第2話:商会長の一日
*****
小さな村の廃屋。ぼろ布だけをまとった老人が座り込んで震えている。
老人の前にいるのは長柄斧を構えた男と、冷たい印象の女。
「商会長……いえ、先代商会長。書類に署名をお願いします。
ウルラ商会の全てをこの方に任せる、と」
女が一枚の羊皮紙を老人に放り投げる。
老人は羊皮紙を破ろうとしたが
力が入っていないのか紙を曲げるだけで終わった。
当然だ。老人はもう七日ほどまともな物を食べていない。
雨水を集めて飲み、雑草を腹に入れて飢えを忍んだはずだ。
国一番の大商会、その頂点に君臨していた商会長が
半年でこの有様とは誰も思うまい。
本人である老人自身も例外なく。
「なぜ、なぜ、わしにこんな事をする!? 恩を仇で返す気か!?」
かすれた声を張り上げながら女に掴みかかろうとする老人。
男が二人の間に割って入り、老人を突き飛ばす。
老人の目前に突き付けられる斧の刃。
他に人はいない。どれだけ叫んでも助けが来る事はない。
この村にはもう人などいないのだから。
「私に仕事を与えて下さった事は感謝しています。
そのお陰で弟や妹たちを養えました。
でも、もう必要なくなってしまったんです」
淡々とした声。感情の籠らない目。
商会の重要な仕事を一手に任せていた、鉄人形と呼ばれていた女。
老人は自分以外を信じてはいなかったが、この女の優秀さだけは買っていた。
優秀だからこそ裏切る事はない。
裏切るより従う利が大きければ裏切られない。老人はそうやって生きてきた。
幻想だ。人の心など誰にも分かりはしない。
老人の理は自分だけの物で、他人がその理で動くとは限らない。
「この村をご覧になられましたか? 酷い有様だったでしょう。
魔物の襲撃で住民は皆殺しにされました。ウルラ商会の商売敵も。
私の家族も、みんな」
村の家々はほとんどが破壊され、風化した白骨が野晒しになっている状態。
もう人の住める場所ではない。
女はあえてこの場所を選んだ。
老人がこの廃村に逃げ込むよう意図的に誘導した。
老人はまったく気付いていなかった。
彼にとっては取るに足らぬ事だったから。
「貴方が仕組んだ事なのは知っていますよ。段取りを整えたのは私ですから。
ウルラ商会の邪魔になる者を消すため、魔物の軍勢を村に誘導させましたよね。
いつも秘密裏に避難させていたんですが、この村は間に合わなかった」
「そ、それでわしに復讐しようと!?」
「違いますよ。貴方自体はどうでもいいんです。
私はウルラ商会が欲しかっただけ。そのために貴方が邪魔だっただけです」
女がやった事は徹底的だった。
老人から地位を奪い、権力を奪い、
金を奪い、交友関係を奪い、全てを剥ぎ取った。
たった半年の間に、自分以外の全てを奪い取られていたのだ。
老人が気付いた時には手遅れ。
犯罪者の汚名まで被せられ、着の身着のままで逃げるしかなかった。
彼が逃げる場所すら、女の予定通りだったとも知らず。
「強欲な阿婆擦れが!
十分に贅沢な暮らしをさせてやったのに、まだ足りんのか!?」
「足りる訳ないじゃないですか。ウルラ商会が全部必要なんです。
……邪神と魔物を全て殺し尽くすために、商会の全てが」
女の口から出た予想外の言葉に、老人が怯む。
大商会を使い潰して、邪神と魔物を殺し尽くす。
そのためだけに奪い取ったのだと。
老人からすればあり得ない。そんな事をしても銅貨一枚儲かりはしない。
「お、お前! わしを助けてくれたら一生遊んで暮らせるだけの金をやるぞ!
こんな狂った女に与してお前に何の得がある!?」
老人は男の方に声を掛ける。傭兵か何かなら自分に味方してくれると確信して。
真っ当な人間なら狂気じみた目的に付き合うはずがないからだ。
しかし、男は肩をすくめて冷たい笑みを浮かべた。
「俺の目的はその先にあるんでな。
商会の神輿は俺がやるから、安心して隠居しろ」
「署名があれば楽でしたけど、書く気はないみたいですね。
さようなら、先代商会長。
ああ、一つ忠告です。この辺りはなぜか魔物が多いのでお気をつけて」
「ま、待て! 待ってくれ! わしを置いていくな!」
老人の哀願に聞く耳を持たず、男と女は廃屋を後にする。
自分がさんざんやってきた事だ、老人はすぐに気付いた。
女が意図的に魔物をこの周辺に誘導したのだと。
老人のかすれた叫び声は、廃村に空しく消えていくだけだった。
「魔物なんか誘導していない癖に」
「あら、一言もそんな事言っていませんよ?」
廃村からの帰り道、女は素知らぬ顔で微笑んだ。
彼女にとって家族が眠る故郷だった場所。魔物など呼び込むはずがない。
しかし老人はそう信じただろう。
誰も立ち寄らない廃村で魔物に怯え、
微かな物音にさえ恐怖して短い余生を過ごすはずだ。
「これからよろしくお願いします、新商会長」
「邪魔にならない神輿であるように努力するよ」
新商会長とはいっても、男には知識も経験も実権も全くない。
国一番の大商会は一年ほど前から、女によって完全に掌握されているのだから。
「商会長、指示を」
鉄人形と呼ばれた女の静かな言葉。
その目にはっきりと燃える狂熱。
男は彼女と目を合わせる。男の目にも、狂熱が宿っていた。
「道を作るぞ。邪神を討つためにあんたの道を。友を故郷に返すために俺の道を」
「ええ。二つの目的のために、同じ一つの道を」
*****
シュエットとパッセルの出会いから、ちょうど百日。
シュエットは今、王城で国王に謁見していた。
「シュエットよ、勇者殿は未だに邪神を倒せぬようだが」
「申し訳ございません、陛下。全力を尽くしているのですが……」
わざわざシュエットを王城に呼んだ理由がこれだ。
自分たちが城下町に来るといつもこのように、小言を言うために勇者を呼ぶ。
そんな事を彼らに聞かせる訳にはいかないと
シュエットは常に一人で王城に上がっていた。
国王の気持ちも分からなくはない。とにかく不安で仕方がないのだ。
勇者が旅立ってから二年と百日。
国は魔物によって疲弊し続け、民の不満を抑えるのも限界がある。
自分たちには打つ手がない。
邪神討伐まで後一歩にまで迫った勇者に頼りたくなるのは当然だろう。
その勇者がなかなか邪神を討てない。八つ当たりをする気持ちも理解はできる。
大切な仲間たちに当たりさえしなければ、放っておくのだが。
「しかしなぁ、そう言い続けてどれだけになる。このままでは……」
「お言葉の途中失礼いたします。
ウルラ商会より、城下町及び周辺地域の防衛計画書を持ってまいりました。
経費はいつも通りに全て、商会の負担という事で」
国王の言葉を躊躇なく遮る、冷徹な女性の声が謁見の間に響く。
不敬と声を上げる者は一人もいない。
そんな事をしたら、城下町どころか国の防衛機構が
機能不全に陥ってもおかしくないからだ。
女性の名はラーツァ。ウルラ商会の実権を握る者だ。
「シュエット様、時間です。商会の会議が昼過ぎに行われますので」
「分かった。それでは陛下、失礼いたします」
国王に一礼をして足早に謁見の間を去る。
不敬の極みのような行為に対して、国王は渋い顔をすれど何も言わない。
暗愚な王だったなら後先を考えず
無礼を働いたシュエットたちをなじっただろう。
国王は決して暗愚ではない。しかし、かといって名君でもない。
平和な治世であったなら、平凡に国を統治していたであろう普通の王。
邪神の侵攻という国家存亡の時に
上に立っていたのが不幸だったというだけだ。
謁見の間から出て、城の廊下を歩きながらラーツァに話しかける。
「ラーツァ、会議なんて聞いていないが」
「王と重臣の感情を紛らせるためだけに使われる時間など無価値です。
シュエット様の時間はもっと有意義に使われるべきかと」
「助け船を出してくれてありがとう」
