第1話:序章
*****
魔王と呼ばれた男がいた。
邪神を討った勇者の仲間でありながら、勇者と道を違えた者。
その理由は定かでないが、追放されたというのが一般的な説だ。
男が成した悪逆を考えれば、勇者たちの判断は正しかったのだろう。
男は邪神を討伐した後の勇者を異世界に追放し、
彼の仲間であった聖女と女魔術師を殺した。
それどころか、勇者に祝福を与えた光の女神の肉体をも殺し、
女神が現世に干渉する事を不可能にしてしまった。
邪神の眷属である異形の魔物たちさえ利用して私腹を肥やし、
国の全てを支配しようとした男。
魔物と同質、それ以上の邪悪ゆえに男は魔王と呼ばれた。
その名は語る事さえ許されぬ禁忌とされ、
邪悪な者ですら決して呼ぶ事はなかった。
魔王は十二人の勇士たちにより討たれ、
その体は細切れにされ西の海に捨てられたという。
今では男の真の名を知る者はいない。
この地に住まう者ならば誰もが知る、御伽噺と見紛うような歴史だ。
*****
二人の男がいる。
一人は長柄斧を手に持った男。静かに立ったまま、目前の光景を見つめている。
もう一人は少年。うずくまり、涙を流して激しく吐いていた。
彼らの前には邪神の眷属たる魔物の中でも最下級の存在、小鬼の死体がある。
最下級の魔物とはいえ、男から見ても危なげのない勝ち方だった。
剣技はどう見ても素人だが、身体能力で押し切ったという感じの戦い。
剣に光を宿す奇跡は勇者にしか扱えぬ、
決して滅びない魔族を滅ぼしうる希望の光。
襲い掛かってきた小鬼を少年が斬った。殺した。
少年は生まれて初めて、明確な自分の意志をもって他者の命を奪った。
これから同じ事を何十、何百、何千と繰り返さなくてはいけない。
なぜなら少年の目的は、
剣を振るって魔物を殺し続けなければ叶わないものだから。
「なんで……なんで、こんな事……」
胃の中の物を全て吐き出し、嗚咽をもらす少年。傍の男は何も言わない。
なにせ昨日出会ったばかりだ。男は少年の事など殆ど知らない。
酒場で出会い、隣の村まで同行しただけだ。
少年が異世界から召喚された勇者だという事など、
戯言として信じてもいなかった。
男はただの行商人だ。勇者の仲間になるべき者ではない。
邪神によって脅かされ、魔物どもの侵攻を受けているこの世界。
人々の心は終わりの見えない戦いによって荒み、治安は悪化の一途。
人死にすら珍しくもなくなった。
そんな世界に在りながら、
少年は平和に呆けているかのようにお人好しで善人だった。
男は納得する。少年がこの世界とは別の異世界から来たのだと。
女神の祝福を与えられ、邪神と魔物どもを討ち果たすために召喚された勇者。
「……帰りたい……家に、帰してくれよ……」
しかしその勇者は、うずくまって泣いていた。
自身が殺し奪った命、その感覚を五感と心で感じたがゆえに。
無理矢理に異世界へと連れてこられ、邪神を討つ使命を負わされた少年。
少年が家に帰るためには、邪神を討ち女神に送還してもらうしかない。
屍の上を歩むが如き旅路に絶望し、少年は泣く。
その勇者を、あまりにも情けない姿を晒す勇者を、男はじっと見つめていた。
そして決心する。運命の巡り合わせだの、天に導かれただのとは違う。
己の意思で、己の意地で決めた事。
男は少年を近くに座らせる。少年は顔を上げず、ただ泣き続ける。
少年の頭を抱え、半ば無理に前を向かせる。
少年は涙を溢れさせた酷い顔をしていた。
男はしっかりと目線を合わせ、少年に向けて宣言した。
「俺が家に帰してやる。君が帰るための道を作る。何があろうとも」
この約束が、勇者の旅路の始まりだった。
*****
ある町は、突如魔物の襲撃を受けた。
勇者が邪神の神殿に向かう隙を突き、無防備な町を襲ってきたのだ。
町人たちは勇者に助けを求めた。
遠く離れた場所にでも危機を知らせる魔道具は、勇者の一行にそれを伝える。
転移の魔術により勇者たちは町に現れ、
力なき人々を守るためにその力を存分に振るった。
「"黒き雲より舞い降りよ雷、我が前の敵を焼き焦がせ"!」
歌うような詠唱、天に向けて掲げられる小さな手。
天の黒雲から現れた幾筋もの雷が、魔物どもを消し炭に変えていく。
正確無比な命中精度、容赦のない威力。尋常の魔術ではない。
それを放ったのは、まだ幼い魔術師の少女だ。
「"天上に住まう女神に願い給う。彼らの命を繋ぎ止め、傷を癒し給え"」
純白の法衣を纏った少女の、優しい祈りの聖句に女神は応える。
瀕死の傷すら一瞬で癒す奇跡。高位の司祭なら使い手はいる。
負傷した数十人の町人を、一度の奇跡で完治させるものでなければだが。
「ユウジ、シュエット! 後はそいつだけ!」
魔術師の少女の声を聞き、
名を呼ばれた少年と男の二人は異形の魔物へ向かって駆ける。
四本の腕を持つ、毛むくじゃらの猿のような姿をした魔物。
それぞれの腕に剣、短槍、斧、鎚矛を持っていて、それらを自在に操る戦士。
男……シュエットは、長柄斧を豪快に横薙ぎする。
魔物は剣と鎚矛で受け止めるが、威力に耐えきれず後ずさる。
しかし、シュエットの動きも止まってしまう。そこへすかさずの斧と短槍。
斧が右の二の腕を、槍が脇腹を浅くかすめる。
シュエットの力量を把握したのか、獰猛な笑みを浮かべる魔物。
「光の剣よっ!」
光輝く剣の一閃で、三本の腕をまとめて斬り飛ばされるまでは。
