『対甲賀:三回表~裏』
三回表、打席の影響が投球にも出るかと見られた甲賀誠児であったが、三日月カーブを効果的に用いてバッティングアイを狂わせてきて、三つ子の松岡兄弟を三者凡退に仕留めた。決め球となる変化球があると、他の球も有効に使える事をまざまざと見せつけられたのだった。
「剣蔵に真似されたのは不本意だろうが、さすがだな。こりゃしばらくあの球の攻略が鍵になりそうだ」
学が感心して呟く。
「あれは右打者には本当に難しい。外側から抉り込んでくるような感覚だ」
松岡兄弟の長男・赤太が言う。
「ふむ。当てるだけなら出来なくもなさそうだが、スイングして打てるとしたら、風間か才之助くらいだろうな。どうだ?」
学はそう言って、二人を見る。
「さっきも言ったが、俺は打てると思っている。打席に入るとまた少し感覚が違うのかも知れんが、数球見られればな。難しいが、球を点で捉えればいい筈」
幸太郎は自信満々に言う。
「俺もだ。次は不覚を取らん。一度見れば充分だ」
才之助もそれに続く。
「頼もしいじゃねえか。次の打席で頼むぜ」
二人の言葉を聞いた剣蔵が言う。伊賀中央ナインは意気消沈せず、良いムードのまま、守備に就いた。
「ルーボイテンハ、ルーボイテンハ、ルーボイテンハ……」
三回裏、甲陰高校の七番・操田は念仏のようなものを唱えながら打席に入って来た。帽子からボサボサの髪を垂らし、無精髭も生やしっ放しで薄汚い感じの男だ。そして、
「お願いします!」
と大きな声で言って、主審へ頭を下げた。しばらく主審を見つめていたが、再び
「ルーボイテンハ、ルーボイテンハ、ルーボイテンハ……」
と唱え出す。
「うるせえな、こいつ。何だってんだ」
初球、剣蔵はいきなり三日月カーブ。これを操田は見送る。審判の判定は
「ボール」
「おいおい、今のベース通ってるだろ」
これに剣蔵が食って掛かる。
「剣蔵、ドンマイだ。気を取り直せ」
学が指示する。剣蔵は渋々頷き、次の一球を投じる。操田はまたもブツブツと同じ言葉を呟きながら見送る。内角高め、ギリギリのところに直球が入ったと思われたが、再びボールの判定。
「入ってるだろ」
剣蔵はまたいきり立つが、
「落ち着け。ドンマイドンマイ」
再度、学が宥める。その間も操田は一人念を唱え続けている。
「こんにゃろう」
怒った剣蔵はコントロールが定まらず、今度は自ら高めの大ボールとしてしまった。剣蔵の怒りや乱調など何のその、操田はバットの根元を擦りつつひたすら念じている。
「剣蔵! 自分から崩れるな。真ん中に通せ」
才之助が声を掛ける。わかったよ、と返事をした剣蔵はこれで気を取り直したのか、ど真ん中に半速球を投じた。これも操田は全く打つ気がなく、呟きながら見送るばかり。しかし、主審の判定はボール。四球と判断した操田は一塁へ歩く。
「ちょっと待てよ。何で今のがボールだよ。ど真ん中じゃねえか」
剣蔵の怒りは収まらない。確かに明らかにど真ん中のストレートで、不可解な判定だ。
「ボール」
主審は再度言う。
「ストライクだろ、どう見ても」
「ボール……」
「僕も納得いきません。どう考えてもストライクのコースです」
学も立ち上がって抗議する。
「ボール」
何度も同じコールを繰り返す主審。
「ちょっとアンタ、それしか言葉がねえのか」
剣蔵が詰め寄るが、返す言葉はまたも「ボール」のみ。
「いい加減に……」
「ちょっと待った剣蔵、何か変だ」
学が向かってくる剣蔵を制する。
「ボール」
主審はまだ言い続ける。この様子に学が何かに気付いた。
