少し小さめの部屋。
目の前の椅子には、純白に金糸の法衣をまとった老婆が座っていた。
優しげな風貌でありながら、触れてはならぬような神聖さを放つような姿。
「お久しぶりです、大司教様」
「久しぶりですね、シュエット。さあ、こちらへ」
大司教に促されて部屋に入るシュエットだったが、
パッセルが部屋に入ってこない。
地位でいうなら領主の更に上、国王にすら匹敵する存在。
それに加えて聖堂と大司教の雰囲気。
一介の村娘では気後れしてしまうのも当然だ。
それを見た大司教は優しく笑い、パッセルに手招きをする。
「入っていいんですよ。いらっしゃい、可愛いお嬢さん」
「お、おじゃまします……」
いつもの不敵さは何処へやら、
おずおずと部屋に入るパッセルの姿に笑いが漏れそうになった。
扉を閉め、鍵をかける。内緒話をしたいからではない。
鍵がかかったのを確認して、大司教は大きく息を吐く。
「随分と無茶をやってるみたいだねえ、シュエット。
こんな婆にまで無茶を言ってきて。
あの子の仲間じゃなかったら神罰を下してるよ」
「婆様の神罰はもう勘弁してくれ。あれはあれで結構痛いんだから」
遠慮など一切なく近くの椅子に座ると、
大司教は腕を振って尻を叩く動きをする。
雰囲気が突然変わった二人に理解が追い付かないのか、
パッセルは目を丸くして立ちすくんでいた。
少女の様子に気付いた大司教は豪気に笑う。
「義娘の友達とあんな堅苦しい態度で話していられないよ。
私もこいつも、公私はきっちり分ける方ってだけさ」
「婆様、この子はパッセル。俺の切り札だ」
パッセルに手招きをして、隣に座らせる。
大司教は険しい顔でパッセルを見つめ、すぐに優しそうな笑顔を浮かべた。
「初めまして、パッセル。私は大司教なんてやらされてる婆、エアレーだ。
公の場でなければ気軽にエアレー婆さんとでも呼んでおくれ」
「よ、よろしくおねがいします」
落ち着かない様子のパッセルはさておき、
エアレーは一枚の羊皮紙をシュエットに手渡す。
書かれていたのは司祭の名前が二十二人分。
名前に印が付いている者と、そうでない者が半々。
「印が付いている司祭とは話をつけてある。あんたに協力してくれるはずだ。
そうでない者は答えを保留している。
いきなり魔物との戦いの最前線、更にその前に行けなんて言われちゃあね」
エアレーが先ほど言った通り、無茶な頼みだとは分かっていた。
それでも十一人が名乗りを上げてくれた。
その理由までは知らないが、感謝しかない。しかし足りない。
全部で数百人になる大規模な輸送隊、
常に魔物と相対する彼らを守り癒すなら、最低でも二十人なのだ。
その考えが顔に出ていたのか、エアレーはため息をついた。
「ある程度の戦闘経験がある司祭なんて、そうそういないんだよ。
それに今は厄介事があってね、そっちを気にしてる司祭もいるから……」
「厄介事?」
「邪教徒さ。よりにもよって近くの村に居を構えていやがってね」
大司教とは思えぬ口調で吐き捨てるエアレー。
光芒教会は土着信仰との融和を掲げており、
基本的に異教徒であっても蔑むような事はしない。
邪教徒と呼ばれるものはただ一つ。邪神と魔物を信仰する者たち。
邪神が現れ、魔物が襲い掛かってきたのが約六年前。
信仰というにはあまりにも早すぎる稚拙な祈り。
その本質は生存欲求と、既存信仰への失望だ。
信じていた神が救ってくれないから、命を守ってくれる強き神に縋っただけ。
結果どうなろうが、それ自体は本人の自由だろう。
他の者に迷惑を掛けさえしなければの話だが。
「放っておけと指示を出してはいたんだが、少し妙な事を耳にしてね。
連中が"天使"を捕まえたって噂だ」
「天使?」
「女神様に仕える、背中に翼の生えた人間とよく似た種族の事だよ」
エアレーはパッセルの質問に答えながら
壁に書けられた小さな絵を外し、少女に手渡す。
そこには輪になって笑顔で踊る、
背に純白の翼を生やした天使たちが描かれていた。
「司祭のお姉ちゃんが時々見せてくれた本の絵と同じ」
「布教用の聖書だね。同じ絵が描かれているはずだよ」
光芒教会は異教に寛容だが、それはそれとして布教は熱心であり、
熱意のある司祭が田舎村の簡素な教会で布教をする事も多い。
村としては癒し手が常駐してくれるのでありがたく、
土着信仰を蔑ろにしなければ割と受け入れられている。
絵を見て懐かしそうに目を細めるパッセル。
少女の村にいた女司祭は好人物だったのだろう。
絵を持っていない方の手は固く握りしめられている。憤怒を表すように固く。
少女が奪われたものの重さを示すように。
「そこでシュエット、あんたに調査してほしいのさ。
うちの司祭たちの中には猪突猛進な奴もいて、
私の制止も聞かず潜入しちまったのがいるんだよ」
「俺は光芒教会の助力を得に来ただけなんだがなあ」
「天使と邪教徒の事が片付けば希望通りの人数が出せるんだけどねえ?
血気にはやった馬鹿の一人は、あんたに紹介するはずだった奴なんだ」
「それでは行かないわけには参りませんなあ」
シュエットとエアレーの鳥肌が立つほど白々しい会話。
パッセルは呆れて鋭い視線を向けてくる。
「全部予定通りなんでしょ。今のお話に意味ってあるの?」
「大人の世界ってのは、上に行けば行くほど建前ばっかりなのさ」
「ふーん」
冗談めかして言ってみたが、パッセルの目は鋭い氷のように冷たいまま。
おどけて言わなければやっていられない。
商会長という神輿に乗ってからというもの、そう思う事ばかりだった。
うかつな事を言えば言質を取られる。小難しい単語の煙に巻かねば隙を晒す。
さっさとこんな神輿から降りたいと何度思ったか。
目の前にいる老婆は、十年以上前から大司教としてその世界に身を置いている。
その事実には畏敬の念しかない。
「パッセルちゃんはこんな世界なんて知らないまま、幸せになっておくれ」
「なりたかったけど、もう無理だと思う」
寂しそうに自身の手をじっと見るパッセル。
故郷は跡形もなく、魔物の血に塗れ、いかなる傷を負っても死なぬ不死者。
自分には人並みの幸せなど存在しないのだと理解してしまっている少女。
そんな少女に、大司教は優しく微笑みかける。
「幸せの形が一つだなんて誰が決めましたか?