一国の王相手に平然と出まかせを言い、それを悪びれもしない胆力。
ウルラ商会が国の命運を左右するほどに肥大化した理由の一つが
彼女であると、改めて信じざるをえなかった。
大陸の経済を牛耳ると言っても過言ではない大商会、ウルラ商会。
ラーツァはその全権を一手に引き受ける若き才女。
そして、表向きにウルラ商会の長とされているのが、
誰あろうシュエットである。
商会の長と言っても、それはシュエットが作ったものではない。
既に存在していたウルラ商会を乗っ取った、という言い方が適切か。
かつてウルラ商会の長だった男は、
ひたすらに国中の富を集め私腹を肥やす事だけを考えた男だった。
そのために魔物さえ利用し、敵対する商人を潰し、
超高額の生活必需品を民に売り続けた。
勇者の妨害すら行った。
粗悪品を渡し、偽情報で勇者一行と魔物の軍勢を鉢合わせさせ、
自ら暗殺者まで雇い入れていたという。
勇者と共に旅をし、襲撃してきた暗殺者を始末したのは
他ならぬシュエットなので、嫌というほど知っている。
ラーツァの手引きで、シュエットは彼女と協力し、男を社会的に抹殺した。
全ての財を奪い、全ての地位を奪い、知人にすら毛嫌いされるようにした。
自分以外の全てを失った初老の男の末路など興味も湧かない。
その後、ラーツァの恐るべき手腕で、
シュエットはいつの間にかウルラ商会の長に納まっていたのだ。
都合のいい神輿があったから使っただけ、とラーツァは言っていた。
全ては邪神を討つため。
ラーツァはそのために準備し、己の才を振るい続けていた。
下劣な男の作り上げた大商会を丸ごと奪い取り、邪神を討つ者に譲渡する。
いつも冷酷さを崩さないので"鉄人形"と呼ばれていた彼女の本心。
シュエットが商会の長となった時に聞かされたそれは、
自分と似たものだと感じた。
彼女が鉄だというなら、自分の体すら溶かすほど赤く焼ける鉄だ。
「本日はどのようなご予定でしょうか」
「騎士団長と宮廷魔術師、貴族連中に挨拶を済ませて、
パッセルを迎えに行ってから訓練所へ寄るつもりだ。
明日には城下町を旅立つ」
「分かりました。シュエット様の指示通りに進めておきます」
そんなラーツァは、シュエットのやる事に賛同して
指示通りに商会を動かしてくれる。
彼女の才ならばシュエットがいなくてもいいと思ったのだが、
それではいけないとラーツァは語ってくれた。
目的へ至るための道を作るならあらゆる物資、金、人員を用意する。
ですが、私には指針がない。どのような道を作ればいいのかが分からない。
貴方ならばそれを示してくれる、と。
信じてくれたから全力を尽くすなどとはとても言えない。
シュエットは彼女と商会を利用しているに過ぎないのだから。
ラーツァは邪神を討つための道を。シュエットは勇者を故郷に帰すための道を。
途中まで同じ道だから、共に作っているだけだ。
頼りになり過ぎるラーツァに甘えている所も多々あるだろうが。
大商会の長が自由に出歩けるのも、彼女だけがいれば問題ないからだ。
「後で私の家に立ち寄ってください。パッセルが待っていますよ」
「分かった、また後で」
軽く手を振るシュエットに対し、ラーツァも小さく手を振った。
才能を除けば、お茶目で可愛らしい所もある普通の女性だ。
だが、目的を果たすまでは鉄人形であり続けるだろう。
世界のためなどではない。自分自身のために。
***
騎士団長と挨拶をかわしてから王城を出て、
城下町にあるラーツァの家にやって来た。
この所毎日のように通っていて、勝手知ったる家。一言挨拶だけして中に入る。
食堂ではラーツァとパッセルが一緒にお菓子を食べている。
その姿はまるで親子か姉妹のようだった。
「シュエット様、ようこそ」
「パッセルの様子は?」
挨拶もそこそこに、ラーツァにパッセルの事を聞く。
彼女の示した指の先では、パッセルが作りたてのお菓子を食べていた。
艶やかな長い黒髪を水色のリボンで後ろに束ね、
この辺りでは珍しい、少し赤黒い肌の少女。
素朴な普段着に身を包んでおり、
ぱっと見ればどこにでもいる可愛らしい村娘だ。
しかし腰には大振りな短剣。
それに気付けば、誰も少女をただの村娘だとは思うまい。
見るからに美味しそうなお菓子を口に運びながらも、少女は表情を変えない。
「せっかく作ってくれたのにごめんね、ラーツァ。
柔らかいって事しか分からない」
「謝らなくていいのよ、パッセル」
ラーツァがパッセルをそっと抱きしめる。少女は静かに目を細めた。
「申し訳ありません、色々な味を試してはみたのですが……」
「いや、俺こそ無理を言ってすまなかった」
謝るラーツァの肩にそっと手を置く。
できる限りを尽くしてくれた事は分かっていた。
ただでさえ狂気に近い多忙だというのに、
手作りの料理を毎日作ってくれた彼女には感謝しかない。
本人は気分転換になると珍しく笑ってはいたが、それでも。
パッセルは味覚障害を患っていた。
何を食べても味を感じられず、匂いも分からない。
辛味だけはある程度感じるようだが、
パッセルは辛い物が嫌いなので意味がない。
二年間、殺した魔物の血肉だけを食って生きてきたからなのだろうか。
味など分かっては、臭いなど感じては、
耐えられなかったからその機能を壊したのか。
理由は定かでないが、パッセルが味も匂いも分からない事だけは事実だ。
司祭の癒しでも、自身の超再生ですら治せない味覚。
ラーツァに頼んでちゃんとした食事を食べさせていたのだが、
効果はなかったようだ。
「ラーツァ、いつまでやってるの?」
「ああ、ごめんね」
パッセルをずっと抱きしめていたラーツァが、申し訳なさそうに体を離す。
パッセルに家族を、特に年の離れた妹の姿を重ねているのだろう。
ラーツァは田舎村に住む幼い家族を養うため、
五年ほど前からウルラ商会で働いていた。
その才を見出され、商会長の下でひたすら働き、金を送り続けた。
非情な命令にも黙って従った。
商会長に魔物の動きを利用して商売敵を文字通り排除しろと言われても。
自分がやらなければ、別の誰かが短絡的な方法で実行するだろう。
命令に従いつつも非道を最低限に抑える。
類稀なる才を持つラーツァだからできた。
商会で働き続けたのは、ただ家族のためだった。
勇者が召喚される二十日ほど前。ラーツァの元に、ある報告が届いた。
ある村が魔物どもに滅ぼされ、住民が全滅したと。
魔物の襲撃が本格化している現状、騎士団や警備隊の兵力にも限りがある。
見捨てられた小さな村が滅ぶなど珍しくもない。
心をすり減らしていたラーツァは報告をほとんど聞き流していたが、
ある単語を聞くと青ざめた顔で報告者に掴みかかった。
村の名前。ラーツァの故郷と同じ名前のそれを。
愕然とする彼女だったが、その頭脳は原因をすぐさま導き出した。
商売敵を排除していった結果、
故郷の田舎村は商業圏から孤立したような状態になっていた事。
兵力の再編というもっともらしい理由で、
村から警備兵が一時的に離れていた事。
商会長は魔物の動きを把握しており、意図的にその状態を作り出したという事。
つまり、欲望の権化たる老人が喰らう今回の餌が
ラーツァの故郷だったというだけ。
報告を受けた次の日。
ラーツァは何事もなかったかのように商会で仕事をしていた。
家族思いの生真面目な才女ではなく、鉄人形として。
いつもと何も変わらず、書類に向かい、報告を聞き、指示を出す。
共に働く者は戦慄していて、気の弱い者は失神するほどだった。
ラーツァは何度叩きつけたのか、
潰れて血が滲んだ右拳を気にも留めず仕事を続けていたという。
今もその痛々しい傷跡は残っている。
それなりの司祭ならば跡形もなく癒せたのに。
