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きれいな雨

作者: 岡本 博
掲載日:2026/06/17

降り続く雨は、最初こそ「恵み」のように思われた。しかし、それはほどなくして、人類が数千年にわたって積み上げてきた文明という名の傲慢を、物理的に剥ぎ取る「洗礼」へと変貌した。


世界がその異変に気づくのに一カ月は十分すぎた。都市の排水機能が限界を迎え、アスファルトの裂け目から濁流が吹き出し、地下街が瞬時に水没した。空の色は消え、世界は鉛色の天井に押しつぶされるような閉塞感に覆われた。


二カ月目には、物流の動脈が完全に切断された。港は高波に飲み込まれ、空港は滑走路が冠水して使い物にならなくなった。スーパーマーケットの棚からは食料が消え、人々は生存を賭けた奪い合いを始めた。救済を求める声は、激しい雨音にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。


三カ月目、地球は自ら皮膚を剥ぐように激しく荒れ狂った。軟弱化した地盤が悲鳴を上げ、山々は崩落し、谷を埋めた。かつて隆盛を誇った高層ビル群は、泥水の中で膝を折るように次々と倒壊した。鉄筋が悲鳴を上げ、ガラスが砕け散る音は、人類という種の終焉を告げる葬送曲のようだった。


四カ月目。餓死者が都市の路地を埋め尽くした。動くものの姿は消え、残されたのは崩壊したコンクリートの残骸と、地表を削り続ける無慈悲な雨音だけ。あらゆる交通網が麻痺し、情報という名の神経系も断たれた。人類は孤立した小さな群れとなり、闇の中で震えることしかできなかった。


六カ月目、生存者たちは残骸の都市を捨てた。自然がわずかに残る僻地を目指し、彼らはまるで野生動物のように泥にまみれ、死地を彷徨った。文明という保護膜を失った彼らは、ここで初めて、自分たちがどれほど脆い基盤の上に胡坐をかいていたのかを思い知らされた。


一年が経過したとき、人類はすでに「文明人」ではなくなっていた。絶望は殺意へと昇華し、命と燃料、わずかな食料を奪い合うだけの殺戮の時代が幕を開けた。国境も、法律も、宗教も消え去った。あるのは、今日を生き延びるための冷酷な本能だけ。核兵器の引き金に手をかける者すらいなかった。それは、誇りや利権をかけた戦争ではなく、ただ息を繋ぐための獣の争いに過ぎなかったからだ。


そして三年の月日が流れた。

かつての喧騒は嘘のように消え、地球の人口はピーク時の百分の一まで減少していた。殺戮の嵐が凪いだ後、そこに残っていたのは、互いを敵と見なす心を失った者たちだった。彼らは、文明の遺物を捨て、かつて産業革命以前の人類がそうしていたように、自然の一部として溶け込む暮らしを選んだ。


夜、電気のない暗闇の中で、彼らは雨の音を聴きながら焚き火を囲む。そこにはテレビもネットも、誰かと比較するための嫉妬も、未来を急ぐ焦燥もない。ただ、今日生きているという事実と、明日また空を見上げるというささやかな希望だけがあった。

それは、すべてを奪われた後に残った、奇跡のような幸福感だった。


その平穏は、唐突に破られた。


三年間、世界を塗りつぶしていた灰色のカーテンが、まるで誰かに引き剥がされたかのように消え去った。雲の裂け目から、突き刺すような陽光が地上に降り注ぐ。一カ月もすると、泥に覆われていた大地から、力強い緑が芽吹き始めた。植物たちは、人間が汚し続けた土壌を吸い上げ、驚くべき速度で森を形成していく。


その様子を、時空の彼方、無機質な「観測室」から二つの影が見下ろしていた。

床も壁も天井も、すべてが真っ白な部屋。そこには空気の澱みもなく、温度の変化もない。


「ああ……やっと綺麗になったな」


老練な男が、壁に投影された地球のモニターを指先でなぞった。その指先には、かつての文明が吐き出した毒を洗い流すための雨を制御したという、技術的な自負が滲んでいた。


「手間取ったね。愚かな人間どもが築いたゴミを片付けるのに、一年以上もかかってしまったよ。パパ」


隣に立つ若者が、少しだけ退屈そうに肩をすくめた。


「前回の『清掃』は六千万年ぐらい前だったか。恐竜が植物を食い荒らして、生態系のバランスを完全に崩したときのことだ」


「あの時よりも、今回の方がずいぶん時間がかかったね。人間という種は、予測以上に地表の奥深くまで、自分たちの『足跡』を残すから厄介だ」


男は、モニターの中に映る、芽吹いたばかりの森と、その傍らで質素に暮らす人間たちの小さな群れを凝視した。その眼差しは、慈愛よりもむしろ、研究者が試験管の中の微生物を観察する冷徹な知性に満ちている。


「ようやく綺麗になった。これなら、もう一度作り直せる。次はもう少し、調和を好むように調整してみるか?」


若者がモニターの端、まだ雨の爪痕が残る地域で、僅かに動く人類の影を見つけた。その表情に、ほんの一瞬だけ、無機質な慈悲ではない、鋭い殺意のようなものが宿る。


「……わずかだけれど、人間を残してしまった。せっかく綺麗にしたのに、奴らがまた汚してしまうんじゃないか?」


男は薄く笑い、壁一面に広がる光のモニターを指先で操作し、その視界から人類を消去した。


「さあ、それは分からない。どうなるかは、しばらく様子を見るしかないね。それが我々の仕事なんだから」


部屋の明かりがふっと暗転し、白一色の空間に静寂が戻った。

再生を始めた地球の上では、かつて文明を滅ぼされた人間たちが、三年間降り続いた雨の終わった晴れ渡る空を見上げ、涙を流して感謝していた。


彼らはまだ知らない。

自分たちの歩む「再生」という名の歴史は、ただの「メンテナンス」の期間に過ぎないということを。そして、そのメンテナンスを司る者たちが、すでに次の収穫の時を、白き部屋で待っているということを。

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