高嶋 悠斗
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冬は、寒い。
なぜ寒いのかというと、何つーか、その、なんか寒い方から来たデカイ気団みたいなのが日本に来るから、なんだそうだ。
そこら辺の理科なんて覚えてない。シベリア気団ってのは頭の片隅にあるけど、他は曖昧だ。
えーと…。ちんすこうみたいな名前のがあったかな?
そんなことを考えていると、車の走行音が思い出したように騒ぎ始めた。信号が変わったらしい。俺は国道を横切るのを諦め、横の小さな横断歩道を渡った。幅5mほどの短い道路だ。
スクランブル交差点みたいに、斜めにも横断歩道があれば、移動も楽なのにな。
ぼんやりと空を眺めて1分、2分。道路が静かになった。前を見れば、青く光った信号は早くも点滅し始めている。
田舎の特徴。横断歩道の信号、変わるの早すぎ。
しましま模様のアスファルトを駆け抜け、ちょっと息をついて歩き出す。
そこで俺は、見慣れた背中に遭遇した。
***
「そりゃ揚子江気団だな」
俊也は顔だけじゃなく口調まで得意気な様子で、何だか聞いたことがあるようなないような単語を答えた。
あー。そんなのあったなぁ。知らねぇけど。
「よく覚えてんな。頭いいなーお前」
「馬鹿、俺の期末の点数忘れたのか? 頭いいとかいじめだろ」
「そうだっけ?」
「この辺は覚えればいい系のとこじゃん? こーゆーところで点稼がなきゃならないんですよ」
なるほど。
2分野なんて単なる覚えゲーと言ってしまえばそれまでだからな。まともに復習したことなかったけど、何だかんだで9割いけるからちょろい。
「お前はいいよなー。勉強しなくてもそんだけ点数とれてさー」
「俺が努力してないみたいに言うなよ」
「してねーだろ。お前、いい加減歴史の時間に寝るのやめてやれよ。芦田が「ここ数ヶ月、授業中に高嶋と目が合ったことがない」って嘆いてたかんな」
「授業前に寝て、起きるのは放課後だからな。そりゃ目も合わないだろ」
「それでもテストはできるんだろ? ったく、羨ましいぜ」
いくら俺でも、全く意識がない間に展開されている授業の内容をノー勉で理解できるはずがないだろ。ていうか聞いてすらいない授業に理解も何もあるか。
「家で復習してんだよ。あの人の授業聞いてるくらいなら、その時間を睡眠にあてて夜教科書読んだ方がよっぽど有意義だ」
「ひっでぇ言い方だな」
俊也はそう言って笑った。性格も頭の色も明るいこいつは、きっと人生も明るくて、見ている世界も明るくて、毎日が光輝いてるんだろう。
まるで俺とは大違いだな。
ま、確かに俺は不真面目だ。文系科目は大抵寝てる。勤勉な俊也と違って、俺は勉強に関して必要以上の努力はしない。テストだって、赤点とらなけりゃいいや、くらいの気持ちで臨んでいる。その結果、今のところ学年3位以内を保てているわけだが、この現状だって自分からなろうとしてなった訳じゃない。
静かだ。車も通らない田んぼ道。いるのは俺と俊也だけ。背後で踏み切りが鳴っている。それが遠くから聞こえる鳥の鳴き声と混ざりあって、妙な哀愁を漂わせた。
俺は空を見上げた。何となく所在なさげな時にする、俺の癖。
「……なぁ」
きれいな夕焼けが、優しい橙色の光で田んぼの水を黄金色に染めていた。東雲色の雲。桃色と紫のグラデーションに橙が薄く層を重ね、なんとも幻想的な、
「高校、もう決めたんだっけ。お前」
空だった。
***
階段を上る。生まれたときからの長い付き合い、この一段一段が無駄に段のある13段の階段。ん? 今、俺は何回「段」と言ったんだ。
窓と兄の部屋に繋がる正方形の踊り場のようなスペースを右に曲がると、更に6段の階段。それを上り終え、廊下を歩き、ドアの前にたどり着く。スリッパを脱いで、ドアを開けて、部屋に入ったらとりあえずリュックを下ろす。そしてマフラーをとり、コートを脱ぎ、ポケットからスマートフォンを抜き出して充電器に繋いで。
そこで、やっと俺は椅子に座り、一段落した。
逃げた訳じゃない。
家が近づいてきただけだ。
もし、あの時点で橋を渡っていなければ、俺は俊也の話を聞いていただろう。聞かない理由もないし、無視できるような話題でも、なかった。
今までにも何度か言われた、あの言葉。
「高校ね…」
先に言っておくと、確かに俺はもう、志望校は決まっている。まー、その……それなりに、おつむのよろしい学校だ。
別に俺はどこでも良かったから、担任に薦められた学校に体験入学に行き、あーなんかいいもんだなー高校、みたいな感想を先生に言ったところ、じゃあここ受けるか、って言われたから、そっすねー、みたいな、そんな理由だ。
俺も、自分のレベルに合った高校に行きたいと思ってたし、あそこならその条件もクリアしてる。ちょっと通学は面倒だけど、そんなもんを高校選びに考慮するのはどうかと思うしな。
今はひとまず、受験勉強はもちろんだけど、体を崩さないようにしなくちゃならない。入試まであと2ヶ月少し。ありがたいことに推薦をもらえたので、年が明けて3週間たった頃には俺はもう受験を終えている。受かるかどうかは、恐らく最後まで予想がつかないんだろうけどな。
不思議と、大して不安はない。今の自分の努力が、来年の自分を決めるんだと思うと、嫌でもやる気は出てくる。自分は間違ってない。しっかりと、進路に向けて前進できている……はずだ。
だけど俊也は、そうじゃなかった。
あいつは努力家だ。夏が終わった頃から、時間があれば参考書を開き、机にかじりついているようなやつだ。毎日、塾にも通って、夜遅くまで勉強して……。そんな日々を、ずっと送ってきた。それを俺は知っている。
同時に、どうやらその努力が俊也には反映されていないようである、ということも、知ってしまっている。
報われない努力ほど辛いものは、特に今の時期だとなかなかない。自分の頑張りが足りないのか、勉強時間が足りないのか。もっともっと努力しなければ。その考えが、俊也を焦らせた。
先日の期末試験も、結果は芳しくなかったようだ。授業の半分を寝て過ごす俺が言えることではないが、彼はもう少し、気を緩めるべきだと思う。典型的な悪循環になりそうで、そこが少し心配だ。
やっぱり、話を聞くべきだろうか。
俺はケーブルに繋がれたスマートフォンを手にとった。スリープ解除、ダイヤルで電話帳検索。受話器のマークに指を伸ばし。
画面が暗転。通話画面が表示された。
そこに現れた名前は、【桐原 俊也】。
俺は数秒固まり、通話ボタンに指を触れさせた。
***