思う形とは少し違っていても、今のあなたが掴める幸せはきっとあります。
諦めるのは、それが本当にないのか探してからでも遅くはないですよ」
慈愛に満ちた大司教としての姿。
エアレーにそっと手を握られ、
パッセルは少しの間目を閉じていたが、小さく頷いた。
「いざとなったら、この男に責任を取らせな」
その後、突然エアレー婆さんに戻ってとんでもない事を口にする。
二人に視線を向けられ、何と言っていいものか一瞬言葉に詰まった。
そんなシュエットを見たエアレーは、
呆れ果てたと言わんばかりに大きなため息をつく。
「誰も男として責任を取れなんて言ってないし、
そんな事あんたに期待もしてないよ。
あんたはこの子を利用してる。
なら、その分幸せにする責任があるってもんだろう」
「確かにそうだとは思うが、約束はできない」
当然そうするべきだと分かってはいる。
しかし、少女の命を無為に使う事になるかもしれないのに、
上辺だけの空っぽな約束などできはしない。
「あたしもシュエットを幸せにしないといけないんだね」
パッセルが静かに呟く。エアレーはかすかに驚いたものの、口は挟まない。
「あたしもシュエットを利用してる。
でもあたしにはシュエットを幸せになんかできない。
だから、別にいいんだよ。お婆ちゃんの言ったように、自分で幸せを探すから」
二人の言葉を聞いたエアレーは悲しそうな、辛そうな、憐れむような、
その全てが入り混じった顔を手で隠しながら言った。
「あんたたちは、熱に焼かれて狂った化物だよ」
それが罵倒ではない事など、誰に言われずとも分かっていた。
***
大聖堂を出発して二日。目的地である村が見えてくる。
予定通りの行動だったとはいえ時間は惜しいので、
ほぼ休みなしの強行軍でここまで来た。
「どうしよう、隠れた方がいいかな」
「教会に関係する物を持っていなければ問題ないと思うぞ」
二人とも光芒信仰ではないので、そんな物を持っているはずがない。
後は邪教徒に接触して邪教の事を調べる。
まずは、どのくらい邪教が村に浸透しているか。
いくら何でも村全体が邪教に染まっている事はないと思いたいが。
村に入ってみるが、骨で出来た旗などは掲げられておらず、
どこにでもある閑散とした田舎村という印象。
いや、閑散とし過ぎている。
日の高さを見てみれば昼前だというのに、人通りがなさすぎる。
まるで嵐が過ぎるのを息を殺して待っているようだ。
わずかな隙間を残して閉ざされた民家の窓からは、視線と気配を感じる。
「殺気とかじゃない。警戒と、観察? あたしたちを探ってる感じ」
パッセルの分析に同意する。こちらを値踏みするような気配。
嫌な予感ほど当たるもの。この分では、恐らく村全体が邪教に染まっている。
シュエットたちが光芒教会から送られてきた刺客なのかどうかを観察している。
もしここで教会式の祈りなどすれば即座に襲い掛かられても不思議ではない。
いくら邪教とはいえ警戒が過剰すぎる。
恐らくは捕まえた天使のために警戒が引き上げられているのだろう。
「数は」
「……九人くらい。結構多いね」
できるだけ自然に、目線を合わせず小声で話す。
周囲の気配に動きはなく、居場所を察知している事に気付かれてはいない。
今は邪教と天使の調査に来ている。荒事は最後の手段に取っておきたい。
「気付かないふりをして村を見て回るぞ。
恐らくだが、しばらくしたら向こうから接触してくると思う」
「わかった」
パッセルと手を繋ぎ、村の中央へと歩を進める。
二日の強行軍も布石。武具もエアレーに預かってもらっており、
今持っているのは使い古された手斧だけ。
外套もぼろぼろの物で、いつも少女の黒髪を彩るリボンも今はただのぼろ布。
こうすればくたびれた旅人の親子か兄妹に見えるはず。
そういう者の心の隙を突いて仲間に引きずり込むのが、
その手の宗教における手口の初歩なのだから。
静まった村を歩く。
快晴の昼だというのに、夜の田舎村を歩いているような錯覚。
人のいない廃墟とはまた違う、家の中に気配はすれど姿を見せず、
こちらを監視されているという圧迫感。
なかなか接触がないが、接触して来ないのなら来ないで方法はある。
しばらく歩き回って、ようやくお目当ての施設を見つけた。
「酒場? お腹空いたの……ああ、そっか」
言わずとも意図を理解してくれたパッセルの頭を撫でる。
小さな宿屋が併設された酒場。
ここは旅人を迎え入れなければ商売自体ができない店だ。
良いか悪いかは別にして、何らかの進展か情報は得られるだろう。
推察通り、酒場の扉は開いていた。
酒場の中に入ると陰鬱な雰囲気が漂っていた。
中には安酒を片手に、今にも酔い潰れそうな男女が数人。
酒を楽しむ飲み方ではない。一瞬でも全てを忘れたいという、やけ酒の類。
ならば彼らに合わせるのがいいだろう。
陰気な顔をして皿を磨いている店主の前に座り、少量の銀貨が入った袋を置く。
「強い酒と、この子に何か食べる物を。安いのでいい」
「あいよ」
杯に酒を半分ほど注いてシュエットの前に置いた後、調理に取り掛かる店主。
酒を一気に飲み干す。強い安酒らしく不味いだけで喉が余計に乾く。
さほど待つ事もなく、すぐに料理が出てくる。麦の粥に、野菜の炒め物。
「あたしはお腹空いてないから、お父さんが食べて」
「……すまないな」
打ち合わせでは兄妹だったはず。
抗議の視線を送ると、パッセルは小さく首を振った。
兄妹では無理があると判断して変えたらしい。
年は十程度しか離れていないのに親子の方が似合うのは悲しくなるが、
仕方がないと思い直して料理をかきこむ。
食材の質も悪ければ料理人の腕もよくない。
火が通っているので雨天の野営よりはましだが。
「あんたたち、光芒大聖堂に来たのかい?」
「大聖堂なら俺たちを救ってくれるかもと思ってな……」
情けない声で店主に答える。
内心ではやっと歩き回る必要がなくなったと安堵していたが。
酒に溺れ、娘に言われたとはいえ料理を自分一人で食べてしまう父親。
心の隙に付け込む者たちにとって格好の餌だ。
「教会に救いなんざありゃしねえよ。本当に救いが欲しいならここに行きな」
店主は一枚の羊皮紙を渡してくる。
羊皮紙には簡単な村の地図が書いてあり、印がついている場所が目的地らしい。
地図を受け取り、無言で店を出る。
「俺の演技も中々だろ?」
「すごい。どこからどう見ても、もう駄目なおじさんだった」
褒められているのか貶されているのか分からなくなってくるが、