シュエットは何となく理由が分かる気がした。
拳の傷は焼印だ。人としての自分を殺し、鉄人形とするために刻んだ焼印。
聡明なラーツァは、家族が死んだ根本的な原因を導き出していた。
ウルラ商会が肥大化した、欲深く愚かな下種が商会長だった、
ラーツァが全力でそれを後押ししてしまった。
賢人気取りなら人間の醜悪さでも高らかに語るのだろうが、
どれも発端が飛ばされている。
そもそもの元凶は邪神と魔物どもが襲ってきたからだ。
直接家族を殺したのも魔物どもだ。ラーツァの故郷を滅ぼしたのも魔物どもだ。
それを討つために彼女は鉄人形になった。
自身すら焼き尽くしかねない、赤熱した鉄の人形に。
復讐とは違う。贖罪ともまた違う。未来へ続く道の礎となるため。
誰かが自分の屍を踏みしめ、道の先へと進むために。
だからこそ彼女は才の限りを尽くし、その道を作ると言ったシュエットに従う。
「いつでも来ていいからね、パッセル。
シュエット様、今日の夕食は腕を振るいますね」
「楽しみにしているよ」
パッセルの髪をすくように撫でるラーツァ。その肩に軽く手を置く。
彼女がもし普通に暮らせていたなら、
今のように穏やかな家庭を作っていたのだろう。
しかし、それは失われた。他の誰が許してもラーツァ自身が許さない。
彼女が自分を許せるようになるには、邪神と魔物を滅ぼすしかない。
そうして初めて、許すための最初の一歩を踏み出せる。
シュエットにできるのは道を作る事だけ。
その途中にラーツァの許しがあるのなら、彼女のためにも道を作るだけだ。
***
パッセルと共に家を出る。ラーツァは小さく手を振っていた。
二人で小さく手を振り返すと、
その様子がおかしかったのかラーツァは吹き出して笑った。
大通りを並んで歩く。兄妹にでも見えているのだろうか。
年は十と少ししか離れていないので
父娘に見られたくはないなと下らない事を考える。
「訓練全部終わったよ。先生に褒められた」
歩いている途中にパッセルが話しかけてくる。
これから視察に行く、城下町にある戦闘技術の訓練場。
六十日の間、パッセルにはそこで基礎から戦闘技術を教えていた。
少女を指導した教官の報告には既に目を通していた。
効率の良い動き、人体破壊の術、冷静に理性を保ち戦況を見極める戦術眼。
残虐性と躊躇いのなさはそのまま、戦闘技術と暗殺の術を徹底的に教え込んだ。
貴方の言いつけ通り最高の刃として仕立て上げた、と。
ウルラ商会の闇、暗殺部隊の隊長にそこまで言わせたのだ。
完璧に仕上がっているだろう。
「凄いな、たった六十日で全部終わるなんて」
「ふふん」
得意げな表情で胸を張るパッセル。
気を許した人物が相手であれば、ずいぶんと感情が顔に出るようになった。
その相手が現状、シュエットとラーツァしかいないのだが。
ふと、腹の辺りがもぞもぞするので見てみると、
パッセルがまたも人の服で菓子の付いた手を拭っていた。
注意をしても止めようとはしないし、
シュエット以外の人にはやらないので諦めてそのままにしている。
「これからどこに行くの?」
「訓練所の視察と、まあ他にも色々だ」
二人で話しながら町を歩いていると
仲間たちと共に旅をした日々が思い出された。
道を作るために捨てた、あの懐かしき日々を。
訓練場に到着すると、大きな掛け声が響き渡る。
城下町の郊外に作られた訓練場では、数十人の男女が戦闘訓練に励んでいた。
元々はウルラ商会の先代商会長が、私兵を育成するために作った施設らしい。
今訓練を受けている彼らも、ある意味では商会の私兵だといえる。
国の警備隊や騎士団と連携し、大陸にある村や町を守るために
育成されている彼らを私兵と呼んでいいのなら。
魔物の被害が少ない城下町の訓練場では、主に基礎訓練を行っている。
ここで基礎と連携を徹底的に学び、少し離れた防衛拠点で
魔物との実戦経験を積み、最低限の知識や礼儀作法も学ぶ。
費用は全て商会が出し、訓練生には一定額の金まで支給される。
訓練期間は非常に短く危険も伴うので
生半可な覚悟で来た者は二日ともたず辞めていく。
その後の進路は人それぞれだ。
戦闘に向いていない者は早々に追い出される。
慈善事業でやっている訳ではないので、当然の事だ。
訓練を無事修了した者は、望めば王国の兵士として正式に登用される。
魔物との戦闘経験がある人材は、国としてもありがたい。
国庫に余裕がない現状で、彼らの賃金は商会が出してくれるのだから尚の事。
ほとんどの者が安定した収入、つまり兵士登用を求めて訓練場の扉を叩く。
魔物のせいで仕事を失った者や、
野盗などに身をやつすしかなかった荒くれ者たちが集まり、
ウルラ商会の訓練生は増えに増えた。
魔物の襲撃で失った人員の大規模登用、勇者が奪還した地域によって
伸びに伸びた防衛線の維持、それに伴う莫大な費用。
それらが重なり、たった一年強で王国兵の半数が
ウルラ商会の訓練生というありさまである。
シュエットやラーツァの機嫌を損ねれば
これが一夜にしていなくなるかもしれない。
だからこそ、王は無礼に対して何も言えないのだ。
施設の職員に挨拶をして、訓練を見せてもらう。
老若男女の違いはあれど、何かしらの目的を持って訓練を受けている者たちだ。
得物を振るう姿は真剣そのもの。実戦さながらの訓練。
とはいえ大半が、武芸を始めたての素人に毛が生えた程度。
残りはそれなりの使い手だが、極みの域には遠く及ばない。
パッセルは訓練に興味すら抱かず、呆けながら空を見ている。
やはり規格外の強さ、天賦の才を持つ者はそういない。
訓練場には、それを選別する狙いもあった。
だから商会の金を湯水のごとく使ってこんな事をしている。
上級の魔物数体と一人で戦っても勝てる武芸者が二十人は欲しい。
ラーツァにそう言った時には、いつも冷静な彼女が
シュエットの正気を疑って戸惑うほどだった。
貴方のような化物が二十人もどこにいるのですか、と。
ユウジたちやパッセルが常の枠を外れた存在なのだ。
シュエットはユウジたちと共に歩むために
必死で枠に手を掛け、わずかにはみ出しただけ。
目的や来歴など何だって構わない。善悪すらどうでもいい。
シュエットが求めるのは最低でも自分以上の、枠を外れた武芸者。
隣を見ると、パッセルが眠そうに目をこすっている。
彼らには悪いがこれ以上見るべきものはない。
次の目的地に向かおうとしてパッセルの肩に手を置いたのと同時に、
教官が訓練終了の号令を出した。
訓練生たちが疲れた顔をしながら帰り支度をする。
その中の一人が、シュエットたちに話しかけてきた。
パッセルより少し上の、快活そうな少女。
支給された皮鎧を身にまとい、訓練用の長剣を腰に差している。
「こんにちは! 新しく入った方ですか?」
「いや、俺達は見学に来ただけだよ」
「ここの訓練は本当に厳しいですから、入るなら覚悟した方がいいですよ」
声を潜めて忠告してくれる少女に苦笑を返す。
まさか商会長その人に言っているとは思いもしていないのだろう。
「お姉さんは、どうして訓練してるの?」
不意に、少女へ話しかけるパッセル。
少女は不躾な問いかけに気を悪くした様子もなく、
少し屈んでパッセルに視線を合わせた。
「魔物のせいで両親が……いなくなっちゃって。
私が家族を養わなくちゃいけないからね」
言い淀んだ事から考えて、恐らくは魔物に殺されたのだろう。
魔物どもに親を殺された孤児は時々見かける。
そうなった時、家族のために誰かが犠牲になるしかない。
子供である事を止め、親の代わりになるしかない。
目の前の少女はその一人。
身を売って生計を立てるか、他の稼ぎ口を見つけるか。
少女が選んだのは、恐らく兵士になる事。
命の危険はあるが安定した給金が得られる職。
