羽田さんのスープ
「お前だアッ!!」
真田が最後に大声で言うと、狙ったのか偶然なのか、彼の目の前でチラついていたろうそくの炎が消え、そこかしこから悲鳴が上がった。
彼の話の内容はよくある都市伝説だった。
生活苦から産み落とした我が子をコインロッカーに預けた女は、十年後に運命の男性と出会い結婚する。
高齢出産を理由に女は子供を作ることを拒んでいたが、二人の愛の証が欲しいと懇願する男に根負けし、とうとう妊娠してしまう。
男は最高の医師が務め、最先端の設備を備えた病院の特別室を用意し、女は万全の態勢で出産に臨んだ。
自然分娩ではリスクが高すぎた。
胎児は逆子で、臨月が近づいた頃には二千グラムそこそこだったというのに、どういうわけか一か月で五千グラムまで急成長していたからだ。
手術は無事に終わった。
男が用意した最高の医療が勝利したのだ。
全身麻酔で眠っていた女は知らないが、取り出された赤子の産声は男性の叫び声のようだったという。
それから三年。喃語の時期を卒業し、短文なら会話もできるようになった女の子供がある朝、目覚めると同時に泣き出した。怖い夢を見たのか。理由を訊ねても首を横に振るばかりで答えなかった。そんな朝が訪れるたび、子供は陰気になっていった。
さらに三年後の春。
女は子供と共に小学校の入学式に向かうため、電車に乗っていた。
子供が駅のコインロッカーを指差して言う。
「ママ。ああいうところに、いらないものを置いていく人がいるんだって」
「そう」
自分がしでかしたこともすっかり忘れ、女は息子の言葉を聞き流していた。小学校までの地図を置き忘れてきたのだ。普段は夫の車の助手席に座っているため、土地勘がない場所で道を覚えるのが苦手になっていたのだ。
タクシー乗り場は――
キョロキョロと辺りを見回す女の手を、子供が強く引いた。
「ねえ、ママってば。子供をね、置いて行っちゃうひともいるんだって!」
「そう。ひどいわね。誰がそんなことを――」
というオチの話だった。
長々と語った割にはありがちだったな。
僕がそう感想を漏らすと、真田がフン、と鼻を鳴らした。
「じゃあ、お前が七つ目を話せよ」
僕は狼狽した。夏を楽しもうということで宴会の二次会として始まったこの怪談パーティーは、始めのうちこそ百物語を目指していたのだが、じゃんけんで負けた男子たちが五つの怪談を披露したところで女子たちが退屈し始めた。
そこで僕たちは、予定を大幅に変更して「七不思議」を始めたのだ。
七つの物語を知ってしまうと何かが起きるという。
正確なルールは知らないし、そもそもそんなものが在るのかどうかも分からないが、せっかく買ってきたろうそくがもったいないので、話が一つ終わるたびに消すことにした。
真田が六つ目を話し、次はいよいよ、という段になったわけだが、公平なるじゃんけんの下で、次の順番は伊藤と決まっていた。
「そうだな。自信があるみたいだし」
諏訪先輩が腕を組んで頷いた。
集まった男女の中で唯一の上級生の言葉だ。うちの部活の先輩たちは理不尽に怒り散らす人ばかりで、正直に言うと人望がない。諏訪先輩はそんな中で唯一の人格者だと言っていい。
今日の納涼会には恐い先輩の何人かが来ていなかった。みんなはそれを喜んだが、諏訪先輩は一人一人連絡していた。何か予定があるのか誰一人繋がらなかったそうだが、律儀な人だと改めて感心した。
そんな先輩の言葉に、左右の皆が次々に同意した。
「諏訪さんが言うんじゃ仕方ない。いっちょう頼むよ」
ほんとうにほっとした様子で、伊藤がボクの肩をとん、と叩いた。部活の時と一緒だ。君はすぐ人に仕事を押し付ける。
参ったなあ。
怖い話なんてレパートリーがない。小学生の頃の妙な体験談でも話せばお茶を濁せるだろうか。
「じゃあ……話すよ」
「あ、その前にトイレ」
僕が口を開いた途端、諏訪先輩が手でまったをかけた。
場の空気があったまっているうちに話したかったなあ。お笑い芸人じゃないけど。あ、この場合は真田の話で皆肝を冷やしたのだから――ってそんなことはどうでもいい。
「あ、煮込みのやつ、お替わりくんね?」
「いいけど……」
そもそも、皆が僕の家に集まっているのはこれが目当てなのだ。特製のモツ煮込み。新鮮な素材と調味料にこだわって作る二次会メニューにはぴったりの品だ。丁寧に油を取ってあるから、女性でも食べやすいし夏は冷やしても美味しい。
