第3話:勝利のために
*****
邪神と魔物の襲撃は突然始まった。
会話も成り立たない、何を求めているかさえ分からない
破壊者の群れに世界は蹂躙された。
穏健でまず対話する事を信条としていた友人の領地は破壊と死だけが残り、
友人は戦鬼へと身を堕とした。
魔物どもは個々の強さもあるが、何より厄介なのは数が無限という事だ。
邪神により、殺しても殺しても無限に召喚される魔物。
正確には肉体を破壊しているだけで魂は殺せず、
再召喚されていると魔術師から聞いたが、理屈はどうでもいい。
私にとって重要なのは、破壊と殺戮しか知らない
無限の敵兵からどうやって領地を守るかなのだから。
魔物どもは戦術というものを知らず、我が軍は連戦連勝を重ねた。
士気の上がる軍や民衆。それとは裏腹に私の心は暗く沈んでいた。
勝ってはいる。しかしそれだけだ。
軍同士がぶつかれば死者や負傷者は当然出る。
そして私の領地では勝っているが、他の領地は負ける所も出てきている。
国全体としてみると押される一方なのだ。
召喚者である邪神を倒さなければ勝機はない。しかしどうやって?
国王は高名な武芸者たちを雇い入れ、光の女神は神託とやらで
勇士を見出し王都に送り出したらしいが、ことごとく失敗。
金で釣った所で限度がある。国家を揺るがすような額は出せない。
国を挙げての補助もできない。
どこも防衛線と日々の暮らしを守るので精一杯。
無限に湧く魔物を退けながら、単独での邪神討伐。
最後まで意志を貫ける者はそういない。
十六人もの神託の勇者が現れ、三人が死に、十三人が逃亡。
喜劇にしては全く笑えない。
希望など何も見えない防戦。滅びを引き延ばすだけの勝利。
それに疲れ果てていた時だ。
十七人目の神託の勇者。彼が希望の光を一筋だけ繋げてくれた。
仲間たちと共に、魔物に奪われた村や町を取り返し、
戦局をほぼ単騎でひっくり返してくれた。
そして、邪神の喉元にまで迫り、光の剣で邪神を貫くだけとなった。
しかし、邪神が討たれたという報告も、
魔物が消えたという報告も一向に届かなかった。
勇者は邪神の本拠地に到達できず、攻めあぐねている状況らしい。
その間にも魔物の襲撃により、民の被害は拡大していく。
遂には国家そのものが限界に達しようとしていて、
勇者への苛立ちが募るばかりだった。
身勝手な苛立ちだが、後一手まで到達して希望を見せてからの体たらく。
理不尽な怒りをぶつけたくもなる。
そんな時だ、彼が私を訪ねてきたのは。
「それで、何用かな? 魔物どもの襲撃のせいで自由時間も少なくてね」
つい厭味ったらしい言い方になってしまったが、
相手を考えれば仕方ないとも思える。
訪ねてきたのは、勇者の仲間である行商人の男だ。
勇者たちは社交を苦手としているのか、
交渉や謁見は彼が一手に引き受けていた。
今では勇者と別れ、大商会の長になっているというが。
勇者を見限ったのか、追放でもされたのか。噂では追放されたと聞いている。
どちらにせよ友好的に接するような人物でない事だけは確かだ。
「申し訳ありません、閣下。
お時間は取らせません、これに目を通していただきたく」
男は羊皮紙の束を机に置いてこちらに渡してくる。
商会に便宜を図ってほしいとの申し出か何かと思い、一通りざっと目を通す。
書いてある文を大まかに把握し、
慌ててもう一度最初から目を凝らして内容を頭に入れた。
羊皮紙の束を机に叩きつける。それが怒りだか狼狽だか分からなかった。
「何だこれは!?」
「博打です。掛け金はこの大陸全て。
この賭けに勝ったなら、閣下の本当に望むものが得られる」
「負ければ?」
「掛け金がなくなるだけです」
「何を賭けているのか、分かって言っているんだろうな!?」
「分からずに言える事ではありません」
淡々と返答する男に、私の感情は爆発しそうだった。
言葉の冷たさとは裏腹に、机に散らばる羊皮紙に激しく掌を叩きつける男。
「俺にはこれしか思いつかなかったし、できなかった。
邪神を討たなければ魔物は無限に召喚され続ける。
だから邪神を討つ。勇者を邪神の元へと到達させる。そのための道を作る」
男が丁寧な言葉遣いを止める。本心からそう言っているという証。
確かに書かれていた事はそのための準備だった。
しかし領主として、到底許容できるものではない。
「何の力もない民を盾にしてか!?」
「盾では足りない。武器と鎧にもなってもらう。
自分たちの住む場所は自分たちで守ってもらう。
窮地になったら勇者を呼べばいいなんて甘えは捨てさせる」
もうこれ以上男の話を聞いていたくはない。
しかし、自分の中の何かが聞けと叫ぶ。
あらゆる感情を排した理性が、うるさいほどに聞き続けろと叫んでいる。
「閣下も分かっているはず、このままでは負けが見えている。
だが、勇者が邪神の本拠に到達すれば勝てる。
勇者が砦に攻めてきた邪神と四体の最上級魔物を、
単騎で圧倒した事実がある」
情報は入手していた。最果ての砦に攻めてきた邪神と魔物五百体。
たった四人の勇者一行が、傷一つ負わず完勝したという。
目の前の男はその場にいて、勇者と共に戦った仲間だ。
間違いなく真実を話している。
男が五体満足で目の前に立っている事こそが証明なのだから。
「魔物は無限に現れるから守り続ける事に意味はない。
だから閣下にこの話を持ってきた。
明日の夜まで守り切って結局死ぬのなら、
今日の勝利に賭けて全てを出し尽くすために」
二日間守り続け、精一杯やったのだと力尽きて死ぬのではなく。
二日間耐える分の物資や戦力を一戦で全て使い、勝利のために戦う。
男がやろうとしているのは正にそれだ。
旅人や傭兵数人ではなく、大陸全ての人々に武器を手に戦えと強要して。
とても賛同できるものではない。狂人の博打に乗るなどあり得ない。
私に課せられる役目は内政、戦闘どちらも経験した事のない難易度になる。
しかし可能ではある。だからこそ男は私にこの話を持ち掛けてきたのだ。
大商会の金を使い潰すかのように計画された、無謀な賭け。
感情がいくら否定しても、理性が喚き散らすのだ。
勝利のためにはこの大博打に乗るしかないと。
自分の領地だけが勝っても無意味。
補給も増援もない籠城戦にしかならないのだから。
狂人が莫大な金をつぎ込み、大陸全土を巻き込んで作ろうとしている道。
もう一度同じ事をやれと言われてもできない。
時間が足りない。人員が足りない。
金と物資が足りない。国そのものが耐えきれない。
何より、こんな事を計画して実行する目の前の男がいなくなる。
これが最後の機会だとはっきりと分かる。
「……どの位の期間、耐えたらいい」
「一年半。こちらの目的もあって期間を設定した」
男の目的は分からないが、妥当な期間だと思った。
準備期間としてはまるで足りていないのだが、
これ以上の時間を掛けると国そのものが潰れる。
邪神を討ち倒しても、国土が無法の荒野になっては何の意味もない。
資料を持ち帰ってじっくり考えたい所だったが、
そんな事に意味はないと理解していた。
熟考した所で同じ事だ。やるかやらないか。
深く息を吸い、吐く。せめて深呼吸一回だけの時間だけは貰おう。
「いいだろう。勇者に頼らず、一年半の間耐えてみせよう」
「ありがとうございます、閣下」
男と握手する。狂人の掛け金に、領地と領民全てを上乗せしてしまった。
とても名君とは言えまい。
そう在るように努力はしてきたのだが、非才の身には限界があったようだ。
やると決めたからには全力を尽くす。
まずは部隊の再編、領地の守備配置変更。
その他にもやらなければいけない事が数多い。
だから、聞く事は一つだけにした。
「一つだけ教えてくれ、何故こんな事を計画した?
