三・追憶の故郷
※ただいま添削中に付き、前後の話と食い違うところがあります。
これは南の辺境地、科学も魔法もない、人口僅かな小さな村の話。
誰も知らないその村は争い事もなく、絵に描いたような平和を謳歌していた。しかし、そんな村にある日、一人の男がやって来た。男の名前はロマノフ=ジョーヴァン。背が高く、ヒョロっとした男は辺境地に来たにしては豪華な身なりをしていた。
男を見つけたのは村長の娘だった。曰く、村の入り口付近で倒れていたのだとか。大人達は最初こそ、他所者の男を警戒していたが村長の娘や他の子供が懐いている姿に徐々に男の面倒を見るようになった。
それから十日程経った頃、今まで一度も荒れた事のない畑が荒らされていた。大人達は大慌てで何処かに向かって行った後、長い事仕舞いこんでいた武器を取り出した。後に聞いた事だが、この村には昔から魔障壁という結界のようなものが張られていて、そのおかげで魔物に襲われるような事もなかったのだとか。その魔障壁が壊された今、村を守るものは何もなくなってしまった。
こうして、代々守られて来た村は一夜にして崩壊した。
どうしてこんな目に遭うのか――、血で染まった手を見る度に人々は自分の運命を呪った。汚れてしまった自分達を酷く恥じた。
そんな村人の前に奴は現れた。その手には赤黒い世界とは裏腹に眩く光るクリスタルがあった。
――こいつが…犯人……。
最初からソレが目的だったのか。信じるべきじゃなかった。この恩知らずが。村人達の怒りを一身に受けながらも、奴――ロマノフ=ジョーヴァンは涼しい顔をしていた。
――許さない…、許さない。
一度血に染まった手だ。今更、人を殺したぐらいじゃ傷付かない――。
どうせ、後少しの命だ。ならば、あいつも道ずれに――。
ロマノフ=ジョーヴァンのせいで多くの村人が死んだ。汚れてしまった自分自身に失望し、自ら命を断った者までいた。残された村人全てが奴を呪った。例え、また傷付いたとしても、悲しみに暮れようとも、奴だけは生かしておけないと。
けれど、その願いは儚くも叶わず、ロマノフ=ジョーヴァンは大量のクリスタルと共に何処かへ姿を消してしまった。
瓦礫と死体塗れになった村は平和だった頃の小さな面影すら失っていた。全てを失ったという喪失感だけがその場を薄気味悪く支配していた。そんな中、一人の少年が叫んだ。
「俺が魔獣から、みんなを守る!だから、みんなで……みんなで村を立て直そう!」
それから八年、村がどうなったかを知っている者は誰もいない。
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ポタリ、ポタリと雫は雨のように、後から後から落ちていく。膝を抱えて、泣いている少年はかれこれ一時間、そこにいる。待っていれば、そこに誰かが帰って来ると信じて。
しかし、彼の待ち人は一向に現れない。それが何を意味しているか、幼い少年にも理解出来た。けれど、その真実は少年には酷な現実だった。
「いつまでそうしている気だ?」
一人の老人が少年に声をかける。少年は鼻を啜り、目を擦りながら、老人の方を見た。
「じいちゃん…」
「男の子が簡単に泣くもんじゃないぞ」
老人は少年を見て、軽く微笑んだ。呆れ混じりの笑顔に少年は溢れそうになる涙を拭った。擦りすぎた、少年の目の下は赤くなっていた。
「ここにいても、お前の両親は帰って来ないぞ」
少年は老人の言葉に目を見開く。少年の待ち人というのは、老人が言った通り、少年の両親だった。
「そんな事ない!母さんも父さんも……ちゃんと帰って来るって……」
「そう言って、何日が経った?」
「それは……」
少年には老人が何を言おうとしているかが分かった。何日も待ち続けて、気付かない訳がない。幼いと言っても少年は十歳だ。何がどうなって、今に至るかくらい、分かっている。だから、それから目を背けていた。何も知らないフリをした。そうすれば、少年はずっとここにいられると、そう考えた。
「さぁ、帰ろう。じきに夜だ」
「…じいちゃんは、悲しくないの?」
少年の言葉に老人は足を止める。すぐに返事が返って来ると思っていた。けれど、老人は少し考えてから、口を開いた。
「……悲しいと言うより、憎いと言った方がいいな…」
「憎い?」
「そう……私の娘を、お前の両親を殺した、あの男が」
声に怒りがこもる。それは少年が初めて知った、老人の怒りだった。
「ロマノフ=ジョーヴァン!あの男を……私は許さない……」
「じいちゃん…」
「お前だって、分かっているはずだ!あの男のせいで、私達の全てを失われた!家族も、村も、クリスタルも…何もかも!」
老人の声はどんどん大きくなっていき、最後には叫びに変わっていた。嘆きや怒りの混じった声は野獣のようで、聞いた者に底知れぬ恐怖を与えた。
「お前も憎いはずだ。両親を殺されたんだからな」
「俺は…俺は……」
少年の脳裏にあの日の出来事が蘇る。あの日、両親がロマノフ=ジョーヴァンに殺された日の事が。老人の知らない、少年だけが知っている記憶が。
――俺は、あいつを許さない。
血で汚れながら、少年は心に誓った。両親を殺したロマノフ=ジョーヴァンをいつか、この手で殺すと。そうすれば、今抱いている怒りは消えるだろうと、少年は思っていた。けれど、少年は気付いてしまった。憎しみや怒りがある限り、争いはなくならない。そして、争いは何も生まないと。
――殺してやる、絶対に!