魔物のせいで王国経済は破綻寸前、
山賊や野盗になろうものなら魔物に殺されるだけ。
男は粗悪な武器を手に取って魔物と戦い、女は身を売る。
それがしばらく前までの王国の日常だった。
そして今は、それすらも破綻している。
ウルラ商会がなければ流通が滞る国を、国といっていいのだろうかとすら思う。
現在の王国は娼館どころか街娼が客の奪い合いをするほどの飽和状態で、
身を売る場所すらない。
国王の不満も当然といえた。このままでは、国が後二年持つかどうか。
特別な技術を持っていない。知識がある訳でもない。
身を売る事さえできない。
そんな者が生きていくには、家族を養うにはどうしたらいいのか。
もう男も女も関係なく、その身を剣に託して魔物を殺し、
命と引き換えに金を稼ぐしかないのだ。
「魔物がいなくなったらいいのかな」
「うーん、そうなったらお給金貰えないから困っちゃうかも」
パッセルの呟きに、微笑みながら答える少女。
茶化しているような言い方だが、根底にあるのは諦めだ。
絶体絶命の状況で現れた勇者に希望を託したが、
二年が経っても邪神を倒せず、魔物の脅威がなくならない。
それどころか国そのものが破綻しようとしている。
少女にできる事は諦めしかなかったのだ。
謝罪の言葉が出そうになったが喉元で押し留めた。
言った所で自分の気が楽になるだけの卑劣な行為。
勇者の仲間として、勇者の道を作る者として、
シュエットが少女にしてやれる事は一つだけ。
道を作る。その過程で邪神を討ち、魔物どもを滅ぼす。それだけだ。
「それじゃ、私はまだ訓練があるので失礼しますね」
「ああ、時間を取らせてすまない。その……怪我には気を付けて」
シュエットたちに笑顔を見せて、少女は訓練場から走って出て行った。
頑張れなどと言えるわけがない。
少女は既に自身の限界を超えて頑張っているのに。
パッセルは少女が去った方向をじっと見つめ、短剣を抜いた。
注視していなければ見逃していたかもしれない、一瞬の抜剣。
「お姉さんを困らせちゃうけど、ごめんね」
それはパッセルの宣言。魔物を殺し尽くすという決意の証か。
冗談を真に受けたのか、冗談だと分かって言っているのかは分からない。
魔物がいる限り状況は悪化し続ける。
しかし魔物を殺し尽くせば兵士は削減され、少女は稼ぐ方法を失う。
未来のためになどという綺麗事は言わない。
後の世でどれだけ罵られる事になるかは分からない。
それでも道を作ると決めた。
邪神を討ち、魔物を滅ぼし、友を故郷に帰すと決めたのだ。
「俺たちも行こうか、パッセル」
「うん」
二人揃って歩き出す。訓練場で行う本来の目的のために。
訓練場の奥に入り、階段を下りて地下へと進む。
途中に警備の者がいたが、シュエットたちの顔は知っている。
何事もなく通してもらう。
しばらく降りると、こじんまりとした稽古場に出る。
元々は暗殺者を鍛え上げていたという、裏の訓練場だ。
ここで六十日間パッセルを鍛え上げた教官、
暗殺部隊の隊長が一人で稽古場に立っていた。
「シュエット様、お待ちしておりました」
「こんにちは、先生」
「隊長と呼べと何度も言っているだろう……まったく」
パッセルをたしなめる隊長だが、
言い方はやんちゃな子を相手にする親のようだ。
シュエットが商会長になった時に暗殺部隊は解体され、
暗殺者たちは別の仕事に就いた。
今は斥候や偵察兵として魔物たちとの戦いに貢献してくれている。
隊長はいざという時の札として城下町に残っていた。
幸いにも、まだ札は使われてはいない。
「それじゃ、始めるか」
背の長柄斧を下ろし、小手と具足を外す。その状態で稽古場の中心に立った。
パッセルも地面に短剣を置き、シュエットの近くまで歩いてくる。
間合いは二歩半。小柄なパッセルにとっては三歩。お互いに構えをとる。
「寸止め?」
「当てていい。怪我のない程度に加減してくれ」
「うん」
パッセルの訓練の成果を直に見るため、ここに来た。
一応、シュエットには武術の心得がある。
ユウジが武術を極めたとうたわれる老師範に稽古をつけてもらう際、
自分もと頼み込んで稽古をつけてもらった。
たった三十日の稽古で、ユウジは老師範から一本を取れるほどに強くなった。
シュエットは最終日に二十本挑んだが一本すら取れず、
お主は大人しく魔道具の斧と防具を装備して戦え、と師範に言われた。
それでも皆伝の印可状は貰えた。"とりあえず皆伝"と書いてある雑な紙切れ。
今や一枚の紙切れと、教わった武術だけが老師範の形見。
思い出に浸っていると、パッセルの姿勢が低くなる。
シュエットの隙をうかがっているのだろう。視線が細かく動いている。
わざと隙を作ってやると、パッセルは即座に動いた。
一歩で間合いが瞬時に詰まる。上段狙いの鋭い右拳を、半身を逸らして受ける。
受けた左腕に伝わる威力は、屈強な大男さえ超えるほど。
即座に反撃として掌底で頭を狙ったが、腕を下から跳ね上げられた。
後ろに一歩下がる。胴を狙ってきた突きを受け流す。
両手でパッセルの腕を押し出し、勢いを利用して一度間合いを取り直した。
苦笑してしまう。ここまで強いとは思わなかった。
頭への掌底は本気で当てるつもりだったのだが軽々と受け流されてしまった。
このままでは徐々に押されて負けるだろう。
よくぞここまで鍛え上げてくれたと感謝の念が湧く。
しかし、シュエットにも思惑はある。
少々卑怯な手を使ってでも今回は勝たせてもらう。
再度、隙を作った瞬間に踏み込んでくるパッセル。今度は中段。
叩くように受け流すが、即座に足を狙った蹴り。
速度が乗り切る前にこちらも足を出して受ける。
しかしシュエットの姿勢はかなり崩れた。
パッセルは万全の姿勢を保っている。
地を音がするほどに踏み込み、腹を狙って放たれる少女の拳。
そこに、あえて防御をせず無防備なまま突っ込んだ。
驚いたパッセルが拳を途中で止める。
拳を振り切ったらシュエットの腹を貫通しかねないので止めるしかない。
攻撃が来ない事は分かっていたので、一気に組み付く。
組み付くというより、単に抱き着いたと言った方が正しい。
不格好で不完全な組み付きでは武術の素人ならともかく、
訓練を受けたパッセルには易々と返されてしまうはず。
シュエットに怪我をさせてはいけない、という条件さえなければ。
少女が一瞬だけ躊躇した隙を突き、軸足を払って地面に押し倒す。
パッセルが頭を打たないように抱え、あえて自分が下になるように倒れた。
地面に倒れているシュエットは完全に無防備状態だったが、
追撃が来る事はないようだ。
パッセルを下にしていたらどうなったかを理解していたからだろう。
抱きとめられたままの少女は、感服の目でシュエットを見ていた。
「負けちゃった」
「パッセルが短剣を持っていたら五回は死んでいた。
お互い素手だから勝てただけだな」
一応見栄を張って言ったが、確実に負けていたと断言できる。
パッセルが主に学んだのは打撃ではなく、極めの人体破壊術だ。
怪我のない程度と言われた以上、彼女は習得したほとんどの武技を使えない。
手枷と足枷をつけた少女に、イカサマを使い辛勝してこの言い草。
我ながら貧相な面子だと苦笑した。
面子はさておき、どうしても勝つ必要があった。
自分の方が強いと思ってしまうと
戦闘での緊急時に自己判断を優先してしまう。
命令権を確保するためにも負ける訳にはいかなかったというだけだ。
パッセルを抱きかかえたまま、体を起こす。
悔しさで少しだけふくれっ面をしている少女の埃を払っていると、
隊長が呆れ顔で近づいてきた。
「貴方以上の武芸者を二十人、ラーツァ様の言う通り正気ではないですね」
「少なくとも一人ここにいる。ありがとう、隊長」