シュエットに向けて腕を突き出していた所を、
勇者の少年ユウジが両断したのだ。
光の女神から授かった祝福で付与された、魔族を完全に滅ぼせる光を纏う剣。
いかなる物質でも薄布のように斬り裂く、単純にして防御不可能の一刃。
彼自身の卓越した剣技があってこそ成り立つ技だ。
「ぐうう……お、覚えておれよ、勇者ども!」
「これで何回目だと思ってるの、覚えてろも何もないでしょ!」
ユウジとシュエットが追撃する間もなく、魔物は黒い光に包まれて消えた。
物語ですら聞き飽きるような捨て台詞に、魔術師の少女クアーリャが怒る。
邪神より授かる魔物の転移魔術。
窮地になるとすぐに発動して逃げるので、何度見た事か。
「シュエット、傷は大丈夫か?」
「かすり傷だから心配はいらないぞ」
「駄目ですよ、傷を放っておいたら。すぐに治しますね」
女司祭メーヴェがシュエットに軽く触れ、一言だけ聖句を紡ぐ。
瞬きをする一瞬で傷は跡形もなく消え失せた。
それを見てから、ユウジは集まっていた人々に向かって話し出す。
「皆さん、魔物は見ての通り倒しました。もう大丈夫ですよ」
その姿に、人々から歓声が沸く。
大魔術を軽々と操る幼い魔術師。
信じる神と等しきほどの奇跡を行使する女司祭。
そして、光の女神から祝福を受けた選ばれし勇者。
世界に生きる人々の希望。邪神を討ち果たす偉大な英雄たち。
長柄斧の刃を地面につけ、シュエットはそれを少し離れて見ていた。
勇者との付き合いは自分が一番長い。
勇者がこの世界に召喚されたその日に出会い、
今まで共に旅をしてきたのだから。
旅の中でメーヴェ、クアーリャと出会い、
四人で力を合わせここまでやって来た。
しかし、そうではない事などシュエット自身が一番よく分かっていた。
祝福を受け選ばれた勇者や、稀代の才を持つ少女たちとは根本的に違う。
育った村で一番腕っぷしが強かっただけの、ただの行商人なのだ。
戦を生業とする者ではない。
せめて彼らに置いて行かれないようにと必死に鍛えた。差は開くばかりだった。
シュエットには天賦の才などなかった。
先程戦った魔物でもそうだ。
ユウジならば傷など負わずに完勝していた。
クアーリャはその気になれば、他の魔物ごと天雷で焼く事も可能だった。
今回は無理を言って一騎討ちをさせてもらったのだ。
ユウジが助けてくれなければ、
負けはしなかったろうが深手を負わされていただろう。
「シュエット、どうしたの?
今日はここで美味しい物でも食べて、また頑張ろうね」
いつの間にかクアーリャがシュエットの隣にいて、声を掛けてくる。
ユウジとメーヴェも集まってきた。
「今回も、邪神の神殿には辿り着けませんでしたね……」
「仕方ないよ、町の人たちを放っておくなんてできないから」
勇者一行は、邪神の本拠地である神殿へと向かっている最中だった。
そんな時に町が襲われていると魔道具からの知らせがあり、
急いで転移魔術で戻ってきたのだ。
転移魔術は、特定の地点にしか転移できない。
神殿の最寄りとなる最前線の砦を出て三日。その旅路を無駄にしてしまった。
しかもこんな事が一度や二度ではない、十数回は起きている。
これでは駄目だ。こんないたちごっこを繰り返していては、邪神は討てない。
善人でお人好しで、困った人を放っておけない優しい勇者を見ながら思う。
常を外れた強さの仲間たちと、ただの凡人である自分を比べて思う。
シュエットが彼らと共に歩むのは、今日までだ。
***
その夜。宿の一室に四人はいた。
いつもならば他愛のない話でもしながら盛り上がるのだが、今日は違った。
ユウジたちは少し離れた場所に座るシュエットを
驚きの表情で見つめている。
シュエットが言った事が、あまりに予想外だったからだ。
「俺はもう、ユウジたちと共に行かない。ここで別れよう」
冗談だよね? とでも言いたげな顔をしていたクアーリャに向けて、
もう一度同じ事を言う。
本気であるという、決意の証として。
喜怒哀楽が激しい少女の目に、涙が溜まっていくのが見て分かる。
嬉し涙ならともかく、こんな涙を見たくはなかった。
「どうしてなんだ、シュエット!? どうして……」
シュエットの本気を悟って、狼狽えるユウジ。
何だかんだで一年間、共に旅をしてきた。
苦楽を共にして笑い合ってきた。
四人の関係性も悪くはない、むしろ仲はいい方だろう。
だから、シュエットが離脱する理由が思いつかないのだ。
「私たちに不満があるのでしたら遠慮なく言ってください。
理由を聞かなければ納得できません」
優しく慈愛に満ちた性格ながら、
妙に頑固な所もあるメーヴェが問いかけてくる。
嘘やごまかしで彼女は納得しない。
正当な理由がなければ納得してくれないだろう。
シュエットは水袋を手に取り、中身の酒を軽く流し込む。
他の三人は酒を飲まない。
ユウジは元の世界の法律を律儀に守り、メーヴェは戒律を守って。
クアーリャは喉を傷め、頭の働きを鈍らせるような物は飲まない。
酒を飲むのはシュエットだけだ。
町の有力者との酒宴なども、基本的にシュエットだけが出ていた。
しかし、今はどんな強い酒を飲んでも一切酔う事がない。
肉体的にも精神的にも。
気分だけでも酔って口を軽くし、シュエットは話し出す。
「今日、改めて分かった。俺ではもう足手纏いで戦力として役に立たない。
邪神を倒すのに俺は必要ない。それは皆も分かっているだろ?
