五・女神は不気味にほくそ笑む
それは今から八年前、ゾフィが十歳だった頃。ゾフィは道で倒れていた、一人の男を助けた。男の名はロマノフ=ジョーヴァン、王都で有名な騎士の名家の生まれだった。
「お嬢さん、お名前は?」
「私、ゾフィ。ゾフィ=フランシスカ」
「ゾフィか。助けてくれてありがとう」
ゾフィは風月村の村長――トラムの一人娘だった。そんな彼女が困ったロマノフ=ジョーヴァンを放っておけなくて、村へと連れて来た。それが全ての元凶になるとも知らないで。
「こんなにもクリスタルが…。あぁ、何て素敵なんだ!!」
ゾフィはとっておきの場所だとその場所を教えてしまった。クリスタルの保管された社を。そして、あの日、男は正体を現した。
「あぁぁぁ――ッ!?」
村に魔獣が放たれた時、ゾフィとヴァルゼルドは社に入って行くロマノフ=ジョーヴァンの後を追っていた。そこで知ってしまった。男が最初からクリスタル狙いでこの村に来た事を。だから止めようと飛び掛かった。が、その瞬間、クリスタルから炎が噴き出して、顔の左半分が焼かれた。
「これさえ手に入れば、ここに用はない」
痛みでのたうち回る二人を他所にロマノフ=ジョーヴァンはクリスタルを回収した後、何を思ったのか、ゾフィの目の前にやって来る。
「邪魔をした罰だ」
ヴァルゼルドの目の前でロマノフ=ジョーヴァンは見せしめに、手にしたナイフでゾフィの首を斬った。
「こいつを助けたかったら、ついて来い」
こうして、二人はロマノフ=ジョーヴァンと村を出た。大好きだった人や故郷に別れも告げられず、父親がロマノフ=ジョーヴァンに殺された、という事実も知らないまま。
「これにサインしろ」
二人の前に一枚の紙が差し出される。
「契約書だ」
そこには一言、こう書いてあった。
――以下の者は全ての権利を捨て、ロマノフ=ジョーヴァンの奴隷になる事をここに誓う。
もちろん、二人は抵抗した。しかし、ロマノフ=ジョーヴァンに完全に逆らう事は出来なかった。何故なら、二人の命は彼の手の中にあるのだから。一日に一回の食事と水、拘束された手足、闇の中で閉ざされた視界。そして、足を伸ばして眠る事さえ許されない、箱のような牢屋。大人でも狂ってしまいそうな環境に、二人の精神はどんどん削られていった。体は痩せて、村にいた時の面影は一切ない。そして、二人の心はとうとう折れた。村から連れ出されて、二ヶ月が経った頃だった。
「さぁ、行ってこい」
月日は流れ、二人は十八歳になった。布で顔を覆い、体格が分からないように大きめの服を着る。抵抗する素振りもなく、二人は従順に頭を下げる。
「御意」
言われるがままに、流されるままに、二人は命令に従う。人を殺せと言われても、厭わない程に二人は汚れていた。
――以下の者を指名手配とする。
主犯・ロマノフ=ジョーヴァン
従犯・ゾフィ、ヴァルゼルド
顔写真付きの手配書がバウンティーハンターや咎追いの間で配られた。クリスタル絡みの事件のため、賞金は格段に高い。故にそれを目当てにロマノフ=ジョーヴァンを狙う者は多い。
しかし、ロマノフ=ジョーヴァンに関わって、生きて帰って来た者は誰一人としていなかった。
―――――――――――――――――――――――
話し終えたヴァルゼルドは俯き、下唇を噛み締める。
「…話してくれて、ありがとう」
同じ人間とは思えない所業の数々にロマノフ=ジョーヴァンへの憎しみや怒りが込み上げて来る。医者である自分が使うべき言葉ではないけれど、奴は生きていてはいけない人間だと心底思う。
「二人とも大丈夫?」
余程酷い顔をしていたのだろう。クルッカがこちらとガドールの顔を交互に見やる。
「ガドール、俺…」
「分かってる」
ガドールは椅子から立ち上がり、縛り上げられた二人の前に立つ。二人はこちらを見る事もなく、項垂れている。
「人質釈放だ」
「は…?」
ファーから取り出した警棒を一振りすると、拘束していた縄がするりと解ける。項垂れていた二人は驚いた様子で自由になった自分達の身体を見つめている。
「何で…。俺達は敵なんだぞ!?」
「俺達の敵はロマノフ=ジョーヴァンだ。お前達じゃねぇ」
「……ハッ!慈悲ってか?そんなもん、クソくらえ。…どうせ戻ったってまた痛めつけられるだけなんだ。なら、一思いに殺れよ」
ヴァルゼルドが立ち上がり、ガドールの胸倉を掴み上げる。
