6-5.君だけを、愛している。
ヴィクリアの様子が急変したのは、こちらに歩み寄る一歩が止まってからだ。
金色に変容した瞳を見開き、苦しむように、がくがくと震える体を自らかき抱いて膝をつく。
だが、ユランの気配はまだ収まってはいない。紅のオーラは禍々しく彼女の四肢にまとわりつき、うごめくつど、周囲の瓦礫を吹き飛ばしていた。
(何があったというんだ)
オルニーイは疑問に眉をひそめ、それでも彼女を見つめ続ける。
リボンは風圧でほどけ、肩下までの紫の髪が宙にたゆたっていた。生気のない冷徹な双眸は閉じられており、今、その表情を読み取ることもできない。
つ、と冷や汗がオルニーイの頬を伝う。
ヴィクリアの中で、一体何が起こっているのだろうか。時間をかけるべきか否か。彼女は、はたして無事なのか。
全てにおいてわからないことが多く、躊躇する。
横目で見れば、キツァンも同じのようだ。杖を構え、いつでも魔術を放てるようにはしているが、苦み走った顔つきで微動だにしない。
「あれをどう見る、君は」
「嵐の前の静けさ……ですかね。ユランの意識が本当にヴィクリアへ入ったというなら、ここにいる僕たちは次の瞬間、殺されていてもおかしくない」
「……抵抗しているように、見えないかい」
「抵抗? どういう意味です」
前を、ヴィクリアを見据えたままのキツァンの問いに、オルニーイもまた彼女へ視線を戻し、口を開いた。
「悔しいが、ヴィクリアの中へ、ユランの意識……精神が入ったというのは本当だろう。そうでなければケルベロスを殺す、なんて真似はできないからね。それに感じたあの気迫、あれもユランそのものだった」
だが、とささやく。
「殺せる状態なのに、なぜ今やらない? わたしにはまだ、ヴィクリアの意識が残って、ユランの意志と戦っているように思えるんだ」
「希望的な観測に過ぎないですよ、そりゃ。単に、目覚める力を溜めている状態だけかもしれませんし」
「どちらにせよ、君は帰ってくれていいよ」
「あなたばかですか。ユランが完全に目覚めるかもしれないこの状況で、どうして逃げられるっていうんですか」
「君には妻子がいるだろう。彼女たちを悲しませるわけにはいかない。わたしのわがままで」
「今更わがまま……? あっ、ルイ、あなたまさか」
「魔術を、使う」
鉤爪を投げ捨てる。金属と瓦礫がぶつかる音がこだました。
「正気ですか、あなた! まだ効くとは限らないんですよ、あなたの魔術が!」
ついでキツァンの厳しい声音が、反響する。
「わかってます? あなたの魔術は、対象を弱らせなければ意味がない。でもよく見て下さい、ヴィクリアの体力もオドも有り余っている!」
「重々承知の上だよ。博打はしないが、これは賭けだ。一世一代のね」
一歩、ヴィクリアへと近づいた。
ユランの娘――この世の悪を背負って生まれてしまった子。
そんな彼女に、恋をした。
優しさと慎ましさ、見せてくれた柔らかな笑顔に恋をした。
いや、全ては彼女が英雄ではなく、オルニーイという個人を見てくれたからこそはじまったことだ。
「辛いことがあったら、無理しないでいいと思います。泣きたいときには泣いてもいいと思います」――そう言って、微笑んでくれた少女。
クイーシフル家の三男としてでも、『救国の英雄』としても己を見ず、まっすぐ『オルニーイ』を見つめてくれたヴィクリアを、なんとしても助けたい。
「ルイっ。行かせませんよ!」
ヴィクリアの方ではなく、こちらへ杖を向け、キツァンが声を荒げた。
「全部の魔術を使ってでも、あなたを止めます」
「……キツァン」
右手ではなく、本来の利き腕である左手に力をこめ、笑った。
作り笑いでも仮面でもなく、心からの笑みを。
「ありがとう。わたしは友に恵まれた」
「なっ……」
思わずといった様子で、言葉を詰まらせる親友に一つうなずき、ヴィクリアへ視線を戻したときだった。
「あ」
彼女の口が、開く。開かれた口から漏れたのは、まごうことなくヴィクリア自身の声だ。
「ヴィクリア!」
左こぶしを構え、名を呼ぶ。
それに呼応するかのように、彼女の体が激しくけいれんした。
何かを守るかのように、あるいは閉じこめるように、胸元を両腕で押さえながら。
ヴィクリアが顔を上げ、はっきりとこちらを見た。
「オルニーイさん! 私抑えてます、ユランを抑えてます!」
必死の絶叫に、一瞬頭が真っ白になる。
「だから、今のうちに!」
あれだけ大きかった気迫、紅の光が収縮していく。輝きは胸元へ集まり、ヴィクリアの腕の中で激しく暴れている。
辛いのだろう。唇を噛みしめ汗を掻き、全身をわななかせながら耐える彼女が――最愛の女性が生み出した最大の好機。
まぶたを開けたヴィクリアの瞳の色は――黄色だ。
「キツァン、保護魔術展開ッ!」
オルニーイは怒鳴りながら飛び出す。
彼女自身疲労していると同時に、ユランを捕まえてくれているとしたら、魔術が通る。