パッセルの頭を撫でつつ、隊長に礼を言う。
隊長は苦笑しながら頷き、パッセルにブローチを手渡す。
光を反射する光沢がない灰色のブローチ。意匠は翼に剣を隠した鳥。
ウルラ商会、暗殺部隊の証。その最後の一個。
暗殺部隊は解体され、もう人員が増える事はない。
パッセルが技を受け継ぐ最後の一人になる。
「我らの末妹、最後の同胞パッセル。その技の限りを尽くし使命を果たせ」
「はい、先生」
「最後まで隊長とは呼ばないのか……」
頭を抱える隊長の背を、気にするなと言わんばかりにぽんぽん叩くパッセル。
気安い態度は、隊長に気を許しているからだろう。
脱いだ小手と具足を着けなおし、長柄斧を背にする。
またすぐに脱ぐ事を考えると、面倒臭かったが仕方ない。
パッセル、隊長と共に階段を上がる。
途中にいた衛兵はその役目を終え、一礼をして去っていった。
地下の稽古場が本来の用途で使われる事はもうない。
「シュエット様、夜は予定の通りですか?」
「ああ、予定通り暗殺されてくるよ」
隊長に軽く冗談で返すと、パッセルが手を引っ張ってくる。
真剣に怒っているようで、引かれる手がかなり痛い。
「約束と違う」
シュエットが今晩死ぬつもりだと思ったらしく、険しい目で睨みつけられる。
いつもはラーツァにだけこの冗談を言っていたので
パッセルには本気にされてしまったようだ。
「冗談なんだ、悪かった。何回か暗殺を試みられているから、つい」
「そんなに?」
手に込められた力が抜ける。言葉遊びでしかないと分かってくれたらしい。
「今日で四回目になるな」
「それなのに、シュエット笑ってる」
パッセルに指摘され、自分が獲物を前にした
獣のような笑みを浮かべている事に気が付いた。
無意味で気持ち悪いおべっかやお世辞、
人の悪意に満ちた交渉や自分勝手な懇願を聞くより、はるかに楽しみだ。
じっとシュエットを見ていたパッセルは再度手を引いて言った。
「あたしも行きたい」
「そのつもりで、ちゃんと衣装も用意してあるぞ」
そう言ってパッセルの服をちょんとつまんでやると、少女は首を傾げた。
わざわざ着替える必要があるのかと疑問を感じているらしいが、
村娘のような格好で宴には連れて行けない。
場所に合った衣装というものがある。
「ラーツァがおめかししようと張り切っていたから、覚悟しておけよ」
「何であたしに可愛い服を着せたがるんだろ、自分で着ればいいのに」
家に帰った後の事を考え、ため息をつくパッセル。
パッセルを妹と重ねていて、どうしても過剰に構ってしまうのだろう。
少女もそれを分かっているのか、
口では文句を言いつつもラーツァを嫌ってはいないようだった。
「パッセル、シュエット様に恥をかかせないようにな」
「命に換えても守れ、じゃないの?」
「そんな無様を晒すような者に証は渡さない。
自分の命も守り、シュエット様も守れ。
これは我らの基本で、今更忠告する事ではない」
隊長はパッセルの胸元につけられたブローチを軽く指で押す。
それは暗殺部隊にとって誇りの証。
効率的に人を殺すため磨き上げられた忌むべき技術。
それでも、彼らにとっては心血を注いで作り上げたもの。
忌むべき存在である事は知っている、我らは否定されても仕方がない。
だが、技だけは誰にも否定はさせない。
暗殺部隊の解体を告げた日、
隊長がそう言ってブローチを握りしめていた事を思い出した。
***
その日の夕方、シュエットとパッセルは大邸宅の大広間にいた。
周りでは煌びやかな衣装を身にまとった男女が、酒を片手に談笑している。
商人や貴族たちの会合。いや、接待の宴か。
ウルラ商会が流通、輸送のほぼ全てを握っている以上、会合する意味がない。
自分より三十も四十も離れた年の老人たちが
頭を下げながら我先にとお世辞を言う姿を見ていると悲しくなってくる。
もっとも、この宴に参加しているのは
先代商会長に与して暴利を得てきた者たちだ。
勇者に仇なした者たち。何を言われても冷徹にあしらうだけだ。
ウルラ商会のやり口を嫌う清廉な商人や貴族は
招かれても参加すらしないだろう。
人々どころか国家が困窮する中での豪勢な宴。
今では王族ですら質素に暮らしているというのに。
「御伽噺と違う」
「物語の宴と本物は違うさ。俺も最初は驚いたよ」
「がっかり」
うんざりした様子のパッセル。
ラーツァの見立てた子供用のロングドレスをまとった少女は、
仏頂面さえ何とかすれば可愛らしい令嬢に見える。
村娘のパッセルは、物語で語られる上流階級の宴に
憧れのようなものがあったのだろう。
そういう美しい宴も当然あるが
今シュエットたちが出ている宴は欲望で作られた戦場だ。
「あたしを殺したい人もいるね。あの人と隣の人」
パッセルは殺気に対し異常に敏感で
本人が意識していないような殺気や殺意でも感じ取る。
彼女たちはシュエットに取り入ろうとした所を
パッセルに妨害されたので、それでだろう。
とはいえ殺したいと思っているだけ。実際にやる度胸があるはずもない。
「暗殺者はどいつだ?」
「壁際のふたり」
本当に実行しようとしている者たちを聞いてみると
パッセルはあっさりと看破する。
あからさまな挙動不審。不自然な形に膨らんだ服。
中身が気になって仕方がないのか、何度も服の下に手を入れて確認している。
もう少し上手く隠せと叱ってやりたいくらいだ。
「そして、窓際でお酒持ってないあいつ。全部で三人」
パッセルが示した三人目は、年若い青年だった。
ごろつき未満の二人とは違う、ちゃんとした暗殺者に見える。
青年に見せつけるように、
気付いていないふりをしながら近場の肉を手に取ってかじりつく。
腹が減っていた訳ではない。シュエットに毒は効かないと示すためだ。
かつての旅で猛毒の地を踏破するため、
シュエットたちは小さな宝石のような魔道具を手に入れた。
毒と病を無効化する魔道具を全員の左腕に埋め込み、猛毒の地を越えた。
効果時間は永遠。抉り出しでもしなければ、二度と酒に酔う事もできない。
シュエットを暗殺しようと思うなら、搦め手は使えないのだ。
パッセルが真似をして同じように肉をかじる。
自分はこんなに格好をつけていたのかと恥ずかしくなって目を逸らした。
不死のパッセルにも当たり前だが毒は効かない。
毒を受けても即座に治るという方が正しいか。
青年が手を伸ばし、窓枠の上の方に触れる。
それが合図だったようで、
挙動不審な二人の男が短剣を取り出し、近くの老人を人質に取った。
「ぜ、全員動くな!」
言葉だけは強いがへっぴり腰もいいところ。
止めに人質とした老人は暗殺を依頼した張本人。
机の硬い果物でも投げつけてやりたい衝動に駆られたが、何とか抑え込んだ。
軽く傷をつけさせて自分が依頼人ではないと思わせたかったのだろう。
暗殺者の情けなさを除けば、老人の狙い通りに動いているようだ。
ラーツァの調査で何もかも筒抜けだと知ったら、老人はどんな顔をするだろう。
「シュエット様、お下がりを! ここは私が!」
青年がシュエットたちの前に立つが
注意はへっぽこ暗殺者よりこちらに向いている。
もう少し上手く殺意を隠せと言ってやりたい。
パッセルの背を二回指でつつき、シュエットから離れさせる。
「すまない、武器も防具も身に着けていなくてね。この匙くらいしかない」
「そうですか……」
スープを飲む時に使う木の匙をひらひらと振る。
わざと装備をつけていない事を示し、隙を作った。
青年がシュエットの方へと振り向く。同時に突き出される短剣。
心臓を目がけて襲い来る短剣の側面を
匙を持った左手の甲で叩いて受け流す。
弾いた青年の手首を右手で掴み、捻り上げる。
青年はあっさりと短剣を取り落とした。
驚愕している青年の口に匙を突っ込んでやると、彼は盛大に咳き込んだ。
