プール
初夏の強い日差しが照りつける小学校で、6年生のプール授業が行われていた。プールサイドのコンクリートは熱を帯び、素足では火傷しそうなほどだが、子どもたちはそんなことも気にせず、水しぶきを上げて楽しんでいた。
やがて自由時間になり、生徒たちが思い思いに泳ぐ中、祐太が突然激しく水面を叩き、浮き沈みしながら助けを求めて叫び始めた。周囲の生徒たちが戸惑う中、担任の佐々木先生が慌ててプールに飛び込み、祐太を救助した。
祐太は大量の水を飲んだようで苦しそうに咳き込んでいたが、意識ははっきりしていた。しかし、次第に恐怖で体を震わせ、顔色も真っ青になったため、念のため救急車で病院へ搬送された。
病院で落ち着いた祐太から話を聞くと、泳いでいる最中に何者かに足を引っ張られ、パニックになって溺れたという。佐々木先生は悪質ないたずらだと判断し、クラスで誰がやったのか問い詰めたが、名乗り出る者はいなかった。結局、佐々木先生は全員に今後このような悪ふざけは絶対にしないよう注意することしかできなかった。
その日の放課後、職員室で翌日の授業準備をしていた佐々木先生のもとに、クラスの和人と幸樹がやってきた。和人が「祐太が誰に足を引っ張られたのか、幸樹が見たって言ってるんです」と告げた。佐々木先生が幸樹に尋ねると、彼は困ったような表情で俯き、何も話そうとしない。佐々木先生が困惑していると、和人は幸樹に「とにかくお前が見たことを言えばいいんだ」と促した。佐々木先生も「もし、知っていることがあれば教えてほしい。お前から聞いたことは誰にも言わないから」と幸樹を説得した。
幸樹はまだ少し困った顔をしていたが、やがてぽつりぽつりと話し始めた。
「僕、ちょうど祐太が溺れた時、祐太の近くを泳いでいて見たんだ。プールの底から伸びた白い手が祐太の足を掴んでいたんだ」
「えっ、プールの底からだって……」
佐々木先生は思いもよらぬ話に驚きを隠せなかった。
調べてみると、このプールでは過去に同様の事故が何年かおきに発生していた。20年ほど前には、男の子が溺れて亡くなる事故も起こっている。
その後、他の生徒への聞き取り調査から、そもそも祐太が悪ふざけで水中に潜り、他の子の足を掴んで驚かせていたことが分かった。
祐太が悪ふざけで他の生徒の足を引っ張っていたという事実を知り、佐々木先生は背筋が凍るような感覚に襲われた。祐太が誰かに足を引っ張られて溺れる直前に、彼自身が他の生徒に同じ行為をしていたという。それは単なる偶然で済まされることなのだろうか。
佐々木先生は、20年前に亡くなった男子生徒の事故記録を改めて読み返した。そこには「直前に、他の生徒と足を掴んで引っ張ったりしてふざけ合っていた」と記されている。そして、その亡くなった生徒が溺れた際に、周りにいた生徒は、「ふざけて溺れたフリをしていると思ったために誰も助けようとはしなかった」と続いて記されていた。
佐々木先生の頭の中で、恐ろしい繋がりが生まれ始めた。このプールでは、過去にも同様の「足を引っ張られる」という不可解な事故が、何年かおきに発生している。そして、そのどれもが、悪ふざけで他人の足を引っ張っていた生徒に起こっているのではないだろうか。
佐々木先生は、祐太の病室を訪ねた。祐太はまだ顔色が少し悪いものの、だいぶ元気になったように思えた。佐々木先生は慎重に、しかし核心に触れるように尋ねた。
「祐太、君が溺れる前に、誰かの足を引っ張ったり、水中で驚かせたりしたことはあったか」
祐太は一瞬ギクリとしたように目を見開いたが、すぐに俯いた。そして小さな声で、彼は認めた。
「うん……ちょっと、ふざけて……。でも、すぐにやめたんだ。そしたら、急に……」
祐太はそれ以上言葉を続けることができなかった。彼の顔には、恐怖だけでなく、深い後悔の念が浮かんでいた。
もし、あのプールに本当に『何か』がいるのだとしたら、それは間違いなく物理的な存在ではない。それは単純に幽霊という存在ではなく、むしろ、人間のちょっとした悪意や、過ちを『返そう』とする、見えない因果のようなものなのではないだろうか。佐々木先生は漠然とだが、そのように思った。
後日、職員会議でプールの事故が再び議題に上がった際、佐々木先生は祐太の証言と、過去の事故との奇妙な共通点を持ち出した。
「祐太は、溺れる直前に他の生徒の足を引っ張っていました。そして、20年前に亡くなった生徒も、同様の悪ふざけをしていたと記録にあります。このプールで『足を引っ張られる』という現象が起きるのは、もしかしたら、この『足を引っ張る』という悪ふざけに対する、報いを受けたものなのではないでしょうか」
佐々木先生の言葉に、会議室は静まり返った。オカルトに抵抗を示す教師たちの中には、露骨に眉をひそめる者もいた。
「先生、それはあまりにも非科学的です。偶然の一致でしょう」
「子どもたちの悪ふざけが度を超した結果、パニックになっただけでは」
しかし、佐々木先生は続けた。
「では、なぜその『足を引っ張る手』は、悪ふざけをした生徒の元にだけ現れるのでしょうか。私は、このプールに、何らかの歪んだ意思が存在しているように思えてなりません」
その時、教頭が口を開いた。
「私も、30年ほど前にこの学校に赴任したばかりの頃、同じような話を聞いたことがあります。当時も、悪ふざけで他の生徒を怖がらせていた子が、プールで『誰かに足を掴まれた』と言って、ひどく怯えていました。その子も、その後しばらくの間、プールを見るだけで震えが止まらなくなったそうです」
教頭の言葉に、会議室の空気が重くなった。ならばそれは、昔から連綿と続く事象であると言える。このプールはすでに『足を引っ張る何か』が存在する場所となってしまったのだ。これから変わることはない、ただ同じことがこれからも起こり続ける。このプールがある限りは永遠に。
その後、会議でプールが議題として出ることはなくなった。校長からはプールの授業では生徒に悪ふざけをしないように厳しく言い渡し、授業中も生徒をプールの中へ入れるのは最低限のみとし、不要に生徒をプールに入れないようにとした。それが何かの解決になるわけではないことは皆理解していたが、それ以外の方法がないことも理解していた。
ただ、佐々木先生だけはどうしても気になることがあり、町の役場に赴き、この地の歴史をまとめた資料を調べてみた。すると、学校ができたのは今から60年ほど前で、学校ができる前には、この辺り一帯は鬱蒼とした自然の森に覆われていたことが分かった。そして、森の中にはどうやら小さな池があったらしい。
地元の人からは、その池には妖怪が棲んでいて、池に近寄った人の足を掴み池の中に引き摺り込むと言われていたようだ。そのため、地元の人たちは池はおろか森にすらほとんど近寄ろうとしなかった、との記載があった。
資料を読み進めると、時代とともにこの辺りも人口が増え、人が住む場所を作るため、森を切り開き街を造成していったようだ。そして、池を埋め立てた場所こそが、今の小学校が建てられた場所だった。
佐々木先生は「これだ」と思った。その妖怪こそがあのプールの底から伸びる白い手の正体だと。
ただ残念ながら分かったことはそこまでだった。それ以上はいくら調べても、地元の人々が言っていた『妖怪』とは何なのかは分かることはなかった。