芳魂の花幣・表(おもて) (作:紫生サラ)
「お仕事頼めるかしら?」
逢魔が時。春影に紛れるようにその事案はドアを叩いた。
ドアを叩いたのは、花魁のような豪奢な着物に身を包み、色鮮やかな生地と対象的な肌理細やかな白い肩を露出させたほのかに白檀の香りを纏う美女だった。
自宅の扉を開けたまま固まっている私に、切れ長の瞳を向けながら彼女は同じ科白をもう一度口にする。
「お仕事頼めるかしら?」
「……それは、治療の?」
私は何か適当な事を言おうと言葉を思案したが咄嗟の事でうまく頭が働かなかった。
彼女の異様な雰囲気に圧倒され、それだけ応ずるのが精一杯だった。
彼女は「ええ」と頷いたあと「こちらに腕のいい治療家さんがいると聞いたもので」と艶やかな形のよい口元を微笑ませる。
「腕がいい」という言葉に気をよくしたわけでもないし、婉然とした彼女の魅力にやられたとかではないが、私はその依頼に応じるように首を振った。
「治療を受けるのは貴女?」
「いいえ、私ではございません。その子はよう動くことがかないませんので、できれば先生に診に来てほしいのです」
往診の依頼だったのか。
「どちらかからのご紹介で?」
「ええ、こちらの近所に住むものからの」
「……そうですか、今からですか?」
「ええ、今から」
私の問いに独特の抑揚で女は即答する。
「では、少し待っていてください」
私は彼女をその場に待たせると、一度部屋へと戻っていった。
バーニーズマウンテンドックのフレンと黒猫のロデムが部屋へと飛び込んできた私の事を何事かと言った顔で見つめている。
私は少し疲れた紺色の上着を羽織ると、往診用の鞄の中身を確認する。
「留守番を頼むぞ」
ロデムはお気に入りのパソコンの上で欠伸をし、フレンは「よくわからないけどわかったわ」と言った風でふさふさとしたしっぽを振っていた。
「すみません、では行きましょうか」
「はい、ではこちらへ。案内いたします」
彼女の案内で私達は歩き始めた。
はじめは車か何かが用意されているのかと思ったが、外に出てもそんなものはなく、私達は昏黄の道をただ歩いて行った。
……?
私は平静を装いながらも内心は不思議な思いに囚われはじめていた。
今時、こんな恰好をした女性がこんな表通りを歩けばさぞ目立つ事だろうと思っていたのだ。
今日はどうしたんだ?
普段は人通りの多いはずのその道に人の姿はなく、車通りもない。日も落ちてきているのに灯りも少なく、空に暗幕でも下したかのようにやけに暗く感じる。
そんな時間でもないはずなのに商店のシャッターは降り、道も狭く、そして細い。
そのあまりの昏さに時計で時間を確認しようとしたが、慌てて出てきたために腕時計をするのを忘れていた事に初めて気が付いた。ならば、携帯でと思い改め、上着を探ろうとした時「それにしてもよかったわ」と前を行く女の笑みを含むような声色に顔を上げる。
「えっ?」
「噂通りのようで」
女の言葉に私は思わず聞き返した。
噂? どんな噂だ?
問い返すよりも前に、女は振り返らずに言葉を続けた。
「依頼されたら、断らんて」
どこから流れた噂なのか。私はその言葉に僅かばかり安堵の息を漏らす。そして「それは、そういう所もありますけど、治るか治らないか私だけの問題ではないですよ」と言った。すると、女は鈴を転がしたような声で笑い「それはそうね」と優雅に口元に指をあてる。
「治るか治らんか、生きるか死ぬかはその子次第。それは自然のお約束。でも、治るも生きるもきっかけは必要。ドアがノックしないと開かないように、ね?」
「……ええ」
どれほど歩いた事か、彼女に案内された私はその場所に到着した。
街を見渡せるようなその丘には、立派な樹が天を支えるように枝を広げていた。その樹の根本では、これからお茶会でも開かれるのかと思うような野立と行燈のような灯りが準備されていた。
まさか、ここで? 外で治療を?
