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すがる手

作者: 沖川英子

この作品は、【マイクロスコピック】(sleepdog様)主催、

「希望の超短編」企画に寄稿したものです。


 若者は夜道を行く。

 眼前に己の手を伸ばしても分からぬような墨色の闇の中、ひたひたと道を行く。

 分厚い雲が空を覆い、月はおろか星の明りすらも見えぬ。唯一の光源は右手に持った手燭のみで、それすらも折からの風に吹かれて頼りなく揺らめいている。

 だだっ広い草原の中を走るこの道は小石の目立つ悪路である。万が一転びでもすれば、身は痛まずとも火が消える。若者は風の音に怯え、草原のざわめきにおののき、彼を包み込む闇の深さに震えながらひたすらに道を行く。

 じじ、と火が身じろぐ。

 ごう、と殴られるような衝撃が走り、若者は思わず顔を背ける。同時に目の前が真っ暗になる。慌てて手元を見るが既に遅い。一瞬の暴風の前に、小さな火ははかなくも消え去っていた。

 若者は立ちつくす。総身にどっと冷たい汗が噴き出す。闇が急に彼の背にのしかかってくる。その重さに押しつぶされそうになる。

 若者はしゃにむに歩きだす。小石に躓きそうになるが構ってはいられぬ。立ち止まってはいられぬ。一瞬でも足を止めれば、闇の中から何者かが現れ彼をとり殺すような気がした。

 と、行く手に何者かがいるような気配がした。歩を緩め、己の足音の合間の静寂に耳を済ませると、確かに別の足音が聞こえる。さてはもののけかと総毛だったが、考えてみればもののけが人間のようにさっさと足音を立てて歩くはずもない。若者の足が速かったのか、足音は次第に近くなり、ついには幾ばくも離れてはいないだろうと思われるほどになった。

もしや良からぬ者かも知れぬ。しかし、闇の中に一人でいるよりはましである。心細い彼はえい、ままよ、と声をかけた。

 「もうし」

足音がぴたりと止まる。若者も思わず足を止める。闇の中に、触れて分かるほどの緊張が走る。もしや声をかける相手を間違えたかと、彼は身をすくめる。

警戒と恐怖の沈黙の中、闇が声を発した。

「どなたかな」

意外にも落ち着いたその声は人の男の物と思われた。この応えに若者はふっと肩の力を抜いた。

 「もうし、驚かせて済まぬ」

闇の中から若者は相手に必死に語りかける。この暗闇に難儀している、良ければ道連れになってはくれまいかと。相手は構わぬと穏やかに応え、探りながらも若者の手に触れた。若者はほとんどすがるようにしてその手を掴んだ。相手の手は若者とは違って震えてもいなければ汗に湿ってもおらず、大きく温かだった。

相手の落ち着いた様子に、若者の心は徐々に凪いでいった。同時に、男二人が手を繋いでいるこの状況がどうにも滑稽に感じられ、思わずふっと笑ってしまった。そして、笑うだけの余裕ができたことに肚の底から驚いた。相手もまた、ふっふと穏やかに笑っているようだった。

遠い空の端が朧に明るくなり、闇が徐々に薄まる。やがて分厚い雲の切れ間からわずかな朱色が覗く。気味悪く頬をなでていた夜風は、草いきれを微かに含んで爽やかに香る朝風に代わり、胸中の不安を吹き飛ばした。その頃になってようやく、若者は相手が自分とさして変わらぬ年頃の若者であったことに気が付いた。

行く手の道は二股に分かれており各々の進む道は違う。別れ際に、若者は道連れの男に向かい深々と頭を下げた。

「本当に助かった。誠にかたじけない」

腰まで頭を下げる若者に、相手はいやいやと首を振る。

「たいしたことはしていない」

「いや、あなたがいなければ、私は道の真ん中で立ち往生し、恐ろしさのあまりについには気を違えていたかもしれない。あなたは、手燭にも勝るともし火だった」

「それを言うなら、私の方こそ」

若者は思わず頭を上げた。怪訝な顔をして見つめる先で、相手は声の通りの穏やかな顔でにっこりと笑った。

「あなたにすがられたからこそ、私は落ち着くことができた。己を保つことができたのだ。そうでなければ、あの暗闇の中で恐れのあまりに己を失くし、やはり気を違えていたかもしれない。あなたのすがる手こそ、私にとっては救いだったのだ」

 呆気にとられる若者の前で、相手はさっと一礼すると身を翻して歩いて行った。

 振り返ることなく遠のく後ろ姿をしばし見送って、若者は踵を返し己の道を歩き始めた。

 暁光がその姿をまばゆく照らしだしていた。


誰かのともし火になることを願って。

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