第6話:姉への報復
第6話:姉への報復
■橘 結衣 視点
自宅マンションのエントランスをくぐった瞬間、結衣は奇妙な視線を感じた。
いや、視線というよりも“気配”だった。
背筋をなぞるような重く粘ついた感覚が、皮膚の内側に入り込むようにまとわりつく。
「……まただ」
エレベーターのボタンを押しながら、彼女は小さくつぶやいた。
ここ数日、誰かに“見られている”という感覚が消えない。
兄・遼が“ある事件”の加害者としてネット上で炎上し始めた直後からだ。
最初はただの偶然かと思った。
だが、マンション前の街路樹の陰、コンビニの防犯カメラの死角、そしてSNSに流れていた投稿――
《あの女、弟の罪を知らないフリしてる》
《兄が地獄に堕ちたのに、まだ芸能人気取りかよ》
結衣は過去にモデル活動をしていたことがある。
美貌と品の良さで一部の雑誌に登場し、多少のファンもいた。
それが今や“加害者の家族”として、憎悪と嘲笑の対象に変わっていた。
夜、部屋の明かりを落とす。
カーテンを二重に閉め、スマホをサイレントに設定し、ベッドに横になる。
だが――眠れない。
時計の針が深夜二時を示すころ、インターホンが鳴った。
「……っ!」
心臓が跳ねた。
誰がこんな時間に――?
慎重にカメラを見る。
だが、モニターには何も映っていなかった。
翌朝、マンションの郵便受けに白い封筒が入っていた。
中身は、カラー写真。
自分がスーパーで買い物をしている姿。
ドアを開けて部屋に入る後ろ姿。
そして――シャワー室の窓越しの影。
(……これは、脅しだ)
手が震える。
警察に行こうかとも思った。だが、名前を出せば“高城遼の姉”として扱われる。
何もかもが、自分の意思ではコントロールできなくなっていた。
数日後。
事件は起きた。
夜道を歩いていた結衣は、突然背後から抱きつかれ、口を塞がれた。
狭い路地裏に引きずり込まれ、腕をねじ上げられ、押し倒され――
「やめて……助けて……!」
抵抗の声はかすれた。
だが、奇跡的に通行人の気配に驚いた犯人は、そのまま走り去った。
結衣は助かった。だが、心は深く傷ついていた。
彼女が後に語った証言。
「犯人は、“弟のせいで女も地獄に落ちろ”と言っていました……」
ネットでは、同情の声と共に別の言葉も飛び交った。
《自業自得だろ?》《兄貴の罪を女だからって免罪されると思うな》
■神谷 悠 視点
「始まったな……家族ごとの崩壊」
パソコンのモニターには、橘結衣が担架で運ばれていく報道映像。
SNSには“偶然”を装って広めた情報が、燎原の火のように拡散していた。
彼女が被害に遭った直後、悠は静かに次の動画をアップロードした。
《肉親だからといって、許されると思うな》
《加害者の血が流れているなら、裁かれて然るべきだ》
投稿には結衣の名前は一切出さなかった。だが、動画内の影、音、言葉の選び方。
全てが「示唆」していた。
――あの女も、対象だと。
「これで、一族まるごと地獄に落ちる」
悠は表情を崩さずにそう呟いた。
だが、どこかで“歯止め”の存在を思い出そうとする自分もいた。
(いや、止まる理由はない)
記録された日記。
母を失った記憶。
あの笑い声。ナイフの冷たさ。焦げた匂い。
すべてが――今なお彼を焼き続けていた。
悠は、次の動画の編集作業に入った。
ファイル名は「FAMILY_JUDGEMENT.mp4」