俺たちは、邪神と四天王を一度倒しているんだぞ」
ユウジたちが最前線の砦に到着し、いざ邪神の神殿を目指そうという時。
それに焦った邪神は砦を強襲してきたのだ。
邪神本人どころか、魔物の中で最強の四天王が全員、
さらに魔物五百まで引き連れて。
砦は正に阿鼻叫喚の凄惨な戦場と化した。
邪神と魔物たちにとって。
邪神はあまりにも弱過ぎた。ユウジたちが強過ぎたのかもしれないが。
クアーリャの天雷で魔物の八割が消し飛び、
メーヴェの守護を破る事さえ叶わず、
邪神と四天王を五体同時に相手にして、それでもなお圧倒するユウジ。
シュエットは砦の警備兵を守りつつ、
天雷で討ち漏らした雑魚を仕留めるだけだった。
後一歩踏み込めれば邪神を討てる所まで迫ったのだが、
四天王の一人が殿となり邪神を逃がしてしまった。
無様に逃げる邪神と他の四天王を尻目に、
殿を務めた魔物は最期まで誇り高く、雄々しく戦った。
どれだけの傷を負おうと決して屈さず役目を全うした、
鉾槍を振るう四つ足の狼人。
ユウジの提案で、愛用の鉾槍が供えられた彼の墓は、砦の側に作られた。
邪神と四天王を同時に相手取り、シュエット以外は無傷で勝利したのだ。
大して役に立っていないシュエットが抜けた所で
ユウジたちが邪神に負ける理由が思い当たらない。
「そんなの! 戦いでの強さだけが価値じゃないでしょ!?
物資の調達とか、交渉事とか、
全部シュエットがやってくれたからなのに……」
クアーリャの言う通り、力量の差を自覚する前から
裏方仕事はシュエットがやっていた。
ユウジたちには難しい事だったので、必然的にやるようになった。
文句を言うつもりはない。
それによって最大限に貢献してきたという自負もある。
だからこそ分かる。このままでは邪神を倒す事はできない。
「ユウジ、邪神の神殿に辿り着くための方法、覚えているよな?」
「あ、ああ。極地法だろう?」
ユウジの世界で、高山などに登頂するための方法として
考案されたという極地法。
順次前進しながらベースキャンプという野営拠点を設営して、
物資を補給しながら目標に迫る方法だ。
転移魔術の魔力などを調べるなどの調査の結果、
最前線の砦から徒歩で八日ほどの場所に神殿がある事が分かっている。
しかし、砦の先は強力な魔物どもがうろつく未踏の荒野。
目的の位置も方角も分からないのに、当て所なく彷徨ったら死あるのみ。
そこで、ユウジが提案した極地法を使い
ベースキャンプを作りながら向かう事にしたのだが。
「魔物たちがベースキャンプを作らせてくれず、
設営どころではありませんけれど」
視線を落とすメーヴェの言う通り、
未だ一度たりともベースキャンプを設営できていない。
砦の兵士たちは防衛で精一杯のうえ、
防衛用の設備がない荒野で魔物の群れと鉢合わせれば殺されてしまう。
そして、荒野で待ち構える魔物たちは、執拗にこちらの物資を破壊してくる。
いくらユウジたちが圧倒的に強くても、
たった四人で死兵と化した魔物から物資を守り切るのは不可能に等しい。
当てのない八日もの行軍を続ける事は、肉体的にも精神的にもできない。
邪神の眷属たる魔物は基本的に死なない。
この世界で肉体の死を迎えても、魂は異界に戻り滅びる事がない。
邪神はこれを一定の条件こそあれど無限に召喚できる。
どれだけ失っても問題はないのだ。
唯一、ユウジが振るう光の剣だけが魔物を完全に滅ぼしうる。
「それに加えて、村を襲ってくるようになったよね」
先程の戦いを思い出したか、忌々しげにうつむくクアーリャ。
魔物どもは進軍や侵攻を停止して
村や町に散発的な襲撃をするようになった。
ユウジたちが邪神の神殿を目指し、
荒野を進んでいる時を見計らったように。
しかも率いているのが四天王。生半可な防備では歯が立たない。
放っておけば被害が出てしまうし、
ユウジは助けを求める声を無視して進める非情な男ではない。
町や村との速やかな連絡のため、
遠くからでも会話できる魔道具を各町村に置いたのが裏目に出てしまっていた。
勇者を荒野から引き離すため、神殿から遠ざけるためだけの襲撃。
これらの行為から導き出される事は一つ。
「時間稼ぎだ。俺たちが神殿に辿り着けないよう、それだけに全力を注いでいる。
しかも一年や二年じゃない、ユウジが寿命で死ぬまでやり続ける算段だろう」
