仕事
ほのぼのへ辿り着くまで相当先になりますので、苦手な方はお気を付け下さい。
いざ鎌倉……でなくて、いざ脱走。今こそその時、どさくさに紛れて私は風になる――なーんて、こんな状況じゃ無理ですよねー。
「払えないたぁどういうこった、ああ!?」
大変です、馬族の女族長、白馬のアカンザさんが大層ご立腹のご様子です。今にも鼠族のおじさんに掴みかかろうとして……いや、既に胸倉を掴み上げております。おじさんピンチ、身長が頭二つ分は違うので足が宙に浮いてしまっています。それにしても片手で成人男性を吊り上げるとか、馬族ってばどんだけ馬鹿力なの。本日のアカンザさんは白いワンピースに皮のサンダル姿で、一見どこかのお嬢さんに見えなくもないんだけど……この場を絵にしたらとてもシュールになるね。
溜息をついてそっと視線を逸らすと、店内に並ぶお酒のビンと、ひしっと抱き合う従業員らしき鼠族の少年達が嫌でも目に付いた。あーあ、あんなに脅えちゃって。アカンザさんが怒声を張り上げる度にぴょんと飛び上がる姿が哀れ。
しかし店の主人だというおじさんは頑張っています。必死にアカンザさんの手首を握り返し、喉の奥から声を絞り出しておりますっ。
「あ、当たり前でしょうが……。私は荷を届けて欲しいとは言ったが、中身を割っていいとは言ってない!」
わあ、アカンザさんのあの凶悪な顔。鼠族のおじさんも思わず目をきょろきょろさせました……っつーかさ、もしかして白目剥いてない? そろそろ助けないとヤバくない?
私はぴったりと背後に寄り添う塊を振り仰いだ。外跳ね気味のさらりとした黒髪の中に映える白い一房、漆黒の眼差し。優美さはないが野生的で荒削りながら整った面立ちは、十分美形と呼べるレベルだった。私が必死に説得した甲斐あって、今日の彼はゆったりした貫頭衣にズボンという、元の世界のアラビアンな出で立ちだ。浅黒い肌と相まってはまり過ぎているので、今度ターバンも探しておこう。
「助けた方が良くないですか?」
彼は顎を引いて私を見下ろすと、淡々と言葉を返してきた。
「どういう意味だ? 長は今優位な立場に立っている」
「いやいやいや、アカンザさんの心配なんてしてませんて。鼠族の人の方ですよ、一応クライアントでしょう?」
「くらいあんと? すまんが俺にもわかる言葉で頼む」
「ああすみません……雇客っていうか、依頼主っていうか」
ディディエスさんはなるほどと頷いた。
「くらいあんと、か。一つ勉強になった」
そして大して興味なさそうに、自分達の族長を眺めながらクライアントと繰り返し呟いている。嫌な予感がして彼の手を叩いて注意を引いた。
「で、いい加減助けてあげた方がいいんじゃないでしょうか」
「長に手助けなど不要だ」
「いや、だからアカンザさんの心配はしてませんってば」
ああ、この会話のテンポの悪さよ。ディディエスさんから言って貰うのは諦めて、私はアカンザさんに近付いてしなやかな筋肉のついた肩を叩いた。……硬い。
「そろそろ離してあげて下さい、その人死んじゃいますよ」
「あん!? ……なんだてめぇかユキノ。邪魔すんじゃねえ、あたしら馬族の一大事なんだ。他族に舐められて黙ってられっか!」
「いや、だってもうその人、多分聞こえてませんから」
「んだとコラ、あたしの話が聞けねえってのかおい!」
「違うっつーの!」
しかしどうしたものか。こうなると言葉が通じないんだよな。ああ、そんなに揺さぶって。おじさん口から泡吹いてますよ。
少年達からの視線に心が痛い。目をうるうるさせて、助けて! と全身で訴えている。
私は頭を抱えた。
敵を知り、己を知らば百戦危うからず。滞在五日目を過ぎた頃から少し心に余裕が出てきた私は、この世界のこと、馬族のことをもっとよく知る必要があると考えた。
そもそも、落人は何故存在するのか。何か理由があって呼ばれたのであれば、それがなくなれば帰れるのだろうか。この辺は知っている人がいなかったので保留とする。
