日司 真二
***
視界がうっすらと青い。
長い間目を閉じていると、こういう状態になる。でも寝てたわけじゃない。
「日司くん」
祝辞の内容は頭に入っている。ご卒業おめでとうございます。……
大したことは言ってないだろう。
「日司くーん」
頭の中でG線上のアリアがエンドレスリピートされる。
そう。それから、歌を……歌った記憶が、ない。
「?」
「あれ、起きてたの?」
「最初から寝てはいないよ」
「でも起立で立たなかったよね」
どうやら、 寝てたみたいだ。
***
合格が決まったのが、2月末。3月初めに入学確約書とかいうものを提出し、それからはどうやって生きていたのか、覚えていない。死んではいないから、適度に食べて適度に寝て、そうやってやり過ごしたんだろう。
そして今日が、卒業式。
……の、大半を、俺は寝て過ごした。
体育館に入場したところまでは覚えている。バックのクラシックに合わせて、ゆっくり、ゆっくり歩く。自分の座る列に人が揃ったら、座る。全員座り終えて、クラシックが鳴りやんで……。そう。あれは亜麻色の髪の乙女だった。入場の曲としてはあまり向いているようには思えなかったが、そんなものは気分で何とでもなるもので、周りの生徒やら来賓やらは皆神妙そうな顔をしていた。
それから国家を歌ったりして、恐らく卒業証書も、今こうして手元にあるということは、受け取ったんだろう。いや、受け取った。G線上のアリアがちょうどリピートされたところで、俺は椅子から立ち上がった。
そこからの記憶は、どう頑張っても思い出せなかった。これは忘れてるんじゃない、未体験だからだ。
なんてことを、全てが終わった後に思い返す。
風のない、晴れた日の午後。
教室には誰もいない。
クラスメイトたちは早々に教室を出て、昇降口から校門までの道を作るように並ぶ在校生たちと別れを惜しみながら帰っていった。
突っ伏していた机から上半身を起こす。机が、黒板が、窓から見える五分咲きの桜が、青い。
俺はまた寝てしまっていたらしい。
違う。起きてはいた。多分。
いや……やっぱり寝ていたかも。
と、そこで、静まり返った教室に、慌ただしい足音が聞こえてきた。近づいてくる。
開け放たれた引き戸から、数人の生徒が教室を除き込んでいた。
「あれっ、まだ人がいる」
「え? うそだぁ、もう全員帰っただろ」
「でも、あれ」
「あ、…」
下級生……か?
黒いのが2人と、紺色のが1人。女子生徒は手に紙製の箱を持ち、男子と少し離れた位置からこちらを見ている。
卒業生の去った教室に、今さら何の用だ?
いや、俺はいるけど。
3人は動かない。予想外の出来事が目の前に繰り広げられているとばかりに、立ちつくしてしまっている。
と、そこに、一回り背の高い女子生徒が追加された。
「林くん? 有紗ちゃんも。こんなところで何してるの? ……この子は?」
「あ、春川先輩」
春川? というと、退場の時に俺を起こした女子生徒だ。俺は戻ってからずっと机に伏していたが、彼女も帰ったわけではなかったらしい。それとも忘れ物か? どちらにしたって、この教室に用があるのは確かだろう。
人が増えてきて眠気が覚めた俺は、とりあえず椅子の下に置いた鞄を机の上に移動させて、机の中がすっからかんであることを確認してから、席を立った。鞄の中も机同様大したものは入っていない。卒業式に臨むに至って俺が持ってきたものは、ウォークマンと古びたガラケー、そして意味もなく差し入れたクリアファイルだけだ。因みに案の定使わなかった。
春川にしたって下級生たちにしたって、俺がいては何かと行動しづらいだろう。特に最初に来た3人。彼らが何故来たのかは分からないが、俺というイレギュラーの存在によって計画を狂わされてしまったのだとしたら申し訳ない。
早々に立ち去らせていただくとするよ。
「あ……日司くん」
情けないほど軽い鞄を肩に引っ提げ、春川の横を通った俺に、彼女が声をかけた。いや、それだけじゃない、腕を掴まれた。
「ちょうどよかった! ねぇ、これから暇? ちょっとお願いがあるんだけど」
頭の中で、旋律が流れ出す。
「有紗ちゃん、ちょっと貸して」
「うん」
透き通り、それでいて穏やかな愛に満ちた、
「これでね」
……チョーク?