上手くいったので褒められていると思う事にした。
地図で示されている場所が邪教の本拠だろう。
これ以上歩き回らなくていい嬉しさで笑みが漏れそうになったが、
気を取り直して険しい表情を作る。
邪教に縋ろうなどと考える者がへらへらと笑っていたら明らかにおかしい。
再度パッセルと手を繋ぎ、示された場所へと向かう。
地図の場所は他と比べて大きな家だった。村長の家か何かだろうか。
パッセルが手をわずかに引くので、小さく引き返して分かっていると伝える。
槍を持った見張りが二人立っている。本拠でなくても重要な場所で間違いない。
見張りに羊皮紙を見せると、あっさりと中へ通してくれる。
見張りの一人に案内されたのは窓のない小部屋で、そこには先客が二人いた。
年配の男と若い女の二人だが、こちらと顔を合わせようとしない。
男女の位置も離れているので、知人や家族という訳でもなさそうだ。
彼らとは離れた所に座り、無言でただ時が過ぎるのを待つ。
牢獄と比べても劣悪な環境で待つ事しばらく、
いかにもな黒法衣を着た男が部屋に入って来る。
「救いを求める者たちよ、こちらへ」
陰気な顔をしていた若い女は待ちに待ったという感じで安堵の笑みを浮かべ、
年配の男は緊張した表情で立ち上がる。
シュエットとパッセルは二人の後でゆっくりと立ち、黒法衣の男について行く。
案内されたのは祭壇のような場所。
聖印らしき物は三本の骨で作られた三角形。
シュエットが知るどの信仰とも合致しない。
黒法衣の男は一枚の紙を床に放る。紙には光の女神が描かれていた。
「それを踏み、光芒教会と決別しなさい。救いはその先にある」
単純だが効果的な選別。
信仰の対象を踏みつけるなど、信仰心の強い者ならばとても耐えられない。
それと同時に、光芒信仰に背を向けると自らの手で宣言させるのだ。
若い女は嬉々として絵を踏みつけ、黒法衣の側に寄り添う。
彼女は自分が何をしたか理解してやったのだろうか。
順番で行けば次であろう年配の男が動かないので横目で観察する。
緊張の度合いが強すぎる。女神の絵を踏む事に強い拒否感があるようだ。
恐らくはこの男がエアレーが言った、血気にはやった司祭だろう。
信仰の対象を足蹴にするなど真っ当な司祭にできるはずがない。
どうしたものかと考えながら、先に絵を踏む。
光芒信仰ではないシュエットですら抵抗を感じる行為だ。
シュエットに続きパッセルが絵の前に立つ。
そして、足を軽く上げて全力で踏みつける。
パッセルの踏みつけは、絵を床板ごと蹴り砕いた。
凄まじい音を立てて砕け飛んだ床板に悲鳴を上げる女。
黒法衣と年配の男は驚きと怯えで動けていない。
「絵、なくなっちゃった」
黒法衣にゆっくりと詰め寄るパッセル。
男は数歩後ずさってから、恐怖を押し殺して邪教の司祭らしく振舞う。
「よ、よほど光の女神が憎いのだな、お嬢さん」
「……憎いに決まってる」
「わ、分かった! すぐに司教様の所へ案内する、少し待っていてくれ!」
目の前でパッセルに憎悪と殺意を向けられた黒法衣は、
逃げるように部屋を出て行った。
シュエットですら真っ向からあんなものを向けられたら平常心ではいられない。
教会では素振りを見せなかったが、
誰も救ってくれなかった女神には思う所があったのだろう。
そして、パッセルが絵を蹴り砕いたおかげで、年配の男は何とか助かった。
複雑な表情をしているが、信仰心の揺らぎか。
女神は助けてくれなかったと憎悪する少女。
光芒の司祭として何を言えばいいのか分からないのだ。
真面目な男なのだろうと思う。そうでなければ単身で邪教に潜入などしない。
正直に言えば、長く生きた分の慎重さを身につけて欲しかったが。
しばらく待っていると、先ほどの黒法衣が戻ってきた。
明らかに腰が引けており、パッセルに決して近づこうとしない。
それっぽい衣装を着ているだけの普通の男。
これが司祭という時点で邪教の程度が知れる。
「これから司教様がお会いになる。くれぐれも粗相のないように」
明らかにパッセルに対して念を押す黒法衣。
黒法衣の気が逸れている間に、シュエットは年配の男へ冷ややかな視線を送る。
次は助けさせないという意味を込めたが、伝わっているかは分からない。
連れて行かれたのは、元々は倉庫か何かと思わしき広い部屋だった。
祭壇で見た聖印……邪印と言うべきだろうか。
その邪印がいくつも飾られていて、いかにもな雰囲気を醸し出している。
部屋の中には蛇のように手足を使わず床で這いまわる人々。
彼らなりの祈りなのかもしれない。何の意味があるのかさっぱり分からないが。
シュエットたちの前に、一人の男が歩いてくる。
最初の男と同じような黒法衣を着ているが、
法衣にははっきりと邪印が描かれている。
上位の司祭である証。この男が司教という事だろう。
「ようこそ、見捨てられた子らよ。
偉大なる邪神様は貴方たちをお救い下さるだろう」
顔つきは司教ではなく小悪党の方が似合っている。
視線の動きも欲望まみれの下種といった所か。
シュエットと年配の男はちらっと見ただけで、
若い女とパッセルの事は食い入るように見ている。
この分では男女で別々に引き離されてしまう。単独行動は避けたい所なのだが。
「では、そこの娘と女はこちらへ……」
「お待ちなさい」
予想通りの言葉を遮って、
深く外套を被り、薄布で顔が見えない黒法衣がこちらに歩いてくる。
声は若い女。司教は慌てて奇妙な姿勢を取る。
上位の者への礼にしては滑稽な格好だ。
「その親子は私が。女神の絵を床板ごと蹴り潰したらしいですね。
邪神様に仕えるに相応しくなるよう、私が導きましょう」
「お、お言葉ですが教祖様……」
「邪神様の御心に背くと?」
「い、いえ! 決してそのような事は!」
怯えるように頭を下げ続ける司教を尻目に、
教祖と呼ばれた女は手招きでシュエットたちを呼ぶ。
シュエットたちが近くに来ると、背を向けて優雅に歩き出した。
ついて来いという事だろう。
大人しくするようにとパッセルの頭を軽く撫で、教祖について行った。
教祖に案内されたのは離れの小屋。
彼女個人の部屋のようで、寝具と小さな机が置いてあるだけの殺風景な一室。
教祖は外套と薄布を雑に脱ぎ捨てる。二十に届くか届かないかの一見平凡な女。
彼女は寝具に腰かけ、わざとらしく大きなため息をついた。
「シュエット、あれだけ目立たないようにしてって言ったよね?」
「悪かった、仕方なかったんだ。光芒教会の司祭が先に潜入してたんだよ」
「あんたたちと一緒にいたおっさん? あいつ司祭だったんだ」
