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紫陽花と透き通る僕

作者: 平野 旬

 僕の中に、黒く濁った塊がある。できることなら触りたくない。他の人には見えないようだが、僕にはその存在がはっきりとわかる。

 この世界に生きていることに対する違和感、とでも言おうか。

 それはいつの間にか僕の中にあって、初めのうちは小さかったが、日に日に大きくなり、遂には自分をも支配してしまうのではないかと思う。そんな時はいっそどこまでも、黒く汚れてしまえばいいと思うこともある。

 そうかと思うとそんなもの僕にあったのだろうかと思う程小さく、見えない霧のように僕の中に存在するときもある。

 僕はこの塊をやっかいな隣人のように見守った。ある時は見ないふりするように、ある時は仲良く愛想笑いなどするのだ。

 生きていると嫌なことは沢山あるが、大抵のことはうまく流すことができた。何か酷いことを言われても死ぬわけではない。ご飯が食べられなくなることもない。ちゃんと腹が減って眠くなる。ただふと気づくと心の隅の方に深く沈殿したものがあり、それをどうにかして見ないようにとしている自分がいる。それが幼い頃にいなくなった父親への想いなのか、その後何年も続く施設での経験からくるものなのか、自分でもよくわからない。

 どうして皆がこの塊の存在に気付かず、日々平然と過ごしているだろうか。もしかしたら、この塊は僕にだけあって、他の人には無いのかもしれない。あるいは、あってもとても小さく、目に見えない程なのかもしれない。とにかく僕は、いつもこの存在に頭を悩まされていた。



 6月のある月曜日、べっとりと灰色のペンキを塗ったような曇り空が、朝から僕の気分をいつもよりも重くしていた。

 こんな最悪な日でも世界が回っているのが恨めしい。

 空を厚く雲が覆っている日は会社に行かなくてもよい、という法律でもできないだろうか。

 梅雨入りしたと言っても、よく見ると青い空が所々見える。が、依然として太陽は顔を見せず、目の前にはいつもより暗く、力のない世界が広がっていた。

 何故今日もこの灰色の世界に踏み出していかないといけないのだろうか。

 はぁ、と一息ついて仕方なく歩き出した。

 こんなに科学が進歩した今日この頃だ。曇りの日を晴れの日にできないだろうか。せめて月曜日は晴れで始める、というのはどうだろうか。

 ぼんやりと考えながら駅に到着すると、改札前に人だかりができている。

 まさか、またか。

 駅員が近くの駅で停電が発生し、全線不通、運転再開の目途は立っていないと繰り返していた。遅刻決定か。今日は会社に行くなと言われているようだ。IT関連の会社に就職して8年が過ぎたが、電車の遅延以外で遅刻したことはない。

「春日です。今日電車が停電で動かなくて。はい。よろしくお願いします。」

電話を切ると、駅の喫茶店で休憩することにした。

同じように電車の遅延が終わるまで様子をみようと決めた人が喫茶店に入っているのか、中は少し混んでいた。

 コーヒーを頼むと、カウンター席に女性が座っていた。同じように時間をつぶしているのか、何をするでもなく携帯を見ていた。

「いいですか、ここ。」

僕が座ろうとすると、ちょうど彼女も顔を上げた。

 目が合った、と思った。

「はい。どうぞ。」

 と言ってニコッと笑った顔を見た瞬間、鼓動が速くなり、顔の毛穴が一斉に開いた。

彼女の周りだけ明るく色が付き、美しく存在を主張した。席に着いてからも彼女と交わした、たった一言の会話が頭の中でループしている。

何とか話しかけられないだろうか。いや、あちらから話しかけてくれないか。僕の方はいつでも答える準備はできているのに。パソコンを開いて仕事をするふりをしてみても、文字が頭に入ってこない。

何となく彼女もこちらを気にしているような気がする。僕の方を見て、今何をしているのか確認しているような、そんな気がする。パソコン打つ手が震え、喉がゴクッとなった。

だが彼女はしばらく経つと席を立ち、喫茶店を出て行った。


 その日から僕の心は彼女で一杯になった。心と体、と言った方がいいだろうか。どうしたら彼女にまた会えるのか、会えたら連絡先をどうやって交換するのか何度も想像した。とにかく僕は、彼女が来るかもしれない、あの喫茶店に毎日通うしかなかった。出勤する前、会社帰りは仕事をもって喫茶店に入った。

