断罪者は夢を見るか(作:長谷川)
心の底から愛していた。
愛の深さを測るのに、どれだけの時を共に過ごしたかなど関係ないのだと知った。
長く共にいればいるほどいいというわけではない。より長く共にいた者たちの方が自分より愛が深かったとは言わせない。
それくらい、心の底から彼女を愛した。
だから、
「どうか、あの子と幸せになって下さい」
深愛と微笑みと、少しの涙と共に紡がれたその願いを、必ず叶えてやろうと思った。
それが彼女を愛し続けるということだと、そう思った。
◇
「うわあ~~~っ!!」
隣で無邪気な歓声を上げる息子を、ゴーシュは微笑ましい思いで眺めていた。
竜の祝福を受けた国、ドラゴニア王国。その王都は今、人々の喝采と花吹雪に包まれている。
王と王子を乗せた馬車が進むのは、見渡す限り人、人、人の大通り。
その馬車を見送る人々は口々に万歳を唱え、巨大なうねりとなった歓声はどこまで行っても途切れることがない。
「すごい、すごいね、父上! こんなにたくさんの人が集まるなんて!」
「ここにいるのは皆、七年前の今日、お前がこの世に生を受けたことを祝福するために集まった者たちだ。そしていずれは、お前の民となる者たちでもある」
「うん」
燦々と照る陽光を受け、まるで光の雨のように降り注ぐ花吹雪の中、王子トーマは馬車から身を乗り出すようにして頷いた。
座席が露台のような造りになった、黒い四頭立ての馬車だ。その座席から腰を浮かせ、今にも荷台の外へ転げ落ちてしまうのではないかと思うほど身を乗り出している息子に、ゴーシュは「危険だ」と忠告を投げかけようとした。
だがその忠告が、息子の小さな背へ向けて伸ばした手と共にふと止まったのは、街を見渡すトーマの横顔が見えた刹那。
いつになく熱っぽい視線で民を見つめたトーマの目に光の雨が映り込み、息を呑むほど美しくきらきらと輝いているのを知ったときだ。
「父上。僕、父上にも負けない立派な王様になるよ」
「トーマ?」
「だって、こんなにたくさんの人が、僕が生まれた日を祝福してくれる。僕はただ生まれただけなのに、それをこんなに喜んでくれる人がいる。なら僕は、僕が生まれたことを喜んでくれる人たちを、みんなみんな幸せにしたい。そのためには、父上みたいな立派な王様にならなくちゃ」
そうでしょう?
まるでそう問いかけるように振り向き、トーマは笑った。
ゴーシュはそんな息子の、今は亡き妻に似た、胸が焼けるほど愛しい笑顔を見て、自らも自然と笑み返す。
七歳なんてまだまだ子供だ。そう思っていたはずなのに、気づけば息子はこの国を担う王族の一人として、立派に成長を遂げていた。
その事実が、今はただ誇らしい。息子が物心つく頃に息を引き取った亡き妻は、今のトーマの姿を見たら何と言って喜ぶだろう。
「そうだな。ならば私はお前が簡単には追い越せぬくらい、もっともっと立派な王になってやろう」
「ええっ! そ、そんなの困るよ~! こんなこと言って、もし父上に追いつけなかったら、きっとみんなに笑われる……」
「はははは、今からそんな弱気でどうする。そんなことでは、王となって民を導くことなどできはしないぞ。王になるということは、お前が思っている以上に大変なことなのだから」
「うぅ……それは、分かってるけど……」
「トーマ。本当に皆を幸せにしたい願うなら、お前は胸を張って堂々としていなさい。お前はまだ小さく、幼い。だが民の幸福を願うその心だけは、王子として一人前だ。そんなお前を笑う者がいるのなら、この父が神に代わって成敗してくれよう。だからお前は何があっても、その願いを抱いてまっすぐいきなさい。そうすればいずれ必ず、お前は私を超える王となるだろう」
ゴーシュが諭すようにそう言えば、トーマは母譲りの大きな目を何度も瞬かせた。
だがゴーシュは思う。その未来に疑いはない。トーマはやがて自分をも超える稀代の名君となるだろう。いつか息子に超えてほしいと願うのは、父親の性のようなものだ。
だから自分は先へ行き、トーマの行く道を切り拓いておく。あらゆる障害を取り除き、希望の種を撒き、トーマが決して迷うことのないように揺るがぬ道標となろう。
この子を必ず幸せにする。
それが亡き妻と交わした、最期の約束なのだから。
「父上」
「……何だ?」
「ありがとう。僕、父上の子供に生まれて良かった」