いつも通りの口調で教祖と会話するシュエットに驚いたのか、
大司教の時と同じようにパッセルが固まっている。
教祖は興味深そうにパッセルを見て、ひらひらと手を振った。
「大丈夫よ、切り札ちゃん。私はこいつが道を作るための協力者だから。
私はフロドゥーズ。よろしくね」
「……パッセル、です」
挨拶はしたものの困った様子で立ちすくむパッセル。
だからあえて先に言っておかなかった。
少女の本質は純朴な村娘であり、騙しには長けていない。
万が一にも、邪教の教祖が協力者だなどと知られる訳にはいかなかった。
パッセルを部屋に一つしかない椅子に座らせ、
フロドゥーズに見えるよう頭をかく。
「誰もここまでしろとは言わなかったぞ、どうなってるんだ」
「私だって予想外だったわよ、馬鹿どもが勝手に集まってくるんだもの。
十五人くらいの規模のつもりだったのに、今じゃ三百人。
中には奇跡使える光芒の司祭だった奴までいるのよ、毎日怯えて暮らしてるわ」
フロドゥーズが自分の肩を抱いてぶるぶると震える。
一々演技が過剰なのはそうやって生きてきたからなのだろう。
「教祖さんは、邪神を信じてるわけじゃないの?」
当然の疑問を口にするパッセル。
フロドゥーズの態度は、教祖という立場とは到底思えないものだ。
首を傾げる少女に対し、邪教の教祖はあっけらかんと言い放つ。
「当たり前じゃないの、この教団はシュエットに頼まれて作ったんだから。
そもそも私はちんけな詐欺師よ。よく回る舌以外、何もないただの女」
「シュエット……」
袖がぐいぐい引かれる。どういう事か説明しろと明らかに怒っているパッセル。
邪神と魔物に与するような行為、パッセルが許すはずもない。
公の場でやってきたような不要な単語まみれの長話をする気もないので、
要点だけを正直に話す事にする。
「理由は二つ。一つ目は光芒教会の尻に火をつけるためだ。
大聖堂の周辺は強力な守護の奇跡で守られていて、
上級魔物でもそう簡単には侵入できない。
だから大聖堂の司祭には事なかれ主義が多くてな。
身近に危機を感じてもらう必要があった」
大聖堂が奇跡で守られている事は、
教会上層部と大聖堂の司祭たちだけが知る秘匿だ。
最上級の司教たちが二十人がかりで周辺を守護する奇跡を使い続けている。
この秘密が漏れれば、大聖堂の周りに人々が押し寄せてしまう。
農地や食料には限りがある。全ての人を救う事はできない。
奇跡を使える司祭に町村から来てもらうわけにはいかない。
彼らは貴重な癒し手。村や町の防衛に支障をきたす可能性があるからだ。
そこで魔物が攻めて来る危険性の低い、大聖堂の司祭に協力を依頼した。
予想以上に集まりが悪かったのだ。
守られているという安心で、最前線に行こうとする者など稀だった。
だから身近に脅威を用意してやった。
信仰において決して相容れぬ邪神信仰。
そんな物が大聖堂の目前で行われるという有様。
信仰心や正義感が強い司祭は、すぐに商会の募集に志願してくれた。
とはいえ、それだけを目的に邪教を作るなどという
大それた事をしでかしたわけではない。
「二つ目の理由は天使だ。天使を捕獲する必要があった。
あのどうしようもない連中に痛い目を見てもらうためにも」
パッセルは意味が分からないらしくきょとんとしている。
フロドゥーズから睨まれ、頭を指で押さえる。
要点だけを言って前提を話していなかった。
ちゃんと最初から説明する事にする。
「俺は勇者に会いに来た天使と直に会った事がある。
連中は時々大聖堂に降臨するんだ。
百年の恋も冷めるって言葉があるが、あれを見たら千年の信仰も冷めるぞ」
ユウジたちと旅をしていた時に大聖堂に呼ばれ、
天上から降臨したという天使たちと面会した。
その理由を聞いた時には怒りを通り越して呆れるしかなかった。
"勇者が光の剣で魔物を滅ぼす所が見たい"。
勇者としての力を試したり、確認したりする類ではない。
暇潰しに面白そうな見世物を見に来ただけ。
魔物とはいえ、ユウジが命を奪う事に対して悩み葛藤しているなど知りもせず。
ユウジは光の女神から祝福を受けているので邪険にもできず、
適当な魔物を倒すと天使たちはさっさと帰ってしまった。
連中にとって、人間と魔物の戦いは他人事。ただの娯楽でしかなかったのだ。
物心ついた時から光芒信仰の下で暮らし、
大奇跡を扱い聖女と称されたメーヴェですら
天使が帰った直後、聖書に描かれた天使の絵を破り捨てたくらいだ。
その後も度々降臨し、娯楽を堪能しては
面倒事を起こして教会の司祭たちを困らせている。
そんな連中に付き合えるほど暇ではないし、余力も時間もない。
「邪教徒に捕まって手酷い拷問をされると知れば、
しばらくは下界に降りてくる事もないだろうという事さ」
「うん、大体はわかった。
……でも、そうじゃない天使だっているかもしれないのに、いいの?」
パッセルの優しい疑問。
一部の天使が横暴だからといって、全ての天使がそうと決まった訳ではないと。
人間が正にそうだ。聖者のような善人もいれば、良心のない悪党だっている。
しかし、実際に話をした事のあるシュエットは感じていた。
天使に対する違和感。
言葉は通じるのに会話が成立しない、あの気持ちの悪い違和感。
絶対的に相容れない種としての価値観の相違。それはまるで……。
「俺たちの邪魔をするなら、善人だろうが天使だろうが容赦はしない」
今は必要としない思考を押しのけ、冷徹に宣言した。
その言葉にしっかりと頷くパッセル。フロドゥーズはそれを見て頭を抱えた。
「狂人の計画に付き合うこっちは、たまったものじゃないけどね……」
フロドゥーズに連れられ、捕獲したという天使の所に向かう。
教祖と共にいるからか警戒はほとんど解けており、
窓越しに邪教徒が挨拶をしてくる。
フロドゥーズは言葉を発さず、さっと手を上げて応えている。
「沈黙は便利よね。喋らなくても相手が勝手に想像してくれる。
神秘的な教祖様の姿を勝手に作ってくれる」
「それに騙された身としてはたまらないな」
「あんたたちが勝手に勘違いしたのよ。そうなるように仕向けたんだけど」
皮肉を返される。口先だけで生き抜いてきた女に舌戦で勝てるはずもない。
勇者と共に旅をしていた時、この女詐欺師には二回も騙されている。
本来なら油断のならない相手だが、今は信用している。
少なくとも詐欺師としての手管だけは。
やって来たのは自警団の詰所。詰所の留置所に監禁してあるらしい。
奥の階段を降り、地下へ。