「迂闊だった。催眠術か幻術の類だ。あの男、変な呪文で審判に術を掛けていたんだ」
学は一塁に立つ操田を指差して言う。奴はボサボサの髪をいじりながら、素知らぬ顔でベースに突っ立っている。
「術だと、あんにゃろう……」
「コースにかかわらず、ボールって言うように仕向けていたな。……喝!」
学はボール、ボールと呟き続ける男に喝を入れた。主審は夢から覚めたかのようにきょとんとした顔をする。
「わ、私は……?」
「しっかりして下さいね~」
学は皮肉を込めて言う。主審は首を傾げながら定位置に戻って行く。自分が何をしていたのか、全くわからないようだった。
「ちっ。してやられたな」
剣蔵が舌打ちする。
「済んだ事は仕方ない。お前だって昔、打者に仕込んだだろう」
「そうだったな」
剣蔵は苦笑した。今はプロになった大和学園の主砲・岩本に、そんな真似をした事を思い出したのだ。そして、つい先日の準決勝でも、比土弟に催眠術を使っていた。
「それよりランナーが出たからな、三日月カーブは使えないぞ。あの緩やかな球では簡単に盗塁されてしまう。まあツーアウトで勝負球になら良いかも知れんが」
「なるほど。言われてみれば盲点だったな」
「術で出塁されて、盗塁までされたら目も当てられんよ。締めて行こう」
「おうよ」
バッテリーはポジションに戻った。打席には八番の縫野が入る。身体も顔も細長い男で、目や鼻、指などのパーツもすべて細長かった。
「これはひょろひょろ君が出て来たな」
「服部、侮るなよ。七番を見てもわかるように油断できんぞ」
幸太郎が忠告する。へいへい、と生返事をした剣蔵、初球はお得意の外角低めへのストレート。これに対して、縫野は球に向かって何かを振りかけるような仕草をした。
「何っ」
次の瞬間、信じられない事が起こった。何とボールがベース手前で止まってしまったのだ。これを縫野はバットに当て、バントした。ボールはベース手前に勢いなく落ちる。これをキャッチャーの学が慌てて掴もうとするが、うめきを揚げ、何故か動きが止まってしまった。幸太郎がダッシュしてボールを掴むも間に合わず、オールセーフとなった。
「学、どうした」
プレイが中断しても硬直している学を心配して、剣蔵が声を掛ける。
「う、動けんのだ……」
学は固まってしまい、身動き出来ないようであった。
「どういう事だ……?」
首を傾げる剣蔵だが、
「そういう事か」
才之助が何かに気付いたようで近付く。そして学の後方の土を足でならした。
「おっ」
学が立ち上がった。動けるようになったのだ。
「一体何だったんだ」
「相手の影を封じて動きを止める術だな。おそらく自分の髪の毛を針のようにして、影に刺している。影に刺さると、本体が動けなくなるという寸法だ」
才之助が解説する。
「それでボールが止まったのか」
剣蔵は納得しながらも呆れた顔をする。
「確かにバントする前に何かを振り掛けていたように見えた。それが髪の毛か」
幸太郎も納得がいったとばかりに頷いた。
「いやぁ参った。本当に動けなかった……」
学が頭を掻く。
「大丈夫かよ」
「ああ。動きを止められただけのようだ。特に怪我はない」
その場で跳ねる学は元気そうだ。
「それより、催眠術師と影を縫う術者が塁上にいるからな、警戒が必要だぞ」
学の言葉に内野陣が頷いた。
ノーアウトランナー一塁二塁のピンチを迎えた剣蔵だが、表情は明るくやる気が漲っていた。甲賀にしてやられた気持ちはあるが、難敵の出現を喜んでいるかのようであった。そして、やられたものは倍返ししてやるという気概に満ちていた。