「生きてたってしょうがないんだよ。もう何人も殺したんだ。今更、普通の人生なんて送れない…。あの頃にはもう、戻れないんだ」
「だから殺してくれって?冗談。人殺しなんか御免だね」
「…お前は何がしたいんだ。奴の居場所が知りたいんなら、拷問なりなんなりすればいい。お前の能力なら操って道案内させる事だって出来るくせに」
胸倉を掴んだまま、ヴァルゼルドの目が鋭くガドールを睨み付ける。
「言ったろ、お前達は敵じゃないって。それに俺はそんな事にこの能力を使う気はねぇよ」
「……恰好付けんなよ。殺す度胸がないだけだろう」
「あぁ、そうだよ。俺はお前が思ってる程強くない。人なんて殺した日には怖くて眠れないな、きっと」
売り言葉に買い言葉、のらりくらりと交わしていくガドールに痺れを切らしたヴァルゼルドは額に青筋を立てている。
「お前、いい加減に――」
ヴァルゼルドが言い掛けた時、胸倉を掴んでいる腕にゾフィが縋り付く。ヴァルゼルドの目を見て、フルフルと首を振っている様はやめろと言わんばかりだ。その姿に思わず、ロックもヴァルゼルドの手を掴んでいた。
「ヴァルゼルド、落ち着いてくれ」
「…ッチ」
パシッとロックの手を払うヴァルゼルド。縋り付いていたゾフィはヴァルゼルドの隣に寄り添い、胸倉を掴まれていたガドールは襟元を直す。傍観を決め込んでいるクルッカは黙ったまま、介入して来る素振りはない。
「善行で全てを救えると思うな、そんなのは大間違いだ」
ヴァルゼルドの目がこちらに向く。先程より幾分か落ち着いたらしい、その目は暗く沈んで見える。
「お前は檻の中でしか生きて来なかった鳥が野生で生きていけると思うか?可哀想だと外に逃がして満足か?逃がした後の鳥がどうなってるかも知らないくせに。…そんなのは偽善だ」
「だからって一生あいつの奴隷でいるのか?俺にはそっちの方がエゴだと思うけどな」
「……奴から解放されたって、俺達は自由になんかなれない。奴が捕まれば、俺達も道連れだ。犯した罪の報いに首を落とされるか、電気椅子に掛けられるか…。どう転んだって穏やかな終わりなんて望めない」
「ヴァルゼルド…」
固く拳を握り締め、俯くヴァルゼルドに言葉を失ってしまうロック。二人もロックやガドール同様、あの日に囚われている。でも、二人はロック達以上に世界に絶望していた。差し出された手を握る気力も失って、ただ訪れる凄惨な最期を待つしかない。
――俺の手は人を救う為の手だ。
不意に思い出したのは昔の記憶、祖父に医療を教えて欲しいと頼んだ日の事。そうだ、自分だってあの時は絶望していた。それこそ死にたくなるくらいに。なら、分かるはずだ。二人にどんな言葉を掛ければいいのかを。
「…それでも俺は二人に生きてほしい」
一同の目がロックに向けられる。
「あんな奴のせいで二人が死ぬ事ない。そんなのおかしいよ。間違ってる、絶対に。…もうあいつに何も奪わせない。だから、俺は復讐しに来た」
あの日、全てを奪って行った男を過去の産物として捨てる為に。そして、心から幸せだと言えるように。
「お前なんかに負けなかったぞ、ざまあみろってさ」
殺し損ねた事を心底後悔すればいい。お前なんか大した事なかったと大声で言ってやる。ロマノフ=ジョーヴァンと同じ土俵に立つ気など更々ない。憎しみや苦しみよりももっと大事にしたい物がたくさんあるから、残りの人生はそういった物に費やそうと決めたのだ。
「…今から言う事は二人にはきっと残酷な事だと思う。でも…、それでも生きてほしい。負けてほしくない。例え、死刑だって言われても、普通の生活が送れなくても、最後の最期まで諦めないで」
こんな言葉で誰かを救えるとは思わない。ヴァルゼルドからすれば、この言葉もきっと偽善だ。崇高な言葉も、誰かを安心させられる言葉もロックは知らない。精一杯の言葉を、感情を相手にぶつけるしかない。
「証拠や証言がいるならかき集めて来る。少しでも罪が軽くなるように必ず駆け付けるから。だから、あいつの奴隷の方がマシとか言わないでくれ…」
「ロック…」
「俺は、二人の味方だから」
ロックの言葉にゾフィ、ヴァルゼルドの揺らいでいた目が大きく見開かれる。伝わっただろうかと不安げにしていると、傍にいたガドールがよくやったと言わんばかりにロックの頭を撫でた。
「そう言う訳だ。大人しく俺達に助けられてろよ」
「……本ッ当に、変わってないな。お人好し共が」
「……」
