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現代に伝わるが資料の少ない河越夜戦。戦国時代に少しでも触れた者ならば、聞いたことのある有名な戦であろう。この戦が一夜にして起きた訳ではなく、原因や背景が勿論あった。今川、武田、両上杉、古河公方の共謀による北条潰しだ。
最初に今川が北条に奪われて、背後を脅かされる原因である河東を取り返すための今川による河東の乱。それに合わせて時を遅らせ、関東方面で氏康の妹婿であった古河公方の足利晴氏は、関東管領(山内上杉家)に支援され北条との協調路線を変更して兵を動員。山内上杉家と扇谷上杉家の両上杉家も和睦し、三氏は同盟を締結して武蔵を確保するため、共通の敵・北条氏への総反撃を決定。一部の北条方の武士を除く関東の武士全てに号令を掛け、上杉憲政、上杉朝定、足利晴氏それぞれが自ら自軍を率いて北条氏の拠点・河越城の奪還を開始した、と伝わっている。
天文14年9月26日から天文15年4月20日までの間、大包囲網を組まれ河越城は包囲され続けた。河越城には北条綱成が入り耐えていたが、氏康は伊豆を挟んで反対側の今川に対する処理をするため、援軍を碌に送ることも叶わなかった。氏康は恥を忍んで連合軍に対して詫び状を入れ続け、相手を油断させたのである。準備もそこそこに今できる最大の兵力を一点集中で運用して、城内の綱成と協力して包囲網を打ち破る。これが河越夜戦の簡単な一連の流れだ。
俺が思うに古河公方は北条氏康を許せなかったのだと思う。自分達は古河公方であり関東、ひいては東日本の覇者だと思っており、あくまでも北条は他所者であると考えていた。しかし国府台の戦いで2代目北条氏綱が急速に勢力を伸ばし、渋々言うことを聞かされていた。氏綱は無理矢理に古河公方の血筋に北条の血を入れ、次代の足利義氏が血縁ということで'古河足利御一門'として関東管領を名乗り、関東の支配を広げていった。つまり、簡単に言うとお飾りの当主にされたのだ。史実における足利義昭と織田信長の様に。
そう考えてみると分かりやすいのではないだろうか?史実の義昭が行った織田大包囲が起きる前に関東で同じことが起こったのだ。だから本当は両上杉が和睦したのも、関東の諸将がタイミング良く全員言うことを聞いたのも、事前に御内書を送っていたのでは?と荒唐無稽な話だしあり得ないだろうが、俺はそうであったら面白いなと思っている。勿論提案したのは今川であろうが、古河公方の動きが無かったとは思えない。そして史実の義昭とは違いタイミングをしっかりと見計らい、最悪のタイミングで氏康を裏切ったのだ。もし河越夜戦が成功しなければ北条は支配地域を大きく減らし、伊豆に押し込まれていてもおかしくはなかった。
そして両上杉、特に山内上杉の上杉憲政は北条に連続で負け越しており、既に武田に信濃も追われて後が無かったのだ。既に仕掛けるには北条しか相手がおらず、元の土地も取り返さなければいけない。そんな状況で差し伸べられた今川の手を取らない訳がなかった。名門今川を間接的に挟むことにより、守護代程度である武田家との一次的であろうと和睦、停戦を受け入れることができたし、いわんや扇谷上杉もである。
史実では8万と称された関東勢の内訳などは分かっていない。実際に布陣した陣地などあり得ないだろう?と思えるような位置にある。それにこれだけの兵を食わせるのに兵糧はどうしたのだ?と疑問に思える。あまり知られていないがこの時期の越後は戦続きで兵糧の供給など不可能だし、武田も米が取れないのに送る訳がない。もしかしたら今川が送っていたかもしれないが、そんな大きな動きを北条が見逃す筈がない。俺の予想では里見、佐竹による兵糧提供だと思う。それと古河公方は遅れて参戦したという記録があるため、扇谷上杉と山内上杉が最初に包囲。そして扇谷上杉が少しの兵と将を残して残りの兵が帰参。代わりに古河公方勢力が布陣することで交互に包囲網を形成していたのではないだろうか。
そして、その隙を突いた北条氏康達が長く布陣し続けて士気が下がっていた扇谷上杉を食い破った。そこから連鎖して包囲網の瓦解に繋がったのだろうと思う。




