馬の生活から逃げ出したい
拝啓 大好きなお父さん、お母さん
朝夕ひときわ冷え込むようになりましたが、如何お過ごしでしょうか。
すっかり忘れていましたが、そういえばお母さんは午年だったと、そんな現代日本にいた頃にはどうでもよかったことを最近思い出します。
世の中というのはなんと理不尽なのでしょう。できることなら、もっと穏やかに、平凡に生きていきたかったです。そう、それこそ牛歩の如くまったりと歩む人生を……。
ですが負けません。遠い世界から祈っていて下さい。今日こそはきっと、こんな場所からおさらばしてやるんです。お父さんに似て、努力だけは誰にも劣らぬはずと信じています。
そして帰ったら、今度こそお母さんのように主婦という名の女王様になるんです。未来の旦那候補達よ、首を洗って待ってなさい。
お二人の丑年の娘、雪乃より
今は遠い世界に向かって祈りを捧げると、私はこっそりとテントから抜け出した。辺りはまだ暗く、高い空には星々が輝いている。
足音を立てぬよう、私は慎重にテントの群れから離れていった。真っ暗闇の中、何度も躓きそうになりながら。十分に距離が取れたところで、ようやく溜息をつく。
「ふう、全く、やってらんないわ……」
私自身は大して歩いたわけじゃないが、連日の移動に続く移動のせいで、私の足腰はもうガタガタだ。
ちょっと休憩。
地面にお尻をつくと痛いので、四つん這いになるように蹲り、身体から力を抜いた。
全く人生ってやつは予想もつかないことが起きるものだ。生まれてこの方、初めての異世界トリップが25でだと? おいおい神様、ちょっと悪戯する相手の年齢も考えてくれませんかね。私はつい先日、老後までの人生プランを書き出して、年収700万以上の男性と結婚すると心に誓ったばかりなんですよ。でもまあ、異世界といっても勇者になれとか世界を救う巫女に、とかいかにもな展開じゃないだけマシだったと自分を慰めるしかない。あとは一刻も早くこんな世界から帰還を果たすのみ!
決意も新たに休憩を終えた時だった。
「さっきから何をしているんだ?」
「ひゃああああ!」
突然背後から掛けられた声に驚いた私は、手足をバタつかせて座り込んでしまった。何この情けない状態。羞恥に真っ赤に染めた顔で振り向くと、明るくなってきた空をバックに立つ漆黒の影。
しまった、思いのほか休憩が長過ぎたんだ。
固まってしまった私を見て、その人は首を傾げた。
「どうした、立てないのか?」
黒い外套から浅黒い筋肉質な腕を突き出し、私の腕を取る。引き上げようとするので私は慌てて首を横に振った。
「た、立てません。腰が抜けて……というより筋肉痛で足が動かないので」
「そういえば昨日もそう言っていたな。ならば朝から散歩などせずに大人しくしていればいいものを」
「ご、ごもっともです……」
この男の人はディディエスさん。私がこの世界に来て最初に会った人だ。軽く外跳ねしている黒髪の、額の辺りに白い一房があるのが特徴的。脱色しているのかと問えば、生まれつきだとのこと。最初のうちこそマジでかと驚いたものだが、この世界の様々な人を見るにつれ、髪の色が一部違うとか目の色が片方ずつ違うとか、全然気にならなくなっていった。
気にすべきことはそんなところじゃない。問題は、この人の本性が馬だってことだ!