頭を抱えるヴァルゼルドの背中にゾフィが手を添える。今にも零れ落ちてしまいそうな程、目に涙を浮かべたゾフィは言葉には出来ないけれど嬉しそうに見える。
「…分かった、教えてやるよ。あいつの居場所を」
「ヴァルゼルド…、ありがとう!」
顔を上げたヴァルゼルドは服の内ポケットから地図を取り出すと、一同の前に広げて見せる。どうやらこの街の地図らしい。
「あいつがいるのはここだ」
指差した先は港の密集している倉庫の一つ。腐っても騎士の家系ならば何処かの屋敷にでもいるのだと思っていたので盲点だった。
「この街には俺達以外にもあいつの傘下の奴がいる。貿易の街で雇ったマフィアも数日後にはここに来る算段になっている」
「そんなに仲間集めて祭りでもすんのか?」
「そうならどれだけよかったか。今回は銀の光輪とかいう奴に任せているとかで俺達も詳しくは知らないが」
「銀の光輪、ねぇ…。ま、あいつの事調べりゃ尻尾くらいは掴めるだろう」
ガドールは地図を見ながら、頬杖を突く。先程、茶化したような事を言っていたが、その目は真剣そのものだ。相手を考えればそうなるのも当然だが、自分も気合を入れ直そうと頬を軽く叩く。
「あたしにも手伝わせて」
「え、でもクルッカは…」
「あたしだって奴を探してた。異常気象の犯人なんでしょ?なら、無関係じゃない」
クルッカのレモン色の目が手伝わせてほしいと懇願して来る。こんな綺麗な目で見つめられて断れる人がいるのだろうか。少なくとも自分は無理そうだ。
「…こっちとしては有難いが、いいのか?本当に」
「うん、任せて」
「OK。なら、手分けするか」
「あ~…、その前に!」
話の腰を折り、ロックが二人の間に入る。何だと怪訝そうな顔をするガドールにロックはゾフィとヴァルゼルドの方に顎をしゃくってみせる。
「二人の怪我の手当て、したいんだけど。ほら、誰かさんのせいで一名、髪もアレだし」
「手加減してる場合じゃなかっただろうが。…ったく、なら適任のお前が仕切れ」
頭を掻きながら、ガドールがぶっきらぼうに言った。状況が状況だったが、やはりバツが悪いのだろう。そんなガドールに見つからないように小さく笑う。
「毛先だけ整えるのもなんだ。どうせならバッサリいくか」
「おい、ロック。こいつ反省してないぞ!?」
手当ての準備をしていたロックの背にヴァルゼルドの声が飛んで来る。振り返ると、ガドールがハサミ片手にヴァルゼルドににじり寄っていた。パン屋でトングを鳴らすみたいにハサミで威嚇しているガドールは悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「動くなよ、兄弟。手元が狂っちまうだろ」
「誰が兄弟だ!チェンジだ、チェンジ!!」
「はいはい、お医者さん通りま~す」
和んだ空気に故郷の懐かしさを少し感じつつ、ロックは救急箱片手に二人の元へと駆け寄った。
―――――――――――――――――――――――
同日、陽の沈んだネオン街は賑わいを見せ始め、道行く人達を店に引き込もうと手ぐすねを引いている。
「ごめん、待たせた!」
薬屋から紙袋を抱えて駆け寄って来たロックがこちらに声を掛ける。相変わらず、薬に関しては妥協したくないようで今回も随分長く掛かっていた。呆れながらも手を差し出すと、申し訳なさそうに抱えた紙袋の一つをこちらに渡して来る。
「あとは食料買うだけだな」
「…こうなるんだったら、先に食料買っとけばよかったか」
「うっ…、ごめん」
待たされた仕返しに意地悪く言葉を零すと、ロックはまた申し訳なさそうに目を伏せる。
「冗談。ほら、さっさと行くぞ」
紙袋を抱え直し、先を歩く。その隣にロックは並び立って歩いている。包帯やカットバンの目立つ姿に道を行く数人が視線を向ける。可哀想とか奇妙だと勘繰るような、嫌な視線。そんな視線の主を睨んで黙らせる。
「…お前、大丈夫なのか?怪我、まだ痛むんだろ?」
「まぁね、でも今は平気。痛み止め効いてるし」
「せっかく、クルッカと一緒になれるチャンスだったのにな」
ガドールの言葉に伏せていた目がこちらを見上げる。茶化されて真っ赤になっているだろうと思っていたロックの顔は何処か物悲し気だった。どうやら、また何か思い詰めているらしい。
「…その、ガドール責任感じてないかなって気になって」
あの日、二人を助けられていたら。そう思わなかったかと言えば嘘になる。だが、あの状況で二人を助ける事はどうやったって無理だ。頭では分かっている。でも当人達を前にして、気持ちは揺らいでいた。
