桜咲く季節に(作:鈴木りん)
あれはたしか、社会人二年目になったばっかりの頃の、ある朝のことだったか――
穏やかな、春の朝陽。
たぶん、そうだと思うのだが、昨日の深夜までの残業のせいか、少し黄色く見えた。
中途半端にしか開かない、僕の瞼。瞳の奥に痛みを感じながら、部屋のカーテンを思いっきり開ける。
――朝の出勤の辛さは、サラリーマンの宿命。
フラフラする体と、しわくちゃなスーツ。そんな状態でも、どんな状態でも、会社には出勤しなければならない。
僕は、いつものようにアパートの玄関を、のらりくらり、まるで赤ん坊のような足どりで通り過ぎた。
しかし――
そのとき、自宅最寄りの地下鉄の駅を目指す僕は、鼻の奥をくすぐるような、とてつもなく甘美な香りに、心を奪われてしまったのだ。
(桜の花の匂い……どこからだろう? 回り道して確かめてみるか……)
時刻を考えれば、そんな余裕もないはず。
けれども僕は、何故かそんな回り道をする気になって、地下鉄駅への最短ルートから外れ、匂いのする方向へと歩みを進めてしまったのだ。
とにかく、歩く。頼りは、自分の鼻の感覚だけ。
東側に二本ずれた、表通り。そこに、目指す「桜」の樹があった。
「わあ、これだ……」
辺りに立ち込める、まるで妖精の髪から発するかのような、艶やかな花の香り。
桜の樹は、高さ三メートル程度。その香りの強さとは裏腹に、地味な平屋建てのお宅の小さな庭の片隅に追いやられるようにして、こじんまり立っていた。
つい、止まってしまった、僕の足どり。
突然、そのお宅の玄関の戸が、ガラガラと開いた。
そこから姿を現したのは、やや背中の曲がった、小柄なおばあさん。地味な色の服装に身を包み、やや白色の多い髪を頭の上でまとめている。
おばあさんは、すぐ傍で佇む僕を認めると、長い人生の含蓄のすべてを溶かしこんだような笑顔をこちらに向けて、ぺこり、とかわいいお辞儀をしてくれた。そして、手にした小さな箒で、庭の掃除を始めたのだ。
(何か、得した気がする)
体の奥底から力が湧き出て来た――そんな気分。
僕は、少しだけ軽くなった足どりで、地下鉄駅の入口へ、そして、「強敵」上司の待つ戦場へと、向かっていった。
❀
それからというもの、桜咲く季節になれば桜の匂いを嗅ぎに、いや、ホントのことを云えば、おばあさんのその柔和な笑顔を拝みたいがために、僕は少し遠周りするようにして、地下鉄への通勤路を歩くようになった。
それは、五、六年くらい続いたと思う。
でも、あんなに通ったというのに、連れのおじいさんの姿はついに一度も見かけることはなかった。きっと、僕が初めて会った頃から、おばあさんはずっと、一人暮らしだったんだろう――
僕が係長に昇進したばかりの頃。
世の中から見れば、取るに足らない、小さな昇進。でも僕は、何だかおばあさんにちょっと自慢したい気持を心に秘めて、連日、風が吹くたび桜の花びら舞うおばあさんのお宅の前を、朝も夕も通り過ぎるようにしていた。
僕の脳裏に浮かぶのは、いつもいつも僕が通るたびに向けてくれる、しわくちゃだけどほっこり優しい笑顔。会話は交わした事は、無い。けれど気持ちは、きっと伝わっている……
そう思っていたのだけれど、その数日、おばあさんの顔は拝めずにいた。
(おばあさんに、この姿を見て欲しいのに……)
ちょっと値の張る、真新しいスーツを着た僕は、立ち止まっておばあさんのお宅の庭先を眺めた。何故か、ひっそりと佇んだ玄関。がらがらと音を立てて開くはずの玄関の戸が、ちっとも動く気配がない。いつもおばあさんが使っていた箒は、玄関横に立て掛けられたままだ。
結局この年の春、ついに、おばあさんの姿を見ることはできなかった。
それから、数か月後。
――風の噂で、おばあさんが病気で亡くなられたと、聞いた。
❀❀
単調な何年かが、音もなく通り過ぎていった。
あれから、あのお宅に人がいるのを見たことはなかった。
おばあさんがいなくなったあの家に、当然、未練はなかったのだが……
春が来るたびに辺りに漂う、桜の花の香り。
主がいないにもかかわらず、相も変わらず咲き続ける、桜。
その香りを嗅ぐたびに、どうしても僕の足はそちらに向いてしまう。
淋しい家の状態が続いているのと同様、桜の樹にも変化はない。それはまるで、あのあばあさんが亡くなったことを知らずに、もしくは知らないフリをして、毎年毎年、自分の仕事を精いっぱいこなす、健気なモノのようにも思えた。
おばあさんがいなくなり、うら寂びた庭。
そんな状態が永久に続くのだろうか、と思い始めた頃だった。
おばあさんのお宅をすっぽりと覆うようにして、鉄板の囲いと濃い緑色のネットが出現した。春も過ぎて、夏の初めに差し掛かったときだったから、僕は偶然その前を通り過ぎたときに、判ったことなのだった。
(え? 工事でも始まったの?)