当然の話だが、邪神と対峙しなければ討てない。
邪神はそれを徹底的に拒んだ。
稼いだ時間で何らかの対抗策を作っている。普通はそのはずだ。
だが、シュエットは違うと考えていた。
心の底から恐怖したのだ。
絶対的な力で君臨していたはずの自分を、易々と殺しうる勇者に。
通常の傷なら瞬間的に再生する不死の存在を滅ぼしうる、勇者の光の剣に。
邪神は拠点である神殿から他に移る事ができない。
邪神の魔力回復や魔物の召還が神殿でしかできないので、
神殿を制圧された時点で負けのようなものだからだ。
だから絶対に近づかせないようにした。
恐怖に怯える幼子が、必死で扉を押さえ付け開かなくするように。
同じ感情を抱いたからこそ分かる。何度恐ろしいと思った事か。
天賦の才を持った仲間たちにどれだけ畏怖を覚えたか。
嫉妬心すらわかない、常の域を超える才能を見せられ続けて。
だが、シュエットは逃げない。
だからこそ、シュエットは今日別れなければいけない。
「ユウジ、最初に約束しただろ。君が帰るための道を作るって。
このままじゃ百年かかっても神殿へは辿り着かない。
ユウジも元の世界に帰れない。
友達との別れになるから出たいって言ってたよな、卒業式」
シュエットの言葉に、ユウジははっとした顔をする。
ユウジが三年間通うはずだった学び舎の、最後の式典だという卒業式。
彼の友人たちはその式典を最後に学び舎を離れ、
より高位の学業を学びに行くか、何らかの仕事に就くかを選ぶ。
ユウジと仲の良かった友達は
高位の学業を修めるため故郷を出るらしい。
距離が遠く離れればどうしても疎遠になる。
だからせめて、別れの挨拶くらいはしたいと思ったのだろう。
ユウジがこの世界に召喚されたのは学び舎に入った直後。
この世界とユウジの世界で、同じ時間が流れているかは分からない。
それでも最初から諦めたくはなかった少年の願い。
この世界に召喚され、旅を続けること約一年。残りは二年弱。
十分な時間があるようにも思えるが、時間は驚くほどの速度で過ぎていく。
時は、人の決断を待ってはくれない。
「一年……いや、一年半だ。一年半で何とかしてみせる。
邪神の神殿への道を作り、ユウジが元の世界に帰る道を作る。
そのために俺はここで別れる。
許してほしい、ユウジ、メーヴェ、クアーリャ」
戦力として必要のないシュエットだから実行できる。
戦う商人として生きてきたシュエットでなければできない。
期限を一年半と区切ったが、やる事を考えたら十年でも足りない。
茨どころか鉄針の上を素足で歩くような道行となるだろう。
それでもやり遂げる。
「でも、それは僕のわがままだ。そんな事で……」
「ユウジのわがままじゃない。
俺たちの、この世界に生きる全ての者の責任で義務だ。
何の関係もないユウジを無理矢理に召喚したあげく
手を汚させ、辛い旅をさせている俺たちの」
シュエットの言葉に押し黙ってしまうユウジたち。
心優しい少年を血みどろの死線に引きずり込み、苦難の旅をさせている。
そんな事が許されるものか。
友の幸せを勝手な都合で奪って、へらへら笑っているなどできない。
奪ってしまった人生の一部は取り返しがつかないが、せめてそれだけは。
「ユウジの光の剣、メーヴェの奇跡、クアーリャの魔術。
どれが欠けてもこの旅は成り立たない。
だが俺はいなくてもいい。だから俺がやるんだ」
ユウジの光の剣は邪神を完全に滅ぼせる唯一の術。
メーヴェの奇跡がなければかすり傷すら癒せない。
彼女がいなければユウジの心も癒せない。
そしてクアーリャの魔術、特に転移魔術は唯一無二の切り札だ。
これがあるから無茶な旅路も可能にしてきた。
この三人がいるから邪神は怯え、今の奇妙な均衡は保たれている。
誰も抜けてはいけない。シュエットを除いては。
「本当に頑固な人なんですから。一度決めたら何があっても譲らない」
深いため息をつくメーヴェ。
理由には納得してくれたのだろう。引き留めるような言葉はなかった。
誰よりも頑固な彼女に言われるのは少々心外だったが。
「神殿の探索は続けていいんだよな?」
「もちろん。踏破した範囲の地図も、引き続き作っておいてほしい。
ユウジたちが神殿の探索を続けているなら、邪神への牽制にもなる。
