第101章 インフラという檻
三日間の引きこもり作業を終え、事務所へと出社した氷室の前に、すぐさま「現実の物理法則」という冷徹な壁が立ちはだかった。
注文板の局所的な引きつりと、その後に生じるわずかな流動性の回復遅延。この偏りに自分の注文を合わせようとするなら、自分の端末から取引所へ繋がる通信の遅れを、避けて通ることはできない。
氷室は、自身が契約している証券会社のAPI接続環境を使い、注文を送ってから結果が返るまでの応答時間を、繰り返し測定した。
画面に示された数字は、平均して往復四十五ミリ秒。
「四十五ミリ秒……。話にならない」
氷室が呟いたとき、背後から湯呑みを置く音がした。
「何がですか。また意味の分からない独り言ですか」
真奈美だった。事務所の給湯室から戻ってきて、氷室の机の端にお茶を置くと、遠慮もなく画面を覗き込んだ。
「ミリ秒、って。千分の一秒でしょう? それが四十五回分。まばたきよりずっと速いじゃないですか」
「人間にとってはな。市場では、遅すぎて死ぬ」
氷室は椅子を回し、画面の数字を指で叩いた。
「いいか。俺がここで『板が薄くなった』と気づいて、注文を出す。その注文が取引所に着く頃には、板はとっくに元に戻っているか、別の価格に動いている。四十五ミリ秒のあいだに、向こうは何百回も入れ替わる」
「向こうって」
「HFT、超高頻度取引の業者だ。取引所のサーバーと同じ建物の中に、自分の機械を置いている」
真奈美は眉をひそめた。
「同じ建物に? それだけで、速くなるんですか」
「光の速さにも限界がある。ケーブルが一メートル長ければ、その分だけ遅れる。だから彼らは、使うケーブルの長さまで、全員そろえている」
「そろえて、競争するんですか。公平に?」
「公平にな。ただし、その建物に機械を置く権利を買える連中の間で、の話だ」
氷室は、薄く笑った。
「専用の回線と、専用の回路を組んだ機械、それに置き場所代。年間で数千万から、数億円かかる」
「数億……」
真奈美は、自分の机のほうを振り返った。
「うちの会社の何年分ですか、それ」
「さあな。数えたくもない」
「じゃあ、氷室さんは、その外側にいるってことですか。入場料が払えないから」
氷室は答えず、画面を見つめた。
市場のシステム論を批判しておきながら、自分はまだ、彼らが作った「速度競争の箱」の中で、勝ち目を探していた。
(この四十五ミリ秒は、俺の遅さじゃない。入れない者を、外に固定するための壁だ)
「……入場料を払って、あの建物に入れば、俺は彼らの仲間になる」
氷室は、独り言のように続けた。
「そうなったら、より大きな資本が来た途端に、速度で潰される。速度で勝つ限り、檻の中の順位争いだ」
真奈美は黙って聞いていたが、ふと、思い出したように言った。
「それ、会社のお金じゃないですよね」
「……俺の金だ」
「でしょうね。そんな顔をしてます」
真奈美は、深く息を吐いた。
「やめろとは言いません。言っても聞かないでしょうし。ただ、帳簿は、ちゃんと分けておいてください。私が後で泣くので」
「分かった」
「ほんとに分かってます?」
氷室は小さく肩をすくめ、画面に目を戻した。
速度で勝てないのなら、速度を競うこと自体を捨てるしかない。
シラカシの木が教えてくれたはずだ。境界線とは、固定された壁ではなく、相互に干渉し合う「ゆらぎの面」だと。
HFT業者のアルゴリズム群は、ナノ秒の世界でしのぎを削っているが、彼らもまた、似たようなリスク制約と、似たような戦略を抱えている。
(彼らが与えられたルールに忠実であればあるほど、特定の刺激に対して、同じ形で反応しやすくなるのではないか)
速いこと自体が、偏りを生むのではない。共通の制約が重なったとき、特定の条件で全員が同じ方向へ過剰に動く。その歪みが、そこに生まれる。
氷室は、速度勝負で「追いつく」ことを、完全に諦めた。
代わりに、四十五ミリ秒の遅れを前提として受け入れる。そのうえで、過剰な同調が描く周期をデータから割り出し、確率の高い場所に、あらかじめ通常の指値注文を置いておく。
「――遅れて着くなら、先に着いて待っていればいい」
氷室がそう呟いたとき、
「……あの」
真奈美が、湯呑みを両手で包みながら、首をかしげた。
「要するに、映画館の席を、先に取っておくみたいなことですか。始まってから走っても間に合わないから、混む席にあらかじめ荷物を置いておく、みたいな」
氷室は、動きを止めた。
「……そうだ」
「なんだ、思ったより単純じゃないですか」
真奈美は、拍子抜けしたように笑い、自分の席へ戻っていった。
氷室は、その背中を見送りながら、冷めかけたお茶に手を伸ばした。
難しい言葉でしか説明できなかったことを、あの一言で言い切られた。それが妙に悔しく感じられた。