次に馬族についてだが、白馬のアカンザをリーダーとし、特定の縄張りを持たず共に行動する獣人の一団がそうと捉えていた私は気になることがあった。移動した先にちらほらと見かけるのだ、元の世界でも見覚えのある大きさの馬を。彼らは馬車を引いたり獣人を乗せたりと、馴染み深い馬としての役割を負っていた。ディディエスさんに問えば、”言葉無き者”という獣としての馬族なんだそうだ。かといって上位種である自分達が優れているとか偉いとか、そういった気持ちを持っている馬族の人達はいないらしい。では何故アカンザさんのグループにただの馬がいないかというと、上位種の移動速度についてこれないから、という理由しかないそうだ。
そこで私は考えた。ディディエスさんの背に乗って行動している間、どこへ向かうにも皆で、大した大きさの荷物でなくても全員で、とやっているのを見てきた。はっきり言って労力の無駄ではなかろうか。何一つ取っても、例えば手紙一通届けるにも民族大移動なのである。団体行動が道中の安全を保障するものであっても、押しかけられた側だってビビるしその辺の草とかごっそり頂いていったら迷惑に決まっている。通りかかった村や街で、またお前達かという呆れにも似た視線を受けることだってしょっちゅうだった。特にそれが顕著だったのは、同じ草食動物である羊族の領地だったけれど。
業務の効率化、経費削減は元の世界では常識だ。落人としての意見をアカンザさんに申し出てみたが、彼女は首を横に振るだけだった。
細けぇこたぁいいんだよ。今までだってそうやってきたんだ、これからだってそうするさ。ユキノ、てめぇがあたしらの役に立とうとしてくれんのはありがたいが、落人だからって無理に働かなくたっていいんだ。誰もてめぇのことを荷物だなんて思っちゃいねーよ。このアカンザが、てめぇの面倒を見ると言ったんだ。途中で捨てたりなんてしないさ――。
そう言ってニッと笑うアカンザさんの、何という漢気。世の中の男は彼女を見習うといいよ。その場は思わず姐さん! と抱きついて、じゃあお言葉に甘えてと暢気にも考えるのを止めてしまったが、やはりこれはない。
神様、私をこの世界に落とした悪戯好きな神様、聞こえますか? 貴方は私に、馬族を変えてみせろと言いたいのでしょうか。
「アカンザさん、その辺にしといてあげて下さい」
フンと鼻を鳴らすと、彼女はゆっくりと手を開いた。どさりと倒れるおじさんに泣きながら駆け寄る少年達。
「父さん!」
「わああん、お父さん!」
子供だったのか。自分の父親が吊し上げられて、どれ程恐ろしく、心細かったことか。
「チッ、時間の無駄だったな」
アカンザさん、それは悪役の台詞です。いつだったか元の世界で見た、時代劇の悪党そのまんまだよ。
「行くぞてめぇら。胸糞悪ぃ……もうこんな所に用はねえ」
踵を返すアカンザさんの背を、顔を上げた少年がきつく睨み据えていた。ディディエスさんは無表情にそれを一瞥しただけで、族長の後に続こうと、私の背を軽く押す。
本気で居た堪れない。でも、このまま去るのも、後味が悪過ぎる。戸惑う私の耳に、彼はそっと囁いた。
「行こう。いつものことだ、気にするな」
いつも? これが? 嘘でしょう?
ディディエスさんの目に冗談の色を探したが、結局どこにも見当たらなかった。
「出て行け! 二度と来るな!」
「二度と来るなー!」
少年達の変声期前の高い声に、私の背を押す力が増した。ごめんねと駆け寄っておじさんの介抱をしたいが、彼らはそれを望まないだろう。彼らにとって私は馬族の一員なのだから。そして長の行動について下っ端ですらない居候の私が謝罪するというのは間違っている。
アカンザさんが乱暴に開けた扉をくぐり、大通りを門に向かって歩いている間ずっと、背中に少年達の視線が焼き付いているような気がして寒気がした。
神様、正直私には荷が重過ぎます……。