金に糸目をつけず、商会を潰すような真似までして」
男は机に散らばる羊皮紙を拾い集めながら、苦笑して言った。
「俺以外は誰もやらなかったし、できないからですよ」
それは、大陸全てを己の計画に巻き込んだ男に相応しい、
自信と諦念と決意と、狂気に満ちた返事だった。
*****
光が収まり、町の一角に転移は完了する。
地面を踏みしめた瞬間、聞こえてきたのは怒声だった。
「急げっ! 砦の西側に魔物が侵入した!」
「当たり前だ! 補修もろくにしてねえんだぞ!」
「無駄口叩いてないで走れ! あの砦が落ちたら町が丸裸だぞ!」
武装した男たちが目の前を駆け抜けていく。
彼らは砦の常備兵ではなく、増援として向かう途中らしい。
それにしては少し妙な会話だと思った。まるで誰かに説明しているような。
男たちの会話を聞いた町民が慌てて町の中心部へと走っていく。
今の時刻は朝だが、昼過ぎには町の大半に噂として広まっているだろう。
「シュエット、行こう」
パッセルが強く手を引いてくる。向かう方向は彼らと同じ。
魔物が襲撃しているのなら放ってはおけない。
理由は違えども、その姿に友を思い出した。
しかし、その前に言う事がある。
「パッセル、これから向かう砦の魔物は可能な限り殺すな。
動けない程度に留めてくれ」
「どうして?」
機嫌を悪くした様子はない。単純に疑問だったのだろう。
急いで砦に向かいたいので説明は簡潔にした。
「生かしておいた方が目的に近づく」
「わかった」
お互いにそれ以上の言葉は必要ない。増援の兵たちに続いて走り出す。
こちらは軽装で戦場慣れしている事もあってか、すぐに追い付いた。
「話は聞こえた、加勢する!」
「旅人か? すまない、感謝する! 砦の場所は分かるか?」
「知っている。先に行かせてもらう!」
走りながら短い会話を済ませ、速度を上げる。
すぐに差が大きく開いていく。
彼らの装備は簡略化されているが板金鎧で、
足並みを合わせていては遅くなってしまう。
シュエットのように旅をする者は、重い防具を付けない事がほとんどだ。
旅を始めた頃のユウジは鎧を身に着けていたが、
武技が身についてくるとすぐに外した。
長い距離を歩く旅では、鎧が疲労を蓄積させてしまう事が理由の一つ。
もう一つの理由は、魔物との戦いで大して役に立たないからだ。
魔力が付与された魔道具でもなければ、魔物の爪牙は容易く鉄を斬り裂き、
叩きつけられる粗悪な武器は板金鎧を中身ごと潰す。
動きを鈍らせるくらいなら軽装で回避した方がいい。
魔物と戦う旅人たちは、技量が上がれば上がるほど軽装になっていく。
鎧を外せるまでに至る者はごくわずかだが。
道なりにしばらくの間走ると、砦が見えてくる。
町に最も近い、最後の防衛線。
砦はぼろぼろで、補修もまともにできていないのが一目で分かる。
魔物どもは西壁を壊して侵入したようだ。
砦の兵たちは防御的な陣形を組み、
魔物の圧に晒されながら徐々に後退している。
「急いで助けに行かなくても大丈夫みたい」
「そうだな、きっちり受け止めている」
戦場の様子を見たパッセルの言葉に同意する。
魔物側は勢いに乗って押しているようだが、陣を崩せていない。
攻める度に自分たちの最前列が削れていく状況に
気付いていないのが魔物どもらしい。
それほど時間が経たない間に魔物たちの前衛はずいぶんと削れ、
砦の兵たちは一人の脱落者も出さず後退を完了させる。
しかし、砦は完全に奪われてしまったようだ。
砦には何かの骨とボロ布で作られた旗が掲げられている。醜悪な模倣。
今すぐに砦に突撃して、旗を叩き折ってやりたい衝動を何とか抑える。
「はっはっはァ! どうやら今回の戦は我の勝ちのようだな、好敵手よ!」
砦の外壁で旗を掲げて立つ、胸部にもう一つの顔がある獅子人が高笑いをする。
獅子の顔だというのにすぐ分かるほどの満面の笑み。しかも両方の顔が。
その姿を見てシュエットは長柄斧を隠すように持ち替え、
パッセルの後ろに移動した。
パッセルはきょとんとした顔でシュエットと獅子人を交互に見ている。
「シュエット、あんなのが怖いの?」
シュエットが隠れている理由に、
獅子人が結びつかないから困惑しているらしい。
パッセルの看破通り、あの獅子人は上級の魔物ではあるが
戦闘能力が他の魔物と比べて極端に高い奴ではない。
それをよく知っているから見られては困るのだ。
「奴は四天王の一体。
何度か戦った事があるから多分俺の事を覚えている、見られたくないんだ。
四回ほど頭を潰した相手の事を忘れてくれるかな」
「無理だと思うよ」
パッセルに呆れられた。
忘れていたら、そちらの方がどうかしている。
自分を四回も殺した相手をどうやったら忘れられるのだ。
しばらく両軍の睨み合いが続き、魔物の軍が砦に退却していく。
兵士たちも十分に距離が離れてから町の方へと撤退する。
パッセルの手を引いて、足早に兵士たちの後を追った。
町の入口、門の辺りで兵士たちが休んでいる。
その表情は一様に暗く、砦を奪われた事で
士気がかなり落ちているのが見ただけで分かるほどだ。
その中の一人、ウルラ商会の訓練生である証を身に着けた男に話しかけた。
「ティグリス閣下がどこにいるか知らないか?
商会長シュエットがお会いしたいと伝えて欲しいんだが」
「し、商会長!? 閣下はこちらです、ご案内いたします!」
戦闘で疲れているはずだが、すぐに立ち上がり先導してくれる。
シュエットは暴君として通っているので、怯えての行動だろう。
そのような扱いにはもう慣れたが、
少しだけ感じる寂しさと居心地の悪さはいまだに消えてくれない。
「ティグリス閣下?」
「この町を治める領主で、さっきの戦いでも指揮官として戦場にいたはずだ。
軍の指揮で閣下の右に出る者はいない」
「そう……?」
簡潔に説明したが、パッセルはあまり納得していないようだ。
シュエットの言い方だと、
戦上手であるかのように話しているのに砦は奪われている。
単独での戦いしか知らないパッセルが疑問に思うのも仕方がない事だ。
きっと町民も、戦場で戦う兵士たちですら、そう考える者がいるだろう。
しかし、軍の動かし方を教わった今ならばわかる。
上手く負けるのは、上手く勝つよりはるかに難しい。
今回の負けは自軍にほとんど被害を出さず、敵の戦力だけを削っていた。
次につながる負けだ。
シュエットが今日来る事すら考慮に入れている。
彼ならばそれくらいはやると確信している。
案内されたのは、門の近くにある民家だった。
そこを守っていた領主直属の衛兵に話を通し、中に入れてもらう。
町の中心部に避難している町民から一時的に借り受けているようで、
家主の姿は見当たらない。
民家で一番広い部屋に通されると、壮年の貴族が険しい顔で座っていた。
領主ティグリス。アルソス町の一帯を治める貴族だ。
「お久しぶりです、閣下」
「シュエット殿、予定通りの到着だな」
深々と礼をするシュエットに、片手を上げて返すティグリス。
領主と平民、この対応が当然だ。
「ところで、そちらの子は? 君の娘さんかな」
「この子はパッセル。
俺と血の繋がりはありませんが、道を作るため共に歩む同志です」
「シュエット、いいの?」
少し焦ったような早口で、シュエットの袖を引っ張るパッセル。
あっさりと本当の目的を話した事を気にしているらしい。
パッセルの焦りとは真逆に、ティグリスは穏やかに笑う。
「心配いらないよ、お嬢さん。私も彼の同志だからね。
どういう目的で動いているかは全て聞いている。
君が話にあったパッセルちゃんか、よろしく」
驚いて目を丸くしているパッセルの姿に、思わず笑みが出てしまう。
国王に呼ばれて謁見しているくらいなのだから今更だが、
村娘のパッセルにとっては領主の方が分かりやすい偉い人なのだろう。
国王は身分が上過ぎて実感がわかないのかもしれない。
そんなシュエットたちを見て微笑んでいたティグリスの顔が
一軍の将のものへと変わる。
「さて、挨拶はこれくらいにして早速本題に入りたい。
今日の戦闘で魔物どもに砦を奪われ、町まで直通で攻め込まれる状況だ。
門近くの住民はすでに避難させている」
机に周辺の地図を広げ、簡潔に説明をしてくれるティグリス。
魔物どもが転移してくる拠点と町の間には砦が三つ。
その全てを奪取された状態。
町は丸裸、住民はいつ魔物が襲撃してくるかと怯えている。
そんな状況にありながら、ティグリスは不敵に笑う。
「意図的にこの状況を作ったんだがね。
民にはある程度危機感を持ってもらわねば」
魔物との戦闘は三つの砦での一進一退の攻防。これが二年近く続いている。
そもそも魔物は殺しても、邪神によって何度でも再召喚される。
二年も戦闘状態にありながら、
町周辺を平穏に保っているティグリスの手腕は凄まじいものなのだ。
それでも民衆は不満をため込むし、
その不満は一番目立つ責任者、つまり領主に向かう。
最近は防衛も上手くいっており、
魔物の事など忘れて領主への不満が高まっていると聞いていた。
ティグリスがいなければ町は魔物どもの餌場になるというのに。
だから冷水を民衆にぶちまけたのだ。
魔物が自分たちの目の前にいると思い出させるため。
「魔物は危ないから、そういうのは、だめだよ」
うつむきながら、所々言葉を詰まらせてパッセルが言う。
村を襲撃されて何もかもを失った少女にとっては他人事ではない。
軽く頭を抱いてやると、パッセルはそれ以上何も言わず体を預けてきた。
「申し訳ありません、閣下。この子は……」
「構わないよ。民が皆、彼女のように危機感を持ってくれればいいんだがね。
最近では邪神と魔物を崇める信仰まで現れたという噂まで聞く。
魔物は危険で、恐ろしいものでしかないというのに」
ティグリスのため息。シュエットも散々に痛感してきた事だ。
魔物をよく知る者ならば分かる。人間と魔物は決して相容れない。
武人として敬意を払うべき者がいたとしても、
肩を並べて生きる事はあり得ない。
魔物を知らない者ほど、軽々しく共存や平和的解決を訴える。
「だから危機感を持たせ、次に大勝を味わってもらい不満を忘れさせるんだ。
愚かしくも愛しい我が民のために」
愚者を憐れむような、それでいて慈しむようなティグリスの言葉。
彼は間違いなく善き名君と呼ばれる人物。
己のできる限りを尽くし、民を愛する領主なのだ。
「砦を取り返しても、まだ負けてる」
パッセルの指摘通り、どれだけ鮮やかに砦を奪い返しても、
魔物が残り二つの砦を占拠している状態。大勝とは言えまい。
しかしシュエットは、ティグリスがわざわざこの日に
撤退を完了させた理由に見当がついていた。
シュエットとパッセルが町を訪れる日。
「一手で劣勢をひっくり返す。英雄譚にはよくある話だろう?