俺のやる事を邪神に悟られたくはないしな。
神殿に辿り着けそうなら、俺に構わず邪神を倒してくれて構わないぞ」
冗談交じりに言ったが、少しでも笑ったのはシュエットだけだった。
ユウジも悲しそうな、寂しそうな表情をしてはいるが納得してくれたようだ。
優しい勇者には、もうシュエットがいなくても問題はない。
恋仲のメーヴェが支えてくれる。
「ほら、クアーリャ。転移魔術で王都まで送ってくれ」
「……今日は天雷の制御で疲れたから、明日にしようよ」
「あんなの魔力の二割も使ってないだろう。
この一年いつもそばで見てきたんだぞ、世界最高の魔術師の姿をな。
それに明日じゃ駄目だ。
今日別れなければ決意が鈍る。覚悟が妥協で溶けてなくなる」
子供が駄々をこねるように首を振るクアーリャの手を取り、立ち上がる。
この幼い天才魔術師とシュエットは、一行の中で一番仲が良かった。
ユウジとメーヴェが恋仲になったので
休養の時は二人の時間を作るため、一緒にいる事が多かったからだ。
お互いに、兄妹のように思っていたのではなかろうか。
静かにうつむいてはいるが、手はしっかりと握り返されている。
力が込められ過ぎて痛いくらいだ。
その痛みが少女の言葉を代弁している気がした。
それでも共に来てくれる。シュエットの決意を止めないでいてくれる。
何よりも、そんな友と在れた事が嬉しかった。
宿の外に出ると空は曇天。
星すら見えない暗闇の中をランタンの薄明かりだけが照らす。
月どころか星にすらなれない自分には相応しい旅立ちだと自嘲する。
クアーリャが手を空に掲げ詠唱を始める。
ユウジとメーヴェを見る。
今生の別れではないが、次に会う時がきっとそうなる。
いや、そうしてみせる。そのために別の道を行くと決めたのだから。
「シュエット、無理はしないでくれよ!」
「お気をつけて、シュエットさん」
「待っていてくれ、必ず道を作って見せる! ユウジが故郷に帰る道を!」
お互いに手を振り合う。
静かに唱えられていたクアーリャの詠唱が完成する。
「"天を巡りし偉大なる風よ、我らを彼方へと疾く運べ"!」
魔術が完成し、シュエットたちは強い光に包まれる。
地面から足が離れる。一瞬の浮遊感。
一呼吸程度の時間の後、再度足が地面を踏みしめ、光が消える。
周囲の風景は一変しており、近くに大きな城が見える。
正確な王都への転移魔術。
こんな魔術を苦もなく操る魔術師は、世界に数人といない。
クアーリャはシュエットの方を向かず、再度手を空に掲げる。
勝手な事をして傷つけたのは分かっている。
それでも別れの時だ、せめて顔は見ておきたかった。
「クアーリャ」
名前を呼ぶが少女はこちらを見てくれない。
詠唱も返事も聞こえない暫しの沈黙。
ランタンに照らされた小さな肩が震えているのに気が付いた。
クアーリャは、ぽつぽつと話し出す。
「分かってるの。
初めて会った時の自己紹介で、シュエットは同じ事を言っていたから。
ユウジを故郷に帰す、その道を作るために斧を振るうって」
確かにそう言った。
いきなり聞かされたクアーリャはきょとんとしていた記憶がある。
シュエットは旅の初めから、ユウジを故郷に帰す事を目的としてきた。
「この旅、苦しい事や辛い事もいっぱいあったよね。
死にかけた事もあったし、痛い思いをしたのだって数えたらきりがない。
……それでもね、楽しかったんだ。
このままずっと、四人で旅をしていたいって思うくらいに」
顔は見えないが、恐らく泣いているのだろう。
震える声がそれを伝えてくる。
稀代の才を持つ大魔術師。しかし彼女はまだ、十三歳の子供なのだ。
幼い子に我慢を強い、それに甘える。
自分の不甲斐なさが情けなくなってくる。
いつものように頭を撫でようとしたが、思いとどまった。
転移魔術の効果範囲に入ってしまう。
決意が甘い安寧に飲み込まれ消えてしまう。
「ごめんな、クアーリャ」
ただ一言、謝罪するのが精いっぱいだった。
どんな言い訳も陳腐だ。
どんな決意を高らかに語ろうが、少女を慰める事にはならない。
クアーリャは袖で顔をこすり、シュエットの方へ顔を向ける。
その目には涙が滲んでいたが、精一杯に作ったであろう笑顔だった。
「シュエット、約束だよ。どんな事があっても必ず道を作るって。
そうしたらまた会えるよね。その時まで、ばいばい!
