日常と初めて
辺りに銃声が響き渡る。
アルティシアは額の汗を拭った。
ちらりと空を見上げると、太陽は見えないものの明るくなり始めていた。
ちょうどいい大きさの岩を見つけて腰掛ける。
姉はまだ家で寝ているだろう。さすがにひと眠りしてから戻らないと、姉の前でボロを出して心配をかけてしまう。
瞼を閉じるとそれだけで眠気がやってきた。
アルティシアはこんな場所に不釣り合いなほど、健やかな寝息を立てて寝た。
…辺りは、血で真紅に染まっていた。
ところどころに残骸が見える。
それは、魔獣だった。
普通の人間ならその魔獣の顔を見ただけで震え上がるだろう。
悪魔の手下なのではないかという説も、あながち馬鹿にできない。
それほどまでに、凶悪な姿だった。
けれど、それを残骸にした張本人は何事もなかったかのようにすうすうと寝ている。
アルティシアは毎日こんな事をしていた。
太陽が沈み出すと魔獣は活発になってくる。
最近では人の住む場所に現れることも多くなってきているらしい。
しかし、被害を抑えることにも限界がきていた。
もう、男は年寄りと幼すぎる子供、そして貴族以外、街には残っていないのだから。
死者は着実に増えていた。
アルティシアの住む街の隣の街も魔獣の被害が出ている。
それを聞いてアルティシアはここに来るようになったのだった。
毎夜、人の味を覚えた十匹程度の魔獣が街に近づいてくる。
それを待ち伏せして街に行く前に全部殺してしまうのだ。
そこに転がる残骸のように。
アルティシアはゆっくりと瞼を持ち上げる。
太陽の光が目に刺さった。
「あー眠い。…でも夜通し働いた甲斐はあったかな。」
伸びをしながら辺りを見回す。
当然、寝る前と変わらず血だらけだ。
あえて違う部分を挙げるとするなら、太陽が出ているかどうか。
アルティシアは薄く笑った。
「…綺麗。」
血だらけの地面は太陽の光を反射して輝いていた。
この光景は好きだった。
醜く人を喰らって穢れた魔獣も、美しく見えるから。
鼻歌を歌いながら、自分が殺した魔獣に近づく。
「大量大量ー。」
そう言って、魔獣の毛皮や牙を剥ぎ取り、持参した袋に詰めていく。
正直なところ、魔獣を狩るアルティシアの半分の目的はこれだった。
魔獣の毛皮や牙は高く売れるのだ。
アルティシアにかかれば、魔獣も生活のための重要な資金源なのである。
もちろん、もう半分は人間としての良心に従って、だ。
さすがに、常人とはかけ離れた頭の持ち主であっても、人が殺されていくのを黙って見ているほど人でなしではない。
アルティシアは自分の服を見下ろして小さく溜め息をついた。
魔獣の血が点々と紅い染みがついている。
今日は珍しく汚してしまった。まだまだ修行が足りない。
このまま帰るとあの姉は卒倒してしまうだろう。帰りに魔獣を売る場所で新しい服を買わなければ。
そう考えながら、ぱんぱんに膨れた袋を担いで歩き出した。
「ただいま。」
この時間ならまだ姉は寝ているだろうと分かってはいても、つい癖で言ってしまう。
しかし、今日に限ってはアルティシアの予想は裏切られた。
「お帰り。」
そう返してくれた姉はすでに化粧をすませ、外出用のドレスを着て、朝食を作っている。
「どこか出かけるの?」
いつもと比べると明らかに早い。
化粧の仕方も普段と違うような気がした。
「ええ、ちょっとね。帰るのはたぶん今日の夜か、明日の朝になると思うわ。」
アルティシアは驚いた。
一日中姉がいないというのは初めてだ。
どれほど遠くまで行くのだろう。
フィーエルはそんな妹を見て少し驚いた顔をし、それからくすくすと笑った。
「なに、不安なの?」
「そんなこと、ない。」
フィーエルは微笑んだまま首を傾げた。
「珍しく素直じゃない。心配しなくてもすぐ帰ってくるわ。」
そんなに不安そうな顔をしているのだろうか。自分では分からない。
けれど、心の中に小さくとも波紋のように広がっていくものがあるのも確かだった。
それを振り払うように首を振り、財布から今日稼いだ分の金を取り出す。
「買い物とかもするでしょう。持って行きなよ。姉様が遠出なんてそうそうないんだし。」
はい、と言って差し出した金を姉は受け取らなかった。首を横に振って静かに、いらないわ、とアルティシアの手を押し返す。
「姉には姉としての意地があるの。…確かに稼いでくれてる量はアルの方が断然多いけれど、生活でどうしても必要な分以外で妹の手を借りるつもりはないわ。そのお金はアル、あなた自身のために使いなさい。」
そうは言われてもなぁ、と思わず困った顔をしてしまう。
自分が欲しい物なんてないのだ。もちろん銃弾や魔獣を殺すために必要な物は次々買い足しているが、それでもたかが知れている。
魔獣を売った利益の方が大きいに決まっているのだから。
それを見てフィーエルは、相変わらずね、と笑った。
「あなたには欲が無さ過ぎる。もっと欲を持ちなさい。例えば、そうね…。」
皿の上に出来上がった朝食を並べていく。
「私としては可愛くなりたい、なんていう欲があなたに少しでも生まれたらなぁとよく思っているわ。」
「はは、有り得ないね。」
自分がそんな欲を持ったところで、今自分の傍で頬を膨らませている姉には到底及ばないことを悟って早々に諦めるだろう。
「まったく、あなたといったらまるで女の子らしくないんだもの。最近では弟を持っているような気分になるわ。」
「…それはそれは。」
実際、外を歩いていると男と間違えられることもしばしばなのだが、黙っておいた方が賢明だと頭の隅で考えた。
「朝ご飯、私はもう食べたから後片付け頼んだわよ。じゃあ、もう行くから。」
ふと、その瞬間はっきりと思い出す。
『じゃあ……行ってくる。』
そう言って帰ってこない家族を。
思わず、姉のドレスの袖を掴んだ。
「…どうしたの?」
ふざけてるのか、それとも本当に不安がっているのか、と振り向いて息を飲む。
妹の顔には表情が無かった。真顔、という言葉では表せないほどの真剣さ。
「帰ってきて。絶対に。」
しかし、その無表情の中に姉である自分にしか分からないほど奥深くに沈めた感情が見える。
「分かった。絶対よ。」
フィーエルもさすがに茶化して答えるわけにはいかなかった。
アルティシアが頷く。
数秒、姉妹は見つめ合った。
あの時を思い出して。
あの時と違うのは、大きくなった自分達の体と、一度目の記憶。
―――そして。
……妹の燃えるような瞳の激しさ。
あれは不安という感情などではなかった。
そんな生易しいものではない。
あれは――――…。
「あなたは私を不安にさせる天才よ。アル。」
フィーエルは、目的の物を手に入れるために家を出た一歩目に深く溜め息をつく羽目になった。