牢獄の中には背に白い翼が生えている、法衣を着た天使の男がいた。
その顔や手足は傷だらけで、かなりの拷問を受けたのだと分かる。
顔をしかめ、シュエットの服を強く握ってくるパッセル。
少女は痛みを多く知るがゆえに、他者の痛みにも敏感だ。
天使がこちらに気付く。
助けてくれとでも言うかと思ったが、天使の口から出た言葉は違うものだった。
「そろそろ気が済んだかい、人間。
ここは退屈なんだ、さっさと離すなり殺すなりしてくれないか?」
開口一番、あっけらかんと言い放った天使。
人間が言ったのなら状況を分かっているのかと呆れかえる所だ。
ましてや、拷問が辛いからではなく暇だからという理由。
虚勢ならまだよかったが、様子を見る限り本心から言っている。
「死ぬの、怖くないの?」
「再度召喚されればいいだけだ。
ただ、ここは大して面白くもなかった。もう来たくはないな」
「大陸中で魔物が暴れまわってるから、面白い訳ない」
「そうか? 魔物は多少面白かったぞ。
この辺りには魔物が出ないから余計につまらん」
世間話でもするような気軽さで言い放つ天使。
パッセルの手に力が込められる。
やれ、と一言指示を出せば天使の首は容易く圧し折れるだろう。
少女の肩に手を置いて首を振る。獅子人と相対した時とは逆だなと苦笑した。
「そう言わずに、たっぷりとお楽しみくださいな」
「痛いだけで、退屈で面白くないと言っているのだが」
「人間は天使に娯楽を提供している訳ではありませんので。
お前らには分からないんだろうけど」
教祖の優しげな雰囲気から一変、
詐欺師としての本性をあらわにして吐き捨てるフロドゥーズ。
彼女の言葉通り、天使は何一つ理解できなかったようで首を傾げるだけだった。
留置所をざっと見渡す。
小さな村で、大聖堂が近いので治安もよかったらしく簡素な牢獄だ。
自警団が誰もいなければ、一人でも余裕を持って天使を助け出せるだろう。
大体の間取りや鍵の在処などを確認し、外に出る。
「……お姉ちゃんは、最後まで女神と天使が助けてくれるって信じて戦ったのに」
パッセルの拳は強く握られ、激しい怒りを表している。
そんな少女の前でフロドゥーズは肩をすくめた。
「そりゃ残念だったわね。あんなのに期待したのが間違いだったのよ。
信仰されるものは、決して人間を救ってなんてくれないんだから」
「そこまでだ。
それよりもフロドゥーズ、天使に関する情報はどのくらい集まった?」
このままでは険悪な雰囲気になりかねないと思い、二人の間に割って入る。
パッセルは不満そうだが、フロドゥーズは素知らぬ顔で質問に答える。
「調べられる事は全部。これ以上は逆さに振っても出てこないでしょ。
もうあいつは用済みね。さっさと持って帰らせて」
「俺たちと一緒にいた光芒司祭の他に、潜入している司祭はいないか?」
「一人いるわよ。部屋割りをあんたたちと一緒にしておくわ」
「なら、予定通り明日の晩に決行する。そっちは任せたぞ」
「はいはい、任されました」
会話が終わると、フロドゥーズは薄布を被る。同時に教祖としての仮面も。
自警団詰所をちらりと見る。
あんな奴を助ける義理はないし、助けたくもないのだが仕方がない。
下界に来ても痛い目に合うだけだと、他の天使たちに伝えてもらわなくては。
連中の住処から出てこないようにしなくてはいけない。
しかしシュエットたちが助けては面子が立たない者がいる。
敬虔なる光芒の司祭たちにやってもらう。
自分たちは助力をしたという形にして。
彼らの面子を立たせ、かつ恩は売る。商売における鉄則の一つ。
相手に得を、自分にも得を。
これを理解しない強欲者はいつか破綻すると教えられた。
今は亡き師匠は、自分もろとも損をさせ、
誰よりも強欲に破綻しようとするシュエットをどう思っているのだろうか。
そんなどうでもいい事を、青空を見上げながら考えた。
***
村の民家に住む在野信徒は各家庭で食事をするが、
この本拠に集う熱心な信徒たちは食堂に集まり全員で食事をする。
これだけなら集団生活においてよくある話なのだが、食事の作法が奇妙過ぎた。
シュエットたちのような入信したての平信者は手掴み。
熱いスープの具まで手掴みという事以外は普通だ。
ある程度の修行を終えた信徒や司祭は、
皿を床に置き、手足を使わず獣のように食べるのだ。
中級以下の魔物が、二足歩行する獣のような姿をしているからだろうか。
司祭らしい年配の男女も、小悪党な顔をしたあの司教も、
顔中をスープでべとべとにしながら舌で舐めていた。
自分たちと共にいた若い女が真似をしようとした所、
激怒した女司祭に平手打ちをされる。
どうやら高位の信者にのみ許された行いらしい。
真相を知るシュエットにとっては拷問に等しい時間だった。
詐欺師が作った戒律を大真面目に実行し、
飼い犬のように食事をする者たち。あまりに惨めで情けないその姿。
それを指示したのが自分なのだから居たたまれない。
いっそ笑い飛ばせれば楽だったのだろうかと考えながら、
無言で食事を腹に入れ続けた。
食事を終え、用意された部屋に入る。
毛布と机が置かれているだけの殺風景な部屋。
シュエットとパッセル、年配の男、
そしてパッセルより五歳くらい上の年齢に見える少女。
四人が部屋の中で作れる最大の三角形を描くように、壁際に離れて座る。
フロドゥーズの話によれば、この二人が邪教に潜入した光芒の司祭。
まずは警戒を解く必要がある。
ランタンに火を入れ、部屋の中心へ。
そして、二人に見えるように手で形を作る。
影が手の形の通りに壁へと現れる。
天から降る光芒を模した影絵。光芒の司祭が使う識別用の暗号だ。
それを見た二人は驚き、シュエットの元へと近寄って来る。
「俺はウルラ商会長シュエット。エアレー大司教の命を受けて来た」
部屋の外に音が漏れないよう小声で話す。
壮年の男が短く祈りを捧げる。邪神にではなく、光の女神に。
「商会長自らがこのような恐ろしい場所に……。
申し訳ありません、昼間は商会長のお嬢様に助けていただきました。
女神様の御姿を足蹴にするなど、私にはとても……」
男の言葉を聞き、部屋にいるのが全員味方だと確信したのか
少女が深く息を吐く。
「大司教様にご心配をおかけしてしまったのね。
わたしは潜入して十日ほどだけど、天使様を助ける方法がなくて。
自分だけ逃げる訳にもいかないし困っていたの」
真面目で優しそうな男と違い、いかにも気の強そうな少女。
気性と所作が戦う者のそれ。この少女がエアレーの言っていた人物だろう。