どんなインチキを使おうが、
それを隠して成功させたなら戦術の天才と呼ばれるのだから」
ティグリスは片目をつぶると、シュエットとパッセルの肩に手を置く。
シュエットたちという"インチキ"を使うという事だ。
「シュエット殿、パッセルちゃん。君たちを使わせてもらう。
明日の攻撃で砦を一気に二つ取る」
突拍子もないティグリスの言葉を聞いて、
目をぱちくりさせて驚いているパッセル。
本陣が丸裸の窮地から一転、一日で砦二つを奪い返す。
成し遂げたならば大幅に士気が上がるだろう。
「いくらあたしたちでも、砦をどうにかするのは無理だよ」
「そんな事ができる者がいるのなら、私は政務だけしていられるんだが」
それができる者を二人ほど知っている身としては、苦笑を返すしかない。
かの天才魔術師なら、砦ごと消し飛ばす事すらやってのける。
「それを普通の人間に行わせるのが、軍略と指揮官だからね。
まずはこの地図を見てくれ。我々の軍は……」
ティグリスが丁寧に説明をしてくれる。
戦術としては奇をてらった物ではなく、割と単純な方法だ。
兵の負担もかなり大きい。
敗戦で士気が低下している兵を統率し、
力を発揮させる事ができるかが鍵となる。
それ以上に負担が大きいのがシュエットたちの役目だ。
「これ……あたしたち、今すぐここに行かなきゃだめ?」
「町で一番の名馬を用意させている、頑張ってくれ」
「野宿?」
「町で一番いい外套を用意した、頑張ってくれ!」
目を細めて睨みつけるパッセルに対して、
いい笑顔でごまかすティグリス。
人使いは荒いが仕方ないと思えてくるのは
これしかないと思わせる戦術のせいか、はたまた人徳なのだろうか。
どちらにせよ、シュエットは彼の事を信頼している。それでよかった。
「そうだ、戦いが終わったら可愛いリボンをあげよう。
とてもいい布を使っているんだよ」
「すべすべ?」
「つやつやのすべすべ。肌触り最高、我が町自慢の特産品だ。
なんと十数種類から好きな色も選べる」
「頑張る」
二人の交渉が済んだのを見計らって席を立つ。
事前にパッセルの事は伝えてあったので、
彼女が好きな物を用意してくれていたらしい。
士気を上げるための餌にするあたり、ティグリスらしいなと思う。
微笑んでいたティグリスは、真剣な表情でシュエットに向き直る。
「シュエット殿には、真の勝利を得るための礎を」
「ありがとうございます、閣下。力の限りを尽くします」
臣下のように礼をする。ティグリスは静かに頷いた。
彼にはそれだけの犠牲を強いている。この礼は感謝と謝罪の証だ。
パッセルが見よう見まねでぎこちない礼をしている。
その姿を見て苦笑した。
彼女が礼に込められた意味を知った時、
それでも真似をしてくれるだろうかと思いながら。
***
砦を避け、魔物に見つからないよう森を抜ける。
馬の扱いにも随分慣れた。
行商人の頃は徒歩だったので、馬に乗るような機会はなかった。
今では後ろに誰かを乗せて、悪路を駆ける事もできる。
パッセルはシュエットの背中にしっかりとしがみ付き、固く口を閉ざしている。
喋れば舌を噛むので喋らないように、という忠告をちゃんと守っているからだ。
シュエットはただ、目的地を目指して一心に駆ければいい。
朝に町を出発し、日が沈む直前まで駆け続けた。
休憩は何度か挟んだものの尻が痛い。馬の疲労もそろそろ限界に近い。
三番目、町から一番遠い砦の近くまで来た。この辺りが目的地のはずだ。
馬を休ませるためにゆっくりと歩かせていると、
パッセルが服を引っ張ってきた。
「止まって。周りから狙われてる、多分弓矢」
言葉に従い馬を止める。馬は殺気の中でも平然としている、確かに名馬だ。
周囲を確認する。砦の方向以外、全てから気配を感じる。
殺気と警戒は解かれていないが、これは魔物ではない。人間だ。
パッセルと共に馬を降り、ランタンを掲げた。
「俺はウルラ商会長シュエット。閣下の命によりここに来た」
砦が近いのであまり声を出さず、しかし周囲に聞こえる程度に言った。
こちらが友軍であると確認したらしく、殺気が消える。
「そっか、魔物なら砦の方にもいるはずだよね」
小さく頷いているパッセル。
砦の方向に気配がないという事は、砦から来る者を警戒しているという事だ。
シュエットの推察は当たっていたようで、軽装の兵士が姿を現す。
「失礼いたしました、商会長」
「構わない。腕の立つ者たちだと分かって心強いくらいだ」
兵士と握手を交わした後、静かに森の奥へと移動する。
案内された場所では兵士たちが息を潜めて野営をしていた。
かなりの人数で、ティグリスが動かせる全兵力の四割がこの場所にいる。
昨日今日で用意できる人員と場所ではない。数日前から仕込んでいたのだ。
つまり今日の戦いは六割、防衛の事を考えれば
半分以下の兵数で戦っていたという事になる。
その状況で、あれだけの見事な"敗北"。
対して魔物どもの何と惨めな"勝利"だろうか。
野営地での夕食は、塩辛い干し肉と野草を纏めて煮込んだスープだった。
火を使うのは最低限らしく、
煙が出ないよう小さな火で煮込まれたスープは案外美味かった。
尻が痛いのでうつ伏せになっていると、
少し豪華な意匠の皮鎧を身に着けた男が目の前に座る。
すぐに起き上がろうとしたが、男は笑ってそのままでいいと言ってくれた。
「商会長自らが駆けつけてくださるとは、ありがとうございます。
私がこの部隊の指揮を閣下から預かっています」
「こんな格好ですまない。閣下から聞いているとは思うが、
俺とこの子は最初の攻撃が終わったら独自に動く。
砦攻めでも、俺たちの事は計算に入れないでほしい」
シュエットの背中を机代わりにしているパッセルが、小さく会釈する。
視線はほとんどが懐疑的で、二人が何をしに来たのか疑問らしい。
尻を痛めて地面に寝転んでいる商人と、幼い少女のたった二人。
どう見ても戦力には見えない。
それでもシュエットたちに何かを言ってくる者はいない。
ティグリスの命令と軍略を信じているからだ。
二人が参戦する事は何か意味があるはず、そう信じさせてくれる領主だから。
「シュエット、砦では魔物を全部殺した方がいい?」
人が離れたのを見計らい、顔を近づけて小声で聞いてくるパッセル。
町に着いた時、可能な限り殺すなと言われたので聞きたいのだろう。
兵士たちの命を優先するか、目的を優先するかを。
「砦攻めの時は殺して構わないが、それ以降は朝に言った通りでいい。
恐らく彼らもそう指示されているはずだ。俺たちの目的とは少し違うけどな」
「わかった」
パッセルは軽く頷くと、シュエットの隣に勢いよく寝転んでくる。
手に持った器には熱いスープが入ったままだが、
一滴もこぼさず器用に顔の前に置いた。
暗殺者の技と、殺戮者の感覚も使い方次第らしい。
寝転びながらスープを飲むのは行儀が悪いが、
旅人の野宿でそんな事を気にする者はまずいない。
ユウジは異常なまでに行儀がよかったので
四人で旅していた時は自然と行儀よくなっていたが。
そんな事を思い出し、パッセルの頬を指でつつく。
「なに?」
「行儀が悪い、食べる時は座りなさい。俺を机にしていいから」
「はぁい」
少々間延びした返事は面倒臭さの表れか。
それでもちゃんと座り直してスープを飲むパッセル。
行儀が悪くてなぜいけないのか、我ながら情けない話だが聞いた事がある。