「甲賀め、見てやがれ」
九番の吉良を打席に迎え、セットポジションからの初球は内角高めのブラッシング気味のボール。吉良は振らなかったが、何とここでランナーがダブルスチール。学は慌てて三塁へ送球。
「フーセ、フーセ、フーセ……」
ブツブツと唱えながらスライディングして来る操田。送球を受け、タッチする幸太郎。タイミングはアウトのようだったが、塁審は固まっていた。
「フーセ、フーセ、フーセ……」
と呪文を唱え続ける操田と幸太郎の両者が塁審をじっと見つめる。
「セ……セ……」
塁審は汗を流しながら苦悶の表情で口をもごもごさせる。それを塁上の二人が睨みに近い顔付きで見守る。
「セ……セ……セー……」
ここで幸太郎が「審判っ」と叫んだ。これで塁審が目を見開き、
「セ……、いや、アウトっ」
とコールした。
「バ、馬鹿な……。俺の術が破れるとは……」
「セコい真似をする奴め。早くここから去れっ」
幸太郎が一喝する。
「おのれ……」
操田は恨み言を呟き、顔を歪ませながらベンチへ下がって行った。このプレイに伊賀中央側の応援団が盛り上がった。
学がタイムを取り、内野陣を集める。
「風間、よくアウトに出来たな。あの手の術は簡単には破れないもんだが」
「風間の気迫は忍者に勝るとも劣らないものがあるだや。それが術を上回っただやか」
猿飛が感心したように呟く。
「さあな。俺は小狡い真似が許せなかっただけだ」
「へっ、カッコいいじゃねえか、野球少年」
剣蔵がからかう。
「そんな心にもない言葉はどうでもいい。まだランナー二塁だからな、締めて行けよ」
「わかってるよ。影縫い男だろ」
「進塁を考えると、猿飛、才之助、それから風間、気を付けろよ」
学が二塁から三塁にかけての守備陣に注意する。
「おう」
再び守備陣は散って行った。
ワンアウトランナー二塁、カウントはワンボールからの再開。剣蔵は再びセットポジションからの投球で、またも内角のボール球。これを吉良は振ってきて空振り。同時に縫野がスタートした。
「くっ」
捕球を焦る学に、吉良の空振ったバットが襲い来る。吉良は大振りし、その勢いでもって左足で回転し、学の側頭部目掛けてスイングしてきた。始めから狙いはこちらだったのだ。
強烈な打撃音が響き、学が倒れた。その間に縫野は三塁へ進塁した。なかなか起き上がらない学に、場内は騒然となる。
「ちょっと待ちなさい。今の進塁は認めない」
主審が三塁に到達した縫野を呼び止める。そして、
「君は守備妨害でアウトだ。本来なら危険なプレイで退場モノだ。ベンチに下がるんだ」
スイングの勢いで倒れた状態から起き上がろうとしている吉良に通告する。任務は果たしたとばかり、吉良はにやけたままベンチへ戻って行った。
「おい、学。大丈夫か」
剣蔵を始めとした内野陣が血相を変えて駆け寄る。
「ああ、何とかな。瞬時にミットで防いだ」
学は起き上がった。怪我はないようだった。伊賀中央側のスタンドが、立ち上がった姿に拍手を送る。
「完全に狙って来ていたな。甲賀め、本当にえげつない真似をしてくる」
才之助が苛立ちながら言う。ベンチへ戻った吉良が仕留め損なった事で悔しそうにしているのが見えた。
「奴ら、命のやり取りを仕掛けてきてるだや」
「ああ。一球一球気を抜くなよ」
と幸太郎が言う。それを聞いて、何か思案したような顔で剣蔵が
「風間、お前、大丈夫か」
と尋ねた。
「何が?」
「こんな殺人集団相手に、お前みたいな素人がビビッてねえかって事よ」