僕がお替わりを運んでくるのとほぼ同時に諏訪先輩が戻ってきた。入れ替わりで三人がトイレに行き、また元の輪に戻った。照明を落とし、輪の中心に置かれたろうそくに火がつけられた。
膝を抱えて聞き耳を立てているもの、薄闇に乗じて肩を寄せ合っているもの、ビールの缶を開けるもの――
各々、話を聞く準備は整ったらしい。
なんだか最後なのにトップバッターみたいだ。
二重の緊張を感じながら、僕は話し出した。
◇
これは、僕が実際に体験した不思議な話です。
「だいたい皆、そう言うんだよ」
真田、いきなり茶々を入れるなよ……あ、諏訪先輩に頭を叩かれた。
まったく。
さて、仕切り直して。
あれは、小学校五年生の夏休み。
僕は当時――今も若干だけど、なんて自分では言えるくらいに成長した――、けっこうないじめに遭っていた。
実家は自営業だから、小学校が休みでも仕事は休めない。お盆は東京へ墓参りに行って、まあ浅草だとか花屋敷なんかに連れて行ってもらうだけ。
小さな会計事務所だから、小学生の僕が手伝うことなんかない。
当時の僕にとって夏休みは、長くて退屈で、より孤独感を深めるものでしかなかったんだ。
公園とか空き地、多目的広場やなんかで楽しそうに遊んでいる同級生を見るのは辛かったし、僕は学習塾ではなくて家庭教師を付けてもらっていたから、日中は本当に苦痛だった。いや、自慢話をしたいわけじゃないよ。せっかく話すんだから最後まで聞いてくれ。
そんなある日――僕は小学校に行ってみた。
午前中だけ図書館が解放されていてね。
そんなところにいじめっ子はいないだろうと思ったし、普段から開いている学校の図書館にわざわざ行くやつなんて――と思ったんだけど。
いたんだよ。
おばけじゃないよ。何言ってんの。
いたのはいじめっ子。
身体が大きくて強い奴――いわゆるガキ大将だね。全然いいやつじゃなかったよ。誰にでも乱暴してすぐ人のものを取っちゃうし。怒ると先生でも手が付けられなかった。もう一人は身体が小さくて喧嘩も弱いんだけど、地主の息子だからって威張り散らしている――っていう二人組。
なんでか僕はターゲットにされてね。
その日は散々だったよ。
図書館に涼みに来ていた二人組に校庭に連れていかれてさ。
“敵機来襲~!”
とか言って追い回されて、“捕虜ごっこ”とか言って砂場に埋められたりしてね。
そんなこんなで傷だらけの泥だらけになった僕は、水場で身体と服を洗ってから帰ることにしたんだよね。
すごい暑さだったから、服なんてすぐに乾くと思ったし。
先生に見られると困ると思った僕は――むしろああいうときは先生を頼るべきだったんだろうけど――校舎裏の水場に行ってみた。そこは給食のおばちゃんたちが大きい調理器具なんかを洗うときに使うところでさ。給食係をやったことがある人じゃないと、生徒でも知らない穴場なんだ。
とにかくそこへ行ってみて、僕は驚いた。
なんか、嗅いだことのないいい匂いがしたんだ。肉を煮ているような、美味しいラーメン屋の前を通った時に漂ってくる匂いに似ていたかな。
学校の中でそんな匂いを発するのは給食室しかない。
でも夏休み中に給食を食べる人はいないはずだ。
僕は自分の身体の惨状も忘れて、壁伝いに給食室を目指した。ちょっとしたスパイごっこみたいな雰囲気も楽しかった。
近づくにつれてどんどん匂いが濃くなって、僕はどうしてもその正体を確かめたいと思ったんだ。
給食室にたどり着いた僕は、バケツをひっくり返して底に乗り、窓から中を覗いた。
そこには……
「おい、なんで話すのを止めるんだ?」
諏訪先輩が缶ビールを一口煽って言った。
「いえ、僕は別にお話してもいいんですけど……」
「お!? ハードル上げてくじゃん!?」
諏訪先輩や伊藤以外の皆も催促してくる。
ハードルを上げるつもりはないんだけどね。皆がそう言うなら、話すよ。
窓から覗くと、そこには給食のおばさんがいた。背を向けていたけど、そのでっぷり太ったオシリを包むスエットと割烹着の組み合わせで誰かわかった。それは、僕が四年生で給食係になった時、お世話になった羽田さんというおばさんだった。
彼女の前には大きな鍋があって、すごい勢いで湯気が立ち上っていたから中身が煮立っていることが分かった。羽田さんはそれを大きなしゃもじでかき混ぜていた。
美味しそうな匂いの正体はその鍋だったんだ。
「誰!? そこにいるのは!?」