女司祭は呆れながらも答えてくれた。
行儀が悪い者は正道を歩めない。
自らを律する事ができず妥協に食われるから、だそうだ。
正直な所、ユウジが似た意味で言った事の方が分かりやすかった。
"落書きを放置すると治安が悪くなる"。
こんな落書きがあるのだから、このくらいの悪事ならばれない。
その思考と行動が悪循環を続け、地域が重犯罪の温床と成り果てるらしい。
人も同じだと言っているのだろう。
細かい事で正しく在れない者は、同じような妥協に負けると。
だからと言う訳ではないが、
ユウジたちとの旅を始めてからは行儀よくするようにしていた。
願掛けのようなものだ。妥協せず道を作るために正しく在る事にしただけ。
パッセルに行儀をよくするように言ったのは親心のようなものだが。
スープを飲み終えたパッセルは、外套に包まりシュエットの隣で寝る。
何か話しかけようかと考えていると、すぐに寝息が聞こえてくる。
パッセルは寝つきが非常によく、起きる時も予定時間ぴったりに起きる。
旅や戦場に生きる者にとって稀有な才能。
きっとこの子は、その才能を生かす場など欲しくはなかったろうに。
静かな寝息を聞きながら、自分も眠る事にした。
朝になればすぐに戦が始まる。
***
次の日、早朝。周囲の慌ただしい金属音で目が覚めた。
「おはよう、もうみんな準備終わる頃だよ」
「食べる物をくれ」
パッセルは朝食に作られたであろうスープをよそってくれる。
それを流し込むように腹に入れる。
荷物を背に、得物の長柄斧を手に。
防具は身に着けたまま寝ていたので、これで準備は完了だ。
「これからどうするのかな?」
「魔術で連絡が来る。砦の同時攻めだからな」
風の初等魔術に、音を遠くに届かせる魔術がある。
これで遠方とでも連絡を取り合う事ができる。
この部隊にも従軍魔術師が一人。空に向かって話している彼が連絡員だ。
話の内容はシュエットたちにも聞こえている。
この魔術では内密の話などはできない。
攻撃部隊の準備はほぼ完了、後は合図を待つだけのようだ。
周囲を見渡す。兵士たちは緊張の色が濃い。
敗戦の直後、しかも少数での砦攻め。士気はかなり低いと見ていい。
だからシュエットたちをここに送ったのだろう。
"インチキ"で士気を上げろという事だ。
「パッセル、始まったら突っ込んで目一杯派手に暴れるぞ。
目に付いた敵から全力で蹴散らせ」
「そっちの方が得意」
「そうだったな」
腕が鳴るとばかりに、両腕をぐるぐる回すパッセル。
二年間の日常に訓練を上乗せした彼女の力を見る、いい機会にもなる。
「アルソスに懸けて! 総員、戦闘準備!」
勇壮な声が戦闘の始まりを告げる。
雄叫びを上げ、兵士たちが各々の武器を掲げる。
シュエットとパッセルも長柄斧と短剣を掲げた。
「進めーっ!」
指揮官の号令と共に進軍する兵士たち。
こちらも走り出し、一団の前の方へと陣取る。
他の兵には申し訳ないが、一番手柄は貰う。
町からもっとも遠い三番目の砦は、ぼろぼろで見る影もない有様だった。
魔物どもが砦を補修などするはずもなく、
辛うじて建物としての形を保っているような状態。
こちらに気付いたのか、魔物がぞろぞろと砦から出てくる。
陣形や連携など一切考えていない突撃。
先日の勝利のためか、士気だけは高い。
早く人間たちを殺したくて、楽しみたくて仕方がないらしい。
思い返してみれば、昨夜の野営地に攻城兵器の類が見当たらなかった。
最初から野戦になる事を読んでいたようだ。
こちらの進軍速度はそのまま。陣を保ったまま真っ向からぶつかる。
シュエットたちは最前列のすぐ後ろに移動し、激突の瞬間を伺う。
そして、自分の前にいる兵士に心の中で謝る。
彼は相当肝を冷やす事になるだろうが、運が悪かったと諦めてもらおう。
両軍が激突する時が来る。
人間同士の戦いならば体当たり気味にぶつかるが、
魔物が相手では力負けしてしまう。
そこで、最前列は身を固めて防御に専念し、初撃を耐える。
これが対魔物戦術の基本だ。
今回も基本に沿い、前の兵士たちは武器を抜かず、両手で盾を持っている。
「すまない!」
両軍が激突する直前、前の兵士を押しのけて突っ込む。一応謝ってはおいた。
目の前に現れるのは迫り来る小鬼と犬人、豚人の汚らわしい面構え。
陣の前に出てから駆け出して四歩。この位の間合いなら十全に斧が振れる。
「陣を突き抜ける、俺たちは気にするな!」
後ろの兵に声を掛けるのと共に、全力で横に薙ぎ払う。
魔物を三体まとめて両断する。
続けて踏み出す。後続に向かって持ち手を変えながらの逆袈裟斬り。
今度は二体の首を斬り離した。
魔物は連携や連絡を一切考えずに陣を作ってしまっているので、
後続に押されて止まりたくても止まれない。
シュエットの前へと殺されに来るしかないのだ。
更に一歩踏み込んで三体を斬り飛ばした時、後ろで激しい金属音が鳴り響く。
両軍が激突した。音から判断してきっちりと受けきったようだ。
もう一歩踏み込む。
最初に斬り捨てた魔物の死体を踏みつけ、その先にいた二体を叩き斬る。
魔物どものように楽しみはしない。楽しいなどとも思わない。
不快な障害物を排除しているだけだ。感情などいちいち込めていられない。
踏み込む。斬り飛ばす。踏み込む。断ち斬る。
十回ほど繰り返すと、向かってくる魔物がいなくなった。
陣を突き抜けたらしい。
後ろを振り返ると屍の道。魔物の動きは鈍く、士気は一気に低下したようだ。
単騎で陣を突破した化物がいつ背中から襲い掛かってくるか分からない状況、
恐怖を感じない訳がない。
「このまま砦まで行く?」
そう聞いてくるのは、豚人の太い首に手を掛けて引きずるパッセル。
彼女も単騎で陣を抜けてきたようだ。
豚人は声どころか体の自由さえ利かないのか、
苦悶と恐怖で顔を歪めるだけで身じろぎもしない。
「個人で砦の制圧は無理だ。そいつのような中級を削ろう。
友軍の被害を最小限にしたい」
「うん、わかった」
返事と共にパッセルの指に力が込められ、豚人の首の骨が外れる。
豚人は無造作に投げ捨てられた。
殺す事もできたはずだが、わざと死なないように留めたようだ。
動かぬ体で乱戦下に放り出すのを慈悲とは言わないだろうが。
パッセルと共に反転し、敵陣の後ろから襲い掛かる。
いちいち狙うのも面倒臭いので、
目に付いた豚人の近くにいた魔物をまとめて薙ぎ払う。
パッセルは的確に豚人を狙って仕留めていく。
縦横無尽に動き回る少女を恐れ、魔物どもは同士討ちすら始めてしまう。
魔物の混乱に乗じ兵士たちが一気に押し込んでいく。
臆病な小鬼や犬人は、早くも逃げ出す者までいる。
シュエットとパッセルは少し後ろに下がる。
魔物の陣が大きく崩れたので巻き込まれかねない。
「あっちの方、魔物が逃げちゃう」
パッセルが指差した方向に我先にと魔物が逃げ出していく。
魔物の転移地点、拠点がある方向だ。
追おうとするパッセルの肩を軽く掴んで止める。
「あの方向はわざと開けてあるんだ。
今回の目的は砦の制圧で、魔物を皆殺しにする事じゃない」
「じゃあ砦に行った方がいいのかな」
「その必要はなさそうだぞ」
砦からも次々に魔物が逃げ出している。
そう時間が経たない内にもぬけの殻になるだろう。
兵士たちに先んじて砦に近づいたが、魔物からの攻撃はなかった。
少し遅れて砦に兵士たちが取りつく。