頭では理解出来ているのに、気持ちがついていかない。少年はそれ故にここにいた。あれは夢だったと、待っていれば帰って来ると、心の中でずっと言い聞かせて来た。そうすれば、虚しい日々も生きて行けると少年は信じていた。
「………俺、は……」
少年は放棄したのだ。未来を見て、歩く明日を。過去に縛られ続ける今を。そして、少年は今、新たなる選択をする。生きる為の選択を。
「あいつを許す事は……出来ない。けど、だからって、あいつを憎み続けて生きていきたくないんだ。俺は……ただ、生きたい…」
ゆっくりと握り締めていた手を開く。妙に汗ばんだ掌を少年は見つめ、言った。
「俺は…この手で、人を救いたい。殺すために、この手はあるんじゃない。そうだろ?」
少年は老人の手を取り、老人の目をしっかりと見据えた。
「俺はじいちゃんみたいな医者になりたいんだ。ガドールみたいな力は俺にはないけど……」
一呼吸置いて、少年は再び口を開く。
「俺には、この手がある」
「お前……」
「教えてくれよ、じいちゃん。俺、頑張るからさ」
少年はそう言うと、少しぎこちなく笑って見せた。
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「ん……」
闇の中にいた意識が徐々に覚醒していく。それと同時に一時的に無くなっていた体の感覚が戻って来る。
「気がついたか」
聞き慣れた声に目を向けるとぼやけた視界に茜色の髪が映る。次いで、見えたのはヴァイオレット色の瞳。ガドールだ。
「クルッカは…?」
起き抜けという事もあり、声は掠れていたがガドールにはちゃんと聞こえたようだ。腰に手を当て、呆れたと言わんばかりの表情だが何処かホッとしているのが分かる。
「お前は自分の心配してろって言ってんだろ、ったく…。クルッカは大丈夫だ、さっき連絡付いた。もう少しでここに来るはずだ」
「…連絡先、いつの間に?」
「あのエージェント、管理が杜撰すぎるんだよ」
ガドールはそう言うと服のポケットから一枚の紙を取り出し、こちらに差し出す。それは初め、ぶつかった際に飛んで行ったあの紙で、クルッカの個人情報が記されていた。呆れて物も言えないとはまさにこの事か。
「ま、とりあえずこの件は置いといて。クルッカと合流し次第、この街を出る。また奴らに囲まれたんじゃ堪ったもんじゃねぇし、ひとまず隣街に避難して様子見って事で」
「分かった。…悪い、俺のせいで」
「お前の嘘で騙される馬鹿がいるとはな。ま、でもそれだけであんな大人数でやって来るってのもおかしいとは思うがな」
「もしかして、嗅ぎ回ってたのがバレたとか?」
「多分、そうだろうな。奴らからすりゃ、動機は何でもよかったんだろうよ」
ガドールは腕を組みながら、外の様子を伺っている。まだ街から出ていない以上、油断は出来ない。今更ながらに実感した状況にギュッとシーツを強く握り締める。
――今度こそ、足手まといにならないように…。
そう決意を固めたのと同時に部屋の中にノック音が響いた。視線はドアへと吸い込まれ、窓際にいたガドールは足音を消して、素早く傍へと近寄る。
「誰だ」
「ガドール、あたし。クルッカ」
ドア越しに聞こえる声はくぐもっていたけれど、確かにクルッカのモノだった。しかし、だからと言って容易に開ける訳にはいかない。相手はマフィアだ。どんな手を使ってくるか、分かったものではない。
「……」
ガドールの目がこちらに向けられる。銃の用意をしておけと。ロックは大きく頷くと、握り締めていたシーツを離し、ベッドサイドに置かれていた拳銃へと手を伸ばす。それを確認したガドールはドアノブに手を掛け、一呼吸置いた後、勢いよくドアを開け放った。
「――ッ!」
バチバチと電流の走る手がドア前にいた人物の首へと伸びる。相手の驚いたような、漏れた呼吸が耳に届く。普通、そんな事になれば叫ぶなり、逃げるなりするだろうにその相手はその場から一歩たりとも動かず、じっとガドールを見ていた。
「悪いな、驚かせて。怪我がないようでよかった」
「いや、それくらい警戒して当然だよ。…ロックは?」
ガドールに促され、部屋に入って来たクルッカと目が合う。ご心配おかけしましたと頭を下げるとクルッカはよかったと口の端に笑みを浮かべる。