その考えは正しかった。
ついに、誰も住むことのなかった桜のお宅の、解体工事が始まってしまったらしい。
(あの桜は切られてしまうの?)
桜が咲いているわけでもないのに、それからしばらく、あの家の前を通って出勤、帰宅した、僕。気が気ではない――そんな状態だった。
もちろん、懐かしいおばあさんの思い出の詰まった家が壊されるのも嫌ではあったけれど、それより、あの桜の樹が切られてしまうのかどうか、この目で確かめたかったのだ。
けれど――だけど、しかし。
あれから何日も経ち、工事は進んだように見える。しかし、現場を囲む薄い鉄板とネットで、中の様子は窺えなかった。
ネットや囲いは、もうそろそろ取り外されることになるのだろうか?
でも、そう思ってしまった時から、僕はその前を通ることができなくなってしまったのだ。
だって、そうでしょう?
もしも、あの「桜」が切られてしまった景色を見るなんてことになってしまったら、僕はそれに耐えられるかどうか、自信がなかったんだもの!
❀❀❀
それから、再びまたやってきた、春。
この年の春ほど、僕の人生にとって気の重い春の到来は無かったと思う。
実は、この年の春、僕はお嫁さんを迎えていた。
狭いアパートだったけど、まずは自分が住み慣れたところで、二人の生活を始めることにした。僕の重い気持ちを、お嫁さんが優しく癒してくれた。本当に、助かったと思う。
(どうせ、あの桜は切られたんだ……あの家がどうなったのかわからないけど、その前を通りたくなんてないよ)
そう思って、家を出た、瞬間。
僕の鼻孔をくすぐる、あのかぐわしい香りが、この街のそこかしこを占領していた。
(え? どういうこと?)
僕は走り出した。足が勝手に動き出した、っていうのが真相に近いと思う。たぶんその頃、こんな速さで移動したことはなかったよな、って位のスピードで。
――そして、たどり着いた先。そこは、真新しいコンビニだった。
(コンビニになってたんだ……)
そして何より、自分の嗅覚が間違っていないことを実感した。
僕の目前には、あの懐かしい桜の樹が一本、これでもかと不自然なくらい不自然に、駐車場の一部分を占めて整然と立っていたのだ。
周りの景色は変われども、桜の樹の枝ぶりは変わらず、その春を独り占めするようにして、薄桃色の花びらを風に乗せて撒き散らしていた。
きっと、ここのオーナーの「粋な」計らい!
僕は思わず、そのコンビニへと飛び込んだ。
「いらっしゃいませぇ」 若い女性の店員さんが、声をあげる。
買物を済ませ、レジへ。今日の昼食のサンドイッチとおにぎり、一つづつ。
「ありがとうございましたぁ」
バイトさんなのかな。元気な声が、僕を包み込む。
「いえ、こちらこそありがとうございました」 僕の返答に、一瞬、戸惑った店員。
「え?」
「いや、何でもありません……。こちらのことなんです。とにかく、ありがとう」
僕は、しきりと首を傾げる店員さんからお釣りの小銭をもらうと、すっかり春の陽気のなった外の世界へと飛び出していった――
❀❀❀❀
あれから、何年がたったのだろう。
娘と云う家族も一人増え、会社では管理職となった僕。
桜咲く季節には、当然、あのコンビ二の前を必ず通り過ぎてから、駅に向かう。
その習慣は、欠かした事がない。きっと、ずっと、これからも……
そう、僕がこの街に住んでいる限り、それはずっと永遠に続いていくことであろう。
〈了〉
私も最近仕事に忙殺されている毎日を送っておりますが、このお話の忙しない日常のなかで桜がくれた癒やしのひととき、一緒にささやかな花見をした気持ちになれました(〃'▽'〃)
ありがとうございました!