こちらに畏怖と羨望の視線が向けられる。
しかしそれも一瞬。
兵士たちはシュエットたちに軽く一礼をすると、すぐさま次の行動へと移る。
砦には入らず、急ぎ足で野営地に帰っていく。
陣の中心辺りにいた指揮官が走って近づいてきて、深く頭を下げた。
「ありがとうございました、商会長。お陰様で苦もなく勝てました」
「これからが正念場だ。ご武運を」
「商会長も、無理はなさらず!」
再度走って、兵士たちの後を追う指揮官。
これから彼らは野営地から馬で駆け、二番目の砦を攻略する。
連戦の上、かなりの距離を移動してからの戦闘。厳しい戦いを強いられる。
今頃は一番目の砦をティグリスが攻めているはず。
この砦ほど簡単ではないだろうが、きっちり攻め落とすだろう。
一、三番の砦を速攻で奪い、三番目の砦は放棄して、
二番目の砦を挟み撃ちにして落とす。
三番目の砦を奪った早さは申し分ない。
後の懸念は慌てて来るであろう魔物の本隊。
魔物の中には飛行能力を持つ者がいるため、進軍速度は非常に早い。
通常ならば後方から襲撃されかねないので使えない戦術。
それを可能にするのがシュエットたち"インチキ"だ。
魔物が逃げていった方向に移動し、
連中が使っていた木の武器を拾ってきて火をおこす。
干し肉を棒に刺し、火で炙る。ちょっと早すぎるが昼食だ。
死臭漂う中での食事など慣れたもの。火が使えるだけでもありがたい。
「後は砦で時間稼ぎをすればいい。
ここからは昨日も言ったが、なるべく殺さないようにしてくれ」
「うん」
最低限の返事だけして、棒に刺したままの肉を頬張るパッセル。
しばらくのんびりしたら歓迎の準備をするとしよう。
「シュエット、来たみたいだよ」
砦の壁に背を預けて休んでいたが、パッセルの報告を聞いて体を起こす。
軽く首を振って眠気を飛ばし、斧を構える。
空を見てみると日はずいぶん高く昇っていた。
飛行する魔物が小型の魔物を運んでいるのが見える。
魔物どもは砦を確認し、進むのを止めて本隊の到着を待つ。
砦にはいくつか旗を立てた。魔物は奪われた砦を奪い返そうとするはずだ。
ここにたった二人しかいないとは思わないだろう。
砦を包囲するように広がる魔物の群れ。
お椀のようになった陣の中心から、獅子人が悠然と歩いてくる。
ボロ布の旗を掲げているが、友軍を鼓舞しているつもりなのだろうか。
お前の事なぞ誰も見ていないぞ、と口から出かかった言葉を飲み込む。
「流石は我が好敵手、こうも容易く城を奪い返されるとはな!
しかし我も負けてはいられん。この城は我らが貰うぞ、人間ども!」
砦と城の区別もついていない辺りが魔物らしい。
邪神に次ぐ最強の四体、四天王の一体ですらこの有様だ。
ふと、獅子人の言動に違和感を覚えた。
シュエットと障害物なしに対峙していて、姿どころか顔も見えているはず。
"好敵手"というのがシュエットの事かと思ったが、
先の砦攻めの事を考えればティグリスの事だろう。
つまりこいつはシュエットを兵士の一人だと思っている。
長柄斧の切先を向けてみるが、反応はない。
「俺に言う事はないのか、獅子の紛い物」
「雑魚に何を語れというのだ?」
無邪気にすら感じる即答。間違いない、シュエットの事を完全に忘れている。
四回自分を殺した相手を忘れた。その事実に腹の底から怒りが溢れてきた。
喝采願望や承認欲求からの怒りならどれだけよかったか。
この激しい怒りはもっと単純な理由。
人間と魔物が決して相容れない理由そのもの。
前に一歩踏み出した時、左腕を掴まれた。
視線を向けるとパッセルが静かに首を横に振っている。
「あんなのに怒る価値なんかないよ」
冷静な少女の一言で我に返る。確かにそんな価値はない連中だ。
「ありがとう、パッセル」
「たまにはそんな事もある」
妙に大人ぶった事を言うパッセルが可笑しくて、軽く吹き出してしまった。
なぜ笑うのかと、頬を膨らませて憮然とした顔をするパッセル。
長柄斧を構え直す。普段は中段やや上に構えているが、今回は下段。
殺しはしないが戦闘不能にはなってもらう。
地を軽くこすりつつ、横薙ぎに斧を振る。三体の魔物の両脚を斬り落とす。
この長柄斧は国中を探しても見当たらないほど強力な魔道具だ。
生物の肉など薄布のように引き裂く。
空中から空飛ぶ魔物が襲い掛かってくるが、
パッセルが放り投げた小鬼とぶつかって地面に落ちた。
パッセルと背中合わせに立つ。
指導がいいからか、シュエットの動きにきちんと合わせてくれるのが有難い。
魔物どもは遠巻きにシュエットたちを囲んでいる。
初撃で五体まとめて胴を両断してやったのが効いたか、
積極的に攻めようという者がいない。
獅子人にせっつかれ、近くの数体が仕掛けてきて全滅。三回ほど繰り返した。
地面では動けなくなった魔物が呻き声をあげている。
全て殺してはいない。殺す価値もない。
獅子人は目に見えて苛立っているのが分かる。
「四天王のくせに自分では戦わないんだね」
「何の事だか知らんが、我の事を侮辱したな!?」
四天王という呼称はユウジと自分たちがそう呼んでいただけだと
パッセルに話すのを忘れていた。
そもそも魔物に厳密な階級などない。
強くて頭のいい奴が上に立つだけの原始的な社会構成だ。
目の前の獅子人はそこまで強くはないが、共通語を話せる位には頭がいい。
パッセルの挑発は奴の痛い所を突いていた。
「そこまで言うなら我自らが相手をしてくれる! お前たち、行くぞ!」
二本の棍棒を両手に持って前に出る獅子人。追従してくれる魔物は誰もいない。
これがティグリスの号令だったなら、ほぼ全ての兵が追従しただろうに。
「誰もついてきてないよ」
「お、お前たちのような雑兵なんぞ我だけで十分だ!」
どうでもいい虚勢を聞き流し、斧を中段に構え直す。
パッセルは短剣をしまい、両手を開いて指に力を込めている。
「無様に死ね、雑兵どもォッ!」
踏み込みと同時に飛び出す獣の突進。
右の棍棒が大きく振り上げられ、真っ向から振り下ろされる。
シュエットが右、パッセルは左に飛び退く。直後に棍棒が地を叩く。
巨大なだけの粗野な棍棒は、
大岩でも落としたかのような威力で地面と呻いていた魔物を砕いた。
こんなものをまともに受けられる人間はいない。
どれだけ鍛えても届かない種族の差。
そんな事は人間であれば皆がとっくに知っている。
獣に素手で勝てる人間などそういない。
だから武芸がある。だから武具がある。
斧を袈裟斬りに振るうが、左の棍棒で受け止められる。
獅子人の体勢が揺らぐ事もない。
シュエットに対しにやりと腹の立つ笑みを向ける獅子人。
この魔物が愚かでやり易い事この上ない。
両側に敵がいるのに、二つの顔で同じ相手を見る阿呆がいるか。
完全に振り切られたままの右腕にパッセルが飛びつく。
獅子人の肩に手を当て、瞬時に右腕をあらぬ方向に捻じ曲げた。
「ギャアアァァッ!?」
予期せぬ激痛に悲鳴をあげ、左の棍棒でパッセルを引きはがそうとする獅子人。
がら空きになった無防備な左足を斬り飛ばす。
獅子人は完全に体勢を崩し倒れる。
「よいしょ」
可愛らしい掛け声とは真逆の、骨が外れ砕ける音。
獅子人が倒れる勢いに乗りパッセルが右肩を破壊し、肘の骨を外した。
仰向けに倒れた獅子人の胸にあるもう一つの顔に、全力で斧を振り下ろす。
その顔は驚愕したまま真っ二つに割れて潰れた。その際にわずかな違和感。