 それは意外にもすぐ来た。というのは、また同じように電車が遅延したのだ。

 その日も同じ喫茶店に入ろうとすると、入り口でばったり彼女に出会った。

あ、と思ったのはお互い様だったようで、彼女が小さく会釈をした。

僕も小さく頭を下げ、「また止まりましたね。」と言った。

 話してみると、彼女は大学生だということがわかった。ざっと十は離れている。彼女からすると僕はおじさんということになるのだろうか。

「おじさんじゃないですよ。」

 そんなことを言われると、お世辞とわかっていても嬉しい。

「十も離れていれば、十分おじさんだよ。」

「春日さんはお兄ちゃん、みたいな感じです。」

 春日さん、という響きが心地よかった。

「名前、何て言うの。」

「宮坂です。宮坂紫乃です。」

「しのちゃんか。」

 名前を呼ぶだけで胸がこそばゆい。「しの」と読んだら彼女が「はい」と返事をする。それを想像するだけで胸が高鳴る。ふと立ち寄った公園で、小さな子猫を拾ったような感覚だった。このまま放っておけない。潤んだ目がこちらを見て訴えていた。

この子と結婚していたらどうだっただろうか、などと考えてしまう。きっと玄関でちょこんと座り、おかえりなさい、と言うだろう。テーブルの上にはご飯が用意されていて、二人でいただきます、と言う。夜は寄り添うように一緒に布団に入り、おやすみなさい、と言って眠りに入る。

現実にはそれは起こりそうもないのだが。想像はどんどん膨らんだ。目の前の紫乃はそうとも知らず、ニコニコと機嫌よく笑っている。

「この喫茶店にはよく来るの?」

「はい。ここのコーヒーが好きなので。匂いと言うか、味と言うか。」

味がよくわかる訳ではない、と言ってまたにっと笑った。

「僕も好きだよ。」

コーヒーが、と付け加えなくてはいけないと思ったが、それよりも自分が照れて赤くなっていないかが気になった。

「おいしいと思う。ここのコーヒー。」

慌てて言うと、紫乃は満足そうに「はい。」と言って、そのあと急に静かになった。




 その日から僕と紫乃はたまに会うようになった。たまにと言っても1カ月に1度か2度、飲み屋でお互いの現状を伝えあってすぐに解散する。それだけで僕は満足だった。会えば会う程、咲きかけた花が徐々に色を付けていく。その美しさに目が離せなかった。

この関係をどう呼べばいいのかわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。妻や子どもの顔を思い出すと気が咎めることはあったが、紫乃と会い、紫乃が元気でいるかどうかの方が気になった。

 しばらくすると、紫乃には彼氏がいることがわかった。紫乃が男に弄ばれているかと思うと胸がキリキリと痛んだが、僕は気づかれないように平然を装った。

 箱根に行ったんです、と嬉しそうに話す紫乃に、僕はいつも大人の余裕をもって接した。そうすることで、やっと同じ立場で話ができている気がした。

僕に妻がいることはすぐに知られてしまった。妻の愚痴が口からつい出てしまった。

「そんなこと言ったら奥さんがかわいそうですよ。」

「紫乃も結婚したらわかるよ。俺なんか家の中では邪魔者だよ。」

 現に妻は子供はいらない、好きなことを好きなだけしたいと言っている。男女の関係も慣れてしまえばこんなものだと諦めていた。その心の隙間に紫乃がいる。

「私は絶対そんな風に思わないと思います。」

 と、きっぱり言った顔が真剣だった。

「そんな風ってどういうこと?」

「私、両親があまり仲良くなかったので、私は絶対にそういう関係にはならないって決めているんです。」

 意思の強い顔だった。何も言えない自分が紫乃より年上なのが恥ずかしかった。人とはそうあるべきでしょう、と言われているようで、そのことがまた僕の黒い部分を刺激した。

 自分は紫乃のことが好きなのだと、自覚したのはその時だった。


 話に聞く紫乃の男は、お世辞にも好青年とは言えない男だった。サッカーのサークルで出会った年上の男で、酒癖が悪く関係のある女友達がたくさんいるようだった。約束してもよくすっぽかされ、会っても数時間で去っていく。何故こんなにも可愛い紫乃の隣にそんな男が立つのかわからなかった。