「あぁ…、天使っていたんだな」
「寝てねぇのに寝言とは器用だな」
「…?何、言ってるか分かんないけど、動けるなら急いで。東の門から隣街行きの馬車が出てる。それに乗れば、気付かれる前にこの街から移動出来るはず」
クルッカの言葉に現実に引き戻されたロックはブンブンと頭を振ると、構えていた拳銃をトランクに仕舞い、ベッドから飛び出す。倒れる前に感じていた気持ち悪さはもうすっかり消え失せていた。
「悪い、俺はもう大丈夫だから。クルッカ、そこまで案内頼める?」
「うん、任せて」
小さく頷くクルッカにまた可愛いなという感情が頭の中を支配されそうになる。が、そんな事を考えている場合ではないと気持ちを切り替える。
――俺は、あいつを許さない。
先程見た夢をふと思い出す。家族を殺された憎悪を忘れた事は一度だってない。燻った復讐心だって心の深くに仕舞いこんでいるだけで、消えた訳でもない。けれど、小さい頃の自分にそう諭されているようなだった。お前の中には今だって黒い感情が残っているのだとそう突き付けられているような、忘れないと誓ったくせにと裏切られたような、複雑な感情が胸の中で渦巻いていた。
――大丈夫、忘れた訳じゃない。いや、忘れる訳ない。
あの日、村から旅立った日からずっと復讐の事しか考えていないのだから。
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――俺がみんなを守る!
壊滅した村の中、少年は一人立ち上がる。絶望した村人達はその姿に光を見出し、徐々に村の復興へと動き始めていた。
「うっ……」
そんな少年はいつも、ある少年を見ていた。その少年は幼馴染でロマノフ=ジョーヴァンによって、両親を殺されていた。
「ロック……」
幼馴染――ロックはずっと泣いている。両親の帰りを、ずっとそこで待っている。なのに、少年の目には希望の光すら宿っていない。
聡かった少年はロックが何かを知っていると勘づいた。けれど、それを聞く勇気はなかった。聞いてしまえば、ロックを傷つけると思ったからだ。
――俺が……俺が守る。
少年にはその力があった。みんなを守れる、人をねじ伏せる事の出来る力が。この力の使い道を少年は知っていた。そして、それが今なのだという事も。
「かかって来やがれ、化け物が!」
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懐かしい夢を見た。と言っても、お世辞にもいい夢ではなかったけれど、不思議と目覚めはよかった。ガタガタと揺れる馬車の荷台には自分達以外にも数人、客がいて、各々器用に眠っている。
「スー…スー…」
隣にいるロックも壁にもたれたまま、寝息を立てている。穏やかな寝顔は年相応よりも幼く、何処かロックの母親を思わせる。そういえば、母親に似て女顔だったなとふと思い出す。
「復讐とかお前には向いてねぇよな」
両親を亡くしたロックを村の人々は可哀想だと哀れんだ。それがロックには辛かった。皆があの日の象徴として自分を扱う事に耐えられなくなって、結果ロックは精神病を患った。そのせいで母親から習っていた料理も出来なくなった。ロック自身は覚えていないようだが、昼間のような発作も村にいる時は日常茶飯事だった。
「あいつに復讐しに行かないか?」
だから、村から連れ出した。復讐なんて望んでいないのは分かっていた。ただ、ロックを村から連れ出せれば口実など何でもよかった。けれど、いざその復讐相手の背中が見えそうになった今、その行動が正しかったのかと一抹の不安を覚える。
「俺は――」
言い掛けた時、荷台口から風が吹き付ける。出発前に締め切っていたはずの出入り口の布が風でバサバサと靡いている。その隙間からキラキラと何かが光る。何だと訝し気に見ると、それは月の光を受けて光る銀髪だった。この中で銀髪なのは一人しかいない。
「よぉ、お嬢さん」
荷台口に近付き、声を掛けると座っていたクルッカがこちらを見上げて来る。
「起こしちゃった?」
「いや、たまたま目覚めただけ。クルッカは?星、見てたのか?」
「うん。性格に言うと、月の方だけど」