なおも追撃をしようとするパッセルを慌てて抱きかかえ、
小さく飛ぶように離れる。
シュエットの危惧通り、獅子人の姿は転移魔術の闇に包まれて消えた。
「触ってたら巻き込まれてた?」
「いや、人間が闇に触ると焼かれるんだ。
隊長から聞いていなかったか?」
「……そうだったっけ」
とぼけるパッセルが焼かれる事はなく、肩を撫で下ろす。
一度四天王を深追いして組み付いた状態で転移魔術を使われ
全身に火傷を負った事がある。
すぐに仲間が癒してくれたが、
前髪と眉毛が焼けて何とも言えない顔で過ごす羽目になった。
パッセルは超再生のせいで傷つく事に無頓着すぎる。
髪を大事にしていたので、焼かれるのは避けてやりたかった。
魔物どもは委縮して動こうとしない。
自分たちの長を一方的に潰した相手に向かっていく魔物など稀も稀だ。
斧を上段に構え、獅子人がいた血だまりに叩きつける。
次はお前たちだという意味を込めて。
仮初の統率すら失い、魔物にできるのは逃げ出す事だけだった。
同胞を見捨てて、それどころか押しのけて我先にと逃げ出していく魔物。
見苦しい事この上ない有様を尻目に、
砦に一頭だけ残してもらった馬の元へ向かう。
シュエットたちは背を向けているというのに
戦おうという魔物は一切いなかった。
「これから二番目の砦に行くんだよね」
「まだ戦っていたら加勢するが、多分その必要はないだろう」
援軍を当てにしているのに来ない、その事実は士気を激減させる。
特に士気の変化が激しい魔物相手には効果が高い。
ティグリスはその状況を最大限に利用し勝利を収めるだろう。
砦の近くに繋いでいた馬の前でため息をつく。
今度は悪路でこそないが、また長い道のりを駆ける。
何のため息か察したパッセルが尻を撫でてくる。
「頑張って」
「頑張るよ。この程度で泣き言なんて言っていられない」
今日の夜は仰向けでは寝られないなと下らない事を考えながら、
ティグリスのいる二番目の砦へ向かって駆けた。
***
シュエットたちが二番目の砦に到着した時には、既に大勢が決していた。
砦から逃げ出す魔物を浅く追撃する兵士たち。
砦内部の残敵掃討もほぼ終わっていた。
砦にはアルソス領地の証である青い旗が掲げられ、兵士たちが勝どきを上げる。
鮮やかな快勝。兵士たちの士気も上がり、
この勝利を伝えられた町の人々もまた安堵と勝利に酔うだろう。
町に帰ってきた時にはすっかり夜。
ほとんど一日中馬を走らせて痛む尻を押さえながら、
ティグリスの招待を受けて晩餐を共にする。
晩餐といっても質素な物で、麦の粥に一汁一菜。
とても領主の食卓とは思えない。
「すまないね、今日の一番手柄にこのようなもてなしで」
「食べ慣れない豪勢な食事より、この方が好きですよ」
味はとても美味しい。料理人が少ない素材で技量の限りを尽くしたのが伺える。
隣のパッセルは流し込むように平らげてしまっていた。
味覚を失っている彼女に味わって食べろなどと言える訳もない。
「さてお嬢さん、どの色がいいかな?」
ティグリスも無礼を気にせず、
パッセルの前に十数本の色とりどりなリボンを差し出す。
パッセルはじっとリボンを見て、一本を手に取った。明るい黄色。
「これがいい。村いっぱいに実る作物の色」
それが少女にとっての故郷の色なのだろう。
血の色でないことに安堵し、少し胸が痛んだ。
「後、これとこれとこれ」
緑、青、橙色と素早く手に取っていくパッセル。
遠慮のない子供らしい所を見せられて、沈んだ気持ちが吹っ飛んだ。
ティグリスは笑って、四本全てを渡してくれた。
パッセルは布に頬擦りして気持ちよさそうにしている。
「今日は本当にありがとう。君たちのお陰で、被害が最小限で済んだ」
笑顔で礼を言うティグリスだが、
被害という単語を口にする時に悲しみが混じる。
一軍を率いる以上、どうしても被害は出る。
今回の戦いでは死者が二名、重傷者が三名。
魔物から二つの砦を奪い返す戦いの被害としては、皆無と言っていい。
しかし決して皆無ではない。
二人が死んだ。三人が奇跡でも癒せない怪我を負った。
魔物たちの闇の魔術による治癒は、失った四肢をも再生させる。
対して人間の使う奇跡では自然治癒しない部位は治せない。
死者を生き返らせる事もできない。
動けない体では家族の負担にしかならないと考え、自ら命を絶つ者もいる。
ティグリスは五人で済んだと安堵しない。五人も被害を出したと悔やむ人物だ。
時には民を数字として見なければいけない時だってある。
それでも諦めたくないと才の限りで領地に尽くす男だ。
彼が平和な時代に、ただ領主の仕事だけをやっていたのなら
アルソス領はどれほど発展しただろうか。
「確か、明後日の朝には旅立つ予定だったね。体は平気かな?」
「強行軍は慣れていますから」
行商人をやっていた時も、勇者の供をしていた時も、
道なき道を行くのは当たり前だった。
足の早い品物を運ぶために三日間まともな休みなしで歩き続けた事もある。
勇者一行としての旅はそれ以上に過酷だった。
一日休めるだけでも十分なほどだ。
「では、明日の夕方までゆっくり休んでくれ。夕方に同行してほしい場所がある」
「どこ?」
首を傾げるパッセルにティグリスは申し訳なさそうな、
それでいて悲しそうな微笑みを浮かべる。
シュエットには場所の見当がついていた。
戦の後に彼が向かう場所はただ一つだ。
「墓参りだ」
場所を聞いたパッセルは体を強張らせ、リボンの一本を抱きしめるように握る。
最初に手に取った黄色のリボン。故郷の象徴の色を。
***
町の端にある墓地。夕日に照らされた墓が静かにたたずんでいる。
死者は一般的には土葬されていたのだが、魔物が現れてからは火葬に変わった。
魔物が死体を掘り起こして戯れに破壊してみたり、
戦利品や装飾として持っていったりするからだ。
今では、墓には遺灰しか入っていない。
ティグリスと共に、墓に祈りを捧げていく。
魔物との戦いで死した者たちの墓へと。
彼らは、少なくともシュエットが道を作り始めてからの死傷者は、
シュエットが犠牲にしたようなものだ。
このまま何も手を打たなければ国そのものが壊れ、
人間は魔物に皆殺しにされるだろう。
だから仕方のない犠牲だとは思いたくなかった。思えなかった。
恐らくはティグリスも同じように思っている。
犠牲にしていい命などあるものか、誰かが勝手に決める権利などあるものかと。
自分たち以外は誰もいない、静かな墓参りを終える。
屋敷に帰ろうとした時、三人の男女が立ちはだかった。
男二人は気配の隠し方が上手く、慣れている者の挙動だ。
女の方はどう見てもただの町民。
冷たい殺気を放つ男たちと違い、女はうつむいたまま動かない。
男の一人、背の高い方が前に進み出る。
「領主様と、ウルラ商会の商会長だな」
「だとしたら?」
「ここで死んでもらうぜ」
男が長剣の半分ほどの刃を持つ小剣を抜く。
隠して持ち運びやすい武器が得物な辺り、手慣れている。
背が低い方の男は鉈を取り出す。ごろつきが使うような武器ではない。
大してこちらは、ティグリスだけが帯剣していてシュエットとパッセルは丸腰。
墓参りに長柄斧を担いでくるわけにもいかないので置いてきた。
パッセルは短剣があろうがなかろうが大差ない。
「なぜ殺されるのか、理由くらいは教えてもらえるんだろう?