"天を巡りし偉大なる風よ、我を彼方へと疾く運べ"っ!」
今にも泣きだしそうな震え声で、クアーリャは転移魔術を唱え光に包まれる。
一年間ずっと一緒に旅をしてきたので
転移の光を外から見るのは初めてだった。
一瞬だけ光が膨らみ、弾けて消える。少女の姿はもうどこにもなかった。
「また会おう、みんな」
少女が飛び立っていった空へ、
きっとユウジたちも見ているであろう空へと、ひとり呟く。
しばらく星月夜の空を見つめた後、歩き出す。
これからシュエットが行くのは、苦難の道程。
気心の知れた仲間はもういない。
期限はたったの一年半、限界まで遅くとも二年弱。
これから自分がやろうとする事を考えたら、目眩がしてくる。
しかし決意をした。約束をした。ならばやり遂げるだけだ。
空に向けて拳を突き出す。
遠き空の元にいる友に見えずとも、彼らに向かって。
必ず道を作りユウジを故郷に帰すため、また会おうと。
*****
別れから一年が過ぎた。
シュエットは今、二年前に魔物に滅ぼされたという村の跡地に向かっていた。
周辺に住む人々が口々に噂する、
村で起こっている出来事をこの目で見るために。
馬で進む事ができない険しい山奥に、その村跡地はあった。
家々は激しく破壊され、土台と柱しか残っていないような有様だ。
よく観察してみれば、その破壊は偶然壊れたのではなく意図的なもの。
ごく一部の例外を除き、魔物は破壊と殺戮を好む。
気に入らないからではない。楽しいから壊し、殺す。
四天王の狼人ですら、誇り高い武人ではあったがそういう面も持っていた。
人間にもそういう面がないとは言わない。
しかし魔物のそれとは根本的に違うのだ。
人間と魔物は決して相容れない。種の思考形態からして違っている存在だ。
同じ人間同士ですら二人いれば喧嘩をする。
三人いれば派閥が生まれて、あぶれた者を支配するか、
できなければ排除しようとする。
この一年間そんなものばかり見てきた。
どうしても考えてしまう。
せめて、間近の脅威に対しては団結ができないのかと。
懐かしき仲間たちとの旅は、決して諍いなどなかったはずなのに。
下らない思考を打ち切り、村の中心部に向かって歩みを進める。
風向きが変わる。それと同時に、向かい風が酷い臭いを運んできた。
久しく嗅ぐ事がなかった、むせ返るような血と死の臭い。
シュエットは慣れているので顔をしかめる程度で済んでいるが、
まともな人間なら呼吸すら辛いはず。
その臭いを発している場所が、シュエットの目指している場所だ。
村の中心部は凄まじい状態だった。
地面どころか家屋の廃墟すら魔物の血で真っ赤に染まり、
山のように積み重なる魔物の死体。
魔物の死体は腐敗が酷く、不快な虫まで大量に湧き、
振り払ってもきりがないので諦めた。
悪夢ですらそうは見ない状況の中、目的の人物を見つけた。
全身を返り血で赤黒く染めた子供。
魔物の毛皮らしき物を身につけてはいるが、ほぼ裸という恰好。
手に持つ異形の短剣で魔物の死体から肉を剥ぎ取り、
腐臭がするその生肉を食べている。
その姿は蛮族と呼ばれる者たちですらなく、魔物以上に魔物らしい。
「君が、魔物を殺し続ける殺戮者かい? 言葉は分かるかな」
「……うん、分かるし喋れる」
声を掛けたシュエットに返事をする子供。
その声はこんな状況でも一切かすれる事もなく、
可愛らしい少女のものだった。
「あたし他には行かないよ。
ここにいれば魔物が勝手に来るから、殺すの楽だし」
シュエットが自分を連れて行こうとするのだと思っているのだろう。
近隣の住人が何度か話したそうだ。
こんな事を二年も続けているという少女を気遣って。
「放っておいても大丈夫だよ、あたし死なないから。ほら」
一切の躊躇なく、少女は短剣を自分の右太腿に突き刺した。
短剣が引き抜かれると、
凄まじい速度で傷が治癒していき、傷そのものが跡形もなくなった。
不死。祝福か呪いかは定かでないが、この少女は決して死ぬ事がない。
ただの村娘だった子が、何千何万の苦痛の果て、魔物の殺戮者へと達した。
殺された家族や友人たちに捧げる復讐か。それとも葬送なのか。
少女は二年間ただひたすらに、襲い来る魔物を殺し続けていたという。
邪神は絶えずこの村に魔物を送り込み続けた。
殺戮者が勇者と合流するのを恐れたか、
理解できないものを恐れ排除しようとしたか。
臆病者の情けない邪神なら、どちらでもありうる気がした。
「おじさん、あんまり運の良くない人?」
「良くはないな。斧の扱いならそれなりに自信があるが」
少女の言葉に返答しつつ、背の長柄斧を手に取って構える。
突然現れた忌々しい殺気。
旅の中で散々感じてきた、汚らわしい魔物の気配。
予想通り、邪神の魔術で転移できる特定の地点に隣接していた村だ。
魔物たちの拠点とできる場所だが
何としても手に入れなければならない場所でもない。
それなのに二年間も執拗に襲撃してくる。
邪神の愚かさと小心さにため息がもれた。
「じゃあ自分の事は自分で守ってね。あたし、他の事に気を向けられないから」
「君の手は煩わせないようにするよ」
じっと西の方向を見据える少女。
そちらに転移地点があり、魔物はそちらからやって来るらしい。
多勢を二人で相手取るなら背中合わせが最もいいだろうが、
シュエットたちは離れた位置にいる。
シュエットの武器は長柄斧で、近場に誰かが居ると全力で振り回せない。