「トーマ――」
「母上にも感謝しなくちゃ。僕が父上の子供として生まれてこれたのは、母上のおかげだもんね。僕、父上のことも母上のことも――ずっとずっと、大好きだよ」
そう言って満面の笑みを浮かべた我が子の顔を見て。
ゴーシュは不覚にも、視界が滲みそうになった。
ああ、風に舞う花がやけに眩しい。
中心にわずかな純白を残し、大輪ながらもどこか可憐さを覗かせる赤い花。
自分はこの花を知っている。
アネモネの花。
確か、花言葉は――
『あなたを愛しています、ゴーシュ様』
満開の花が咲き乱れる城の空中庭園で。
あの日、そう言って幸せそうに笑っていた彼女の笑顔が、目の前のトーマと重なった。
そんな彼に、彼女に微笑み返し、ゴーシュは暖かな光の中で手を伸ばす。
ああ、私もだ。
私も、心からお前たちを――
「――竜王陛下」
不意に背後から名を呼ばれ、ゴーシュはふと我に返った。
目の前には、日の光を受けて虹色に輝く湖がある。まるでお伽噺の中に迷い込んでしまったかのような――いつか息子が見てみたいと思いを馳せていた、美しい異郷の湖だ。
「今し方、捜索隊より報告が入りました。ここより東の洞窟に、追っていた火竜が逃げ込んだと」
「そうか」
「本隊を動かしますか?」
「ああ、そうしよう。次は私が直接指揮を執る。ただちに出動を下知せよ。遅れる者はその場で斬り捨てる」
「はっ!」
いつの間にか背後に跪いていた伝令が、緊張した様子で返事をした。しかし自らの部下とは言え、こんな近くまで他人が接近していたにもかかわらずそれに気づかないとは、ずいぶん遠くまで意識を飛ばしていたようだ。
ゴーシュがそんなことを考えている間にも、伝令は異形の君主の命令をつかえることなく復唱し、逃げるように本隊のいる方角へと駆け出した。
その足音が次第に遠くなっていくのを聞きながら、ゴーシュはなおも眼前の虹色に目を向けている。小さな波が寄せる水際に剣をつき、それを杖のようにして軽く両手を乗せていた。
もう少しだ。もう少しでゴーシュの覇道は完成する。
ドラゴニア王国改め竜人王国が、大陸の遥か南に位置するこの国を侵略して早半年――じきにその制圧も完了し、大陸統一というゴーシュの野望がついに叶う。
今はその覇業の途中で、偶然見つけた一頭の火竜を追っているところだ。かれこれ八十年ほど前、最愛の息子を踏み殺したおぞましき竜の血を喰らって以来、ゴーシュは人と竜の狭間の者として、人間にはない異形の力を手に入れた。
それからだ。絶えず竜の血肉を喰らっていないと喉が渇く。渇いて渇いて、血を吐くような苦しみと共に黒い炎が臓腑を焼く。
――殺せ! 殺し尽くせ!
世界から愛する息子を奪った悪しき竜を!
息子の未来を、妻との願いを、私の祈りを踏みにじった憎き竜を!
――そう叫んで。
だから自分は殺し尽くす。殺して殺して、この渇きが癒えるまで殺し続ける。
そうして屠った竜の血肉を喰らい、更なる力を手に入れるのだ。もっと高く――誰も追いつくことのできない高みへ辿り着くために。
「さあ、トーマ。早くしないと、私はもっともっと遠くへ行ってしまうぞ」
湖畔に一人佇み、そんな独白と共に薄く笑う。虹色の湖面に映り込んだ毒々しい鱗や異形の爪は、しかし視界に入らなかった。
ざり、と長い尾で砂をにじり、目を細めて水平線を見やる。次に目指すは海か砂漠か。そんなことを考えながら。
「――陛下! 出動の準備が整いました!」
遥か後方から誰かがそう呼んでいる。恐らくは率いてきた騎士の一人だろう。
ゴーシュはついに虹色の湖に別れを告げて、くるりと身を翻した。
たぶん、もう二度と、ここを訪れることはない。
根拠はないが、そんな気がする。
「出発」
やがて竜の血を飲ませた黒い竜馬の背に跨がり、ゴーシュは腹の底から号令した。
駆け出した異形の王に、喊声を上げた騎士たちが続く。その声を雨のように浴びながら、ゴーシュは細く、愉悦に満ちた笑みを刻む。
――さあ、トーマ。追ってこい。
私はお前を待っている。
お前があの日の願いを携え、父である私を超える日を。
だから私は走り続ける。
もっともっと立派な王になるために。
私のトーマ。
愛する息子よ。
お前は必ず私を追ってくるだろう。
だから私は待っている。
いつまででも、待っている
(了)