手招きをし、内緒話のためにランタンに顔を近づける。
二人の司祭も同じように近づく。
なぜかパッセルまで近づいてきて顔をつき合わせる。
遊んでいる訳ではないんだぞと額を突っついた。
「手はずは既に整えている。
先に潜入した協力者が、明日の夜に自警団詰所から人払いをする。
貴方たちはその間に天使を救い出し、大聖堂に帰還してくれ。
こちらは後処理をしてから大聖堂に戻る」
「商会長って肩書の割に手慣れ過ぎじゃない?」
「元は旅人だし、ウルラ商会を率いるともなればな。こういう事は嫌でも覚える」
少女に疑いの目を向けられたが、ごまかさず正直に事情を言っておく。
それが功を奏したか、納得してくれた少女がそれ以上口を挟む事はなかった。
「明日の夕食が終わったら、俺たちが自警団詰所近くの隠れ場所に案内する。
日が沈んだら警備がいなくなるから、その隙に救出する」
司祭たちは言葉を発さず、頷いて返答する。
「伝える事は以上だ。光の女神のご加護を」
打ち合わせを済ませ、ランタンを消して再度壁際に移動する。
今日会ったばかりの相手と仲良くしているのは不自然だと考えたからだろう。
こちらとしても余計な事を喋らなくていいので都合がいい。
フロドゥーズの言葉通り、沈黙は便利なのだ。
パッセルは毛布に包まるなり寝息を立てる。司祭の少女もすぐに眠ったようだ。
年輩の司祭はなかなか寝付けないらしく、時々こちらを見ていた。
落ち着けないのは分かるが、少しは眠ってほしいと思う。
なぜ彼のような穏やかで真面目な小心者が、
邪教への潜入などという事を考えなしにしてしまったのか。
きっと信仰の所為であり、信仰のお陰だ。
信仰という芯があるから意志が揺らがない。
指針があるという事は、勇気と強さを与えられるという事だ。
信仰という目隠しが神に都合のいい物しか見せてくれない。
だから無謀な行為や残酷な事、無意味でしかない事も平気でできる。
勇者と旅をしていた時、
物心ついてからずっと祈り続けてきたメーヴェに聞いた事がある。
信仰とは結局のところ何なのだろうか、と。
大奇跡を軽々と行使する聖女は、微笑みながら答えてくれた。
その答えに口が塞がらなかったのを覚えている。
ユウジなど露骨に狼狽えていたほどだ。
聖女は言った。
信仰とは信じるものではなく使うためのものです、と。
***
次の日、夕方。
自警団詰所の近くにある空き家に潜み、交代で詰所の様子をうかがう。
今は年配の司祭とシュエットがじっと窓の外を覗いている。
辺りはかなり暗くなっており、人の顔を判別する事も難しい。
「いきなりいなくなって、邪教徒に気付かれないかしら」
「昨夜は誰も見回りに来てないから、たぶん大丈夫だと思う」
「あなた朝まで寝てたじゃない」
少女はパッセルと雑談をしている。
そうやっていると二人とも年相応の娘に見えてくる。
本来なら盗みや脱走を警戒して見回りは行うものだが、
恐らくは教祖の指示で見回りを止めていたのだろう。
今日も見回りは行われないはず。
一体どうやって説明したのだろうかと考え始めてすぐ止めた。
信仰と教義の元に、適当な理由をでっち上げれば信徒は従うのだから。
なにせ教祖が嘘と出まかせの達人だ。そのくらい片手間でやってのける。
「商会長、あれを」
年配の司祭が詰所を指差す。扉にランタンが吊るされ、自警団が出て行く。
事前にフロドゥーズと決めていた通り。
今からしばらく詰所には誰もいなくなる。
「完全に日が落ちてから出るぞ。なるべく音を立てないように」
年配の司祭は緊張で身を震わせているのに対し、
二人の少女はわくわくして高揚感を見せているのが対照的だなと思った。
シュエットは何度か似たような潜入をやった事があるので、緊張も高揚もない。
やるべき事をやるだけだ。
扉に吊るされたランタンを取り、素早く詰所の中に入る。
予定通り自警団は誰もいない。一気に地下の留置所へと進む。
牢獄の中にいる天使は、何をする訳でもなく呆けた様子で壁を見つめていた。
天使はシュエットたちに気が付くと、億劫そうに近づいてくる。
「そろそろ気が済んだかい、人間。
ここは退屈なんだ、さっさと離すなり殺すなりしてくれないか?」
パッセルがわずかに驚き、顔をしかめる。
最初に会った時と一言一句同じ言葉。
人間とそっくりの姿で同じ言語を喋るのに、魔物の鳴き声よりも気持ち悪い。
小さな机の上に置いてあった鍵で牢を開ける。
ゆっくりと出てきた天使の前で、二人の司祭は祈りを捧げた。
「天使様、ご無事ですか? さあ、早く脱出しましょう」
「やっとここから出られるのか」
牢からゆっくりと出てくる天使。一刻を争う状況だと全く理解していない。
年配の司祭が天使の手を取り、
少女の方は手近にあった拷問用であろう木の棒を掴む。
鎚矛のような武器を得意としていたのか、
棒を軽く振って慣らす動きに無駄がなかった。
天使に毛布を被せ、目立ちすぎる背の翼を隠す。
何やらぶつぶつと文句を言っているようだが知った事ではない。
自警団詰所は大聖堂の方角にあり、村の入口もそこまで離れていない。
見つからないように村を出るのは難しくないだろう。お荷物さえいなければ。
詰所の扉に元のようにランタンを吊るし、火は消しておく。
民家の住民に見つからないよう、音を出さず家の陰に隠れて進む。
村の出入り口が見えてきたが、明かりを持った見張りが二人。
「そこで待っていてくれ。パッセル、合わせろ」
「わかった」
司祭たちと天使を待機させ、パッセルと共に音もなく見張りに近寄る。
見張りは欠伸をかみ殺しており、あまり真面目な方ではないのか談笑している。
見張りの片割れへと一気に近づき、
背中から抱きすくめるように首へと腕を回し締め上げる。
「な、なん!?」
もう一人の見張りはその先を言えず、パッセルの手が男の首を掴んでいた。
「殺す?」
「落とせ」
腕に力を込める。
息ができないようにするのではなく、
頭に血がいかないようにすると早く意識を失わせられると聞いた。
パッセルも首の骨ではなく、首の上の方を押さえている。
見張りはパッセルの腕に手をかけるが、彼女の力に対抗できるとは思えない。
すぐに見張りの体から力が抜ける。そっとその場に寝かせてやった。
手招きをして司祭たちを呼ぶ。
年配の司祭は怯えた様子で、少女は感心しているようだ。
「手慣れてる。あなたもその子も相当の腕なのね」
「殺すのは慣れてるけど、こういうのはあんまりやった事ないよ」
「そ、そう……」