「俺を殺したいなら死力を尽くせ。それが死力だというなら今すぐ失せろ」
腹に膝蹴りを叩き込み、放り投げるように青年の手を放す。
よろめいた青年は机にぶつかって座り込んでしまい、頭から野菜炒めを被った。
「待っててね、おじいちゃん。もうすぐ終わるから。
ねえ、命令したの誰? 教えて?」
パッセルの方を見てみると、少女はへっぽこ暗殺者の一人を瞬時に叩き伏せ、
もう一人の頭を掴み、顔を壁に何度も叩きつけながら尋問をしていた。
パッセルは身体能力を常に限界まで使うので、屈強な男の倍近い怪力を振るう。
そんな力で石壁に叩きつけられては意識を保つ事すら難しいだろう。
老人の顔は蒼白で、あまりの恐怖に涙すら流している。
もし首謀者が自分であると分かってしまえば、
目の前にいる殺戮機械のような少女が襲い掛かってくる事が確実だからだ。
パッセルが全部分かっていて脅かしているなどと、知るはずもない。
少々気を取られていた間に青年は立ち上がって予備の短剣を構えており、
精一杯の殺意を込めてシュエットを睨みつけている。
足元に落とさせた短剣が転がっていたが、横に蹴飛ばす。
先程の攻防で青年のだいたいの力量は分かった。
刃物など必要ない。手近にあった杯を手に取って、中身を一息に飲み干した。
青年が突っ込んできて小刻みに短剣を振るう。
刺突では先ほどのようになると考えたのか、細かい斬撃で攻めてくる。
表情にはかなりの焦りが見え、余裕のない連撃。
早くシュエットを殺さなければ、
仲間を処理したパッセルが向かってくると考えているのだろう。
その焦りで、シュエットがわずかに短剣の間合いを外す動きをしているのに
まったく気が付いていない。
短剣の扱いはそれなりに慣れているようだが
昼に訓練場で見た者たちと大差ない。
状況の判断も悪い。わざわざ警告してくれたのだから逃げるべきだった。
焦りで正常な判断力を失ったか、
どうしてもシュエットを殺さねばならない事情があるのか。
どちらだろうと、どうでもいい。
「俺の皮一枚を斬ったら勝ちなのか?」
「ぐ……このぉっ!」
あっさりと挑発に乗った青年が短剣を突き出す。狙いはやはり心臓。
杯に短剣を入れるように受け、先ほどと同じように手首を捻り上げる。
またも短剣は床に落ちた。
そのまま髪を乱暴に掴み、机の上にあった冷めたスープの皿に叩きつけた。
狙いは正確なのだが、それが分かっていれば対処などいくらでもできる。
「もう少し良い暗殺者が来ると思っていたから、がっかりだ」
「ふざけやがって……!」
「ふざけているのはお前だ」
青年の身を無理矢理に起こし、首を掴んで一気に踏み込む。
シュエットに押され、青年は不格好な後ろ歩きで下がり続ける。
そのまま壁に青年を押し付けた。
隣には涙を流している老人。暗殺の首謀者。
「シュエット、そのおじいちゃんだって」
へっぽこ暗殺者の二人を叩きのめしたパッセルが近寄ってきて老人を指差す。
何度も壁に叩きつけられていた方の顔はこちらからは見えないが
対面している人々が目を逸らし、卒倒する者までいる。わざわざ見たくもない。
「な、なんであいつらが!?」
「この馬鹿者!」
驚いて口を滑らせた青年に怒る老人。
見せ罠として雇ったごろつきが
首謀者の事を知っているはずがないという驚き。
青年はパッセルの言葉が正しいと白状してしまったのだ。
訓練された暗殺者とは思えない言動。自身もごろつきと大差ない者なのだろう。
ならば遠慮もいらない。
ラーツァや商会従業員たちのため、見せしめになってもらうだけだ。
「種を明かすと、最初から知っていただけだ。
ウルラ商会の情報収集能力を甘く見るな。
俺が一声かければ、お前の飼い犬が喉笛に食いつくぞ」
まるで吟遊詩人のように、宴に参加している者たち全員に聞こえるように言う。
老人は怯えきって壁にへばりつき、青年はシュエットに食ってかかる。
「……暗殺されるって事を知ってて宴に来たって、なんで!?」
「暗殺者は魔物との戦いで即戦力になる。腕が良ければ勧誘したかったんだよ。
お前のような、ただのごろつきだとは思わなかったがな」
首を掴む腕に力を込める。
青年の両腕は自由だというのに、シュエットの腕に手を掛けすらしない。
死力を尽くせと言ったのに、力量差に怯えて震えているだけ。
無抵抗でいれば許してもらえるとでも思っているのだろうか。
今日の昼、訓練場で出会った少女を思い出す。
技量という点では少女の方が下だろうが、
少女は同じ状況でも死力を尽くしただろう。
きっと振り解けなくても腕に手を掛け、足でシュエットを蹴った。
命尽きるまで諦めたりはしない。
「こいつら、いらない?」
二年間死力を尽くし、想像を絶する苦痛に耐え、
殺戮者へと至ったパッセルが聞いてくる。
それを聞いても、青年も老人も身じろぎすらしない。
根拠もなく何とかなるだろうと思っている。
自分だけは大丈夫だろうと思っている。
実行犯を捕まえれば止めてくれる。首謀者を捕まえれば止めてくれる。
そんな事は一言も言っていないのに。
青年の首から手を放す。
どこに安心できる要素があったのか安堵の表情を浮かべる青年。
「いらないな」
失望を吐き捨て、顔面を全力で殴りつけた。
後ろは壁で衝撃を逃がす場所はない。
立て続けに左、続けて右、左。
九度目に渾身の右拳を打ち込んだ所で手を止めた。
気を失い、壁にもたれかかるように崩れ落ちる青年。
殺してもよかったのだが、悪運強く生き残ったらしい。
見せつけなくてはいけない。ウルラ商会の人間に手を出したらどうなるかを。
シュエットが狙われる分にはいいが、
戦闘能力のないラーツァや従業員たちが狙われたら殺されてしまう。
城下町で暗殺を生業とする者たちは全て掌握した。
もう暗殺者紛いのごろつきしか雇えやしない。今回の暗殺ではっきりした。
残りはごろつきをけしかけようとする欲に狂った愚か者だけ。
必死に逃げようとしてパッセルに捕まっている、目の前の老人のような。
「シュエット様、違う、違うんです! 全てこのクズ共のでたらめ……」
「人の話を聞いてなかったのか? 最初から知っていたと言ったろ。
お前の店とは二度と取引をしない」
老人の顔から血の気が一気に引いていく。
流通と輸送を一手に担うウルラ商会との取引が禁止されるという事は、
この宴に出ている商人にとって死刑宣告に等しい。
利益を得るどころか、売る物自体が入ってこなくなってしまうのだ。
ウルラ商会に与する事を拒んだ商人たちは、
独自の輸送路や護衛を使っているのでこんな脅しは通じない。
辛くとも自力で立つ者と、安きに流れ悪の片棒を担いだ者の差。
「ど、どうかそれだけは! そんな事になったら、わしは!」
「殺そうとした奴に許しを請うな」
この老人が閥を作っていた事は調べがついていた。
シュエットが商会長になってからの、ウルラ商会の急激な方針転換。
それに不満を持つ者たちをまとめ、自分が長になり替わろうとしたのだ。
宴の席、大量の目撃者の前で殺す事で隠蔽できないように考えたらしい。
宴に武具を持ち込むのはおかしいので、
下準備さえ完璧なら暗殺の成功率は高いはずだった。
自分を人質に取らせることで失敗時の保険も完備。よくできた計画だった。
計画が全て事前に知られていて、
シュエットとパッセルの戦闘能力が考慮に入っていないという二点を除けば。
「それでは皆様、存分に宴をお楽しみに。
もう暗殺者がいないのなら俺は帰らせてもらうが?」
「もういないよ。帰ろう、シュエット」
宴の参加者は老人に追従した者たちだ。
外面は必死に取り繕っているが、内心では恐怖に震えているだろう。
自分たちに老人と同じような死刑宣告がされるのではないかと。
