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2-5.凄く、きれい。

 ――欠けた月が空にさえざえと光る、夜。


 オルニーイはランタンと木製の剣を持ち、自室から中庭へ向かおうとしていた。


(ティネの圧力が凄かったな……)


 夕飯に無事、キツァンが望んだメニューを出せたのはいい。問題はティネだ。


 彼女の不機嫌さは極まっていた。ヴィクリアとキツァンの関係性に、まだ何か引っかかるものがあるのだろう、食事のときでも刺々しい態度を崩さなかったのだ。


 おかげでヴィクリアは萎縮(いしゅく)していたし、元より少ない口数がもっとなくなったように思う。親友は気にせず酒を飲み、焼いたマスに舌鼓を打っていたが。オルニーイは見ていて気を揉むばかりだった。


「リュシーロがいてよかった」


 ささやきが温い風に溶け消える。


 旅の中でも、キツァンの嫌味に反応するティネを、彼はいつも気遣ってくれていた。二人が恋仲になったのも自然だといえるだろう。


 リュシーロの飲みの誘いを断ってしまった事実に胸を痛めつつ、それでも日課の鍛錬(たんれん)を済ませようと中庭に降り立った。


 今は下庭に、稽古中の兵たちはいない。護衛のものはいくらか見かける。ときおり、彼らの持つかがり火が、闇に橙の色を浮かび上がらせていた。


 満月ではないが、ちゃんとした月明かりもあり、視界は普段の夜に比べると良好だ。


 馬場(ばんば)の側にある専用のかかしに近づいた、そのとき。


「えいっ」


 小さな声が、少し遠くから聞こえる。


 これは、とオルニーイはランタンをそちらに向けた。礼拝堂の方から、ヴィクリアの声がする。


 ランタンを掲げながら歩いていけば、礼拝堂の入口近くで、確かにヴィクリアが杖を振っている姿が目視できた。


「ヴィクリア」

「あ、ルイさん」


 手を止め、彼女がこちらを見る。さすがに夜着(やぎ)ではなく、いつものブラウスとスカート姿だ。


「こんな夜更けに練習かい?」

「……はい」


 多少間を開け、硬い面持(おもも)ちでヴィクリアがうなずく。


 彼女の側におもむき、オルニーイはランタンを地面に置いた。


「明日からでもいいだろうに。無理をして風邪でも引いたら大変だよ」

「私は、頑張らないと。みなさんに迷惑かけます」

「迷惑だなんて、そんなことは思わないが」

「キツァンさんの弟子ですから、私。早く結果を出さなきゃ、もっと怪しまれます」


 杖を握り、まるで自らに言い聞かせるかのように言うヴィクリアへ、オルニーイは苦笑しつつこめかみを掻く。


「怪しまれる……ティネのことだね?」

「それもあります。ティネさんが怪しむのも仕方ないことです」


 しゅんとした様子で、ヴィクリアは肩を落とした。


「ルイさんにも嘘をつかせてたり、迷惑ばかりで」

「それはわたし自身が決めたことだ。君の力になることをね。だから、わたしに対しては迷惑をかけていると思わなくていいよ。人を導き、守ること。それが英雄としての役割なのだから」


 オルニーイは笑う。笑みを注視し、ヴィクリアは目をまたたかせ、小首を傾げた。


「英雄さんって、国王様より偉いんですか?」

「え?」

「守るとか導くとか。一人で背負いきれるものなんですか?」


 (きょ)を突かれ、オルニーイは笑みが引きつるのを自覚する。


 彼女の疑問は、嫌味ではないだろう。反発でもない。きっと心の底からの疑問だ。だが、それは今まで尋ねられたことのない問いで、返答するのに少しの時間を要した。


「……英雄たるものの使命だからね」


 答えではないような気もするが、と内心で反省しつつ、浮かべた笑みを直す。ヴィクリアの純粋な視線が、どこか痛く感じた。


「英雄さんって、大変なんですね」


 目線を逸らして、彼女はささやく。「うん」とオルニーイが答えれば、沈黙ばかりが辺りを制した。


「ルイさんのそれは、剣ですか?」


 静寂(せいじゃく)を破ったのはヴィクリアで、興味深げに木製の剣へ視線が注がれる。


「うん? ああ、これか。そうだよ。わたしは武器の中でも、剣をおもに使うから」

「リュシーロさんも、剣士だって」

「そうだね、リュシーロは剣専門なんだ。わたしは剣、素手、槍、斧を扱う」

「凄いですね。素手以外は重そうです」

「わたしの師が素手での戦闘を得意としていたんだ。稽古のときはよく殴られたなあ」


 師と過ごした記憶を思い返しそうになり、慌てて首を振った。あれは、恐怖だ。


 杖を下げたヴィクリアが不思議そうに見てきたものだから、オルニーイは片手を振ってごまかす。


 それからふと、彼女にまだ見せていない場所があったことを思い出した。


「ヴィクリア、少し気晴らしをしないかい?」

「気晴らし……?」

「君なら気に入るのではないかな。ちょっと付き合ってもらえれば」

「でも、お稽古」

「根を詰めてやっても上手くいかないだろう。それに、君に見てもらいたい場所なんだ」

「……わかりました。お付き合いします」


 ヴィクリアは、足下近くにあったランタンを手にする。オルニーイもまた、同じく。


「こっちだよ。そんなに遠くないから、ついてきて」

「はい」


 彼女を伴って歩きはじめた。とはいえ、目的地へ距離があるわけではない。


 礼拝堂と主塔の間を通り、壁側へ歩みを進めた。(なら)した地面の中、一箇所だけ木製の部分が見つかる。そこは跳ね上げ戸だ。ランタンを横に置き、膝をついて取っ手を掴む。