「乗れ」
そして、私の腕から硬い感触がなくなったかと思えば、眼前には漆黒の毛並みの、私の世界の馬より倍は大きな馬が一頭、首を下げて静かに私を見つめていた。額の部分から顔の中程まで伸びる白い一筋――確か流星とか呼ぶそうだけど――がまだまだ薄暗い世界に妙に眩しく映った。先程まで羽織っていた外套がまだ身体に巻きついていたので、それを取ってやりつつ、私は涙ながらに立ち上がる。
これ、本当に馬って言っていい生き物なの? こう大きいと大型草食獣です! って感じ。
ディディエスさんの温かな鼻面に抱きつくと、首を持ち上げて器用に背中に押し上げてくれた。その硬い毛を感じながら思う。ああ、せめてもふもふな動物さん達の所にご厄介になりたかった……と。
この世界に来てしまった切っ掛けはよく覚えていない。確か直前まで女子会でしこたま飲んで、今年こそはいい男ゲットだと息巻いて、終電に間に合わなくなりそうになって慌てて駅までの道を走っていた……ような気がするんだけど。あれ、そういや当たった競馬の馬券眺めてにやついていたのはいつだっけ? ううん、なんか突然足元が崩れて落ちる感覚があった気がした……ような? 酔っ払ってたからはっきりしない。
朝起きたら素っ裸の男の人に腕枕されてるとか、本気で心臓止まるかと思った。どうやら一線は越えずにいたようだけど、ここに長居していたらいつそうなってしまうかわかったもんじゃない。始めのうちこそ美形だからまあいいか、とも思えたけれど、彼らを知るにつれ冗談無理無理こんな生活私じゃ長続きしないって! と思うようになった。
私が紛れ込んでしまったこの世界は、動物と人と動物から人に変身できる獣人の三種類の生き物達が住んでいる。その中で大半を占めるのが獣人、逆に人間は落人と呼ばれる異世界出身者くらいしかいないそうだ。ところがそんな本来だったら珍しい落人が、ここ最近頻繁に現れるようになったそうな。現在原因を調査中とのこと、早く突き止めて、ついでに是非とも帰る方法を見付けて頂きたい。
話が逸れた。ええと、やってきた落人は獣人の中でもとりわけ強い種族に保護されるそうなんだけどね? ここの世界だと馬より羊の方が角もあって強いってことで、本来だったら私、羊族の主様の所に連れて行って貰えるはずだったのよ。ところがどっこい、馬族の連中ときたら……! これも何かの縁、別に他種族に渡さなくても、俺らが面倒見てやんよ! と張り切りまくって現在わたくし、絶賛連れ回され中でございます。
馬が獰猛な種族じゃないとか嘘だと思う。こいつら崖を楽々飛び越えるほどの半端ない脚力してるから、肉食獣に襲われる場面なんて私は見たことないし。先日、獅子族の若いのにからかわれて激怒した馬族のお嬢さんがいたんだけど、獅子をぶっ飛ばした後も怒りが収まらないのか、大木を蹴り倒してたからね。気性もめちゃくちゃ荒いです。
戻ってきてしまったテントの群れから、続々と外套を羽織った人達が姿を見せ始めていた。そのうちの一人、真っ白い長い髪の背の高い女性が私とディディエスさんを見上げると、ニカッと晴れやかな笑顔を浮かべて言った。
「おおディー。朝っぱらからユキノとデートたぁ、てめぇも隅に置けねえなあ」
ちょ、んな大声で……! ああもう、他の人達が微笑ましそうにちらちら見てくるのが鬱陶しい。
「長、おはようございます」
軽く頭を下げたディディエスさん。私はといえば聞き捨てならない言葉にディディエスさんの背に乗ったまま叫んだ。
「や、止めてくださいよそんな笑えない冗談!」
本当に笑えない。ただ単に脱走が見つかって連れ戻されただけのことだ、デートという神聖な恋人同士の儀式と一緒にされては困る。
白い女性――馬族を率いる族長のアカンザさんは、きょとんとして私達を見比べたかと思えば、何故か大笑いを始めた。そうしてひとしきり笑った後に、ディディエスさんの首筋をぽんぽん叩く。
「ああそうさな、悪かった。人の恋路を邪魔する奴は、ってぇ言葉もあるくらいだからな。あたしも無粋なことは言わんよ。……んで? てめぇら婚儀はいつやるよ?」
「だぁーかぁーらぁー!」
悪い人じゃないんだけど。口は悪いけど、むしろ姉御って感じで気持ちのいい人なんだけど。アカンザさん、思い込んだら一直線で人の話を全然聞かないところがあるんだよね……。
アカンザさんだけじゃない。この馬族の人達は、一度走り始めるととことん突っ走る傾向が強くて、人が何言おうがちっとも聞いちゃくれないんだ。種族的にはすらっとした筋肉質な身体に小綺麗な顔の美男美女が多くて、まあ眼福? とも思えなくもないんだけど。でもでも、私だって最低限衣食住の保障は欲しい。
馬族の人達はこの世界で運搬業を生業にしているようで、一箇所に定住せず、年中あっちだこっちだと行き来している。幼い頃はそれこそ羊族の所で生活させてもらったりもするみたいだけど。一度羊族のノルディ様の所に立ち寄った時なんてもう……何ここ天国かと本気で眩暈がした。別れ際、ノルディ様の奥様である芽衣ちゃんに年甲斐もなくしがみ付いて、絶対動くもんかって頑張った。頑張ったんだけどね……ノルディ様の嫉妬の眼差しを受けてしまうとさ、今後のためにも上の立場の人には睨まれるわけにはいかないなと。くうっ、でもやっぱり地面に這い蹲ってでも留まればよかった! 馬族の人は草食だから食事は野菜ばっかだし、ほとんどの時間を馬の姿で過ごすから着るものは外套一枚でその下は素肌とか普通だし、もう、もう嫌っ!
