ミラクルマン 隻腕のMLB選手 ピート・グレイ(1915-2002)
ピート・グレイは一昔前の高校のリーダーの教科書に載るくらい知名度は高かったが、エンゼルスの隻腕投手ジム・アボットの活躍があってこそ、過去のレジェンドに対する再評価の機運が高まったという印象が強い。
ピ-ト・グレイはペンシルバニア州ナンティコークの炭鉱町に生まれた。両親はリトアニア移民で元々はワイシュナー姓だったが、後にグレイに改姓した。父親は炭鉱夫として一家を支え、兄のうち一人は前座のプロボクサーだった。
グレイが右腕の肘から下を失ったのは一九二三年のことだ。トラックの周囲で遊んでいる時、タイヤのスポークに腕を巻き込まれてしまったのだ。トラックの運転手はグレイをそのまま置き去りにして逃げたそうだが、幼い彼にとって事故の衝撃はあまりにも大きく、詳しいことはほとんど覚えていなかった。
野球が好きだったグレイは、左手で捕球した後、グラブを右脇にはさんでから左手でボールを投げる練習を繰り返すことでやがて片腕でも健常者並みにプレーが出来るようになった。
ライナーやフライであればこの送球方法でも何とかなるが、ゴロやワンバウンドはどうするのかというと、一旦グラブに収めたボールをトス気味に宙に放ると同時にグラブを投げ捨て、宙に浮いたボールを素早くつかんで送球するのだ。
あるいは捕球したグラブを地面に落としてから中のボールを取り出して送球することもあった。
グラブは指を短くし綿も抜いたペラペラのものを使っていた。これは脱着をスムーズにし、シングルキャッチで打球をしっかりとつかむ必要があったからだ。この一連の動作をジャグラーのように素早く正確に行えたため、グレイは強肩と俊足を生かして外野守備であれば無難にこなせるようになった。
とはいえ、草野球ならともかくベースランニングの技術も段違いのプロでやってゆくにしては動作に無駄が多すぎるように思えるだろう。ところが、グレイの打球処理の様子をフィルム撮影してみたところ、まるで早送りのようなクイックモーションで、スロー再生しなければよくわからかったそうだ。
義務教育を終えた後はトゥールズデール炭鉱の給水係として働き始めたが、野球への夢を捨てきれず、十代の終わり頃にセミプロチームでプレーするようになった。その間にセントルイス・ブラウンズとフィラデルフィア・アスレチックスのトライアウトを受けたがいずれも不合格だった。
彼の運命を変えたのは忌まわしい戦争だった。
一九四一年十二月八日、日本軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争の幕が開くと、メジャーリーガーたちも続々と応召されていった。そのため、各チームともに選手層が薄くなり、障害のため徴兵検査に落ちたグレイにもチャンスが巡ってきた。一九四二年、カナダ・アメリカリーグ所属のトロワリヴィエールは二十七歳のグレイと契約を交わした。
グレイのデビュー戦には隻腕の野球選手見たさに大勢の観客が詰めかけ、マイナーの試合らしからぬ大盛況だった。しかもこの試合、九回裏二死満塁の好機に打席に立ったグレイは、右翼線にサヨナラ二点タイムリーヒットを放ち、観客席を興奮の坩堝に叩き込んだのだ。
感動的な一打に興奮した観客席からは次々とグラウンドにコインが投げ込まれ、その総額は七百ドルにも達したという。これは今日の貨幣価値に置き換えると二百五十万円にものぼる大金で、その日の異常なまでの盛り上がりぶりが目に浮かぶようだ。
トロワリヴィエールでは四十二試合の出場ながら三割八分一厘をマークし、隻腕のハンデを感じさせない活躍ぶりを見せた。
長く重いバットを器用に操るプレスヒッティングで安打を量産したグレイは、1Aメンフィス・チックス時代の一九四四年には、三割三分三厘、五本塁打、六十八盗塁という素晴らしい成績でサザン・アソシエーションMVPを獲得した。
この実績と人気が後押しとなって、セントルイス・ブラウンズは移籍金二万ドルでチックスからグレイを引き上げ、年俸四千ドルでメジャー契約を結んだ。隻腕のメジャーリーガー誕生は「隻腕の奇跡」として大々的に報道され、スター不在のメジャーリーグにおいて久々の明るいニュースとなった。
ところが現実は厳しかった。片手打ちによるパワー不足を補うために用いていた重いバットが、かえって仇となったのだ。
ミートが正確なグレイは長いバットの重さと遠心力で鋭い打球を打つことができたが、バットを握っているのが片手であるがゆえに、一たびスイングを始めるとハーフスイングでバットを止めることができないという欠点があった。