「階段……」


 中にある石造りの階段を見てだろう、ヴィクリアがつぶやいた。


「見せたいものはこの下。滑りやすいから、気をつけて」


 うなずく彼女を後ろにし、オルニーイは先に階段を降りていく。月明かりが階段のところには差さないため、多少見辛い。ランタンがなければ転んでいただろう。


 二人の足音が響いた先、階段を降りきったところにあったものは――


「見えるかな、ここがわたしの地下庭園だよ」


 十字のレンガ道と、放射線状に植えられた花々が広がっていた。奥のあずまや部分には天井がなく、ちょうど月光が上から降り注いでいる。


 微かにそよぐ花は、白と青、そして黄色の花弁がほとんどだ。花に詳しいものなら、形の似たプルメリアと思うかもしれないが、そうではない。


「ここに咲くのは月命花(げつめいか)。わずかな光と水で生きていける、丈夫な花でね……って、ヴィクリア?」


 声がしないため、振り返る。


「凄く、きれい」


 視線の先、オルニーイが見たのは、ヴィクリアの紅潮した笑顔だった。


「あ……」


 今までの(うれ)いを帯びた、もしくは思わず出した笑みではない。目は輝き、口角は上がり、感嘆で満ちた本当の笑いそのものだ。今までの顔つきが(かたく)ななつぼみだとしたら、今の表情は春を知り、ふんわりと開花した優しい花と呼べるだろう。


「ルイさん、このお花、凄くきれい。森の花畑でも見たことがないです」


 周囲にランタンを掲げ、あちこち見回す彼女の笑みを、オルニーイは惚けながら見た。


 白い頬を赤く染め、神秘的な双眸(そうぼう)をまたたかせ、体をうずうずとさせるヴィクリアは、そう。


(可愛い)


 今までとの差異に、自然と感じた。無表情に近い、暗い面持(おもも)ちから一転して、これだ。元々持っていただろうヴィクリアの愛らしさ、あどけなさが目一杯出ている表情に、心臓が不意に跳ね上がる。


「あの、ルイさん、お花に触れてもいいですか?」

「……あ、ああ。構わないよ」


 自身の臓器の異常、その意味がわからず、返答が一瞬遅れた。


 ヴィクリアが横を通り過ぎ、興味と喜びとに満ちた笑顔のまま、近くの花に触れる。


「柔らかい……香り、少し甘いんですね。スズランとも違うし……でもいい匂いです」


 声を弾ませ、彼女はまた、こちらを見る。曖昧(あいまい)にうなずくことしかできない。


 とくん、とくん、と優しい音が、オルニーイの脳内に響いていた。心臓の音だ。なぜ、動悸がするのかわからない。ヴィクリアの平坦な顔と今の笑顔が交互に浮かんで、弾ける。


(絶望の状況下から笑顔になった女性を、知らないはずはないのに)


 旅先、ユラン討伐の旅路の中、たくさん見てきていた。


 親を亡くし、家を焼かれ、全ての希望を失ったものたちが、己の活躍で笑顔を取り戻していくこと。微笑みも、涙も、あらゆるものを見てきた。中には絶世の公女もいた。稀代(きだい)の歌姫も、美形の踊り子も、美しい詩人もいた。


 麗しさで比べれば、彼女たちは日光に輝く朝露だろう。一方、ヴィクリアはひっそりと月明かりにたたずむ花だ。まぶしさはないが、人目を惹く笑顔の持ち主。


(いや、驚いただけ……だろう。いつもとの違いにびっくりしたんだ)


 どちらもかけがえのないものには違いない。そう言い聞かせても、心臓は早鐘のようにうるさく鳴り続けている。


「このお花は、ルイさんが育ててるんですか?」

「ん、うん。園丁(えんてい)に頼んでいたりはするけれど、城にいるときは、自分で」


 固まった体をぎこちなく動かし、こちらを見るヴィクリアの横へ腰を落とした。


「こう見えて、花が好きなんだ。この巨躯(きょく)で似合わないと言われそうだけれど」

「お花に似合う似合わないがある人なんて、いません」

「そうかな?」

「はい。いじわるを言う人はきっと、花のことを知らないだけです」


 ヴィクリアの花をいじる手は、優しい。目線も柔らかく、愛らしいものを大切にする所作と表情は、オルニーイにも自然な笑みを浮かべさせていた。


「ありがとうございます、ルイさん。大切なものを見せてくれて」

「いや……」


 ふんわりとした表情で言われ、また、動悸がひどくなる。


「こ、この花、自室に持って行くかい? 少し分けるよ」

「んん……いいえ、いいです。みんなでいた方が、花はきっと、さみしくないから。あ、でも」

「でも?」

「よかったら今度また、見せて下さい。ここのお花」

「そんなことならお安いご用だ。いつでも声をかけてくれていいよ」

「はい」


 微笑みにうなずき、視線を青い花弁に向ける。


(やはりわたしは、人の笑顔が好きなのだな)


 そう、笑顔だから。彼女がはじめて、心からの笑顔を見せてくれたから――突然のことに鼓動が早くなっただけ。


 言い聞かせても、思っても、優しい動悸は治まりそうにない。だがそれも、不思議なことにいやなものでは、なかった。

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