パッセルの返答に顔を引きつらせる少女。
その際に天使の顔をちらりと見てしまったが、
いかにもつまらなそうに憮然としているのが腹立たしかった。
大立ち回りでも見られると考えていたのだろうか。
出入口の門を抜け、後ろから誰も追ってこない事を確認し、一息つく。
後は大聖堂に帰るだけ。天使以外の全員がそう思ったであろう瞬間。
村の半鐘がけたたましく鳴り響く。それと共に聞こえる女の大声。
「脱走よー! 天使が逃げたーっ!」
一応村から出てはいるが、それこそ一歩出ただけに過ぎない。
このままではすぐに見つかってしまう。
頭の中でフロドゥーズに対して悪態をつく。
発見が早すぎる、これでは予定と違う。
「近くの森に逃げ込め! 走れっ!」
形振り構っている場合ではない。全員で森に向かって走る。
幸いにもこちらの姿は見られていなかったらしく、木々に隠れる事ができた。
村の方を見ると、松明を掲げた邪教徒が天使を探しているようだ。
一刻の猶予もない。二人の司祭に向けて話を切り出す。
「司祭さんたち、天使を連れて先に行ってくれ。
俺たちが連中を足止めしておく。天使を連れていても逃げ切れるはずだ」
「そんな事できるはずないじゃない! だったらわたしが残るわ!」
シュエットの提案に少女が食ってかかる。
この少女ならそう言うだろうとは思っていた。
そんな少女を、パッセルが軽く押す。
予想外の力で押されたのか、少女は後ろに数歩下がって軽くよろめいた。
「あなたは武器を持ってない。あたしは武器なくても平気。
そもそも、あたしたちの方がずっと強いのは分かるよね?」
「ここで問答をしている時間はない。必ず追いつくから先に行け」
パッセルの容赦ない言葉に続けて、畳みかける。
少女は悔しそうな表情をして地団駄を踏む。
決断が早い。いい神官戦士になりそうだと思った。
「分かった、大聖堂で待ってるから! 必ず帰ってきてよ!」
「光の女神のご加護を!」
二人の司祭は天使を連れて森の奥へと入っていく。
「あの連中との戦いがあるのだろう? それを見たいのだが……」
「さっさと走りなさいっ!」
未だ道楽気分でいる天使の尻を蹴り飛ばす少女。
年配の司祭も無言で天使を引っ張っていく。
誰を助けるためにシュエットたちが残るのか。
それを考えたら腹に据えかねるのも当然といえた。
すぐに白い翼が森の陰に隠れて見えなくなる。
何を話しているかも、もう分からない距離だろう。
腰の手斧を構える。しばらくして、黒い法衣をまとい薄布を被った女が現れた。
見間違えるはずもない、邪教の教祖だ。
「予定と違っているんだがどういう事だ、フロドゥーズ?」
「あんたの事、大嫌いだもの。詐欺師をまともに信用しないでよね」
「奇遇だな、俺もお前の事は大嫌いだよ」
ゆっくりと近づいてくるフロドゥーズ。
いつでも仕掛けられるように構えているパッセルの頭を軽く撫で、斧をしまう。
フロドゥーズは懐から羊皮紙の束を取り出し、シュエットに手渡した。
「天使の情報、連中の住処の情報、その他もろもろ。
あいつから引き出せた情報は些細な事も全部書いてあるわ。
それを持ってさっさと行っちゃって。こっちに捜索は来ないから」
状況を飲み込めないパッセルは困惑してシュエットを見ている。
そんなパッセルを見て、女詐欺師は笑った。
「ちょっとこいつに意地悪しただけで、予定通りだったのよ。
元から私がここで書類を渡す手筈だったって訳。
どうせ天使はもたもたしてたでしょ? ついでに尻を叩いてやろうと思ってね」
尻を叩くというか蹴飛ばされていたが、
あの分なら最短距離で大聖堂に向かうだろう。
「後ね、単に天使を逃がしたってなると私の立場が危ういのよ。
脱走者が天使を逃がしちゃったけど、脱走した奴は捕まえたってのが理想ね」
「俺たちを捕まえるのか?」
「冗談言わないでよ、私まだ死にたくないから。
あんたたちと一緒に入信した女も脱走したから、あいつに罪を着せるわ。
司教気取りの糞野郎に手籠めにされて逃げたの。
邪教に何を求めたんだか……馬鹿な女」
憎々しげに地面を蹴るフロドゥーズ。
顔見知りとさえ言えないが、女の末路には心が痛んだ。
男の自分でもそう感じるのだから、同性のフロドゥーズはそれ以上だろう。
パッセルは手籠めの意味を理解していないが、
とにかく嫌な事なのだとは分かったようだ。
「司教にそそのかされてやった事にしておくけどね。
私はしばらくしたら逃げる。邪教の役目も終わったし、そろそろ潮時かなって。
だからあんたも気にしない方がいいよ、無駄に顔が怖くなるだけ」
「詐欺師のお前のように考えられたら楽だったかもな」
「慰めて損したよ」
憎まれ口をたたき合って微かに笑う。
お互いすぐに笑みを消し、肝心な事を聞いておく。
「邪教は穏便に解体できるか?」
「光芒教会の介入もあるだろうし、
教祖がいなくなれば一部の欲深野郎ども以外は自然消滅するでしょ。
村人たちは多分大丈夫よ。
田舎村に住む連中の強かさはよく知ってるんじゃない?」
田舎村出身としては頷くしかない。
介入してきた光芒教会の司祭たちに全力で媚を売り、
掌を見えぬ早さでひっくり返して教会の信徒に戻る村人たちが目に浮かぶ。
そんな会話をする二人を見て疑問に思ったのか、パッセルが口を開く。
「フロドゥーズがこんな危ない事してるの、シュエットのため?」
「それは天地がひっくり返ってもない。
私がこいつに協力してるのはユウジのためだよ。
あのお人好しの勇者に借りがあるの」
勇者一行として旅をしていた時、詐欺師のフロドゥーズと出会った。
二度も騙されて酷い目にあったのだが、
ユウジはそれでもフロドゥーズの善性を信じた。
三度目の騙しが失敗し、魔物に殺されそうになった
フロドゥーズをユウジは身を挺して救った。
音に強く反応する魔物の群れを惹き付けるため、
ユウジが咄嗟に投げた"すまほ"なる板。
ユウジの両親や姉の声、故郷の音楽などが
この世界で唯一聞けるその板を捨ててまで助けた。
その時にようやく、勇者の優しさは女詐欺師に届いたのだ。
「協力するのは、私の所為でユウジから奪ってしまった物を返すため。
あの人が幸せに生きられる場所に帰すため。
そのために何百、何千の人間を騙し、この命を懸けるだけ」
そこまで言ってからフロドゥーズは少し屈み、パッセルと視点を合わせる。
そして、ちらりと横目でシュエットを見た。
「あいつのために命懸けちゃ駄目だよ。あれはろくでもない化物だから」
「知ってる。だから離さない」
パッセルの返答に対して頭を抱えるフロドゥーズ。