クルッカの隣の、空いた場所に座り込むと同じように空を見上げる。小さい頃は辺境地という事もあり、よく星を見たものだが、ここ数年はろくに夜空なんて眺める暇もなかった。
「意外と見えるもんだな。都会なんてろくに見えねぇんだと思ってたけど」
「今日は晴れてるからもあるけどね。…昔から、よく眺めてるんだ。気付いたら朝になってたりして、よく友達に怒られてた」
空を見上げたまま、そう答えるクルッカを横から盗み見る。レモン色の瞳は星の光を映したようにキラキラと輝いている。容姿も相まって、幻想的な光景に少しの間目を奪われる。
「ガドール?」
視線に気付いたらしい、クルッカがこちらを見て小首を傾げる。…これではロックの事笑えないなと苦笑しながら、我に返ったガドールは何でもないと視線を空に戻す。
「あ~、そういえば、あのエージェント大丈夫なのか?あんなでも一応、お前の担当なんだろ?」
「あぁ、それなら大丈夫。逃げるついでに助けて来たから。今頃、積まれた書類でも相手にしてるんじゃない?」
「なら安心だな。というか、担当変えてもらえねぇの?毎回あんなじゃ使いもんになんねぇだろ」
「ルールで一年以上経たないと解消出来ないの。…正直、迷惑はしてる。邪魔だとも思う。仕事だって、何回も大失敗してるし、その度に呆れたし。でも、何でか放っておけないんだよね」
クルッカの言葉に思わず面食らってしまう。疫病神相手にとんだお人好しだ。
「誰からも相手にされない寂しさをあたしは知ってるから。あの子はきっと、誰かに見て欲しかったんだ。そうしないと、自分が誰かも分からなくなるから」
孤独は人を狂わせる、とは誰の言葉だったか。しかし、その感覚をガドールは知っている。自分一人じゃどうにも出来ない寂しさも、周りへの嫉妬も。ただ、ガドールにはロックがいた。自分を頼ってくれて、姿が見えないと探してくれる、そんな家族が。
「だから、あたしはあの子をちゃんと見ておこうって思うの。誰が何と言おうと、今はあたしのエージェントだもん」
クルッカはレイユの理解者になろうとしている。誰もが見放し、誰も寄り付こうとしない、孤独な疫病神に寄り添おうとしている。
「誰かの目を気にして、人を蹴落せる程、あたしは強くない。そんなの気にして生きていくつもりも毛頭ない」
クルッカの目が真っ直ぐにこちらを見据える。何もかもを見透かしたような、レモン色の瞳に少し居心地の悪さを覚える。
「あたしはあたしの思う道を行く。その生き方は今更変えられないもの。だから、貫く。誰に笑われようが、間違いだと言われようと」
――…あぁ、こりゃロックが惚れる訳だ。
「…ごめん、急に。でも、聞いてくれてありがとう」
「どういたしまして」
「じゃあ、戻ろうか」
クルッカは名残惜しそうに空を見上げた後、荷台の方へと戻って行く。そういえば、今日は満月だったなと思い、空に目をやる。銀色の月の輪郭が光でぼやけて見える。月は昔から狂気の源とされている。一説によると満月の夜の犯罪率が高いからだと言う。他にも、狼男説など言い出したら、きりが無い。
――そういや、あの日も満月だったな。
目を閉じれば、今でも鮮明に思い出す。消したくても、消えない惨状。そして、忘れる事の許されない記憶。全ての元凶が高らかに笑い、大切なモノを壊していく。ほとばしる鮮血。獣のように叫び、血を流し合う村の人々。
ガドールはあの時、戦場と化した村にいた。力を持った自分なら戦えると、村も、大切な人達も守れる、と。
「ハァ…ハァ…」
血で汚れた手を必死で拭った。けれど、手に付いた血は取れない。それ所か、ますます血は濃くなっていく。ガドールは狂いそうな血の匂いに噎せ返った。
「月が……赤い……」
その時見た月は、血のように赤かった。ガドールは全てがロマノフ=ジョーヴァンのせいだと思った。村が壊滅したのも、村の人々が血で汚れて泣いているのも、何もかもを。
今なら分かる。それがただ、逃げているだけだと。失意のドン底にいる人々に呼びかけたのだって、そうだ。先導者という大義名分で誰からも責められないようにと考えた結果がそれだったのだ。
――自分の力が足りなかったがために、人が死んだ。