「お前が気にする事じゃねぇだろ」
「いや、気にするね。だって、そうしないとガドールが苦しいまんまじゃん。俺はそれが一番嫌だ」
唇を尖らせ、子供みたいな言い方でロックが言った。変な所で感情の機微に目敏いのは自分がそういう目に遭って来たからなのか、ただ単に幼馴染だからか。個人的には前者でない事を祈るばかりだが、後者は後者で侮れない。
「あの日の事でガドールを責める奴なんていないよ。もしいたとしても、俺が殴りに行く」
「お前の手は人を助ける為に使うんじゃなかったか?」
「どうしても我慢出来ない時は殴ってもいいってじいちゃんが言ってたからいいの」
――何を教えてるんだ、あのじいさんは…。
「誰にも責める権利なんてないよ。たった一人で、しかも子供だったのに…」
「……」
いいや、責める権利はある。目の前にいるロック自身にも。ただ、優しいから、ガドールが傷付くと知っているから呑み込んでいるだけで。両親を亡くした絶望をぶつけたって文句はなかった。それくらいの事をしてしまったのだから。
「そんなの、あいつらには関係ねぇよ。それに俺だって、仕方なかったって割り切るつもりもない」
「ガドール…」
「だから、今度こそ助ける。あいつをぶっ飛ばして、俺もお前もあいつらも過去なんか捨ててやるんだ」
自責の念はあの日からずっと胸の奥底に残り続けている。でも、それで足を止める事はしないと決めた。力及ばずなんて事がないように全力を尽くして、守りたい人を守り抜けるように。
「あんだけ啖呵を切ったんだ。お前にも付き合ってもらうぞ?」
「そりゃ、もちろん。一人で戦わせるなんてもう御免だ」
一緒に助けよう――。灰色の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめる。先程まで物悲し気だったのが嘘かのように、強い光を宿した瞳に目が離せなくなる。そうだった、こいつは人を誑し込むのが上手いんだった。
「あぁ、頼りにしてんぞ?相棒」
自然と零れた笑みにつられてロックも笑ってみせる。本当に幼馴染というのは侮れない。と思うと同時に失いたくないとその存在の大きさを実感する。それを口にする事はきっとこの先もないけれど、この思いはずっと変わらないのだろうと確信している。
「あ~、誰かさん待ってたせいで腹減った。ちょっと寄り道してこうぜ」
「はいはい、仰せのままに」
軽口を叩きながら、並び歩く。何でもないこの日常がこれから先も続くよう、ガドールはひっそりと願うのだった。
―――――――――――――――――――――――
数十後、食料を買い込んだロックとガドールは宿に戻って来ていた。
「あれ…?」
薬の入った紙袋を開くと、見覚えのない物が目に入る。本だ。表紙や背表紙にタイトルらしい文字はなく、何の本かは分からない。薬師が紙袋に詰める時に間違っていれてしまったのだろうか。いや、あの時周りに本などなかった。しかし、紙袋を開けたのはあの時くらいなのでやはりこの本はあの薬屋の物だろうという結論に至る。
――明日、返しに行くか。
薬屋の本ならば、これは医学書か。中身に興味を持ったロックは本を開いてみる。すると、そこには『女神召喚』の文字が不気味なフォントで綴られていた。神のいない世界で女神とは何だと次のページをめくる。曰く、この女神は姿を模しているだけの存在で本当の神ではないナニカらしい。そのナニカは召喚した相手の願いを何でも叶える代わりに召喚者の身体の一部を代償として持っていくのだとか。後のページには魔法陣や女神を呼び出す呪文などが書かれている。
「え、オカルト本?こっわ…」
「どうかしたか?」
本を閉じ、腕を伸ばして眉を顰めているロックにガドールが声を掛ける。ロックは経緯を軽く話すと、オカルト本と評したソレに冷ややかな視線を送る。
「それ、オカルト本じゃなくて魔導書だろ」
「何で魔導書が俺の荷物に紛れたり…」
「…呪われてんじゃね?」
「冗談でもやめろって」
何だか不気味に思えて来た本を机の上に置く。すると、少し離れていた場所にいたヴァルゼルドがおもむろに手を伸ばす。
「ヴァルゼルド?」
パラパラとページをめくっていくヴァルゼルド。オカルトに興味でもあるのかと一瞬頭に過ったけれど、その必死な様子からハッと気付く。
――もしかして…、試すつもりなのか?