 出会って2カ月程経ったとき、思い切って別れた方がいいと言ったが、紫乃は聞かなかった。どうして付き合っているの?と聞くと、

「好きなんです。」

 自分でもどうしようもない、と言って涙ぐんだ。

紫乃の細い肩が小刻みに震えた。苦しい恋なのだと思う。だが、紫乃に寄り添い、心も体も全てを引き受ける資格は僕にない。

 紫乃の肩に手を伸ばし、力任せにきつく抱きしめてしまいたい。

僕じゃだめなのか。僕はずっと友達どまりなのか。このまま紫乃を連れ去って、小さなアパートに紫乃を匿い、一緒に暮らしたい。もう離したくない。

「紫乃。」

 はい、と顔を上げた目が潤んでいた。

 紫乃の肩を引き寄せると、初めて紫乃の体温を身近に感じた。

「好きだよ。そんな男よりも僕の方が紫乃を好きだ。」

 努めて冷静に言った。

「私も。春日さんのこと好きです。」

そう言って、フフと笑った。

手を伸ばしてそっと抱きしめると、紫乃もゆっくり僕の背中に腕を回した。

 紫乃の呼吸と体温を感じながら、そっと彼女の頬に口づけた。






 ある日、珍しく紫乃が僕を家まで送ると言い出した。送ると言っても、少し後ろから僕についていくということだった。

「どうして。」

と聞くと、にっこり笑って言った。

「どんな家に住んでいるか、見てみたいんです。」

 このとき初めて紫乃がどこに住んでいるのか尋ねた。

「近くですよ。駅の反対側ですけどね。こっち側は行ったことないので楽しいです。」

 紫乃は冒険に出かけるようにはしゃいでいたが、店を出ると、人に見られると面倒なので少し後ろを歩きます、と耳元で囁いた。

 駅前を通り過ぎてしばらく経つと、静かな住宅街に入る。夜八時を過ぎて通る人は、会社帰りのサラリーマンや学生くらいなもので、それほど人通りはない。

 僕は紫乃がついてきているか確認しながら、ゆっくり歩いた。紫乃もまた、ゆっくりついてきた。

ふと振り返ると、紫乃がある家の前で立ち止まっているのが見えた。その家には立派な紫陽花が植えてあり、ちょうどそこに電灯があってうまくライトアップされ、いくつかが見ごろを迎えているのがわかる。僕は誰も見ていないのを確認すると、紫乃のもとへ駆け寄った。

「どうしたの?」

紫乃は、その立派な紫陽花をじっと見つめている。

「綺麗だな、と思って。」

僕は隣に立って紫陽花を見つめた。昼にぱらぱらと雨が降ったのか、がくや葉の上に雫がある。1つ1つの花の塊が大きく、立派な紫陽花だ。その辺の道端にある紫陽花は、もっと申し訳なさそうにそっと存在している。だがこの紫陽花は、堂々と自分の存在を見せびらかし、通る人々を驚かせる。今は私の季節ですからね、と誇らしげに言っているようだ。

「こんなに綺麗だって、知らなかった。」

そう言う紫乃の隣で、僕も紫陽花を見つめた。紫陽花とはこんな色だっただろうか。青でもなく、紫でもない。青から紫に変化している途中だろうか。うっすらとピンクがかっているようにも見える。不思議な色だ。

「なんか、怖い。」

 紫乃はそう言って肩をすぼめた。

「怖い?」

「この花、これからどんどん青くなっていくのだろうけど、まるで誰かの血を吸っているみたい。」

 紫乃は白い花を指さして言った。花ではなく、本当はがくなのだが。

「この部分、今はまだ白いけど、血液みたいに染まっていくのでしょう。気持ち悪い。」

 僕は紫乃が指さす部分を見た。それは白の中に少しだけ青が混じっているがくの塊だった。白い四角のがくの一枚を見ると、紫乃の言う通り、血管のような管から青が流れ込み、それが徐々に毛細血管を流れるように、がく全体を色づけているように見える。

「ねぇ、人間は生まれたときは善だと思う?それとも悪だと思う?」

 唐突すぎて、僕は聞かれていることがよくわからなかった。

「どういうこと?」

「生まれたときはみんな善人だけど悪になっていくのか、悪人だけど頑張って善くなろうとしているのか。」

 そうだなぁ、と言って僕は口をつぐんだ。

紫乃の目はしばらくその立派な紫陽花から離れなかった。どれくらいかというと、僕と一緒だということを忘れてしまったのかと思う程、深く、長い沈黙だった。

仕方ないので僕も紫乃と一緒に紫陽花を見た。

紫乃はこれに何を見ているのだろうか。ボーイフレンドの彼のことか。学校のことか。それとも何か他の悩み事があるのだろうか。それなら聞いてあげたい。力になってあげたい。

 あれこれ思案してみるが、本当はどんなことを考えているのかさっぱりわからない。

 業を煮やして話しかけようとしたとき、突然こちらを見て言った。

「春日さん。私、この紫陽花をずっと忘れません。」

紫乃はずっと紫陽花のことを考えていたようだ。

「ずいぶん気に入ったね。」

「はい。きっと忘れないと思います。」

 それは忘れたくない、という気持ちが強いのだろう。それでも忘れてしまうことがある、それがわかった上で、真っすぐに忘れない、と言う。強い風の前に、折れないように必死に立っている。僕は紫乃のことをそんな風に思った。