彼らに殺しを依頼したお嬢さん」
ティグリスの言葉で顔を上げる女性。
その表情は悲しみと憎しみに満ちて歪んでいた。
「お前のせいであの人は死んだんだ! 兵士なんか辞めてって何度も言ったのに!
お前たちがあの人を殺したんだ!」
女の言い方からすれば夫か恋人だろう。戦いで犠牲になった兵士の身内だ。
シュエットまで標的にされているのは
ウルラ商会がティグリスを全面的に支援しているからか。
あまりに短絡的な女の思考にため息が漏れる。
憎むだけなら、口でだけなら何とでも言ってよかったのに。
「殺したのは魔物だよ」
「な……あ、あんたみたいな子供に何が分かるのよ!?」
頭から氷水をかけるようなパッセルの言葉にうろたえ、喚くしかできない女。
少女の髪を結ぶ黄色のリボンが風にたなびく。
冷たい視線に耐えきれず、女は目を逸らした。
パッセルには分かるに決まっている。
全ての怒りと憎しみを魔物だけに向けた少女には。
ティグリスが前に出て腰の細剣を抜き放つ。見惚れるほどに優雅な所作。
細剣の切先を男たちに突き付け、冷たい声で言う。
「巷で持て囃された義賊も無様なものだな。金で殺しを請け負う外道に堕ちたか」
「お前らと一緒にするんじゃねえ、金なんか貰ってねえよ」
憮然とする背の低い男。侮辱されたとでも思ったのだろうか。
その返答が誰よりも自分たちを貶めている事に気付いていないらしい。
ティグリスから事前に聞いていた。
彼ら二人は最近アルソス町で噂の義賊"踊る溝鼠"。
金持ちの家からだけ盗み、
盗んだ金を貧しい者に分け与えるという物語で聞いたような義賊。
義賊として、義侠心で殺しの依頼を受けたと言いたいのだろう。
背の高い男がティグリスを、低い方がシュエットを殺す算段のようだ。
相手に逃げられる可能性もあったろうが、二人の標的が護衛もつけずに
人気のない場所にいる千載一遇の機は逃せなかったのだろう。
「町で名高い義賊とこんな形で出会うとはな。
貧しき人々に盗んだ金を配る義賊様が、
俺たちの側にいただけの女の子まで殺すつもりか?」
「それだけ仲良くしていて無関係って事はないだろ。仕方ない」
どうやら自分たちの顔を見た者を生かして返す気はないようだが、
自分たちの大義名分を捨てた事に気付いていないのだろうか。
その割には顔を一切隠していない。
余程の自信があるのか、ただの傲慢か。恐らくは後者だろう。
女はそれを聞いて少し狼狽えたが、結局は憎しみの方が勝ったらしい。
「領主様は大丈夫?」
「閣下なら心配ないさ。怪我をしないように下がっていてくれ」
指示を出してパッセルの頭を軽く撫でると、パッセルがその手にそっと触れる。
手の甲に人差し指で小さく丸を描き、逆方向にもう一回。
意味は"予定通りに行う"。事前に決めていた合図の通り。
パッセルが五歩ほど離れる。
五歩目に踏みつけた枝が折れる音が、戦いの始まりを告げた。
背の低い男は鉈を小ぶりに振り、一定の距離を保って慎重に立ちまわっている。
シュエットは丸腰で、防具も目立ちにくい具足だけ。
丸腰の商人を相手にするには慎重に過ぎるような気がした。
宴で叩きのめした暗殺者よりは余程筋がいいが、強いとまではいかない。
お陰でティグリスの様子を見ながらでも斬撃をさばける。
背の高い男は先手を取って斬り込んだが、
わずか二合で防戦一方に追いやられていた。
小剣の扱いには自信があったようだが
ティグリスの細剣を凌ぎきれず体中に傷を負っていく。
何より異常なのはその間合い。互いの剣の鍔が触れそうな位の至近距離。
男が反撃に出て剣を振るも、細剣で軽々と受け流し男の左肩を貫く。
ティグリスが持つ細剣の鍔はお椀を逆にしたような形状になっていて、
これが小盾のような役割を果たしている。
対して男の小剣は鍔が小さく、防御に適した形状とはいえない。
七合を経てティグリスは未だ無傷で、男は傷だらけ。
もはや勝敗は決したと言っていい。
ティグリスは細剣による決闘剣術の達人だ。
細剣同士の一対一だったなら
シュエットでは五本に一本取れれば御の字の凄腕である。
領主でさえなかったら何が何でも腕を借りたかったほどの武芸者。
背の低い男は仲間が一方的に追い詰められていて焦ったのか、
迂闊にも近い間合いで大きく鉈を振り上げる。
突っ込んで鉈を持つ手を掴み、反対の手も掴みつつ脛を蹴りつけた。
全力で蹴ったが、魔道具の具足はシュエットに衝撃をほとんど伝えない。
しかし相手は鉄塊をぶつけられたのと同じ。
骨が折れてはいないが、ひび程度は入っているはず。これでほぼ動きを封じた。
後はティグリスを待つだけだが、すぐにでも終わるだろう。
不自然な体勢から無理に繰り出された小剣を鍔で受け流し、
男の右腿を裂きつつ右肩を貫く細剣。男は小剣を落とす。
ティグリスに掌底で突き飛ばされ、よろよろと尻もちをついた。
「義賊ごっこで満足していればよかったというのに。
英雄になったと勘違いさせてしまったか」
「ごっこ、だと……!?」
憐れむようなティグリスの言葉に反応する男たち。
ティグリスは感情の籠らない声で続ける。
「元々は博打代欲しさで盗みに入り、たまたま大勝ちしたから
金を貧民街でばら撒いたのが始まりだという事も全て知っているよ。
物語の義賊を真似たのだろうが、
魔物の襲撃によって閉塞感の漂う町で噂になってしまったんだ。
私はそれを徹底的に利用する事にしたのさ。民が健やかに暮らせるように」
どうしたって金持ちは疎まれる。上に立つ者も同じ。
そういう者たちが痛い目を見た時、人は心の中で暗い喝采を上げる。
だからティグリスは彼らを義賊に仕立て上げた。
貧民に少しだけ胸のすく思いをさせてくれる物語の英雄として。
彼らにどの家を狙うかを教え、
その家に関して調べていた協力者はティグリスの手の者だった。
調べるも何も、狙われた家とは事前に打ち合わせをしていた。
盗まれた金は同額を補償。
彼らは一度も家主に見つかっていないが当然だ。
住民は避難していて最初から家にいないのだから。
そうして義賊"踊る溝鼠"は民衆の英雄となった。張りぼての舞台で踊る英雄に。
溝鼠という名前すらティグリスが名付けたとも知らずに。
「義賊という美酒にただ酔っていてくれていればよかったんだけどね。
こんな風に処分などしなくて済んだんだが」
ティグリスが細剣を大きく引き、次の瞬間。
弓から放たれた矢のような鋭い突きが、対峙していた男の体を刺し貫いた。
それを見て背の低い男は逃げようとするが、
シュエットと組み合いになっている状態で逃げようがない。
離れて見ていた女も逃げようとしたが、後ろから突き飛ばされて地面に倒れた。
「お姉さんも無関係って事はないから、仕方ないよね」
気付かれないように後ろに回っていたパッセルが
男たちの言った事を真似て言う。
不自然な体勢で倒れて足を挫いたようで、しばらく動けないだろう。
こちらもそろそろ舞台から降りる事にする。
男の足を払い、強く押して地面に叩きつける。
続いて蹴っていなかった方の足を狙い、膝を全力で踏みつけた。
骨の砕ける感触。両足を潰したので身動きはできまい。
シュエットもパッセルも、やろうと思えばすぐにでも男たちを始末できた。
ティグリスが任せて欲しいと言ったので従っただけだ。
「英雄視されて気が大きくなったかな?