そして少女はずっと一人で戦い続けてきた猛者。
他者との連携など考えた事もないだろう。
各個で戦った方が、お互いの邪魔にならなくていい。
魔物の一団が見えてくる。中級の魔物が四十、上級が十。
中級は兵士としての訓練を受けた者でも一対一では厳しい相手。
上級ともなれば武芸者が数人がかりでやっと対等に戦えるというほどだ。
上級の魔物が十体同時に襲い来る。
たった一人の少女を相手取るには常軌を逸した過剰戦力。
魔物どもは少女とシュエットを見つけると、咆哮を上げて突っ込んでくる。
「またあいつだ、もうあいつ殺すの飽きたよ」
一体の上級魔物に視線を合わせ、うんざりした様子の少女。
かつて少女に殺され、再召喚された魔物なのだろう。
他に声を発する暇もなく、約四十の魔物が少女に殺到する。
少女は殺意を無表情で受け流し、魔物どもに倍する速度で敵陣に突っ込む。
視線を合わせていた上級魔物の喉に短剣が突き立つ。
「もう一回死んで」
事もなげに言い放った少女の言葉が、戦闘の合図だった。
長柄斧を右手一本で横薙ぎに振る。二体の魔物が両断されて転がる。
その勢いに乗せて体を回しながらひねり攻撃を躱しつつ、
左の拳を後ろから襲い掛かろうとしていた魔物の眉間に叩きつける。
魔力を付与された黒鉄の小手は、
シュエットの手に衝撃をほとんど伝えず魔物の頭蓋を砕き、死に至らしめた。
シュエットの近くにいる魔物は先ほど倒した三体を除いて残り二体。
中級の豚人が二体。
残虐さで知られるはずの豚人たちは完全に怯え切っている。
八体の魔物をあっという間に葬り去った人間が目の前にいる。
味わった事のない恐怖で動けないようだ。
哀れなどとは欠片も思わないし、滅ぼせないとはいえ逃がす理由もない。
一気に踏み込み、両手で持った長柄斧を右から逆袈裟斬りに振り上げる。
豚人の首が飛ぶ。
勢いがついた斧を大上段に構え、もう一体へと全力で振り下ろす。
構えすら取るのを忘れていたへっぴり腰の豚人は、
頭からちょうど半分に両断され倒れた。
下級混じりだったが百体を相手にした事もある。
たかが十体程度の魔物に苦戦などしていられない。
自分に寄って来る魔物がいないのを確認して、少女の方を見る。
魔物どもは少女に群がり、
まるで肉を奪い合う飢えた獣のようにすら見えた。
少女はたった一人で戦い続ける。
体中に傷を負うが、それは即座に再生して治っていく。
シュエットが十体の魔物を仕留めた時間で
少女が倒したのは六体のようだ。
戦闘術の基礎が一切できていない、理性を失って暴れる獣のような戦い方。
左肩を食い千切られるも、短剣をその魔物の目に突き刺し、
再生したばかりの肩で体当たりをする。
心臓を抉ってきた魔物の喉に噛みつき、食い千切る。
不死でなければ一体何回死んでいるのか分からない
目を背けたくなるような戦いだ。
女神から祝福を受けた神託の勇者たちの中には、
少女と同じような不死も三人ほどいたという。
しかし、彼らは全員逃亡して行方が知れない。
苦痛に耐えられず使命を放棄してしまったらしい。
そもそも稀なのだ。ユウジのように苦難に満ちた旅を続けられる者も、
少女のように苦痛を意に介せず戦い続けられる者も。
「俺の方は手が空いたぞ! 少しはこっちにも来たらどうだ、魔物ども!」
長柄斧を地面に叩きつけながら挑発してやる。
生き残っていた魔物の約半数がシュエットに向かってきたが
先手を取って斧を横薙ぎに振り、前の二体をまとめて叩き斬った。
これから彼女に言う提案に説得力を持たせたい。
過半数はシュエットが倒したかったが、上手くいきそうだ。
声を張り上げた時に口の中に入った虫を吐き出しながら、
残りの魔物との戦いに集中する。
この分なら、そこまで時間もかかるまい。
少女にとってはいつもの死闘。
シュエットにとってはありふれた魔物との戦い。
そんな戦いの果て、二人は四十九の魔物を殺し尽くした。
残るは上級の一体、背に蝙蝠の翼を持つ紫肌の魔物。
魔物は怯え切った声色で少女に向かって叫ぶ。
「化物め……化物めェッ! なぜ死なぬ! なぜ折れぬ!?
それだけの苦痛を浴びて、なぜ心が壊れぬのだ!?」
わざわざこちらに分かる共通語。
どうしても喋りたかった最後の言葉がそれらしい。
反吐が出そうなほどに下手な演技だ。
言葉通りに怯えているなら、こちらの共通語で喋るものか。
翼が羽ばたき、魔物の体が浮き上がる。
飛んで逃げるつもりらしいが、そうはいかない。
魔物の言葉に怒りを覚えた。楽しいから殺す魔物には分からないだろうと。
斧を振りかぶって魔物の背に跳びかかり、片方の翼を斬り落とす。
地に落ちて崩れた体勢を逃さず、少女は魔物の喉を斬り裂く。
大量の血が少女を更に赤く染めた。
「命を懸けた事もない魔物が喚くな」
「壊れたよ、ずっと前に」
少女と向き合うような形で目が合う。
同時に喋ってしまい、少し気恥ずかしさがある。軽く頬をかいてごまかす。
少女は何とも思っていないようで、つぶらな瞳をシュエットに向けていた。
「それで、おじさん。あたしに何か用?」
返り血なのか自分の血なのか分からない赤に染まり、
凄惨に過ぎる戦いを繰り広げた不死の少女。
言うべき事は決まっていた。
「ここから離れて俺と一緒に来てほしい。君が必要であり、邪魔だ」
「必要で邪魔?」
シュエットが言った相反する単語に首を傾げる少女。