 紫乃の目に涙が浮かんだ。泣いていることを知られたくないのか、紫乃はちがう方を向いた。そのままめそめそと泣きだすかと思ったが、紫乃は泣いていないようだった。ただ息だけが上がって、何かを自分の中に押し殺していることがわかった。

僕は紫乃に近づき、そっと顔を見た。

紫乃は目を伏せたまま、何かを考えていた。表情一つ変わらない。今、僕が隣にいるとかいないとか、そんなことはどうでもいいことなのだ。あなたにできることは何もありません、と言われているようだった。

僕は、紫乃の中に自分がこれっぽっちもいないことに気づき、悲しくなった。僕が隣にいるのに、どうして頼ってくれないのか。何を悩んでいるのか。紫乃の世界に僕は入れないのか。

 僕は、今までの人生でやったこともないくらいきつく紫乃を抱きしめた。きつすぎて息ができないくらい強く、長く抱きしめた。途中、紫乃が体を離す素振りがあっても、頑として離さなかった。そのうち紫乃も諦めたように僕に包まれた。

 紫乃に僕のパワーを分けてあげられるように。紫乃の悲しみを少しでも減らすことができるように。

 僕から紫乃に、紫乃から僕に、優しさが流れるように。

 しばらくすると紫乃はようやく僕を見上げた。

「やっとこっちを見たね。」

握った紫乃の手は、ぞっとする程冷たかった。

紫乃の手を頬で温めながら、紫乃を守りたい、と心から思った。

このうす汚れた世界から紫乃を遠ざけたい。

誰も紫乃を傷つけられないようにしたい。

何かあれば、僕が矢面に立ち、紫乃を何にも近づけないようにしたい。

それが、僕が生まれた理由で、僕はどうしてもそうしなきゃいけないと思う。


僕の家が見えるところまで来ると、紫乃は「じゃあ、帰りますね。」と言い、一礼してもと来た道を足早に引き返して行った。

紫乃を引き留めたいと思ったが、後ろ姿を見ると、紫乃が今は来ないでくださいね、と言っているような気がした。


妻と離婚しよう。このまま紫乃を一人にしておく訳にはいかない。妻に落ち度はないが、こうなってしまった以上別れる方がよいだろうと思う。これまでに積み重ねた日々を思うと胸が痛んだが、それでも紫乃をこのまま放っておくことに比べれば何でもないと思う。次に会ったとき、紫乃に一緒に生きていこうと言おう。まず、帰ったら様子を見て妻にわかれてほしいと言おう。そう決心した。





 紫乃と連絡が取れなくなったのは、その日からだった。

 初めは携帯が故障でもしたのだろう。いつもの喫茶店で待っていたらすぐに会えると思った。1週間経ち、2週間経ち、1カ月を過ぎても連絡がなかった。

 僕は紫乃のことを何も知らないことに気づいた。どこに住んでいるのか。どこの大学なのか。どんな友達がいるのか。少しは知っていてもよさそうなものだが、紫乃はいつも僕の話を聞いてばかりで、自分のことを話したがらなかった。

 故意に隠していたのだろうか。僕との関係をもう終わりにしたかったのかもしれない。

どんな恨み言を言われてもいい。とにかく会って、一言でも話をさせて欲しいと思ったが、何の手立てもないまま半年が過ぎた。





 紫乃の友達だという女性から連絡が来たのは、その年の暮れだった。澤田と名乗る女性は紫乃の同級生で、どうしてもあなたに会いたいと思っていたと言った。何があったのだろうと恐る恐る聞くと、1週間ほど前に紫乃は他界したと言った。

 

「最期に、お兄さんに会いに行ったんです。」

 脳の癌で転移もあり、1年ほど前から死ぬのはわかっていた。どうしても血を分けた自分のお兄ちゃんに会ってみたいと言うので、必死に探した、と言う。やっと探し当てて、初めて会うときは私も一緒に行ったのだと。澤田は半分ヒステリーのように泣き叫びながら僕に訴えた。周りに座っている人がジロジロと見るほど、彼女の感情は高ぶっていた。

「気づかなかったんですか。妹さんだって。」

 心臓が潰され、吐き気がした。

紫乃は最期までお兄さんのことを心配していた、自分がお兄さんからお母さんを取ってしまったから、お兄ちゃんには自分の分まで絶対に幸せになってほしい、必ず幸せにならなきゃいけないんだと言っていた、と言う。