「お、おい、ヴァルゼルド?」
「……」
「馬鹿な事考えんなよ…」
黙読するヴァルゼルドから本を奪おうとする。が、しっかりと掴まれた本はびくともせず、その本気度が伺える。医療も見放した彼女の声をもう一度取り戻せるかもしれない、そんな一縷の希望が目の前にあれば誰だって飛び付く。それがどれだけ怪しくても、信憑性がなくても。
「その本、今から返して――」
「待って、ロック」
ロックの言葉を遮り、クルッカが手で制して来る。その視線はヴァルゼルド同様、あの本へと向けられている。
「あの本…、見た事がある」
「そうなのか?」
「うん、知り合いの大賢者が持ってた。話題に困ったらいつも話のネタにするって」
「あ~…、その知り合い大丈夫な人?オカルト大好きマンじゃない?」
クルッカの交友関係を少しばかり心配しつつ、目の前のヴァルゼルドをどうしようかと頭を悩ませる。正直、上手くいくとは微塵も思えない。どう考えたって胡散臭い。期待してまた絶望なんて事は出来れば避けたい。
「で、お前はどう思う?」
止めるべきか?と含みを持たせてガドールが尋ねると、クルッカは数秒考えるような素振りをみせる。瞬間、部屋のドアが控えめにノックされる。
「――ッ!?」
一同に緊張が走る。ロマノフ=ジョーヴァンの関係者か?と嫌な思考が頭を過り、トランクの中に仕舞っていた拳銃へと手を伸ばす。
「失礼、誰かいないだろうか」
男の声だ。聞き覚えはない。音も立てず、ドアの傍へと移動したガドールはこちらに目配せをする。ロック達は静かに頷くとそれぞれの武器を構える。
「待って」
そんな中、構える事もなく、ガドールの傍まで寄って来たクルッカが制する。
「…ゼータ?」
クルッカがドアの外にいる男に向かって名前を呼ぶ。
「クルッカか?何で君がここに…」
「…あぁ、あの本、本当にゼータのだったんだ」
「えっと…、クルッカの知り合い?」
「うん、さっき言った大賢者の知り合い」
だから開けても大丈夫だと思うとガドールに視線を投げるクルッカ。対して、ロックはそんなオカルト野郎を入れちゃダメでは?と首を横に振っている。二人の視線を一身に受けたガドールは少し思案した後、握っていたドアノブを回した。
「失礼する」
入って来たのは長身で灰色の長髪に眼鏡を掛けた男だった。何処となく、見た事のある風貌に記憶を辿って行くと昔に見たあるニュースを思い出す。最年少で大賢者になった少年――ゼータ=レオニードに彼はそっくりだった。
「久しぶり、ゼータ。この街に来てたんだね」
「あぁ、少し野暮用でな。…あぁ、そうだ。先程、薬屋にいた金髪の少年を探しているんだが…」
「あいつの事だろ?」
ガドールがロックを指すと、ゼータが眼鏡を指で押し上げながら、こちらを見る。そういえば、薬屋で見かけたような気もしないでないが如何せん薬に夢中だった為、記憶は曖昧だ。
「僕の本を手違いで君の荷物に入れてしまったと聞いて、追いかけて来たんだ」
「あ~…、その本なんだけど」
「今、絶賛熟読中で…」と申し訳なさそうにヴァルゼルドを指差す。すると、ゼータは驚いたように目を一瞬だけ丸くした。気を悪くしただろうかと一抹の不安を覚えたのも束の間、ゼータはズカズカと部屋の中へと入って行く。
「あ、おい!」
「興味があるのか?」
ロックの声を無視し、ヴァルゼルドの前までやって来たゼータが尋ねる。
「あぁ」
本から目を逸らさず、ヴァルゼルドが答える。
「…ならば、やってみるか?」
「え…」