幼心にガドールはそんな罪悪感に駆られていた。実際、子供一人の力で何か変わっていた訳ではない。圧倒的な力の差を子供が埋められるはずがないのだから。
「…もう、あんな思いは御免だ」
ぐっと拳を握り締め、ガドールは一人決意を固める。もう誰も死なせない、傷付けさせないと。その為に元凶となったロマノフ・ジョーヴァンを見つけ出すと。
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翌日、隣街に着いたロック達はクルッカおすすめのカフェへとやって来ていた。
昼間という事もあり、人でそこそこ賑わっていた店内は今、別の意味でざわついていた。ロックは注がれた視線に気まずさを覚えながら、眼下に積まれ行く皿の数に引く事しか出来ない。ガドールだけならいざ知らず、あのクルッカもラザニアを頬張っているのだから下手に何か言える空気でもない。
――見てるだけで胸焼けして来た…。
「ロック、どうかした?」
「いやぁ…、お気になさらず」
おもむろに席を立ったロックはガドールの席に近寄る。
「ごめん、ちょっと席外す。すぐ戻るから」
「…分かった、あんま遠くに行くなよ」
ロックは返事の代わりに手を振ると、足早にカフェを出た。空気が美味いとはこんな感覚なのか。まさか都会でそんな事を思うとは思いもしなかったが。ともかく、チーズの濃い匂いから逃げられた事に今は安堵するばかりだ。
――食事終わるまで待つか…。
腹ごなしにとその辺を歩く事にしたロックは街の様子を眺めながら、物思いに耽る。
――昨日から俺、かっこ悪いなぁ…。
肝心な時に発作を起こして、二人に迷惑をかけた。大丈夫だったとはいえ、クルッカを置いて逃げた事が何よりも情けない。あの時、自分が倒れなければガドールだって加勢出来たのに。醜態もいい所だ。
「俺にはこの手がある」
そう言ってから、早八年。ロックは医者になったものの、力のない自分を嫌っていた。みんなが血を流して戦っている中、自分だけが一人、安全地帯にいる事がロックには耐えられなかった。
もし、あそこで誰かが死んでしまったら……。
そう思うと、とても怖かった。それを痛感したのは一昨日の、あの出来事だ。
「クルッカも、ガドールも守れる力が俺にもあったなら…」
護身用の銃を撃つ事さえ、躊躇してしまう自分にそんな力は高望みだと分かっている。
――それでも……。
グッと拳を握り締め、その場に立ち止まる。俯いていた顔を空へと向けると、そこには雲一つない、青く澄んだ空があった。モヤモヤと悩んでいる自分とは対照的に何処までも続く空に不思議と勇気が湧いてくるような気がした。
――力が…欲しい……。
もう誰も傷付かないように、ガドールやクルッカみたいに誰かを守れるように強くなりたい。そう願う反面、それには大きな代償がいる事も知っている。世界は等価交換――何かを得る為には何かを捨てなければならない。小さな子供だって知っている、世界の常識。ロックには、その代償を払う勇気がなかった。何かを失う事を、ひどく恐れていた。
「やっぱ、俺は卑怯だ………」
吐き捨てるように言うと同時にズキズキと胸が痛む。その痛みが何から来ているかなんて、聞くだけ野暮だ。心当たりがありすぎる。自分の卑怯さや臆病さに今更ながらに嫌気が差した。
「……戻るか」
いつまでも感傷に浸っている訳にもいかない。ガドール達のいるカフェへと踵を返した時、視界の端に何かが見えた。何故か、妙に懐かしさを覚える感覚に何だとそちらに視線を向ける。
――風に月のマークの入った…革靴……。
それは故郷を出てからずっと探し続けていた、故郷――風月村のマークだった。
――見つけた。
瞬間、ロックは走り出す。絶対に逃がすまいと全神経を革靴の男へと集中させる。その気迫に道を行く人々はロックの邪魔にならないように両端へと寄って行く。普段のロックなら申し訳ないと眉を顰めただろうが、今のロックにはそんな余裕は欠片もない。
「いた…」
どのくらい歩いただろうか。ようやく、その姿を捉えたロックは肩で息をしながらつぶやいた。その視線の先にはヒョロッと背の高い男がいた。あの時と全く同じ服装で、同じ革靴を履いて。
全ての元凶、村を汚し、逃げた男――ロマノフ=ジョーヴァンはあの時と同じように笑っていた。