「素人ね……。俺は忍びの技では素人かも知れんが、野球ではお前達より充分玄人だろう。どんな事をしてこようが、野球だったらあんな奴らには負けないさ」
幸太郎はまるで臆する素振りを見せず、言い切った。
「お前ならそう言うと思ったぜ。そんじゃ、奴ら何をしてくるかわからんが、頼むぜ」
剣蔵がグラブで幸太郎の胸を軽く叩いた。
「おう」
幸太郎はサードへ戻って行った。その様子を見て学が言う。
「剣蔵、どうしたよ? 風間と息を合わせるなんて珍しいじゃないか」
「利用出来るもんは何でも利用しようってな。あいつがその気になってくれた方が勝ちも近付くだろ」
「それはそうだが。今のは利用というより、友情みたいなものを感じたぞ」
学はにやりとする。剣蔵は赤くなり、
「バ~カ、俺とあいつにそんなもんあるか。大丈夫なら、ふざけてねえで早くポジションに就け」
「へいよ」
学も笑いながらホームベースへ戻って行った。
さて、吉良の守備妨害により、局面はツーアウト二塁となり、バッターは一番の影山を迎えた。
剣蔵の初球は外角へ逃げるカーブ。これを影山は上手くバットコントロールして流し打った。二塁寄りにいた猿飛が反応できず、打球は右中間へ。ライトとセンターが打球処理にもたつく間に縫野が三塁を蹴って本塁へ突入、同時に影山も二塁へ向かう。
「セカンド間に合うだや」
センター松岡赤太は二塁へ送球。猿飛がベース上で受け、これがクロスプレーとなり
「アウト~」
二塁塁審の手が高く上がった。この時、三塁を回っていた縫野はスタートが遅れたのか、何故かホームまで到達していなかった。無得点には押さえた訳だが、二塁ベース脇で猿飛が蹲ったまま起き上がれない。伊賀中央ナインが心配して駆け寄る。
この場面、一体何が起きたのか。まず、二塁ランナーの縫野はツーアウトにもかかわらず、何故かすぐにスタートしなかった。奴は進塁以前に別の動きを見せていた。
「だや……」
何とセカンド猿飛の影に髪の毛を飛ばし、塁上近くで動きを止めたのだった。これで打球は一二塁間を抜け、ライトとセンターの間に転がる。外野がもたつくのを見て、バッターランナーの影山は快足を飛ばし二塁まで走る。
「姑息な真似を!」
影縫いに気付いたショートの才之助が、猿飛の影に刺さった髪の毛針を蹴り払う。
「間に合うだや」
動けるようになった猿飛がボールを受け、二塁はクロスプレー。このプレイで影山はセーフになるよりも、猿飛の足を潰す事を狙ってきたのだった。影山のつま先が鎌のように猿飛の右足を刈り、アウトにはなったが、目的を達したのだった。
言うまでもなく、縫野の進塁が遅れたのは猿飛に影縫いを仕掛けた為であり、1点取れるところをあえて暴挙に出たという訳だ。確かにこの序盤で猿飛が使い物にならなくなれば、1点以上の価値は十分にある。
猿飛の左足からは血が滲んでいた。苦痛に顔を歪めている。
「野郎、やりやがったな」
剣蔵が怒りを露わにして甲賀ベンチを睨む。
「先程から再三、仕掛けてきていたが、こんな事を目論んでいたとはな。1点を捨ててまでこちらを痛めつけようとは……」
「猿飛、立てるか?」
学が心配そうに尋ね、肩を貸す。
「立っているだけならおそらく大丈夫だや……。ただ、走れるかどうか……」
学と才之助に担がれた猿飛の表情は弱々しい。
「あいつら~、許さん」
剣蔵がいきり立つが、
「落ち着け。あくまで野球の中での事だ。やり返すなら野球で返せ」
幸太郎がそれを制した。伊賀中央ナインは重苦しい雰囲気でベンチへ戻った。深刻な様子にスタンドもざわついていた。