キツァンが自分自身に障壁を張るのを音で確認し、瓦礫の中を一直線、走った。
――女神には祈らなかった。助けてくれとも思わなかった。
「体現するは義のこぶし」
――奇跡なら、もうすでに起きている。
「我が願うは一つの未来」
――ヴィクリアと出会えたそれ自体が、かけがえのないことなのだから。
「取り戻すは、ただ一人との愛の日々!」
こぶしが群青色にまたたく。
群青色の光は紅の光を侵蝕するように、一瞬にして広間へと広がる。
目をつむったヴィクリアの胸中央をめがけ、オルニーイは一気にこぶしを振り下ろす。
流れる星のように尾を引いたこぶし――その狙いはたがわず、彼女が押しこめている紅の輝きに直撃した。
膝をついたまま、ヴィクリアの腕が大きく左右に広がる。体が一つ、大きくうごめく。強い紅色の輝きが、群青のまたたきに変容していく。
「わたしは、ヴィクリアっ!」
反発。
押し返されそうになるこぶしを光に潜りこませ、ただ思う。ただ叫ぶ。
『救国の英雄』ではなく、ただ一人の人間としての気持ちを。
「君だけを愛しているんだっ!」
彼女の瞳が見開かれた。紛れもなく、見間違えることのできない、黄色の瞳が。
周囲の瓦礫が風圧に負け、ばらばらと砕けていく。凄まじい勢いで、辺りの壁にひびが入る。
「戻って、来てくれ、ヴィクリアっ!」
叫んだ直後、それは訪れた。
唐突なほど簡単に。思うよりも呆気なく。
紅の光が、ヴィクリアの背中から出た刹那を見計らった。
今までの思いをこめ、あらゆる気持ちをただ一つに収束させて。
オルニーイは、こぶしの行き先を飛び出た紅へと変える。
「魔術・封印!」
怒濤の一撃を繰り出した瞬間。群青の輝きは紅の色を包みこむように、四方八方を侵蝕していく。旋風が全てを吹き飛ばしていく。
古代魔術、封印。
これがオルニーイの使える、ユランをしりぞけた唯一の魔術だった。悪しき存在を鎮め、鉱石の中に閉じこめることができる魔術。
群青と紅の光が螺旋となって、天井を突き抜ける。二つの光は地下から一階の床を壊してなお、勢いよく夜の闇に、燦然たる二色の円柱を紡ぎ上げた。
次第に円柱のきらめきが静まっていく。収束していく。
再び地下へと落下した二色は、ヴィクリアの背後で紫の石山と化した。
力なく後ろに倒れる彼女を抱きとめ、天井からの落石に耐えようと背中を丸めたときだ。
甲高い音がした。薄目を開けて確認すれば、キツァンの使う防護の魔術が半円のドームとなり、オルニーイたちを包みこんでいる。レンガも石も、己の背中やヴィクリアを害することはない。
一気に巨大なマナを顕現し、大量のオドを消費した。体が熱く、呼気が荒くなる。それでもなんとか息を正し、腕の中で目をつむったままのヴィクリアを見た。彼女の胸が微かに上下しており、呼吸はしていることがわかる。
「ヴィクリア。返事をしてくれ、ヴィクリア……」
オルニーイは柔らかい頬に触れ、何度もさすっては声をかけ続けることしかできない。
本当に、これは賭けだった。封印の術は弱らせた対象を封ずることが可能だが、魔獣たちが持つオドや生気にしか意味をなさない。
だが、ヴィクリアの生来持つ生気も、悪だと見なされたら。魔獣やユランの一部分と見なされたら――彼女自身を封印してしまうことになっていたはずだ。
それでも今回は上手くいった。オルニーイの推測に過ぎないが、背中から出た紅の光こそ、ヴィクリアの中に入りこんだユランの精神そのものだったのだろう。
(肉体を封じても、まだ他者の意識を乗っ取ることができるとは)
悪竜ユラン。やはり魔獣の長というのは恐ろしい。
「ん、ん」
小さな声が聞こえ、はっとした。
固唾をのんで見つめる中、腕の中にすっぽりと収まっていたヴィクリアが、ようやくまぶたを開けた。
「ルイ……さん」
「ヴィクリア、よかった……! 目が覚めたんだね」
名を呼ばれ、オルニーイの口から安堵のため息が漏れ出る。
彼女は沈黙ののちにまた、まぶたを閉じると。
「私、ルイさんから欲しい言葉……もらえました」
意識がはっきりしていないのか、夢心地のような面持ちで、自身の顔に当たっているオルニーイの手のひらへ頬擦りをした。
その肌触りと猫のような愛らしい所作に、オルニーイの力が抜けていく。
生きている。生きていてくれた。愛する女性をこの手で殺さずに済んだ――その事実に、目が潤む。
ヴィクリアの欲しい言葉というのはきっと、己が言いたかったことと同じはずだ。
もう一度彼女を、今度は両腕で抱きしめ、耳元でささやく。
「何度でも言う。愛しているんだ、君だけを。好きだけでは足りないくらいに」
言葉の返事だといわんがばかりに、胸元に当たっているヴィクリアの手が強く、きつく、軍服を握りしめてきた。
それ以上のセリフはなく、少ししてから寝息が聞こえる。
眠ってしまったヴィクリアを見つめ、オルニーイはただ嬉しくて、泣いた。
降り注ぐ月光のように、優しい落涙だった。