私が訝しんでいるとそこに腰かけていた男が立ち上がり小走りに駆け寄った。
「やや、貴方が先生ですか。どうぞ、よろしくお願いいたします」
駆け寄ってきたのは、やはり着物をきた恰幅のいい中年の男だった。
「え、ええ……」
男の妙な愛想のよさに面を食らいながら、私が自己紹介をしようとするとその男は「ええ、ええ、わかってます」と恵比寿さんのような笑い顔で私の手を肉厚の両手で包み込み、何度も上下に振った。
何をわかっているのだろう?
男の愛想のいい顔色はかわり僅かに悲壮感を帯びて「それでね、この子なんですよ」と言って手を向けた。
「この子?」
いつからそこにいたのか、気が付くとそこには桃色の着物を着た女の子が仰向けに寝かされていた。
歳の頃は十歳にも満たないほどか、長い翠髪に色白でふっくらとした頬が可愛らしい女の子だったが確かに些か顔色が悪い。
愛らしい顔は汗を浮かべながら苦悶に歪んでいる。
「大丈夫? 先生連れてきたよ、しっかりしいな」
「……うん」
白檀の女に声をかけられ、少女は弱弱しく頷き返す。彼女は寝たままの姿勢で、私の方に顔を向けると微かに笑顔をつくり、今にも消えてしまいそうな声で「お願いします」と言った。
「先生、お願いします」
「ええ……」
私は言われるままに女の子のそばに膝をつくと、一先ず女の子の小さな手をとり脈を診た。顔色を窺い、少しばかりの問診をし、それから着物の帯を緩めて腹部を按じる。
……? これは?
彼女の脈も腹も普通に感じるものとは違う。今までに診た事のないものだ。
私が腹に手を置いたまま首を傾げていると女の子が着物の裾を握り、身を固くする。
私はそれに気が付き慌てて手を離すと、上着を彼女の上に掛けた。
「あっ……」
まわりには見知った人間しかいないとはいえ、こんな外で着物をはだけさせるのは彼女としても抵抗があったのだろう。着物の扱いになれていないせいか、注意が向かなかった。
「ごめんなさい……」
「いや、こちらこそ申し訳ない」
それにしても……。
奇妙な感じだった。今まで同じ歳くらいの子供を治療する機会は多々あった。
いや子供の治療ということだけでなく、大人も含めた私が持つすべての経験を含めても彼女の状態には疑問を覚えた。
ただ、それが何なのか……頭に靄でもかかったかのように、何故だか明確に答えを出すことができない。
「……」
その理由の一つは説明がつく。私は自分の背中に刺さる視線が気になっていたのだ。
あの恰幅のいい男と私を案内した白檀の女がいるのはわかっているが、どういうわけなのかもっと多くの目に視られている感じがする。まるで演劇の舞台に一人で立たされたかのような気分だ。
「先生、どうです?」
「えっ、ええ、そうですね。ちょっとやってみましょうか……」
私は男に問われると、周囲の視線を振り払うように呼吸を整えて、意識を切り替えた。
手を消毒し、鍼を手にとる。
末端から行くのがいいか……それとも問題が顕著な腹部からいくか……。
私は今一度少女の手足を左手で探ってみたが、これといったものを発見することができなかった。仕方なく、彼女に掛けた上着の中に手を入れ、彼女の腹の上で手を構えると慎重に鍼先をあてがった。鍼は彼女の柔らかく薄い皮膚に溶けるように吸い込まれた。
「……!」
女の子は鍼の響きにピクリッと体を反応させると、周囲の視線が波を打ち、木々が風もないのに騒めいた。
その光景がよほど珍しいのか恰幅のいい男と白檀の女は目を丸くしながら食い入るように見つめている。
僅かに女の子の気色が優れ、私は施術を終えた。そしてもう一度、彼女の脈や腹に触れ、その感触を確かめた。
しかし、その感触は相変わらず。
彼女の体は、変化はしているものの、良好な状態へと進路をとったその痕跡が見当たらない。私の胸には疑問が渦巻いた。
一回目はこんなものか、歯噛みしながらも自分に言い聞かせる。
「先生、少し楽になりました」
「そ、そうですか、それはよかった」
女の子は気を使ったのか、私に笑顔を向けた。確かに、顔色も呼吸も先ほどよりよくなってはいるように見える。
「先生、この子はよくなりますか?」
「ええ、そうですね。三日後にまた来ます。また迎えにきてくれますか?」
「三日後? ええ、わかりました」
白檀の女の問いかけに私は彼女の顔も見ないまま答えていた。
恰幅のいい男はその約束に破顔して喜ぶと、治療費だと言って数枚の綺麗な新品の紙幣を差し出した。