 「ご家庭があるんですよね。どういうつもりで紫乃と会っていたんですか。信じられない。常人とは思えない。紫乃も紫乃です。何度も止めたんです。奥さんがどんな思いをするか、わかっているのかって。怒りました。慰謝料だって請求されるかもしれないのに。でも紫乃は、自分から堕ちていきました。どうしたらいいのかわからなかったのだと思います。立つこともやっとなのに、あなたの所に何度も通って。何も考えられなくなって、自暴自棄になっていたのだと思います。死ぬことを受け入れるには若すぎたのでしょう。あなたとのことは、麻薬のように紫乃を蝕んでいったんです。あなたが紫乃をぼろぼろにしたんです。」

 涙を流す訳でもない僕を、そう言ってなじった。

 常人、という響きが空々しい。常人とは何だ。泣けばそれでいいのか。

「紫乃は身も心もぼろぼろになって、死んでいったのですよ。それに対して何も、何にも感じないんですか。本当に何てことしたんですか。」

 頭と感情が抑えがきかなくなり、吐き気の中で僕は、はっきりと違うと思った。

 紫乃はボーイフレンドに心底惚れていた訳でも、また決して僕との秘密の関係に溺れていた訳でもない。

 紫乃はこの世にたった一人の妹として、僕に何か残したかったのではないだろうか。幸せな家庭を築いているようで、闇に傾いていく兄を放っておけなかったのではないか。こういう関係が良いとは思っていなかっただろう。ただ僕への気持ちの一端に、僕を抱きしめる紫乃がいて、僕を受け入れる紫乃がいた。それが「愛」なのかはわからない。

 自分はもう死ぬ。これからも生きていかなくてはならない僕に、嫉妬したのか、同情したのか。ただ、僕を救おうとしていたことは確かだと思う。僕と一緒に過ごし、僕に寄り添い、僕を許す。その代わりに自分が生きていた証を僕だけに残したのだと思う。僕ならば、いつまでも消えないあざのように紫乃を想うことができる。僕だけが、紫乃一人を一生かけて想い続ける。

 紫乃は死ぬには若すぎた。自分は何故生まれたのか。何故死ななくてはいけないのか。その意味を僕に見出したのかもしれない。僕は紫乃に救われた。いつ死んでもいいと思っていた世の中を紫乃が変えた。紫乃がいなくなって紫乃を想う僕が残った。

 病院のベッドの上で、紫乃は最期に何を思ったか。

 ぼんやりと紫乃の白い肌を思った。

悲しい気持ちはある。こんなにも僕の心を占める人は紫乃以外いない。だが紫乃が死んだ今、そのつながりはより強く、確かなものになった。それは何か不思議で捉えどころがなく、でも冬の夜明けに差す一筋の光のように温かい。生まれて初めて人とつながっている自分がいる。紫乃がこの世界にいたこと、存在したということは、僕に僕の命があるということ以上に重要なことだと思う。そしてそれはこの僕にしか証明できないことなのだ。

紫乃、僕たちはずっと、もうずっと前から繋がっていたんだ。

確かに僕には君が必要だった。僕は君の中で透き通るように白く、空気のように薄く、この世の何物でもないものになった。雨が地面の汚れを落とすように、あの白い紫陽花のように、確かに君は僕を浄化した。

不思議だ。紫乃はもういないのに、今は一番近くに感じる。本当の紫乃をわかってやれるのは僕だけなのかもしれないと思う。



 喫茶店を後にし、夜道を歩きだした。空には半月が輝いている。目に浮かぶ紫乃の顔は笑っていた。やっとわかったの、とでも言うように。

 紫乃を失った今、僕は死ぬまで深く紫乃を想うだろう。心がごっそりなくなってしまったようだ。僕の世界はこれから漆黒のカーテンがいつも降りていて、二度と開くことはない。その深い闇と、これからの長い時間を思うと恐ろしい。できることなら逃げ出したい。でもその闇夜には、一筋の薄暗いが確かな光が差していて、僕はそれがなくならないように大事にするんだ。

紫乃、君は人の本性は善なのか悪なのかって言っていたよね。僕の中は今、墨をぼとぼと落としたように真っ黒だ。だが、いつかその黒が濃いグレーになり、薄いグレーになるときが来るのだろうか。こんなどうしようもなく生きながらえているような僕でさえ、温かく包み込まれ徐々に違う色に染まるときが来るのだろうか。

 そんな日を僕は、気長に待とうと思う。




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