というわけで。私は虎視眈々と脱走する機会を窺っている。次の街に着いた時がチャンスだと思うんだ。お母さんはモデルだっただけあって、娘の私もそこそこ見られる顔だと思う。きっと涙ながらにお願いすれば、うっかり雇ってくれるところの一つや二つあるに違いない。そうなりゃこっちのものだ。信頼を築いた後、落人だと真実を告げてもふもふな上位種にお世話になるんだ。超絶美形で優雅な虎のラヴィッシュ様に、強面でも優しい狼のバリデス様。凛々しい金色豹のカーク様、温厚かつ雄々しい羊のノルディ様、紳士的で元気いっぱいな犬のレヴィアン様、兎なのに鬼畜とか何それ涎が出そう、なルイ様。そしてそして、超絶癒し系カピバラさんことジェラール様! 彼らの側には既に落人がいるから、変なフラグが立ちそうもなくて逆に安心する。彼らだってこんな年増、お呼びじゃないだろうしねえ。
ふわふわな毛皮、ぷにぷにな肉球が私を待っているんだわ……! そしていつか、元の世界に戻って今度こそ競馬狂いは止めて、素敵な男性との出会いを果たすのよ。
ディディエスさんに連れられてテントに戻った私は、鼻息荒く荷物を纏め始めた。とはいっても、ここに来る時に持って来ていた物なんて大してありはしない。
「ユキノ、何か落ちているぞ」
背後で人間になったディディエスさんが何かを拾う気配がした。お礼を言って、手だけを後ろに回す。今振り返ってはいけない、絶対に!
「ユキノ、これは何と書いてあるんだ?」
「読みますから渡して下さい」
「……残念だ、俺には読めん」
「だから渡して下さいってば。私の世界のものなんでしょう?」
手をぴこぴこ上下させて催促しているのに、ディディエスさんはううむと唸るだけでちっとも言うことを聞いてくれない……馬族め!
仕方がないから頭を使うことにした。文字が書いてある物といえば手帳……はバッグの中にあるし、暇潰しの単行本……もこっちだ。あ、もしかして。
「パスケース?」
私は極力視線を上に向けながら振り返った。うおお、視界内の肌色率高っ! 服着てよ服!
振り向いたお蔭でディディエスさんが眺めていた物が何だかわかった。彼はパスケースに入れていた馬券を見ていたのだ。久々にいい配当だったから、早く元の世界に戻って換金したい。
「私の愛しのスタードロップですね。……そういえば、ディディエスさんによく似た馬でした」
「何っ!? ……どういうことだユキノ、お前は俺以外の馬と情を交わしたことが?」
「あ、あるわけないでしょうっ!?」
驚き過ぎて声が裏返ってしまった。馬鹿を言うな、馬なんて競馬場でよく眺めてたけど、情を交わすとか一体どうやれば……というか。
「俺以外の……?」
超聞き捨てならないんですけど。
思わずまじまじと見つめてしまうと、ディディエスさんの野性味のある綺麗な顔がどんどん近付いてきた。それと同時に、私の上半身は距離を取ろうとどんどん後ろに重心を移して……。
「って痛い痛い痛い!」
上半身を捻りつつ傾けるという芸当に、二十歳を超えたお姉さんの身体は素直に悲鳴を上げた。ところが空気も状況も読まないディディエスさんは、目を丸くして私の頬を両手で挟み込み、右に左にと動かし始めたのだ。く、首っ、首が!
「ど、どうしたユキノ!どこか怪我でも?」
「――筋肉痛だって言ってんでしょ離れろこの馬鹿!」
後に、アカンザさんに「痴話喧嘩か、本当に仲いいなてめぇら」と言われて、私はますます憤慨することになる。
<終>