私は彼のこの申し出に断ろうとした。というのも、この幼子の治療に自信がもてなかったためだ。
そんな気持ちを知ってか知らずか、彼は受け取りを躊躇している私の上着のポケットにそれを押し込んだ。
「いいからいいから、それじゃあ先生、三日後にまたよろしくお願いします」
「え、ええ……」
私はまた来た時と同じように女に案内され、来た道を帰っていった。
すっかり暗くなったその道の途中までやってくると彼女は振り返り、私に微笑みかけた。
「今日はありがとうございました。私はここで……三日後、同じ時間に伺います」
そう言って丁寧にお辞儀をすると、今来た道を帰って行った。すでに道が暗いせいか、彼女の姿は闇にでも溶けるかのようにすぐに見えなくなってしまった。
「……うん?」
彼女の姿が見えなくなると、急に街の音が耳に飛び込んできた。
気が付くと私は人通りの多い道の真ん中で呆けたように突っ立っていたのだった。
「ここは?」
そこは見覚えのある我が家から一番近い大きな通りだった。
●
三日間、私は憂鬱な時間を過ごしていた。
頭を悩ませていたのは、あの子の事だ。
私は持てる限りの文献や書籍をあたり、彼女の症状と症候を調べたが合致するどころか、近いものも探しあてる事すらできなかった。
そして三日目。前回とほぼ同じ時間、約束通りにドアが叩かれた。
「先生、お迎えに上がりました。お願いできますか?」
白檀の女の甘い声に呼ばれ、私はいそいそと部屋を出た。そして三日前と同じように道を案内され、またあの丘へとやってきたのだった。
すると今回は桃色の着物の女の子はちょこんと正座して私の事を待っていた。まだ顔色は優れないものの三日前よりも調子はよさそうに見え、私は内心胸を撫で下ろした。
状況は何らかの変化を見せている。もっともそれが治療によるものなのか、自然経過による回復なのか、判断が付かなかったが。
「先生、よろしくお願いします」
女の子は手をついて丁寧に頭を下げた。
その光景を周囲から見られているような気がして私は妙に恐縮した。まるで、忠義に厚家臣たちに見守られている中、よそ者である私が女王に頭をさげさせているかのような、どこか居心地の悪い気分になり、彼女には早く頭を上げてほしかった。
古風なその対応に戸惑いながら私は前回のように彼女に術を施した。
周囲の視線はますます多く、木々はゆらりゆらりとゆっくり揺れた。
治療後、私は何か彼女に良い兆候はないかと探してみたが、またもやこれと言ってそのようなものに触れることはできなかった。
「先生、また少し楽になりました」
彼女は言った。彼女のその言葉でしか、彼女の体を把握できないという事がもどかしく、情けない気分になる。
「では、また三日後に……」
次回の約束をすると今度は白檀の女が私の上着に謝礼を忍ばせる。
「あの……」
「いいからいいから。先生、ありがとうございました」
また押し切られてしまった。
私は恰幅のいい男と桃色の着物の少女に見送られ、白檀の女の案内であの道を帰って行った。彼女が別れを告げると、私はこの前よりも家から離れた所で立っていた事を知った。
「……」
私は夢の中でも歩いているかのような覚束ない足取りで通りを渡り、家につくなり上着を脱ぐと、そのまま寝台に倒れ込んだ。家で私の事を待っていたロデムとフレンに構う事もなく私は深く眠りに落ちていった。
◯
私はすっかり参ってしまっていた。
仕事をしていても手につかず、彼女の事が気になって仕方がなかった。
彼女の体の反応は不思議なものだった。予想しうるもとは全く違うものを示す。
考えられる可能性は内部に大きな病を抱えているか、それともあまり類を見ない特殊な病なのか……。
あれからさらに調べてはみたものの、やはり手がかりになるような情報は得られない。
そのまま時間だけが過ぎ、また三日が経っていた。
「そろそろ時間のはずだな……」
いつも時間にまたドアが叩かれた。
私は上着と鞄を手にしてドアを開けた。するとそこにはいつものように白檀の香が漂う。
「先生、いいですか?」
「はい」
彼女は私に笑みをこぼすと私に一通の封筒を差し出した。
「これは?」
「先生、ありがとうございました。あの子、すっかりよくなったんですよ。これはあの子からのお礼だそうで。どうぞ受け取ってくださいな」
良くなった? あの状態から?