***
「私ね、美術部の部長やってたの」
目の前でチョークを手にはしゃいでいる下級生たち、もとい美術部員たちを眺めながら、春川は言った。
「今年は離任式もなくなっちゃったでしょ? 私がこうしてこの学校の生徒として、美術部部長としてここにいられるのは今日で最後になっちゃうじゃない。だから、なんか思い出を残したくなったんだ」
「それで、黒板に絵を描くことにした、と」
えへ、と彼女は笑った。照れ臭そうな、幼さを残した笑みだった。
ああ言われたものの、俺は今、チョークを持っているわけではない。当然のごとく美術の授業もほとんど寝て過ごし、課題提出日ギリギリに仕上げて放課後提出を繰り返していた俺に絵画の心得なんてあるはずもなく、恐らく精鋭を集めたのだろう目の前の美術部員たちが予想以上に上手で、そんな中に俺が手を加えたりなんかしたら台無しになってしまうに違いなかった。なので俺は傍観者に徹して仕上がっていく絵を見つめるという作業じみた暇潰しを強いられたようなものだったのだが、当の春川は絵に携わるつもりはないらしく、俺の横で彩られていく黒板を眺めていた。
「綺麗だね…」
惚れ惚れとした声だった。
「……そうだな」
早くも何を描いているのか全貌が明らかになり始めていて、それはどうやら、今も窓から見える桜の木を題材にしているようだった。
たった数色でどうやって配色しているのだろうと疑問に思うような、綺麗な桜色だ。白い校舎、茶色の地面、緑の草地、青い空。その全てを、チョークだけで表現している。およそ、並の中学生にできることではない。
「すごいでしょ。うちの学校、けっこう強いんだよ」
「あぁ、この実力なら納得だな」
また、旋律が流れ出した。
頭の中じゃない、それは目に見えているかのように、美しい音楽だった。旋律が、形をもって俺の前に姿を現したような、そんなあるはずもないことを想像させるくらいには。
「完成っ!」
美術部員がチョークを置いて、こちらを振り返った。
そこには、白い大きな額縁に収められた、広大な景色が広がっていた。
今にも舞い上がりそうな桜の花びら。吹いた風がこちらへ流れてくるようだ。柔らかな草地。日の光を浴びてキラキラ輝く、白い校舎。黄色いタンポポとのコントラストが何とも春らしい、茶色の地面。そして、全てを包み込む、真っ青な空。
「…………」
それは、紛れもなく絶景だった。
この絵の中に、俺たちが過ごしてきた三年間は、しっかりと余すところなく描かれている。
在校生である彼らが描いた絵にもかかわらず、そう確信できる何かが、そこにはあった。
目頭が、熱い。
俺は泣いてしまうみたいだ。
「……すごい…」
やっと、春川はそれだけ言った。それ以降は、言葉にならないようだった。両手で顔を覆い、しかし眼だけはまっすぐに絵を見つめたまま、自然と溢れる涙を、拭くこともせずに、ただ、感動していた。
これが、彼女の最後の思い出。最後にして最高の、後輩からのプレゼント。
それに偶然立ち会ってしまった俺は、この素晴らしい光景を、どうにか永遠のものにできないものだろうか、なんてことを考え、ふと鞄の中にある携帯電話の存在を思い出した。
彼女に気づかれないよう、静かに鞄を下ろし、携帯電話を取り出す。足音を立てずに、1歩、2歩と後退して、俺は春川に声をかけた。
「写真を撮ろう」
そっと振り返った春川は、うん、と頷いて、少し黒板に近づいた。
俺は携帯電話を構え、笑顔でピースする春川と美術部員たちとともに、長いようで短かった三年間を、写真に収めた。
バッハ作曲、プレリュード。春の日だまりのような穏やかな旋律が、いつまでもいつまでも、流れ続けていた。
***