僕の肚の虫が聞こえたのか、羽田さんが振り返ってキッ! とこっちを睨んだ。でも窓から覗いているのが僕だと分かると、「なんだぁ、光夫くんじゃない」と言って表情を和ませた。うちは夫婦共働きで、母親はいつもピリピリしていてね。恰幅のいい、いかにもお母さんといった風体の羽田さんが僕はけっこう好きだった。
彼女はガスの火を弱めてしゃもじを置くと、外に回って出てきてくれた。この炎天下に大鍋の前に立っていたせいか、すごい汗だった。
僕がそれに驚いて何か言う前に、彼女は血相を変えて走ってきた。
「光夫くん! ケガしてるじゃないの!?」
僕は恥ずかしかったけど、事情を説明した。両肩を掴まれて、そうしないと放さないぞと言われては仕方なかった。彼女は別に脅したわけじゃない。本気で僕を心配してくれていたんだ。考えてみれば、昔はそんな風に子供のことを気にかけてくれる大人があちこちに居たもんだよね。今じゃ教師どころか親ですらまともに子供の言うことを聞いてないんだから。
「そう……あの二人がね……」
僕の話を聞き終えた羽田さんは、眉間に深い皺を寄せてため息をついた。
「羽田さん、あいつらを知っているの?」
「そりゃ、有名人だもの」
そのあと、羽田さんは僕の身体と服を丁寧に洗ってくれた。自分のロッカーからハンガーを出して、干してもらった服はすぐに乾いた。その間、扇風機の前で羽田さんが作っていたスープをご馳走になったんだ。あれは本当に美味しかったな。
何の料理か訊ねると、羽田さんは料理の名前はないと言った。夏の間に秋から出す新作メニューを考えていたんだそうで、試作をするのに小学校の厨房を借りていたんだって。
僕がとても美味しかったと告げると、羽田さんも嬉しそうに笑ってくれた。
その後服が乾くまで、何度もお替りをして、満腹になってうつらうつらし始めた僕に、羽田さんがこんな話をしてくれた。
「光夫くんは、人が人を食べちゃう話を知っている?」
「知ってる。水曜の特番でやってた」
「あれはやらせ。本当に食べちゃう人の話」
遠い国の少数民族にはそういう習慣が残っている。そんな話は聞いたことがあると伝えると、羽田さんは首を横に振った。
「悪いことをした人をね。罰として食べちゃう人がいるのよ」
「わかった。映画でしょ」
“りょーき的なんとか”ってやつだ、なんて当時の僕は思った。羽田さんがなんでそんな話をするのかわからなかったけど、寝物語みたいなものだったのかな。
「悪いことをされた人は、それをした人が罰を受けたくらいじゃ治まらない痛みを抱えてしまうことがあるわ。そういうとき、相手を食べるの。そうすれば、自分のお腹の中で溶けて、トイレに流れていくまで全部この目で見ることができる。たしかに悪者はこの世からいなくなった――そう思えて初めて安心できるの」
羽田さんの話はよくわからなかったけど、僕はそのまま眠ってしまった。
夕方になる前に起こされた。
また新作料理を作るから、来週同じ時間においでと誘われた。
僕はその日、体調を崩してしまって小学校に行けなかった。しかも夏風邪をこじらせて肺炎になってしまって。羽田さんに申し訳なくて心が痛んだよ。
結局残りの夏休みを病院で過ごした僕は、退院した翌日には小学校に行った。
昼休みに給食室に走って行ったよ。
もちろん羽田さんに謝るためさ。
羽田さんは居なかった。
給食室のおばさんたちは皆、羽田さんを探す僕を気味の悪いものでも見るような目で見ていた。
泣く泣く教室に帰ってみて初めて気がついたんだけど、いじめっ子のうち身体の大きい方がいなかった。そいつの机には、なんでか向日葵が活けられた花瓶が置いてあった。
◇
以上です。
僕は静かに結び、ロウソクを吹き消した。
誰も何も言わなかった。
七不思議の最後に相応しい話だったろうか。どちらにしても、何かリアクションが欲しいところだ。僕が口を開きかけたとき、誰かの携帯が鳴った。
電話に出た声で、それが諏訪先輩のものだと分かった。
彼は立ち上がり、「大野が行方不明らしい。今、あいつの連れから連絡があった」と言った。大野先輩は、部員の中でも一番気性が荒いんで恐れられている。男はすぐ殴るし、女の子にはレイプまがいのセクハラをして平気な顔をしている。
誰かが電気のスイッチを入れた。
部屋に灯りが戻った。
煮込み料理の皿を持っていた奴が悲鳴を上げた。
おっと、指が入っちゃったのかな?