好き放題に暴れるようになってしまっては英雄ではなく害悪だ。
商会長から教えてもらった落書きの話と同じさ。
落書きが人を楽しませる芸術であればいいが、
犯罪の温床になるのなら消すだけだ」
細剣を振って血を払いながら歩いてくるティグリス。
彼ら溝鼠の暴れっぷりは聞いていた。
見つからないのをいい事に盗みに入った先で酒を飲み、物を壊し、
金になる訳でもない女物の下着まで盗むありさま。
こんな事ではすぐにでも悪評が知れ渡り
英雄は下劣な盗賊に成り下がってしまう。
それ以上にティグリスが危惧していたのは、盗み以外に何かをする事だった。
どれだけ盗み、奪っても自分たちは捕まらない。そうなった時にどうなるか。
傷つけ、殺すのだ。
女の持ってきた大義名分にこれ幸いと乗り
正義の味方として気持ちよく人を殺そうとした。
義賊といっても所詮は遊ぶ金欲しさで盗みに入った下衆。
自制など利くはずがない。
仕事として報酬を受け取り人を殺すのなら、それは暗殺者だ。
褒められた職業とは言えないが仕事には違いない。
報酬もなしに殺したのなら、もうただの外道でしかない。
義侠心のつもりだったのだろうが、
人としての一線を越えた外道に堕ちただけだ。
「お前たちを捕まえるわけにもいかない。
そうすれば私と警備隊が悪役になってしまうからね。
君たちには人知れず消えてもらう。痛快な義賊の物語だけを残して。
それだけで、人々はしばらくの間だけでも不安と不満を忘れられる」
ティグリスが足を押さえて倒れている男の側に立つ。
男は押し倒された時に鉈を手放しており
ティグリスを涙目で見る事しかできない。
「ま、待ってくれ! 命だけは! 命だけは助けてくれ!
もう盗みはしねえ、だから!」
「助命する理由がない」
男の命乞いを冷酷に一蹴して、
ティグリスの細剣は容赦なく男の心臓を貫き通した。
即死ではないが、放っておけばすぐに死ぬ。苦痛と絶望と後悔の中で。
細剣を血に濡れさせたまま、ティグリスは女の元へとゆっくり歩み寄る。
女は逃げようとしているが座り込むのが精いっぱい。
痛みに加え、恐怖と混乱が体の動きを封じてしまっている。
八つ当たり気味の恨みを晴らすはずが、間近に迫るのは自分の死だ。
「あ、ああ……た、助けて……お慈悲を……!」
女にできる事は、名君の慈悲に縋る事だけだった。
始末された男二人は盗賊だから殺された。
ただの町民である自分は許されると考えての言葉か。
まして民を愛する善き領主が、死んだ兵士の遺族を手にかけるはずなどないと。
「お慈悲を、お慈悲を……ぉぶっ」
空気が抜けたような女の声。ティグリスが無造作に、細剣で女を貫いていた。
何が起こったのかさえ理解できないまま、女はゆっくりと倒れた。
女は気付かなかったのだろうか。
生かしておく気など一切ないから、ティグリスが義賊の真相を話していた事に。
名君は、張りぼて義賊ほど甘くはない。
「すまない。君が彼と同じ所に逝ける事を祈るよ」
短く祈りを捧げ、ティグリスはシュエットの方に向き直る。
そして細剣の切先を、シュエットの胸へと突き付けた。
それを見たパッセルが即座に動こうとするが、手で制す。
細剣がこの身をまだ貫かない事は知っている。
「彼女で八十九人だ。
君が勝たぬ戦いを提案したあの日から、八十九人がそのために死んだ」
シュエットがティグリスに提案したのは、魔物に勝つなという事だった。
正確に言うなら引き分け。勝ちもせず、かといって負けもせずの膠着状態。
もし勝ち続ければ、あの獅子人ではない四天王の誰かが送られて来るだろう。
上級の魔物も送られてくるかもしれない。
兵士たちも鍛えられてはいるが、上級が三体もいれば被害は拡大する。
そうなれば勇者の力が必要になる。
ユウジたちがここに助けに来なければいけなくなる。
だからわざと勝たない。しかし負けもしない。
あの愚かな獅子人に、現状で勝てると思わせてひたすらに時を稼ぐ。
シュエットが道を作り終えるその時まで。
だから魔物をできるだけ殺さないようにと言った。
死んでしまえば再召喚されるが、
戦闘不能にして生かしておけば治療の手間がかかる。
四肢を斬り落とそうが再生する魔物の治癒魔術も
魔力自体が無限という訳ではないし使い手は限られる。
徹底的に双方の戦力を維持し、時間だけを稼ぐ引き分け。
軍略を少しでも知る者ならば狂気じみた難度に頭を抱えるだろう。
一笑に付されるような大博打だが、ティグリスはそれに乗ってくれた。
気付いていたのだろう。
このままでは国自体が滅び、領地の平和も未来も存在しないと。
勝たぬ戦いを始めてから犠牲者がたった八十九人という少なさなのは、
ティグリスの卓越した手腕があってこそだ。
彼は"たった"八十九人だとは思っていないが。
他の町でも似たような事をしている。負けないように、されど勝たないように。
商会の訓練所で鍛えた者たちを兵として各地に振り分け、
勇者に頼らず、自分たちだけで守り切れるように。
「未来のため、本当の勝利のために君に賭けた。
何があろうと勇者に頼らず耐えきってみせよう。
もし賭けに負けた時は、この剣が君を貫くと思ってほしい」
「賭けですから絶対はない、ですが勝ちます。
共に歩む人たちのため、何より俺自身のために」
ティグリスが細剣を引き、血を払ってから鞘に戻す。
それを確認してからパッセルが足早に近づいてきて、シュエットの手を握った。
ティグリスは犠牲になった者たちを全て覚えている。
一度失えば取り戻す方法がない命の事を。
魔物は肉体を破壊されても再召喚で復活し、そもそも死ぬ事がない。
魔物と人間が決して相容れない理由。命に対する価値観が違うからだ。
自分を四回も殺した相手を忘れるなど、
自身の命をどうでもいい物と思っているからに他ならない。
そんな奴が他の命を大切になどできない。
同士討ちすら平然と行い、罪悪感など皆無。
獅子人にとっては遊び。しかしティグリスにとっては民に犠牲を強い続ける戦。
一軍を率いる将としてどころか、同じ舞台に上がる領域にすら達していない
魔物が好敵手だなどと笑わせてくれる。
目的を果たすまで、張りぼての舞台の上で気持ちよく踊らせているだけだ。
ここで屍を晒す哀れな義賊たちと同じように。
「すぐに兵が来る、彼らは内密に処理する。
今日はすまなかった。どうしても、改めて覚えておいて欲しかったんだ。
君の作る道の礎が何かという事を」
無力感で悲しそうな顔をするティグリスに、深く臣下の礼をする。
パッセルも同じように礼をした。二回目だからか様になっている。
ただ真似ただけなのか、真意を理解したからなのかは分からない。
それでも少しだけ救われたような気持ちになった。
***
翌日の明朝。
空はわずかに雲が見えるがおおむね晴れ。天気が崩れる事もなさそうだ。
旅の支度を確認し、気合を入れなおす。
ここからは馬は使えない、徒歩の旅になる。
次の目的地であるレンカ村へ最短距離で行こうとすると、
馬では走れない山道や渓谷を通る事になるからだ。
魔物の襲撃で牧畜もろくにできない状況、
貴重な馬を使い潰すなどできるわけもない。
「シュエット殿。我々の真なる勝利を君に託す」
「必ず果たしてみせます、閣下」
町の門まで見送りに来てくれたのはティグリス一人。
気兼ねなく旅立てるので、豪勢な見送りより余程いい。
「領主様、さようなら」
「今度は服でも見に来てくれ。歓迎するよ」
「服はいっぱい着させられたから、もういい……」
王都での暮らしを思い出して疲れた顔をするパッセルを見て
何をされていたのかを察したか笑い出すティグリス。
どれだけ彼女に着せ替え人形にされたのだろう。少しだけ同情した。
「シュエット殿、パッセルちゃん、また会おう。
今度は魔物のいなくなった世界で」
「ええ。道を作り終えた後に、また」
「ばいばい」
ティグリスに手を振りながら、パッセルと共に歩みを進める。
三回ほど手を振り合った後、ティグリスは町へと帰っていった。
寝る間すら惜しんで領主としての役割を果たしている彼に、
無駄にする時間は一呼吸すらないのだろう。
そんな男だからこそ信用できる。信じて任せる事ができるのだから。
少し先を歩くパッセルの髪が風になびき、黄色いリボンが朝日を浴びて煌めく。
その黄色の中に、道の先にあるものが見えた気がした。
優しい領主が大博打に賭けてでも民に与えたい、平和な世界の光景が。