メジャーの投手はそこを巧みに突き、緩急によってグレイのタイミングを狂わせたのだ。結果、グレイは七十七試合の出場に留まり、打率二割一分八厘と低迷した。
せめてもの救いは、たとえ打てなくても大勢のファンがグレイのことを応援し続けたことだろう。障害という大きなハンデを乗り越えてきた三十歳のメジャーリーガーが、人々に与えた勇気と希望は、暗い時代の一服の清涼剤だった。
メジャーのデビュー戦で三打席連続三振を喫しても、グレイに野次を飛ばすようなファンはいなかったのだ。
一九四五年のシーズン途中に戦争が終わったこともあって、グレイは一年限りでメジャーを退くことを決意した。応召されていたスタープレーヤーたちが復帰したメジャーリーグにはもはや居場所はないと悟っての決断だった。
多くの評論家の言うとおり、グレイは戦争という非常時だったからこそメジャーリーガーになれたのであって、選手層が充実している時代であれば、3A級がいいところだったかもしれない。しかし、二五三打席で喫した三振が十一に過ぎないことからもわかるように、バットコントロールにかけてはメジャーでも一流どころと差異はない。
それも最初の三打席が三振であることを考えると、グレイなりに緩急に対応できるようバッティングを修正していったことは明らかで、時間さえかければ、利き腕を失ったところから野球を始めながら、努力でメジャーのレベルまで達したように、緩急を克服することも可能だったように思われる。
実際、ファンはメジャーの洗礼を受け悪戦苦闘するグレイを暖かい目に見守ってくれたが、チームメイトたちは必ずしもそうではなかった。
ブラウンズのナインはあくまでもペナントを目標に野球をやっているからこそ、打てなくても客寄せパ
ンダ的に試合に出場するグレイには違和感を持っていたのだ。グレイはこういう微妙な空気も敏感に察知していたのだろう。
逆にブラウンズの内野手だったドン・ガッターリッジのようにグレイの存在を擁護する声もある。
ガッターリッジは、一九四五年にリーグ3位だったブラウンズの勝率は、グレイの出場試合は六割だったのに対し、不出場時は四割二分五厘に下がっていることに言及している。しかも、グレイが抜けたあとのブラウンズはAクラスから一気に7位に急降下しているのだ。このことは、グレイがプレーで足を引っ張った以上に、グレイが出場していることによる観客の熱狂がチーム全体を鼓舞していたことを意味しているのではないだろうか。
観客席がガラガラの中で野球をやるのと、大観衆の中でやるのとは士気が違ってくる。
二〇一七年まで万年Bクラスの赤字チームだったサッカーJ2のVファーレン長崎が、戦力補強をせずに新オーナー高田明による観客増員策の結果、自力でJ1昇格を勝ち取った例をみてもわかるように、世間の注目を浴びる中でプレーすることで選手個々のやる気も高まり、チームのムードそのものが変わってくることは明らかである。
一九四五年のブラウンズは、一部の選手こそ注目の的であるグレイに対する嫉妬を感じていたかもしれないが、結果としてファンの増加がチームの勝利への執着を促し、Aクラス入りの原動力となったように思える。
一九四六年からは3Aトレドを皮切りにエルミラ(1A)、ダラス(2A)と渡り歩き、一九四九年で現役を引退してからは、隻腕メジャーリーガーというもの珍しさもあってか、地方の野球アトラクションに顔を見せていたが、四十歳を過ぎた頃から人前に姿を見せなくなった。
人生唯一の生きがいだった野球を離れてからのグレイは酒とギャンブルに溺れ、世捨て人同様になっていたのだ。
しかし神はグレイのことを見捨ててはいなかった。一九八六年四月にはグレイを主人公にした『A Winner Never Quits』というテレビ映画が全米で放映され、忘れ去られた隻腕メジャーリーガーに再び注目が集まり始めた。
これは前年度に隻腕投手ジム・アボットがMLBのドラフト指名を受けたことで、先駆者たるグレイの実績が再発掘ことによるものだ。
さらに一九九五年には彼の伝記『One Armed Wonder(隻腕の奇跡)』が出版されたことで経済的な困窮からも脱却し、晩年はかつての誠実な人柄を取り戻していたという。
今日なら障害者手帳の対象いなるほどのハンデを背負いながらメジャーの舞台を踏んだ選手は意外と多いのだが、そのほとんどが投手であり、障害の度合いは部分的な欠損だった。アボットは完全な隻腕だが、DH制の時代だからこそ投げるという行為だけに専念できたが、グレイの時代はそうはゆかない。打率がたいしたことはないといってもメジャーの投手の球を片手打ちでヒットにできるだけでも神業としかいいようがない。