私はその言葉を信じることができなかった。もし可能なら今すぐ元気になったという彼女の姿をこの目で見たかった。
具合がよくなったというのなら、どうして彼女を連れて来てくれなかったのだろう?
私は歯痒く、思わずそんな余計な事を口にしていまいそうなるのを必死でこらえた。
「それは、よかったですね……」
「ええ、本当に。また何かあったらお願いいたします」
彼女は艶笑を浮かべ丁寧にお辞儀をしたので私もつられて頭を下げた。
「それじゃあ……」
「あ……!」
私が顔を上げた時にはすでに彼女の姿はなく、残り香すらそこには存在しなかった。
履く物も履かずに外と駆け出したが、表に出ればいつもの喧騒。
夕暮れの闇を裂くような人工的な灯りと雑踏、人の声。あの昏黄の道もそこにはない。
私は彼女に渡された封筒を片手に、体の力が抜けていくのを感じていた。
何はともあれ治療は終わった。
患者の方から見切りをつけられる事はままある事だ。
良くなって来て自分の意志でやめる場合もあれば、かなりの速度で回復していっていても本人が思ったほどよくならないと言ってやめる場合もある。
あらゆる理由や可能性が考えられる。
自分なりに第六感のように察するものがあるものだ。それが今回は治療を含めて終始暗中模索だった。
闇の中でもがきながら、その一端すらも指先に触れる事はなかった。
私は自室に戻ると治療関係の本が積まれたデスクに腰かけると、冷めかけた珈琲を口に運び、僅かに窓を開けた。
部屋の温度からすれば多少冷たく感じるが、外の風はすでに春めいている。
「……」
本当に彼女の症状は改善されたのだろうか……? その思いが頭の中を巡る。
ふと、黒猫のロデムが私に近づくと、私が受け取った封筒に興味をしめした。気が付くとロデムとフレンの二匹は何かを催促するかのように私の事を見上げていた。
どうしたのだろう?
食事なら餌皿にちゃんと入っている。遊んでほしいのならば、彼らは自分で遊びたい玩具を持ってくるのに、それもない。
すると大型犬のフレンが、しきりに私の上着の匂いを嗅ぎ、鼻で持ち上げるようにする。
まるで、ここに何かがあると教えているかのように。
そう言えば……。
私はあの恰幅のいい男からもらった謝礼と白檀の香りの女からもらった謝礼の事をすっかり忘れていた。
上着のポケットを探ると手渡された数枚の紙幣が出てきた。私は、それを指で広げ、改めて確認してみた。
五千円札が四枚。一回一万円の計算だ。往診の価格としては特に高くも安くもない。
「うん?」
私のその紙幣に何か違和感を覚えた。手触りがごくわずかだけ違う。
その時、窓から吹き込んできた風により私の手から紙幣が離れた。手を離れた瞬間、紙幣は、一枚一枚が木の葉になり、木の葉は弾けたように幾つもの桜の花弁となった。
「!?」
花弁は静かに長く部屋を舞う。
ロデムとフレンは桜を目で追ったあと、また私の事を見た。
「もしかして?」
少女からの封筒を思い出し、慌ててその封も切った。その封筒の中は空。
「そうか……元気になってたってことか」
封筒を開けた瞬間、桜の香りが部屋に溢れていた。その芳香は舞う花弁と合わさり、私はあの子とあの子の傍で揺れていた樹を思い出していた。
「やれやれ、何がいいからいいからだ、これじゃあ少しもよくない……」
まるでタヌキに化かされたような、キツネにつままれたような、そんな気分だ。
「こんなにされたんじゃあ、御釣がいくらあっても足りないじゃないか」
私は春を楽しむ二匹を目に見つめ、顔を綻ばせた。
おわり
植物も鍼を打って治療することがあると聞いたことがあるような気がしますが、鍼師が桜の木を治したのですね(^^)
独特の不思議な雰囲気に引き込まれていくようでした。少し残念かなと思ったのは主役の名前や描写がなくイメージしにくいことでしょうか。