「僕はこの儀式を見てみたい。けれど、僕は女神と呼称するナニカに願う程の願いはない。でも、君にはある」
ゼータの言葉にヴァルゼルドの目が本から離れ、ゼータを見上げる。神々しいものでも見るかのように目を輝かせたヴァルゼルドに反して、ゼータは不敵な笑みを浮かべている。
「僕らの利害は一致している。君が儀式をやるというなら、僕は喜んで協力しよう。…あぁ、と言っても代償を払うのは君だ。今の状態からまた何を失うリスクは考えた方がいい」
坦々と話を続けるゼータからは人間味を感じない。まるで、探求心を満たす為に犠牲者を説得しているマッドサイエンティストのよう。忠告はするけれど、止めはしない。そんな独善的な考え方に思わず眉を顰める。
「そんな怪しい事、する訳ないだろ!!」
ロックは二人の間に割って入ると、ゼータを睨み付ける。ヴァルゼルドがどんな気持ちでこんな怪しい事をしようとしているかなど興味もないくせに。己の探求心の為だけにスケープゴートにしようだなんて吐き気がして来る。
「君には関係のない話だ。邪魔をするな」
「いいや、関係あるね。こいつは同郷の仲間なんだ。お前みたいなオカルト野郎にこれ以上、こいつを傷付けさせない。絶対に」
眼鏡越しに冷たいココナッツブラウン色の目がこちらを射抜く。近くで見ると高身長な事もあり、威圧感に身体が強張る。けれど、ここで引くような弱虫ではヴァルゼルドやゾフィに面目が立たない。
「…ゼータ、そういう所が貴方の短所だよ」
緊張感の走る中、呆れた声色でクルッカが言った。すると、ゼータは心外だとばかりにクルッカに振り返る。
「む…、僕はただ…」
「探求心馬鹿なんだから、もう…。でも、ゼータがいるなら、もしかしたら…」
「おいおい、知り合いだからって庇うのか?」
クルッカの含みを持たせた言い方に口を閉ざしていたガドールが声を上げる。しかし、クルッカはそういうつもりではないと首を振ってみせる。
「ヴァルゼルド、大丈夫か?」
「……俺は」
ヴァルゼルドの目がベッドの上のゾフィへと向けられる。ロマノフ=ジョーヴァンから一時とはいえ解放された影響か、安堵から眠っているその顔は穏やかだ。
「…悪い、ロック。でも、俺はやる」
「ヴァルゼルド!!」
思わずヴァルゼルドの胸倉を掴み掛けるが、伸ばした手は届く事無く、床へと落ちていく。いや、手だけではなく、身体ごと床へと倒れたのだ。
「あぇ…?」
身体が思うように動かない。それ所か、呂律もおかしい。
「あぁ、やっと効いたか」
辛うじて動かせる目で声の主を見る。すると、そこには小瓶片手に冷めた目でこちらを見下げているゼータがいた。小瓶にはラベルが張られていて、その中身が何かの薬品だと伺える。
「なにを…」
「大人しくしていろ。そうすれば悪いようにはしない」
ゼータはヴァルゼルドの前にしゃがみ込むと上着のポケットから小さな缶を取り出す。カラカラと音を立てながら、掌に落ちたのは小さな飴玉一つ。それを動けないヴァルゼルドの口元に持っていくと指で押し込んでいく。
――クッソ、どうしたら…。
「がどぉる…」
頼みの相棒の名前を呼ぶも何処にも姿はない。先程まで一緒にいたはずなのにと回らなくなる思考でどうにか考える。しかし、それも無駄な抵抗とばかりに思考はどんどん真っ白になっていく。
「…さて、始めよう。女神召喚を」
ヴァルゼルドの傍に落ちている本が淡い光を放つ。禍々しいオーラと共に部屋に現れたのは女神と呼ばれるナニカ。その顔には不気味な笑みが浮かんでおり、それがロックが最後に見た光景だった。