順を追って説明していく。
「俺には目的があるんだが、不死者としての君がどうしても必要なんだ。
そして、その目的のためには君がここにいると邪魔になる」
「必要は分かったけど、邪魔なのはどうして?」
「ここをわざと占領してほしいからだ。
弱い下級魔物を主体にした拠点を作ってもらいたいんだよ」
少女にも分かるように、なるべく簡単な言葉を使って説明していく。
魔物を殺し続ける少女がいなければ
魔物たちはこの村跡地に拠点を作るだろう。
しかし、周囲を山々に囲まれて道が一つしかないこの場所は、
相手の動きを予測しやすく罠も設置しやすい。
それなりの戦力でも有利に防衛できる貴重な地形なのだ。
そして魔物どもは駐留軍として下級の魔物を配置する事が多い。
中級以上になると半端に知性を身に着け、駐留を嫌がるかららしい。
そんな所に少女を置いておくのは宝の持ち腐れで、
かつシュエットの目的のために不死の少女が必要。
「だから、俺と一緒に来てくれ」
「あたしの村、魔物の住処になっちゃうの?」
「そうなる。それでもだ」
無表情のまま聞いてきた少女に間髪入れず答える。
下らないごまかしを言う気は一切ない。
少女を故郷から引き離そうとする者の最低限の礼儀だ。
少女はゆっくりと村を見渡す。
血で赤黒く染まった地面や建物の残骸、周囲に散らばる魔物の死体。
それを見て何を思ったのかは分からない。少女の表情が揺らぐ事はない。
「おじさんは、あたしに何をしてほしいの?」
おそらく最後の質問。なぜ少女が必要なのか、それを問うてくる。
これからシュエットは少女に酷な事を強いる。
少女の何もかもを利用する事になるだろう。
しかしその大罪は全て背負う。その覚悟を決めて、答える。
「俺は勇者が、友が故郷に帰るための道を作る。
俺の隣でその手伝いをしてほしい。
邪魔をするなら人も魔も、神ですら殺し尽くして道の礎とするために」
少女は相変わらず無表情のままだったが、少しだけ口角が上がった気がした。
「わかった。おじさんについて行く。
お父さんとお母さんから、お仕事の邪魔をしちゃ駄目だよって言われてたし」
「ありがとう」
少女に手を差し出すと、その手を握らずにシュエットの服で返り血を拭う。
それから改めてシュエットの手を握る。
綺麗な手で握手をしたかったのだろうか。
シュエットは小手をつけているので、血を気にする必要はないのだが。
「俺はシュエット。君の名前は?」
「パッセル」
パッセルと名乗った少女と手を繋いだまま村を後にする。
躊躇う様子もなく、変わらぬ表情のまま
シュエットと歩調を合わせて歩くパッセル。
少女は長く伸び、血で固まった髪を撫でている。
「べとべとでかちかち。落ちるかな、これ」
「ちゃんとした所で洗えば落ちるさ」
「腕とか足とかは削ぎ落としたら元通りになるけど、髪だけは伸びないの。
お母さんと同じきれいな髪だって言われてたから切りたくないんだ」
明らかに戦闘で不利になる長髪の理由を、パッセルは淡々と話してくれた。
両親の事をとても大事に思っていた事が伝わってくる。
だからこそ村が滅ぼされた時に壊れたのだろう。
死なぬ身で、ただ魔物を殺す殺戮機械となってしまった少女。
救ってやりたいとは思う。
しかし、シュエットが求めているのは正にその殺戮機械なのだ。
ならばせめて、その時までは幸せを享受してもいいはずだ。
美味い物を食べ、体を洗い、清潔な服を着て、ちゃんとした寝具で眠る。
体と服を、血と大罪で滲ませるまでは、せめて。
「シュエットは凄いんだね。体に全然血がついてない」
シュエットの服を触りながら言うパッセル。
また人の服で血を拭っているらしい。
得物が短剣と長柄斧という違いもあるが、最大の違いは戦い方だ。
いったん足を止め、少女と向き合う。
「これからの事なんだが、まず基礎から戦い方を覚えてもらうつもりだ。
自分の事を一切考えない戦い方じゃ駄目なんだ」
「ずっとああやって殺してきたんだけど、駄目なの?」
「殺すために殺すのは駄目だ。
目的を果たすために殺し、先に進むために戦うんだ。
自分は傷を負わず、敵を効率良く仕留める。それに必要な事を覚えてほしい。
痛い思いをしなくても、返り血を浴びなくても魔物は殺せる。
せっかくきれいに洗うんだ、また血塗れになりたくないだろ?」
パッセルの髪を軽く撫でる。
小手越しであっても、血で固まってしまった事が分かる髪。
少女はシュエットの顔をじっと見て頷いた。
「うん。そうやって戦ってたシュエットが言うなら、やってみる。
本当はね、べとべともかちかちも、傷を付けられるのも嫌なの」
実際にその戦い方を成したシュエットが言ったからか、
パッセルはあっさりと承諾してくれた。
その時に見せた、口角が少し上がる程度の微笑み。そして言葉。
きっと少女の心は壊れていない。奥底に押し込まれているだけだ。
ならば自分にできる事はやろうと思った。
パッセルが幸せに生きていけるように。
優しい勇者とその仲間たちなら、きっとそうするだろうから。
そんな少女を武器として利用する自分は
もう彼らの仲間である資格はないのだろう。
少女を利用するだけ利用して、無為に捨てるだけという事さえあり得る。
心は痛むが、構わない。それを覚悟して別れた。
何があろうと友が故郷に帰る道を作る。
あの日誓った約束と、この世界に生きる者の責任として。