間宮 弘貴
***
おかしい?
おかしくない。これが普通だ。
こんな時期に、ピリピリしないはずがない。
授業の終わりが惜しい。休み時間がもったいない。できることなら、一日中授業をやっていたい。
今までの自分なら逆立ちしても思わなかっただろうことを、僕は無意識のうちに胸に抱いていた。勉強をしたいなんて、やっぱり受験生なんだなーと思い知らされる。
先生が教室を去っていく。授業終了のチャイムはいつもよりも長く余韻を響かせる。ような気がした。
集中するんだ、自分。
ぼんやりと開かない引き戸を見つめていても始まらない。僕は目線を机に戻し、参考書のページをめくった。
***
年が明けてから、あっという間の1か月。
冬も寒さにもうんざりしてきた、2月初頭の放課後。
教室に残っている人からも、去年の暮れまであった喋り声や笑い声は聞こえない。みんな自分の机に座って、黙々と問題を解いている。
今日は人数が多いな。数学のテストが返ってきたからだろうか。みんなできてなかったのかな……。僕もあんまり出来はよくなかった。だからこうやって公式を覚えて、解法を覚えて、証明のパターンをつかんで……っていう具合に、周りに追いつこうと頑張っている。
いや、追いつくだけじゃ駄目だ。受験で勝ち抜くためには、周りより先を行かなくてはならないんだ。
外から、窓越しにくぐもった【夕焼けこやけ】が聞こえてくる。もう5時か。いけない、まだ第6章まで復習できていない。急がなきゃ。
再びシャープペンを握る手に力を込めた、その時。
ガガッと床を引きずる音がして、一人の生徒が椅子から立ち上がった。
その生徒は、机のフックに掛けてあったリュックを右肩だけしょって、のらりくらりと机の合間を縫うように歩き、教室を出ていってしまった。
一瞬、シンとした空気が流れ、程なく、再びカリカリとシャープペンを走らせる音が聞こえだして、僕もそれに合わせて次のページをめくった。
しばらく、特に大きな物音もなく、静かに勉学に励んでいた十数人のクラスメイトたちは、いつの間にか、ぽつぽつと数を減らしていった。第6章を半分ほど終わらせて、ふと顔を上げると、教室にいたのは僕を除いて4人だった。
時計は6時を過ぎて、長針は17分頃を指していた。
やばい。そろそろ帰らなくちゃ!
教科書と参考書を閉じ、筆記用具をペンケースに入れる。その音に、僕の斜め前に座っていた女子生徒が顔を上げ、いそいそと机の上を片付けだした。どうやら気づかぬうちに居眠りしてしまっていたみたいだ。
僕も、帰るか……。
灰色のエナメルバッグに教科書類を詰め、ショルダー部分を持ってみると、重い。この中には、いつも以上にたくさんの教材が入っている。とくに理科の参考書が分厚くてかさばるから、入れ方によってはペンケースがバッグに入らないなんてこともある。そういう場合は、しょうがないからバッグのチャックを閉めずに強引に収めてしまう。
思い出したけど、僕は日直だった。もうこんな時間だから、もう一人の日直の村木はもう帰ってしまっただろう。しょうがない、一人でやってしまおう。
もっとも、大した仕事は残ってないんだけど。1月から日誌はなくなったし、黒板も数学の先生が綺麗にしてしまった。僕がやることと言えば……。
「あれ? まだいたのかよ、間宮」
トン、と肩を軽く叩かれ、頭上から軽快な声をかけられた。相手が浅沼であることは分かっていたので、僕は何を思うこともなく振り返った。
そこで、浅沼の後ろにもう一人いることに気づいた。
「誰?」
「え、俺シカト?」
浅沼は冗談ぽく笑って、「部活の後輩」と言って彼女の背中を押した。
「2年の千種です」
背丈は小さいながらも、しっかりした物言いだった。推薦でクラス委員を任されるようなタイプ。高校の推薦ももらえたら良かったのになぁ、と関係ないことを思い出して、悔やんだ。
「何、お前日直?」
「一応ね」
「すぐ終わりそう?」
「これめくるだけ」
僕は再び背を向けた。
そして、教室の壁に張られたお手製のカレンダーに手をかけ、【卒業まで、あと35日】と書かれた紙をめくった。
***
「話って、何?」
できるだけ高圧的にならないように、僕は彼女に言った。
彼女は校門を出た途端「話があるんです」と僕の手を引き、浅沼と30mほど距離をおいた位置まで早歩きを強いられた。それなりに親密な様子に見えたけど、彼には聞かれたくない話題なのだろうか。
とりあえず、その、手を離してほしいんだけど。
「あの……」
千種さんは、さっきの様子とはうって変わって、少し顔を赤らめてもじもじとした態度をとる。何てことだ、僕にも言いづらい話題らしい。
「実は、その。先輩のことで、ちょっと……」
というわけでもないらしかった。話す気になったらしい。
先輩。この場合、それは僕のことなのか浅沼のことなのか、別の誰かなのか判然としないけれど、まぁ普通に考えて、浅沼のことだろう。何となく察した僕は、肩の力を緩めた。
彼女の名は千種真希といった。あぁ、聞いたことがあるような気がする。何かで表彰されてなかったっけ、そう、確か……。
「バドミントンです。……それで、その、…浅沼先輩のことで、話が」
鈍感な僕でも、さすがにこれは気づかないはずがない。14歳とくれば、恋多きお年頃だ。浅沼もバドはけっこうできるし、爽やかだし身長高いしよく笑うし、惚れるのも分かる。でも確か、浅沼は身長が高くて髪の長い子がタイプだと言っていた。身長差は15cmくらいがいいと。彼女は見たところ、僕よりも随分低そうだ。それに今は僕も彼も受験というものを抱えていて、忙しい。この時期に告白しても成功率は低いだろう。ここは僕がしっかりとアドバイスを、
「彼の弟って、……チョコレートとか、平気だったりしますか?」
お……?
お、弟?
「もうすぐ、バレンタインじゃないですか。由宇くん、いつも辛いのばかり食べてるから、甘いものは大丈夫なのかなって。でも、何だか本人に聞くのもあれだし、申し訳ないんですけど先輩から聞いてみてくれませんか? あ、これ電話番号です」
言い始めると積極的だ。早口でのろけた末にメモ帳サイズの白い紙を渡すと、「それじゃ」と言い残して走り去っていってしまった。
紙には、当たり前ながら11桁の数字だけがハイフンで区切られて書かれている。なかなかの達筆だった。インクの染み込み具合からして、もしかしたら万年筆? それなら達筆なのも納得だ。あれ、何故か書こうとすると指先にインクがついてしまうんだけど、それはきっと僕の持ち方が悪いんだろう。
「話は終わったみたいだな」
頭上から、浅沼の軽い声が聞こえてくる。
「あぁ、終わったよ」
僕は彼に見えないように、電話番号の書かれた紙を折り畳んでポケットにしまった。
***