肩をすくめながら村の方に歩き出し、振り向かずに手を振る。
恐らく今生の別れになる。二度と道が交わる事はないだろう。
「助かった。ありがとう、フロドゥーズ」
「ありがとう」
礼を言うシュエットたちに対し、女詐欺師が返したのは一言だけだった。
「お似合いだよ、あんたたち」
***
それから三日後、光芒大聖堂。
邪教徒の捜索らしきものはなかったが念を入れて隠れつつ、
問題なく大聖堂に到着できた。
今は大司教の私室でエアレーに報告をしている。
半分以上が嘘という、神の御許でやるような代物ではない報告を。
「邪教は早晩崩壊すると思う。邪教に関しては以上だ、婆様。
司祭たちには大聖堂の入口で会ってきた。天使は帰ったそうだな」
天使を連れて先に行った二人は、無事に大聖堂に到着していた。
律儀にシュエットたちが戻ってくるのを
聖堂の入口で待っていたので、少しだけ言葉を交わした。
少女司祭は最果ての砦へ向かう事を了承してくれた。
全てが自作自演だと知ったら、少女は激怒してシュエットをぶん殴るだろう。
「ご苦労様でした、シュエット。
……さて、手を壁について尻を向けな」
エアレーの言う通りに手を壁につけ、尻を向ける。
予想はできていたとはいえ、やはりこうなった。
何が行われるのか分からずきょとんとしているパッセル。
エアレーがシュエットの横に立つ。
平手で尻を叩かれた。続けてもう一度、更にもう一回。合計三発。
尻の痛みと共に、相変わらずいい音の鳴る尻叩きだと馬鹿馬鹿しい事を考えた。
「相変わらず効くな、婆様の"神罰"は」
痛む尻を押さえながら、ゆっくりと椅子に座る。
エアレーは滅多な事では暴力を振るわない。
この神罰を執行されるのは、それ以上の苦痛を誰かに与えた者のみ。
その神罰にしても、一瞬の痛さと派手な音に特化していて威力はあまりない。
お仕置きのためだけの尻叩きだ。
馬で悪路を走った後の方が、よほど座った時に痛かった。
「あんたの自作自演に、私たちと村人たちを付き合わせた罰だよ。
私が気付かないとでも思ったんじゃないだろうね」
「気付いていても、協力してくれると思ってはいたよ」
シュエットたちが大聖堂に来る前から気付いていただろう。
この婆様に隠し事などできる気がしない。
それでも、あえて計画に乗ってくれた。
「あんたが勇者のために道を作ってるのは知ってる。
それ以上に、その道ができなけりゃ世界に未来はないってのを知ってる。
協力するしかないだろう、若者を死地に送り出すんだとしてもね」
そう言って、エアレーは羊皮紙を渡してくれる。
司祭の名前が書かれた羊皮紙。前の物と違い、全ての名前に印がついている。
数が一人増えて二十三人。
「私が話をつけておいた。あんたが旅立って少し後に、最果ての砦へ向かわせる。
誰も死なせるな、なんて不可能な事を言うつもりはないよ。
だけど、あんたと共に道を作る者たちだ。
自分の腕や脚だと思って大事にしておくれ」
「約束する。ありがとう、婆様」
しっかりと握手を交わす。
自分の四肢を邪険に扱う者はいないが、
エアレーの言った事は二つの意味を持っている。
"自分と同じように大事にしてくれ"と"シュエット自身も大事にしろ"。
老司教の思いやりに、心から感謝した。
「パッセルには、これをあげるよ」
エアレーがパッセルに手渡したのはリボンだった。
金糸が織り込まれた、聖堂の外装を写したかのような美しい白のリボン。
「でもあたし、光の女神は信じてないし、大嫌い」
「奇遇だね、私も信じちゃいないよ」
大司教から放たれた予想外の一言に、目をぱちくりさせるパッセル。
光芒教会最大の権力者にして、
もっとも女神に近しい者が言っていい事ではない。
真意を知らなければ乱心と思われても仕方がないほどだ。
困惑して言葉が出ないパッセルの頭を、エアレーは優しく撫でる。
「信仰は神のためにあるんじゃない。信じる人間が善く生きるためにあるんだよ。
だから私は義娘にこう教えたんだ。宗教を信じるな、信仰は使うための物だと。
そのリボンはただの白いリボンさ。ただそれだけの物でしかないんだよ」
「ありがとう、お婆ちゃん」
礼を言うパッセルを再度撫でるエアレー。
あえて"お婆ちゃん"という呼称を使ったのは、
話の内容を理解し受け入れたからだ。
エアレーは光芒の大司教ではなく
ただ善く在り、善く在れと説く一人の老婆なのだから。
あの女詐欺師も言っていた。信仰されるものは決して人を救わないと。
だからエアレーは人として人を救うのだ。
女神への信仰を徹底的に利用して。
「貴方たちの作る道を、光芒が照らしますように」
大司教の優しい祈りに合わせ、シュエットとパッセルも祈った。
神にではない。
光芒という細き一筋の光を作り、運び、守り、届けようとする全ての人に。
***
借りた馬を引きながら、大聖堂を改めて見つめる。
信仰心が美しくするのではない。
誰かが美しく磨くから美しさが保たれるのだ。
馬の上で長い黒髪を風になびかせるパッセルもまた、
同じように考えているような気がした。
大聖堂の門では、司祭の少女が待っていた。
神官戦士らしい鎚矛と中型の盾を背に、白を基調にした軽装鎧。
その姿は、きれいな金色の髪によく似合う。
「商会長、わたしたちは先に最果ての砦に行っているわ。
ここから魔導の洞穴は遠いけど、気を付けて。向こうでまた会いましょう」
「ああ、ありがとう。砦でまた!」
「またね」
馬に乗り手綱を握る。手を振る少女を背に、馬を走らせた。
光芒大聖堂から魔導の洞穴までは、馬で向かっても二十日はかかる。
魔導の洞穴での準備が終われば、全ての準備が整う。
魔導の洞穴からは転移魔術を使い、直接最果ての砦へと送ってもらう予定だ。
高揚と不安が同時に襲ってくる。
全ての準備を終え、約束の道を作る事ができる高揚感。
そして、それが成功に終わるかどうか分からないという恐怖と不安。
退路はとっくに絶たれた。もう一度を行う余力も時間もない。
何が待ち受けていようと進むしかない。
しかし、圧倒的なまでに恐怖と不安の方が大きい。
両肩と背中に数万の冷たい刃が食い込んでいるような錯覚さえ覚える。
身震いをしたシュエットの背に抱き着いてくるパッセル。
寒くて震えていると思い暖めようとしてくれたのだろうか。
不思議なもので、少女の温もりを感じていると震えが消えた。
数万の刃が肩と背に食い込むなら、それを使って戦えばいいだけ。
少女の温もりがそう言っているような気がして。