情けないが、そんな事ができるはずもない。
愚かな老人の店を追放するだけでも痛手なのだ。
だからこそ、ここまで残虐に振舞った。
道を作るまでの間、邪魔をされないために。
せめて暗殺者が戦力になる強さだったなら慰めになっただろうが、
ごろつき程度の奴では嫌な気分が上乗せされるだけだった。
誰も一言すら発しない宴の席を後にする。
外に出てから、かじった肉と酒の一杯以外に
何も口に入れていなかった事に気が付いた。
そして、出かける時にラーツァが言った事を思い出し、
彼女がそれを予測していた事にも気が付いた。
***
夜道を二人で歩く。魔物の襲撃が無いとはいえ治安は悪化している。
昼間と違い。柄の悪い者や街娼ばかり見かける。
城下町ですらこの有様。地方や田舎村は無法地帯と化した所もある。
協力して魔物と戦うのではなく、自分より弱い人間を食い物にする。
自分より強い者に媚びへつらう。
楽や悪へと流れる者のなんと多い事か。
しばらく歩くと豪勢な建物が見えてくる。ウルラ商会だ。
大貴族の邸宅のような巨大さは
先代商会長の欲望の大きさを表しているようにも見えた。
シュエットは、ほとんど立ち入った事がない。
自分にはやはり行商か小さな個人店が性に合っている。
不意に、パッセルがシュエットの前に出る。
短剣を抜いてはいないが警戒はしている。
ランタンを掲げて前を見ると、壮年の男と少年の二人が立っていた。
商会の前で待っていたらしい。
「シュエット商会長ですね」
「そちらは? 男二人とはいえ、こんな夜分にうろつくのは危ないぞ」
シュエットの言葉を聞き、少年の表情が険しくなる。
こちらの言葉が気に入らなかったのではない。
シュエットが息をしただけでも少年は機嫌を損ねただろう。
「そうやっていい人ぶるつもりかよ! お前の施しなんかうけねーぞ!」
「止めないか! すみません、息子が失礼を。
心配は有難いですが、ここで待つ以外に会う方法が思いつかなかったもので。
先日、私たちの隊商をウルラ商会の護衛が助けた件でお話を伺いたい」
そのような事が時々あるとラーツァから聞いていた。
先代の時は、ウルラ商会に与しない者たちの隊商は
わざと見殺しにしていたという。
シュエットが長になってからは可能な限り助けるように指示を出している。
敵は魔物で人間ではない。どうせ同じ道を通るのなら助け合った方がいい。
この急激な方針転換は、煮え湯を飲まされてきた者たちからすれば
いまさら何を、といった所なのだろう。
今のシュエットはウルラ商会の長。巨悪の後継者だ。
商会を利用し尽くして道を作るまで、本当の事は悟られてはいけない。
宴に参加していた悪徳商人にも、自らの正道を行く商人たちにも。
「護衛が勝手にやった事だ。そんな事に一々関わっていない」
「しかし、最近はウルラ商会の者に助けられたという者たちも多い。
そうやって我々を懐柔するつもりですか?」
「護衛の気まぐれだろう。
礼として追加で金が貰えるかもしれないと思ったのかもな。
俺から見れば、お前たちのような木端商人を懐柔する価値なんてない」
自分で言っておいて気分が良くないが、罵倒を交えてきっぱりと否定する。
懐柔されるような者たちでは困るのだ。
悪に媚びず、安易に屈せず。
そういう商人こそが邪神を討った後に必要なのだから。
「この野郎……!」
少年が一歩踏み込もうとした所を、父親が止める。
その所作を一目見ただけでも武術を修めている事が分かる。
宴のごろつき暗殺者が十人束になっても勝てはしないだろう。
彼のような武芸者こそ欲しかったと思いながら、ため息まじりに言った。
「その様子じゃ、店を任せるのはまだまだ遠そうだな」
「気長にいきますよ」
複雑な表情の父親。
シュエットに賛成したくはないが、心の中ではその通りだと考えているようだ。
少年は自身が挑発されたと感じたのか、ますます怒っている。
「もうお話終わり? 早く帰ろう」
親子が敵でないと判断し、
話の内容もどうでもいい物だと考えたパッセルが手を引いてくる。
パッセルの行動が余程気に入らなかったのか、少年は父親を押しのけて喚く。
「そんな女の子まで戦わせるつもりかよ! 可哀相だと思わないのか!?」
「ん? ああ、何度か話しかけてきた変な奴」
少年の言葉でやっと思い出したのか、パッセルが小さく頷く。
「知り合いか?」
「ごろつきに絡まれてたから助けて、怪我も治療したの。
それからしつこく話しかけてきて……助けなきゃよかった」
酷評に一瞬怯んだ少年だったが、気を取り直して話し始める。
勢いは明らかに衰えていたが。
「い、いつも君がぼろぼろになってたから……心配なんだよ!
どうせそいつの命令で戦わされてるんだろ?
君みたいな女の子がそんな事する必要ないんだよ!」
シュエットは色恋沙汰に疎い方だが、流石に分かる。
少年はパッセルの事が好きなのだろう。
子供らしく青臭い言葉に滲み出ている。
もっとも、その恋が実る事はない。
少年の言葉は自分の想像できる世界の域を出ていないからだ。
パッセルが少年に近づく。
少年は自分の言葉が通じたのかと嬉しそうだが、
背筋が凍るような殺気を放って近づいている。
手を前に出し、少年の胸を軽く押すパッセル。
少年は抵抗する様子もなく、なすがまま後ずさる。
少年はウルラ商会の石壁まで押される。
パッセルが何をしようとしているのか分からないようだ。
少年の胸から手が離れた瞬間、パッセルは全力で石壁を殴りつけた。
素手で殴ったとは思えない衝撃。石と肉と骨が砕けるおぞましい音。
何が起こったか理解できていない少年に
パッセルは石壁を殴った右手を見せる。
それを間近で見た少年は短い悲鳴を上げ、その場にへたり込んだ。
パッセルの右手は指があらぬ方向に曲がり、
手の甲まで砕け血に塗れていた。
石壁には大鎚でも叩きつけたかのような跡が残っている。
それほどの負傷でも、不死の力は一呼吸の間に右手を治した。
「あたしは、自分のためにシュエットの武器になるの。
一緒に行こうと言われただけ。命令された事なんかない」
パッセルは少年の胸ぐらを掴んで起こし、再度石壁に押し当てる。
砕けた石壁と、そこにこびりつく血と肉の欠片を背中で感じ、
少年は恐怖で声も出せないようだ。
「人も魔物も邪魔するなら殺して、それを踏みつけて進む。
あたしがやりたいからやってる。やらなきゃいけないからやってる」
口数の多くないパッセルだが、今はどうしても言いたかったのだろう。
相変わらずの無表情で淡々とした口調ながら、怒りがにじみ出ている。
少年の言い草が許せなかったのだ。
「あたしたちをちゃんと見てから物を言って」
吐き捨てるように言って手を放すパッセル。
少年は腰を抜かしたか立つ事もできず、這うように父親の後ろまで逃げ帰った。
パッセルが複数形を使ったのは、
ラーツァや訓練場で会った少女も含めているのだろう。
"君みたいな人がそんな事をする必要ない"。
そうしなければ家族を養えなかった少女への侮辱だ。
家族も故郷も失い、邪神を討つための礎となろうと
力を尽くすラーツァへの侮辱だ。
二年間血と死に塗れ戦い続け、自らの意思で刃を振るうパッセルへの侮辱だ。
彼は恵まれた商人の子なので、想像が及ばなかったのだ。
善意の言葉だろうが、現実にそぐわない綺麗事は空っぽでしかない。
上っ面だけの言葉がどれだけ人を激怒させるかも知らなかった。それだけだ。
「パッセル、帰るぞ」
これ以上はもういいだろうとパッセルの右手を握る。
再生したばかりの右手は赤子の手のようにも感じた。
手を繋いだまま親子の脇を通り過ぎようとした時、父親が口を開いた。
「何のためらいもなく手を握れる貴方も、きっとそうなのですね」
「想像にお任せするよ」
もう振り向く事もせず、帰路につく。
ウルラ商会に与せず生き残ってきただけはある、聡い男だと思った。
言葉を濁したところも含めて。
パッセルが自身を"武器"だというなら、
それを振るう者もまた同じ意思を持っている。
同じ目的と意思を持っていなければ、武器は決して己の身を預けない。
先程のパッセルの言葉は、シュエットの言葉でもあるという事だ。
彼がシュエットをどう解釈したのかは分かるはずがない。
巨悪の後継者か、覇道を行く暴君か。
どちらかに思われるようにと振舞ってきたつもりだ。
その甲斐あってラーツァたち従業員は暴君の犠牲者であり、
先代商会長とシュエットだけが悪と認識されるようになった。
最終的には目的を果たした後にシュエットが失脚し、
ラーツァがウルラ商会を緩やかに解体していく予定だ。
全ては友のためかと問われれば違う、と答える。
パッセルが先ほど言った通りだ。
自分がやりたいからやる。自分がやらなければいけないからやる。
それに加えて、自分ならできるからやる。それだけだ。
***
ラーツァの家に帰ると、彼女は夕食を作って待っていてくれた。
三人で食卓を囲んでいる姿を見たら、
ほとんどの人は親子の団欒だと思うだろう。
実際はお互いを利用し合う関係に過ぎない。
必要だから、都合がいいから一緒にいる。
汚れた口元を布で拭いてあげている
母子のようなパッセルとラーツァを見ていると、
突き詰めればどんな関係もそうなのではないかと考えるようになった。
共に過ごした時間や経験で、大切な存在になっていくだけだ。
「ごめんね、ラーツァ。綺麗な服なのに汚しちゃった」
「気にしなくていいのよ、元々そのつもりだったから」
ドレスの右腕部分には血がべったりとついていたが、
そもそも暗殺者を返り討ちにしに行ったのだから想定内という事だろう。
怒りに任せて拳を砕いてしまった二人。よく似ている気がした。
いつも淡々としているように見えて
強固な意志と、身を引き裂く事さえ厭わない激情を秘めた二人が。
シュエットの視線に気付いたパッセルが、きょとんとした顔で聞いてくる。
「じっと見て、どうしたの?」
「似ているなと思って」
パッセルはシュエットとラーツァを交互に見て、頷いた。
「うん、二人って似てるね」
「パッセルとシュエット様ほどじゃないかな」
三人とも、自分以外の二人が似ていると思っていたらしい。
要するに三人は似た者同士なのだろう。
だから同じ道を作っている。それぞれの目的が違っていても、一本の道を。
夕食が終わり、食後の茶を飲みながらくつろぐ。
こんな風にラーツァの美味い料理を食べるのは
今日が最後かもしれないから十分に堪能した。
「明日の朝に城下町を旅立ち、
アルソス町、レンカ村、光芒教会の大聖堂、魔導の洞穴へ
順番に向かってから最果ての砦に行く予定だ」
「分かりました。シュエット様が訪問する事を伝えておきます。
転移魔術の儀式は既に用意済みです」
いつも一人で軽々と転移魔術を操る少女を見ていたせいか、
本来は高位魔術師が五人がかりで発動する魔術だという事を忘れそうになる。
城下町以外で使えるのは、魔術師の総本山ともいうべき魔導の洞穴くらいだ。
旅の途中、城下町へ帰ってくる時間の余裕はない。
残り八十日の間に全てを終わらせる。
「明日も早いし、今日はもう寝るか。
旅立ったら寝具で眠れる日なんて少ないからな、夜更かしするなよ」
「別に寝なくても平気だけど、気持ちいいから寝るよ」
数十日間睡眠を取らなくても問題のないパッセルが
いつもちゃんと眠る理由がそれだった。
ふかふかの寝具が、穏やかな幸せに浸らせてくれるのかもしれない。
「寝室の用意はできています。お休みなさい、シュエット様、パッセル」
「ああ、お休み」
「おやすみなさーい」
この生活の終わりに少しだけ寂しさを感じた。
どれだけ歪なものだとしても、三人での暮らしが終わる事を、惜しいと。
寝室で横になる。
仲間と別れてから、城下町で眠る時は大抵ラーツァの家だった。
夜を共にするような事は一度もない。彼女は対等な共犯者のようなものだから。
「シュエット様、まだ起きていらっしゃいますか?」
「ああ、起きてるよ」
声に返事をすると扉が開き、ラーツァが入ってくる。
シュエットがいる時に、ラーツァが寝室に来るのは恐らく初めてだったはずだ。
寝間着ではなく、まだ普段着のまま。
シュエットたちが眠る間にも仕事をするのだろう。
ラーツァは部屋にあった小さな椅子に腰かける。
「どうした、珍しいじゃないか」
「……明日から一人だと思うと、寂しくなってしまいまして」
シュエットはパッセルと共に行くが、ラーツァは一人で残る。
パッセルに妹を重ね、世話をしていた彼女の寂しさはずっと上だろう。
ラーツァは右手を見つめ、自嘲気味に微笑む。
「この暮らしが続けばいいなんて馬鹿な事まで考えました。酷い侮辱です。
それを捨ててでも道を作ろうとする貴方と、
死力を尽くして目的を果たそうとするあの子への。
何より、私にそんな事を思う資格なんかないのに」
そんな事はないと言うだけなら簡単だが、空っぽの綺麗事でしかない。
この言葉が届くのは邪神が滅び、魔物どもが殺し尽くされた時だ。
だから、シュエットが言えるのは心のままの言葉だけだ。
「俺も寂しい。きっとパッセルもそのはずだ。
だから侮辱だなんて考えなくていい」
「……ありがとうございます」
それを聞いたラーツァは、自嘲ではなく優しく微笑んだ。
お互いに何も言わない時間がしばらく流れ、
一つ息を吐いたラーツァは立ち上がって椅子を元に戻した。
「明日は早いというのに、お邪魔をしてすみません」
「一緒に寝てはくれないのか?」
もちろん添い寝という意味でない事は分かっているだろう。
卑猥な冗談に対して冷たい視線が飛んでくるかと思ったが、
ラーツァは静かに微笑む。
「優しくしてくださるでしょう? だからできません。
お休みなさい、シュエット様」
そう言って、ラーツァは部屋を出て行った。
冗談に冗談で返すにしては自罰的な、彼女らしい言い方だ。
それにしても、同衾はいいのだろうか。そんな考えが浮かんでしまった。
頭を振って下らない考えを押しやり、寝床に入って目を閉じる。
旅と戦場に身を置いてきたゆえか、すぐに眠りはやってきた。
***
明朝、転移魔術の儀式が行われる場所。
五人の魔術師が精神を集中し、小さな声で詠唱を続けている。
シュエットとパッセルの準備は、装備と旅装束くらい。
転移先は町なので、そこで必要な物を揃える予定だ。
見送りはラーツァだけ。
暴君と噂される商会長をわざわざ見送りに来る者はいない。
「お弁当です。向こうで食べてください。
必ず果たしましょう、私たちのなすべき事を」
ラーツァから弁当の包みを受け取り、頷く。
三人で同時に小さく手を振ると、それがおかしくて笑みが漏れた。
「必ず道を作ってみせる」
「いってきます」
「行ってらっしゃい、シュエット様、パッセル。どうか無事のお戻りを」
パッセルと二人で、円陣を組む五人の魔術師たちの中心に立つ。
万が一にも術の途中ではぐれないように、小さな手をしっかりと握った。
「準備はできた、飛ばしてくれ!」
シュエットの合図と同時に魔術師たちの詠唱は大きくなり、魔術が完成する。
転移の光に包まれる直前、ラーツァと目が合った。
どこか寂しそうな、それ以上に強い意志を感じる微笑み。
ラーツァが全力で後ろを支えてくれるから
シュエットは道を作る事に専念できる。
感謝の念と決意の証として、拳を突き出した。
そして、転移魔術は発動する。
光に包まれて足が地面から離れ、一瞬の浮遊感。
わずかな時間が過ぎればアルソス町。
道を作るための、長いようで短い旅の始まりだ。